北アルプスが本格的な秋を迎えると紅葉狩りの観光客は上高地から涸沢まで途切れることなく列をなす。
人が増えれば事故も増え、冬山のような大きな事故がない一方で、沢の水に触ろうとして滑る者もあれば、体力がもたずに動けなくなる者もある。
椎名や阿久津、野田に協力してもらい会う約束をしても救助要請があって中止になることが二回続いた。上高地で待ちぼうけになっているにデート中止を報せに走る独身隊員の誇らしげな顔といったら、事故を喜んでいるわけではないにせよ、隊長の野田は目も当てられない。
は11月には東京に帰ってしまうというのに、会えないまま10月の日々もあわただしく流れていき、ようやく会えることになったのは県警山岳救助隊、遭対協合同で行われる毎年恒例の慰労会の場だった。
ザックのバイトする「居酒屋ケルン」で催された慰労会には独身男性連合たっての希望で、観光センターの職員も招かれ、例年にも増して盛大なものになった。



居酒屋ケルンに跳び込んだ三歩を出迎えたのは、ぶすっと腕組みしたひげ面のアメリカ人アルバイト店員、ザックだけだった。

「あちゃー、もうみんな帰っちゃったか」

掃除のために卓のうえに椅子があがっている店内を見て、三歩は日本語で頭をかかえた。
例によって山から下りてくる途中に壊れて曲がった案内板の補修や、沢に近すぎる場所にテントを張っていた登山客を別の場所へ移す手伝いをしていたら、20時を過ぎてしまった。こちらの夜は早いからもうすっかり慰労会は解散してしまっていたのだ。
入口で頭をかく三歩に、不機嫌な調子の英語がかえってきた。

「おい三歩、こちらのレディをどうにかしろよ。さもないとどうにかしちまうぞ」
「わっ」

上がっている椅子の脚に隠れていて気づかなかったが、よく見ればカウンターにつっぷして、白いブラウスにプリーツスカート姿のが寝息をたてていた。
三歩は大声をあげかけてあわてて自分の口をふさいだ。
音をたてないように蟹歩きで近づき寝顔をのぞき込む。

「…」

久しぶりのは一段と美しかった。
自分が着ていた赤いダウンを脱ぎ、そうっとの肩にかける。

「…いつから」
「宴会の最初からだ。こんなお姫様みたいなのがじゃがいもみたいな男をずっと待ってたんだぞ」

じゃがいもは胸に熱いものが満ちるのを感じた。
満ちて、星のように光っている。

「慰労会の横ではなあ、イキのよさそうなどっかの大学の山岳部連中も飲んでたんだ。いったい何人の若者と山男が、ひとりでカウンター席に座っているこの子を見て山のスガスガしい気分をまがまがしいスケベ心にすり替えられて帰って行ったことか!」






心地よい揺れと体温を感じながらは目を覚ました。

「…三歩、さん」
「あ、起きた?」

目の前に三歩の頭があって驚いた。
背負われて、夜道を歩いていると状況を理解してはさらに動揺した。

「ごめんなさい、私、歩きます」
「いいよ、ごめんね、疲れたろ、ずっと待って。あと30分くらいで松尾さんがこの道を通ってくれるはずだからもう少しこのまま行こう」
「いえ、あの、降ります」
「…気をつけて」

信州の酒は思った以上に強かった。はアスファルトの地面に降りてはじめて自分の足もとがおぼつかないことを自覚した。
後ろへ二、三歩よろけて座り込みそうになったのを、三歩が背中を支えて引き留めてくれた。

「おとと」

の肩にかかっていた赤いダウンだけが冷たいアスファルトに落っこちた。
三歩はニカッと笑う。

「セーフ」
「…ありがとう」
「…」

三歩はの背を支えていた腕にゆっくり力をこめて、自分の胸のなかに引き寄せた。
抱きしめたのは決して救助の一環ではなかった。

「ずっと待っていてくれて、ありがとう」



電灯の間隔が長い、見知らぬ道を歩いた。
車はほとんど通らなかった。
慰労会では三歩と親しくしていることをからかわれ、「あんなの」やめておけ、「あんなの」じゃあんたの恋人にはもったいない!と何度も忠告を受けたが、三歩の悪口のようなことを言った人たちをが憎めなかったのは、彼らがみんな三歩のことを好きだとわかったからだった。

「四歩の野郎はなあ!」

酔っぱらった遭対協の副隊長が説教するような、怒っているような顔で教えてくれた。

「Tシャツとジーパンで穂高にはいったアンポンタンにも、雪山装備なしで軽々しく冬の常念岳に挑んだ連中にも、あいつの背中で死んだ奴にも、たどり着いた時には凍死していた奴にも、1年経ってようやく骨だけ見つけた奴にも「よく頑張った」という。言いやがる。それを本心から言っているから俺ァ腹が立つんだ。なんでそんな甘っちょろいことを言うのかと怒鳴りつけてやったらあいつはヘラヘラ笑って言いやがる」

“この人は、俺たちが来るまで必死に生きようと頑張っていたんだと思う“

「むかつくだろう!」と同意を求められたは静かに雷にうたれていた。
そんな考え方ができるひとがこの世界にいるのだと。
そんな、信じられないほど強くうつくしい人の硬く大きな手が、いま自分の指に触れてくれて、となりを歩いている。

「三歩さん」
「ん?」
「今日はどうして遅れましたか」
「え、えと、山道の案内板が曲がってて…遅れてごめんなさい!この前も直したんだけど今度は別のところがゆるんでて」
「あとは?」
「あとは、沢の近くでテントを張っていたパーティーがあったから、上で雨が降ると少し危ない場所だったからちょっと移動してもらって…ごめんなさい!」

「すばらしい人」

三歩は驚いて顔をあげた。
は正しいことを伝えたと思ったので目をそらさずにいると、三歩の頬が暗くてもわかるほど赤く染まった。

ふたたび歩きだすと互いに言葉がなくなった。
つめたい風が三歩の頬から熱をさらっていくが内からあふれてとどまることを知らず、三歩はずっと熱いままだった。
この人のまなざしに本当に弱いなと、唇を一文字に結んで緩みそうになる頬をなんとかもちこたえさせる。
もう振り返る勇気も出ずに前ばかり見ていると、前方からやって来る車のライトが見えた。

「あ、来たかな」

松尾の車が来たのかと思ったが、通り過ぎていったのは一台のトラックだった。

「違ったね」

こんなひと気のない道に二人も人間がいるとは気付かなかったのかハイビームが目に入ってちょっと目がシパシパした。
急につないでいた手がすりぬける。

「え」

直後にかたい物同士がぶつかる音がして、が地面にうつぶせに倒れていた。


















倒れるだけならば数分とせず元に戻るが、たまにこうして頭をぶつけると脳震盪を起こしてそのまま意識が途切れることがあるのだと松尾は云った。
縁石にぶつけて切った目の近くを数針縫われ、脳に損傷はないと確認されて30分経ったがはまだ目を覚まさない。

「三歩さん、私は病院の手続きと、旦那様に電話をしてまいりますので」
「うん…」

三歩の意気消沈した姿を見、松尾は出たばかりの扉から戻って来た。

「あなたが気に病むことはなにもありません。顔の怪我もあなたが適切に止血と応急処置をしてくださったと救急の方から聞きましたよ。ありがとう、三歩さん。お嬢様にとってはこんなことは年に何度もあることですからその事実自体にはもう動揺すらなさらないでしょう。お嬢様が起きた時、一番ショックを受けるのは、あなたが責任を感じて苦しんでいたときですからね」

三歩は小さくうなずいた。
うなずいたが、松尾が去ってと二人になると、圧迫止血をするために傷口をおさえた感覚が手指によみがえってきた。もっと大きなケガをした人を何人も応急処置してきたのに、の血のにおいと、自分の指紋の溝という溝すべてに浸み込んだ血の色を思い出すと三歩の大きな体はぶるりと震えあがった。
右目に大きなガーゼをあてている姿を見るのも痛々しくて、しばらくの横たわるベッドの隅に顔をおしあてていると、自分の髪に誰かの指が触れた。
三歩はがばと顔をあげる。
まだ麻酔が効いているのか、かろうじて開いている左目は今にも閉じてしまいそうだった。

「…っさん!」
「ごめんなさい。びっくりさせてしまって」
「大丈夫!?痛い?」
「少しも」

頬をひきつらせながら歯を見せて笑った姿は、いつか雨宿りした大きな樹の下でも見たことがあった。
三歩にはそれがひどくいとおしかった。



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