涸沢はテントの群生地となっていた。
ハイシーズンを迎えた北アルプスではその時期にだけ涸沢にも県警の遭難対策基地が置かれ、県警山岳救助隊の数名ずつが数日交代で常駐して山のパトロールや救助を行うならいがあった。夏は道迷いやケガ人の通報が毎日あり、一日に四度出動したこともあるほどだった。

「あの山バカ三歩がねえ。いやあ、世も末だな」

県警の常駐基地でヒュッテ山じいのオーナー、山口がうなった。その横で山岳救助隊の隊長の野田正人は慣れた手つきでザックに荷物を詰めていく。これから山のパトロールに出るのだ。

「いいんじゃないですか。あいつは山バカですけど悪いやつじゃないですし。山バカですけど」
「それはわかりますけどお」と割って入ったのは椎名だ。
椎名は連絡係として無線機のそばに座っている。

「あの子、今まで松尾のおじいちゃんとブラザースにがっちりガードされてたからあんまりそういうのに免疫なくて、めっちゃ心配。だって三歩さんですよ?私なんておんぶされたまま立ちションされたことあるんですよ!?あ、ちなみにのお兄ちゃん二人とも超がつくほどイケメンです!あー、そういうことかなあ…美しい写実画に見慣れすぎて、抽象画のほうに思い惹かれちゃう的な?」
「抽象画っておまえ…」
「あ、でもおととい電話で話したら全然会ってないって言ってましたよ。下も上もこの忙しさですから」
「まあなあ、そうなるわなあ」
「それじゃあ、我々はパトロールに行きますから、山口さんもいい加減こんなところで油売ってないで帰ってやってくださいよ」
「部下は上がいないほうが育つの!うちはそういう主義なの!」
「はいはい。よし、出発する!椎名、頼んだぞ」
「了解」













強烈な夕方の閃光が3000メートル級の山々にさえぎられ、ただ雲だけを赤く滲ませた頃、基地はにわかにあわただしくなった。

「こちら県警涸沢基地、椎名です。X岳4のコルから男性1名が滑落するのを別の登山者が見たとの通報がありました。パトロール中だった野田隊長以下4名が登り返して救助に向かっています。救援願えますか」

送受信の切り変わる短い雑音の後に三歩の声が受信機から聞こえた。

「こちら三ノ沢の三歩。これから向かいます」

ほかにも遭対協の数名からも支援する旨の無線が入り、椎名は無線機のマイクを置くと昼間とは打って変わって厳しい表情で時計を見た。
18時20分―――
あと30分もすれば日没だ。
最も近い救助隊が4のコル付近に到着できるまで2時間以上かかる。そこからは暗闇のなか何メートル滑落したかわからない要救助者を捜索して、場所によっては稜線まで引き上げなければならない。
どうか軽傷であってほしいと久美は願った。軽傷であれば明け方までしのいで県警のヘリで救助できるかもしれない。
しかし、その願いはかなわなかった。
22時半過ぎに、稜線から70メートル下で動かない要救助者の姿を発見したとの報が先行していた野田隊から入った。そのすぐ後に三歩も現場に合流し、ヘッドライトの明かりのなかで懸命の救助作業がはじまった。



「おい!しっかりしろ!」

時計の針が23時を指したころ、稜線から下降し、最初に要救助者のもとにたどり着いたのは三歩だった。次いで岳天山荘の宮川が到着した。
県警の山岳救助隊は訓練と実践を重ねて優れた救助技術を備えているが、遭対協の面々はその県警救助隊も舌を巻くほどの山のプロフェッショナルの集まりだった。真冬の北アルプスに救助に向かった県警の隊員を、はるか後から追いかけてきた遭対協のメンバーが追い越してあっという間に見えなくなるなんてこともある。遭対協の歴史は古く、警察が山岳救助隊を作るよりずっと前から彼らはこうした山で事故に遭う人々を助けていた。

「生きてんのか!?」
「生きてる」

そう答えた三歩の表情は険しいままだった。
両足はもつれ合って関節からひしゃげている。左腕はばんざいをした格好でぴくりとも動かず、右腕は肘から骨が突き出していた。それでもまだ息はあり、小さくうめき声をあげている。
宮川ははっと気づいた。

「外国人か」

顔の半面が血にまみれていても明らかに西洋人の顔つきと体つきだった。
岩盤が張り出したわずかなスペースに三歩と宮川、県警の隊員一名が下降し、負傷箇所の確認と止血作業が行われた。
傷に触る痛みで目が覚めたのか、男のうめき声は大きくなった。

「ごめん!痛かったよね!俺たちは救助隊員です。あなたの名前は?いま出血を止めているからもう少しがんばるんだっ!」

三歩は英語で励ましたがまともな声はかえらない。
止血をし始めてしばらく経ってからようやく、男のうめき声のなかに一瞬まぎれた言葉が英語ではない響きをもっていることに気が付いた。

「なに!?いまなんて言ったの?」

三歩は男の口元に耳を寄せたが、唇が裂け、呂律のまわらない舌では、しかも聞きなれない言語では意味はわからない。しかし、瀕死の重傷を負っている人間がそれをおしても何かを言おうとしていることだけはわかった。



受信を報せる電子音に椎名は無線機に飛びついた。

「こちら涸沢基地の椎名です」
「こちらX岳南陵の野田。三名が下降して重症の要救助者を確認。意識あり。パスポートからフランス人の28歳男性と確認した。登山計画書の照会を願いたい。それと、夜間だが燕レスキューにヘリの出動要請を頼む」
「了解。現在登山計画書のリストを手元で確認しています。…フランス国籍の登録ありません」
「了解。それから、椎名」



は寝間着のワンピースに薄手のカーディガンを羽織った姿で上高地の臨時派出所に現れた。
すでに眠っていたらしく椎名の電話には出なかったが、阿久津がホテルのドアをたたいて呼びに行ったのだった。阿久津の緊張感にあてられたのか、派出所に入って来たの表情は硬かった。
救助作業中の野田に無線が通じた。

「こちら、上高地の阿久津です。さんを呼んできました」
「了解。さん、いまから俺がいうことをフランス語で言ってください。無線機は阿久津が使います。いいですか」
「は、はい」

は持ってきていたノートとペンを大急ぎで広げた。胸に下着すらつけていないのにそれだけは絶対に必要だと思って持って飛び出してきたものだった。
「私たちは救助隊です。あなたを助けにきました。」

素早くペンを走らせる。
ザザと耳障りなノイズがあってから阿久津がうなずいた。
ここに来るまでの間に阿久津から事情は聴いていたがは無線機に寄せた自分の唇が震えるのを感じた。

「n…Nous sommes une equipe de secours.」

時折かたい唾をのみながら、現場の野田が話す言葉を無線機越しに聞き、阿久津がよしというタイミングで翻訳して伝えていく。電話会議やテレビ会議など通信機器を使った翻訳には慣れていたはずだったが、無線の音はそれよりもひどく荒かった。何度も入るノイズが不安をあおる。

「要救がなにか言っている。わかりますか」

問題はこちらだった。ただでさえ不鮮明な無線の音のなかで、怪我のため十分に発音されない言葉を聞かなければならない。
はきつく目をつむり、必死に聞こえる音を拾い、抜けた音を想像で埋めた。時折、応急処置の手が負傷部に触ったのか耳を覆いたくなるような絶叫も響いたが、それでも耳を離すわけにはいかなかった。

「“助けてください、痛い、”」

彼は「助けて、お母さん」とも言ったがそこは翻訳しなかった。
三歩の声が止血が完了し要救助者を引き上げる準備ができたと慌ただしく伝えた。は翻訳しかけたが、阿久津がそれは三歩から野田への連絡だからいらないと指示してくれた。

「いまからあなたをヘリコプターが来られる位置まで担ぎ上げます」と野田に指示された言葉を確かに伝えた直後、鋭いノイズを置いて聞こえてきた要救助者のか細い声に、はきつくつむっていた目を大きく見開いた。
目を見張ったまま横にいる阿久津へと視線を向ける。
唇だけが冷静に動く。

「“もう一人います”」
「え!?」

阿久津は声をあげた。
ヘッドライトの明かりが交錯する現場にも戦慄がはしる。

「“下に、落ちました”」



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