傷口に絆創膏を一枚貼って、村雨は最後の日まで観光センターで務めあげ、県警の山岳救助隊から感謝状と独身隊員たちから連絡先の書かれたラブレターを受け取り、上高地の閉山式より一週間前に予定どおり東京に帰ることになった。
ほとんどの荷物はホテルから送ってしまったので、ショルダーバッグひとつでホテルから出てくると、舗装された車寄せの柱のそばに三歩がぽつんとひとり立っていた。
松尾を乗せて迎えに来たハイヤーに10分だけ待ってほしいと頼み、ふたりはホテルのそばの散策路を少しだけ歩くことにした。
「春になったら手術を受けるんです」
「…うん。松尾さんから聞いたよ」
「そうでしたか」
村雨は驚くことも怒ることもなく微笑んだ。
「治るかどうかはわからないけど、村雨さんはなりたいものがあるから、手術を受けたいんだって」
だから引きとめられない。
応援するよりほかなかった。
三歩はもう笑えなかった。
「三歩さん」
村雨が三歩の手を強く握って横に並んだまま、まっすぐに前を向いた。
「私、ずっとお母さんみたいにかっこよく仕事をしたくて、できなくて、手術を受けなくちゃってそればかりだったけれど」
「…」
「いまは、治ったら一番に三ノ沢まで行って三歩さんのテントのドアをたたきに行きたい」
村雨は三歩を見上げてひときわ明るく笑って見せた。
「…元気で」
「三歩さんも」
握った手をはなした。
村雨は車のほうへ歩いていく。その足が重くあってほしかったが現実の世界では車までたった20歩の距離だった。
村雨にとって10歩分の距離を三歩が3歩で走って追いついた。
手をつかんで引きとめて、抱きしめてから
「待って」
といった。
「待って、ください」
山の別れをするときに、山に来た人を抱きしめる日は何度もあった。
そんなとき決まって三歩は「またおいで」と、心の底から思ったことを心のままに伝える。
今だけは「またおいで」とはいえなかった。
そんなこと思っていない。
「ここにいて」
「…」
三歩の腕の力でほとんどつまさき立ちになっている村雨は、うしろ車の中で松尾がハイヤー運転手の目を両手で覆い、自らも下を向いたと知らずとも、その両腕で三歩の頭を抱きしめた。
ずっとつめていた息が震えながらこぼれていく。
「三ノ沢、まで…行っ、ますから」
「だめだよ」
三歩の腕の力がゆるんで、足が地面に着き、村雨は頬を涙で濡らしながら見あげた。
三歩は無理やり全力で歯を見せて笑った。
「下から一緒に登って行こう!」
ハイヤーを跳びだしてきた松尾が渾身の力で三歩の尻を蹴るまで、二人は何度も口づけた。
島崎三歩は、山のひとだ。
体が大きく、健康そのもので、住所を持たず、ここ北アルプスの山のただなかにテントを張って、あるいは雪洞を作って山に来る人たちを応援している。
三歩は今日も北アルプスの稜線を走り回っていた。
その三歩はときおり上高地にある大きな樹のそばで立ち止まる。
もうすっかり消えてしまったその足跡に笑う強さをわけられて、三歩はまた走り出した。
1年と8か月後、
三ノ沢を目指すも上高地から大雨に見舞われ、大きな樹の下にふたたび足跡が刻まれた。
おしまい
<< □