「こちら宮川、稜線から150メートル下でもう一名を発見。だめだ、死んでる」
その報せもまもなく入った。
それは翻訳する必要はないと野田から短い指示があり、村雨は阿久津を見上げた。阿久津は首を横に振る。
「最初のひとりもギリギリの状態ですから、もう大丈夫だって安心させたり、仲間が死んだって伝えたりすると、力尽きてしまうことがあるんです。だから…」
わかりました、と言おうとしたが喉が張りついていて声はでなかった。
燕レスキューのヘリが飛び、夜間の稜線からのピックアップという難しい収容作業を日付が変わる頃には終えて、重症の要救助者一名と救助にあたった隊員二名を乗せヘリは北部病院へ向かった。
死亡したもう一名は明け方を待って引き上げ、長野県警のヘリで収容することになった。
この無線のむこうで人が一人、亡くなった。
いまさら寒くなって震えだした手をとめようと村雨は自分の手首をきつく掴んだ。そこに再び無線信号の受信音が鳴り響き、村雨の肩は大きく跳ねた。
「こちら上高地の阿久津です」
「こちら上空の野田、北部病院側から通訳の支援要請あり。医療用語の翻訳の経験があれば村雨さんに病院まで同行願いたい」
村雨はかいていた汗が一瞬で引き、再び全身が緊張するのを感じた。
パトカーで1時間かけて病院にたどり着くとヘリはすでに到着していた。
着くなり着替えさせられ村雨が入っていった部屋の方向をはらはらと見ていた阿久津に声がかかる。
「着いたのか」
「あ、隊長。三歩さんも」
野田のうしろに少し遅れて三歩も歩いてきた。
三歩の靴には血がこびりついて乾いたあとがまだ残っていた。彼の血ではない。
「彼女は?」
「いま救命士さんに呼ばれて要救とそこの部屋で対面を。大丈夫ですかね…。血を見て倒れちゃったりしたら」
三歩はちょうど自分の右隣で扉が開いたままになっている白い部屋を見た。
衝立の隙間に、白い割烹着のような服とキャップをかぶり、マスクをした村雨の姿が見えた。
「…」
黙って部屋の中を見ている三歩を不思議に思い、野田が数歩戻ってきて中を覗き込む。
「阿久津。おまえよりもずっと肝が据わっているみたいだぞ」
唇からあごにかけてぱっくりと裂け、血にまみれた男の傍らで村雨は恐れて目をそらすどころか、男をまっすぐに見、そのまなざしには炯とした光が宿っていた。
夜明けとともに県警のヘリコプターも飛んだ。
遺体を運んできたヘリの音が屋上で止むと、病院の廊下はしんと静まり返った。
その廊下の先で、三歩は待合の長椅子に腰掛けて天井を見上げている村雨を見つけた。
廊下の上は二階まで高い吹き抜けになっていて、天井はガラス張りだ。
ガラスからこぼれる紫がかったかすかな光のなかに村雨はいた。
事務用の輪ゴムでひとつにしばって括りあげていた髪はところどころほつれて、細い首筋にかかっている。
明ける空を静かに見上げる姿に三歩は、ザックがこの人のことを女神と呼んだことを思い出していた。
自由の女神しか思いつかなかった三歩をザックはばかだと云った。
そのとおりだと思った。
「村雨さん」
「…三歩さん」
村雨は放心した様子で、何拍か遅れてから三歩を見つけた。
横に腰掛けるとなにかを問いたげに村雨の視線が追ってきた。
「あの人は」
「命に別状はないって」
「…もう一人は」
三歩は首を横に振った。
「見つけたときにはもう。即死だったと思う」
そう告げても村雨の表情にほとんど変化はなく、ただ下を向いた。
「…」
三歩は少し表情をやわらかくしてから、自分の着ていたウインドブレーカーをうつむいた村雨の肩にかけた。
「救助のとき着てたから、汗臭いかもだけど」
村雨は何も言わず、前のファスナーをぎゅっと握って体に引き寄せる。
「よく頑張った」
ゴアテックスのこすれる音をかすかに廊下に響かせて、三歩は村雨の背を何度も撫でた。
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