谷村山荘は、高い標高にありながらも近くにバス停や駐車場があり、車で気軽に来られる人気の山荘だ。冬は雪原となる山荘の前からは北アルプスの絶景が臨め、短い林を抜ければ梓川がある。
山荘を切り盛りする谷村文子は、今日は三人のお客様を迎えていた。
創立記念日で小学校がお休みのナオタと、観光センターでの仕事がお休みのと、毎日がお休みの三歩だ。

「こんにちは、今日はお世話になります」

に頭を下げられ谷村文子はあんぐりと口を開けたまま三歩とを見比べた。
山の噂で聞いていたがまさかここまでのお嬢さんを“あの”三歩が連れてくるとは。「お口に合えばいいんですが」と差し出されたホテルのエンブレムが入ったパンの袋を、谷村文子がうわごとのようにお礼を言いながら受け取ると、その間にナオタが割って入った。ナオタは山で父親を亡くし、母親は離婚して海外にいたためいまは祖父母と富山で暮らしている。ナオタは三歩が思っていたよりもずっと心の強い子供だったが、まだ小さかった彼を心配して三歩が訪ねていくうちに二人は兄弟のように仲良くなり、時折こうして谷村山荘で遊んでいた。

「兄ちゃんもねえちゃんも早く!こっちこっち!障害物競争やるんだから!」



雪こそ降っていないが谷村山荘のまわりはこの時期日中でも気温10度を下回り、冬の格好でないと手がかじかむほどだった。それでも元気なのが二人ばかりいる。

「位置について、よーい、…スタート!」

木の椅子に腰かけたの合図とともに、三歩とナオタが山荘の前から全速力で駆け出した。

「うおおおお!」
「うおーーー!」

三歩は薪で自作した垣根を五つ跳び越え、ナオタは二つ越えて、次の関門はナオタ作の石ころボーリングだ。

「うおおおお!」
「うおーーー!」

木の枝で作った枠のなかにボーリングの要領で転がした石ころをおさめたら次の関門に進めるシンプルなルールなのだが、薪ジャンプで大きくリードしていた三歩がここで苦戦を強いられた。

「へっへー!三歩にいちゃんのヘッタクソー」
「くっそー!ナオタめ、俺がボーリング苦手なの知っててこれ置いたなあ!ぬぬぬぬ、クライム・オン!」
「クライミーング!!おっし、入った。そんじゃねー!」
「あっ待て!ふんぬー!」

放つ手に力を入れすぎて何度やっても木の枠を通り過ぎて石が向こうへ行ってしまう。

「三歩さん、がんばってー」
「は、はい!」

木の椅子からとんだ声援のあとが、一番投球が乱れた。
ナオタから遅れをとること数十秒、なんとか石ボーリングを突破してきた三歩は次なる関門が待つ木立の間へ跳び込んでいった。
次の関門はが用意したもので、何を仕掛けたのかは三歩もナオタも知らなかった。
木の枝で作られた矢印の順路をえっさほいさと進んでいくと、その先の切り株の前で、ナオタは膝をついていた。

「よし!追いついたぞナオタァ!」
「ゲ!兄ちゃん。くっそー、ねえちゃんこれは反則だろー」

頭をガリガリかくナオタのもう一方の手には鉛筆が握られている。
切り株の上には算数のドリル帳が開いてあり、『ナオタ君はここを5問解いてください』ときれいな文字のメモがはさまっていた。宿題を手伝ってもらおうとナオタが持ってきていたものだった。

「うえ、算数!?」
「違うよ、兄ちゃんはこっち」

切り株の上にもう一冊本が置いてあった。こちらも同じくナオタの宿題の英語の教科書だ。

『三歩さんはここを5問解いてください』

「うおっし、これなら勝てる気がする」

三歩も切り株の前に正座して鉛筆を握った。

「ずっりぃー!兄ちゃん英語できるじゃん」
「ふふーん、日頃の行いというものだよナオタクン。それにしても最近の小学生は英語の授業もあるんだなあ、俺のときはなかったよ。なになにぃ…」

余裕シャクシャクで向き合ったページの表題には『チャレンジ問題!難関中学の入学試験問題に挑戦してみよう!』とあった。

「以下の英文を副詞節を用いて書き変えなさい………」

ナオタが苦労しながらも着実に算数の問題を解いていく横で、三歩の表情はみるみる曇り、鉛筆が止まったまま動かない。海外で生活する中で覚えたたたき上げの英語を使ってきた三歩にとって文法を問う問題はきわめて難題だった。主語と動詞くらいならわかるが『チャレンジ問題』はそう甘くない。

「おっす兄ちゃーん、まだやってんのー?」

晴れ晴れとした声とともに、先にゴールしたナオタが正座する三歩のもとまで戻って来た。
教科書の前のページに戻って品詞の章から見直していた三歩は牙をむいて振り返ったが、ナオタに手を引かれても来ていたので牙をおさめた。

「どんな問題だったの?ぶんぽー問題?」

最近覚えたばかりの言葉を得意げに言いながらナオタが後ろからのぞき込んだ。

「ふく詞ぶし?副詞ぶしってなに?」
「かつおぶしのいとこ…」

やけを起こした三歩が切り株につっぷしてつぶやいた。ふと、いいにおいがして顔を上げるとすぐ横の、息がかかるほど近くにがいた。青いまなざしが三歩の解いた問題のほうを見ている。長いまつげと、髪を耳にかけたしぐさが色っぽかった。

「これはマル…これもマル」
「え、兄ちゃんすごいじゃん、さすが」
「いや、合ってないと思う。そうだよね?」
「これもマル。伝わるもの」
「なるほどー!さっすがさん!」

三歩はぽいっと鉛筆を手放した。

「言葉は伝わるのが大事だもんね」
「えー!じゃあなんで文法なんてあるのさ」

ナオタが不満げにを見上げるとは「そうですね…」としばらく考え込むように言葉をとめた。

「…もし、私にフィアンセがいて、もし私の父親が大変に厳格なイギリス人で、フィアンセが私の父に挨拶をするときには丁寧な表現と、正しい文法の言葉遣いが必要なの」

三歩はきゅうに真剣に教科書を1ページ目から読み始めた。







森林限界を超え、鈍色の鋭い岩肌を見せる穂高の峰々がいまは赤く照らされている。
夕日は稜線を明るくするかわりに、鈍色の暗い部分をいっそう黒く染めもする。その濃淡の極端さは山の素晴らしさと厳しさとをあらわすようだった。

「きれい…」

の唇からこぼれた言葉は独り言だから、木の椅子で横に座る三歩は黙ってただ同じ方向を見つめていた。
ナオタがついに観念して山荘のなかでひとり宿題に取り組み始め、ぽっかりと生まれた二人きりの時間だった。
完全に視界の開ける場所まで行ったならもっときれいに見えるけれど、それはにはさせられない。
も行きたいとは言わなかった。
もっときれいな景色を見せたい。
なんのにおいもしない冴えた空気を吸わせてやりたい。

「俺、さんもきれいだと思う」
「山には負けます」

三歩の突然の下手なお世辞にはカラっと笑った。

「負けてない」
「負けます」
「ギリ、さん、リード」
「負けでいいです」
「…じゃあ、山は山で、置いといて」
「…」
さんは素敵なひとだよ」

三歩が静かな声で、まじめな顔でそんなことを言うから、は気恥ずかしくてうつむいた。
白い手の上に三歩の大きな手が重なり、それが振り払われることはなかった。

「…俺はあなたが好きです」

無音の世界に三歩のダウンジャケットがこすれる音がした。
長く落ちる二人の影が近づいた。

「にいちゃーん!ねえちゃーん!もう帰る時間になっちゃったよっておばさんがぁー!どこー!?」

「…」
「…」

が目を開けると三歩は何かを振り切るようにすっくと立ちあがり、

「ヤッホーーーー!!!」
と山に向かって力の限り叫んだ。

はポカンとしていたが、三歩の耳が真っ赤になっているのに気づくや思い出したように赤面し、同じく力強く立ち上がって「ヤッホー!」と喉の限り叫んだ。



「ようやく帰ってきたがね、ナオタはもう帰る時間だよ。んん?どしたね?ふたりとも顔を真っ赤にして」
「おばちゃん聞いてよ、にいちゃんもねえちゃんもさ、並んで山にヤッホー!て叫んでてさ、子供みたいじゃない!?」

ナオタの言葉の途中で何かに気付いた谷村山荘の主、谷村文子は二人の真っ赤な顔をもう一度確かめ、小刻みに震えながら口を覆った。

「さ、三歩っ、あたしったら悪いことしたかね?」
「ううん、ダイジョブ」

そう言った三歩の笑顔は引きつっている。

「つぎ!次ぃがんばんなよっ!」
「ハイ…」



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