心配をかけるからお嬢様には言わないこと、と男の約束を無理矢理させられて松尾は上高地のバスターミナルからタクシーで帰っていった。
約束の時間ギリギリで、 急いで観光センターまで戻ったがの姿はなかった。というか観光センターは上高地の代名詞ともいえる河童橋のすぐそばにあり、人でごったがえしていてよく見えなかった。
人より頭ひとつふたつ背の高い 三歩が首を伸ばしてきょろきょろと探していると、そのわき腹を誰かが小突いた。

「あれ、要救じゃないか?」
「正人」

このやり取りは覚えがあった。
覚えがあったのと同じ方角を見てみると、四人組男性外国人のとりかこむ隙間にの姿が見えた。

「行けよ」と野田がにやにやしながら言うと三歩は
「うん」
と即答して、すたすたとその方向へ歩いて行った。

野田正人は自分で言っておきながらしばらく呆気にとられてしまった。






は困っていた。
カナダから来たというこの男性グループは、観光センターでに写真撮影を求め、夜一緒に飲まないかと誘ってきた。なんとか断ったが、まさか仕事終わりを出待ちしているとは思わなかったのだ。
夜一緒に酒をというわりには、すでに彼らの息はビールくさかった。

「へえ、君イギリス人とのハーフなんだ、奇遇だね。俺たちカナダだよ」

植民地的な関連性を云っているのだろうか、なにが奇遇なのかはよくわからない。

「それじゃあ行こうか。向こうのホテルに泊まっていて、バーがあるよ」

突然ひとりの男の湿った手がの腕をつかんだ。
これはさすがのも振り払わずにはおれなかった。

「やめてください」

毅然と言い放つが、男はその手を放さなかった。
それどころか、二の腕の感触を確かめるようにの袖の中で指を動かしいっそう力を込めてきたものだから、痛みより先に背すじに悪寒がはしった。
その時、白人の男よりもずっとがっしりとした手が、男の手にかかったのをは見た。
三歩だ。

「待って。この人は俺のかわいい人だから」

三歩だが、三歩の口から出るとはとても想像がつかない英語を聞いて、は目を丸くした。
相手は外国人だが、身長187センチという長身で毎日北アルプスを走り回っている三歩の体格は伊達ではない。
日本の山男がにっこり笑うと、の腕を握っていた男は自然とその手をはなしていた。

「Thank you」と三歩は丁寧にお辞儀してからの手をとり、男性グループの輪を割って歩きだした。



河童橋の前からだいぶ遠ざかり、人がまばらな砂利道までたどり着いてようやく三歩は立ち止まった。

「ふう。ここまで来たらいいかな。さん、大丈夫だった?」

振り返るとは顔を真っ赤にしていた。

「具合悪い?」

三歩は心底心配し、かがみこんでの尋常でない様子をうかがう。
この三歩の三歩らしい姿には自分ばかり思い違いをして顔を赤くしていると思うと余計に恥ずかしくなった。女性の手を握るのなんてことは救助のためにしょっちゅうで、女性を背負うことだってある人なのだ。三歩にとってはあれくらいなんでもないことだったに違いない。
では甘い呼びかけをしたのは?
あれも悪漢からの「救助」の一環だったから三歩にとっては恥ずかしいものでもなんでもなかったのかもしれない。
嘘も方便、というやつだ。
はそう自分を納得させて「大丈夫です」と答えた。

「…」

そんなを穏やかな表情で見ていた三歩が頬をかいた。

「…もしよかったら、このままでもいい?」

手は握られたままだった。



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