三歩は救助で山の上を駆けまわり、村雨は例年より来訪者の多い観光センターで休憩をとる間もなく働き、あの病院の廊下を最後に夏の盛りはあわただしく過ぎて行った。
やがて、北アルプスには一足早い秋がやって来た。
紅葉シーズンに入るまで山にはつかの間の平穏が戻って来る。
涸沢の臨時基地の前で椎名久美は胸いっぱいに山の清涼な空気を吸い込んだ。
「はぁー、やっぱこの季節が一番いいよねえ阿久津くん」
「そっすねえ」
「そして私は今日で常駐勤務は終わり!いよーしっ!やる気みなぎるわぁ!聞いてよ阿久津くん!明日はね、村雨と松本までケーキの食べ放題に行くんだぁ。し・か・もぉ、松尾のおじいちゃんの車の送り迎え付き!」
この恍惚の声を聞きつけて、基地に常駐している独身隊員三名が扉や窓から顔を出した。
「椎名、俺も連れてけ」
「俺も」
「俺も俺も」
「しっしっ!だめでーす。女子限定でーす」
「椎名さんいいんスかあ?村雨さんの休日を三歩さんをさしおいて浪費させちゃって」
「阿久津くん!なに?浪費ってまるでケーキ食べ放題が無駄みたいにいうじゃない」
「あ、噂をすれば三歩さーんだ。おーい、三歩さーん!」
向こうの山道を走ってくだっていく三歩の姿が見えた。
椎名の雷が落ちてはたまらないと大げさに手を振って呼びかけると、三歩もこちらに気付いて走る速度を緩めて手を振り返してきた。阿久津は三歩の背負うザックがやけに大きいことに気が付いた。
「どっか行くんですかー!」
「小梨平ぁー!」とよくとおる大きな声が返ってきた。
小梨平といえば上高地から歩いて行けるキャンプ場だ。
いつも山奥にいるからたまには趣向をかえて標高の低い場所に寝床を置いてみたくなったのかしらと阿久津や椎名が首をかしげていると、三歩の元気な声がもう一度響いた。
「村雨さんがテントと寝袋で寝てみたいっていうからさー!じゃあまたねー!」
「ええ!?」
阿久津と椎名はぎょっとして目を剥いた。
テントと寝袋で眠る
それは一夜を過ごすということに他ならないのではないか。
「浮き石を踏め!」
「梓川に落ちろ!」
「すべての指先を蚊に刺されろ!」
「おまえらうるさいぞ!」
悲鳴じみた独身三連星の罵声に基地のなかから隊長・野田の厳しい声が続いたが、三歩は振り返ることなく軽やかに秋の涸沢を駆け去っていった。
その日の昼、涸沢基地ではお赤飯が出た。きょうの昼飯担当は野田だった。
昨日きれいに拭いて干しておいた夏用のテントと寝袋を広げ、きょうはキャンプ場で一晩ひとつ屋根の下。―――とは問屋が卸さなかった。日が暮れる前に撤収することを条件に松尾のお目こぼしをもらったのである。
たいていの男なら極上の乙女とひとつ屋根の下にいる機会を得ておきながら夜を共にできないとあっては気の狂う思いをするところだが、しかし、相手はあの三歩だ。特に気にする様子もなく、テントの外で歌など歌いながらコーヒーに使うお湯を温めている。
まったく
気にされなかったことをむしろちょっと気にしているのは村雨の方だった。
「どうどう?」
「素敵な寝心地です」
「でしょ!冬なんてね、寝袋着たまま生きてたーい!て思っちゃうよ」
村雨は生まれて初めて寝袋におさまり、テントの中でごろごろと転がった。
三歩は蚊が入ってこないようにとテントの入口に蚊帳の役目をする目の細かい布のアタッチメントを垂らした。こうすると秋の冷たい風だけはテントの中を通り抜けていき、少し肌寒いくらいで寝袋の中の村雨にはちょうどよかった。
「いい風だね」
三歩は心底心地よさそうにいって、村雨の横に手を枕にして横たわった。
「三歩さんの分はないんですか」
「俺のは上にあるよ。それはお客様用」
「…痛くありませんか」
「大丈夫、テントの下の土が冷たくていい心地」
「…」
村雨はそろそろと寝袋の中に戻って口元までうずめた。
我が家の家人の言いつけを守って、三歩は日帰りのつもりで長い道のりを大きな荷物を持ってやってきてくれたのだから、”その気”がかけらもないことにがっかりするなど三歩の誠実さに対して、いやしく、恥ずべきことだった。
村雨は気を取り直して起き上がった。
「三歩さ…」
言いかけてやめたのは、横の三歩は目を閉じているだけではなく、規則的な呼吸と無防備な顔から本気で寝ているとわかったからだった。
先日
一緒に食事をした時に久美が「三歩さんはデリカシーが全っ然ない!」と叫んで天を仰いでいたのを思い出したが、村雨は叫びも天を仰ぎもせずに、声なしで笑うことにした。
早起きして、朝から二時間かけてここまで歩いてきてくれたのだから仕方がない。
「よく頑張りました」
小声で言って、カーディガンを脱いで三歩のお腹の上にかけた。
もっと長いカーディガンを着てくればよかったと思った。
目を覚ますと天幕には西日がうつっていた。
しまったと思い寝袋のまま跳ね起きると、横に三歩の姿はなく寝袋の上からかかっていたカーディガンが滑り落ちた。
「あ、起きた?ナイスタイミング。いまちょうどコーヒーがはいったからお目覚めにどーぞ」
「三歩さん、私っ、ごめんなさい!寝ていて」
「あんなに気持ちのいいお天気だったんだもの」
と三歩はカラカラ笑って、コーヒーのはいった底の浅いカップを差しだす。
すまなそうに受け取った村雨に、三歩は照れる様子もなくあかるくいった。
「松尾さんにはダメっていわれてたけど、ひとつ屋根の下で寝ちゃったね」
テントをたたみ、河童橋で村雨と手を振り別れて夕焼けの赤い木道を歩いた。
顔を真っ赤にする村雨はかわいかったが、三歩は少しの背徳感も感じていた。
村雨より早く目が覚めて、腹の上に小さなカーディガンが乗っていたことに気が付き、すぐ横で静かに寝息をたてる顔をじっと見る時間があった。音をたてないように村雨のそばに手をついて、村雨の頬にかかる髪をそっと耳にかけた。
「…」
病院で衝立越しに見た姿が目に焼きついている。
張り詰めたなかで強く輝いていた。
三歩がうつくしいと思ったその姿はかつて村雨が在った姿で、すがる藁の先の姿だろう。
唇に寄せかけたそれは直前でわずかにそれて、額にかるいキスをおとした。
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