吹雪く夜、第七師団の談話室では鯉登少尉が鶴見中尉論を熱く語っていた。
「わかるかっ、月島軍曹」
「はぁ」
聞いているのは月島ひとりで、一小節終わるごとに、こちらを振り向いて同意を強要される。三回に一回は「なんだその返事はっ!」と怒り出し、「はっ」と短く返事すると満足してまた語りはじめる。
談話室には火が入っていて暖かいのに、誰も入ってこないのはこのためである。
鶴見中尉が一緒だと毎日通訳をさせられ、鶴見中尉が別行動だと毎日これだ。
はやく歯を磨いて寝たい。
そのとき、談話室の扉に近づいてくる足音がした。
「失礼いたします」
鯉登の話が止まり、これは天の助けと月島は素早く席から立って扉を開けてやり、同時に退路の確保に成功した。
「どうした」
「さきほど、鯉登少尉に手紙が」
事務方の男の手には手紙の束があり、その一番上にきれいな文字で「鯉登 音之進様」と宛名の書かれたものがある。
「ご苦労。少尉殿、手紙だそうです」
「手紙?鶴見中尉からか!?」
鯉登は椅子を倒して立ち上がったが、鶴見の筆跡ではない。
「違うようです」
ぐにゃりと床に崩れた。
「じゃあ、いい」
月島は鼻でため息をし、封筒を受け取って男を下がらせた。
封筒をぐにゃりと崩れている鯉登のそばの卓に置く。
「ここに置いて置きますからね」
「…」
不満そうに起き上がり、しぶしぶといった様子で封筒を手に取った。
裏を見なくても眉間のしわが深くなったのを見るに、文字だけで誰からとわかったようである。さらには心なしか唇をとがらせて黙り込んだその顔に月島は「おや」と思った。
そのまま何も言わず、談話室を出て自分の部屋の方へ行った背を見送って、月島は「おやおや」と思った。
苦手な母親から、とかだろうか。苦手という話は聞いたことがないが。
…女、とか。
いやまさか。かぶりを振る。
鯉登少尉が女に懸想しているそぶりなど見たことがない。
芸者を呼んだ宴席で、どんなに胸の大きな美人にすり寄られようが、女の存在は完全に無視して熱視線をただ一人、鶴見中尉にだけ注ぐような人なのだ。
「少尉殿は鶴見中尉で抜いている」と陰口されるありさまなのに、女なんてそんなまさか。
ふと、あの子のくせっ毛が風に揺れた景色が脳裏をかすめ、せっかく鯉登から解放されたというのに、気づけば月島は彼の私室の前に立っていた。
しかし、なんと言って入る。
無理だ。やめておこう。
握った拳を降ろし、立ち去ろうとしたとき
「月島軍曹か」
中から声がかかって思わず気をつけの姿勢になる。
鶴見の前ではほとんど知性のない猿のようなのに、なかなかどうして感覚のするどい男である。
「…月島、入ります」

「なんだ」
ランプが橙色に机のまわりを照らすこじんまりした部屋で、鯉登は椅子に座ったまま言った。机の上の封筒は封がきられていて、便箋と思しき白い紙が広げられていた。
「いえ…」
どうしても視線が便箋のほうへいく。鯉登が気づいて
「これか」
と顎で指した。
もはや言い逃れできない。
「…受け取った少尉殿の様子がおかしかったように見えたので、気にかかりまして」
言葉にして自分の行動の不気味さに鳥肌が立った。俺はえご草ちゃんがすき!と心の中で自分の頬をひっぱたく。
「気持ち悪いやつだな」
反論できないでいると、鯉登はなんともぞんざいに便箋をつまんで揺らし、退屈そうに椅子を後ろに傾けた。
「ただの婚約者だ」
月島はぎょっとしたが、鯉登はなんでもない顔をしている。
なるほど、上流階級では当然のことなのだろう。しかし、このあからさまに興味のなさそうな態度。色恋で自らに劣勢をもたらしている好敵手が、前頭葉のちょっと吹っ飛んだ人たらしの中尉殿だと、少尉の婚約者が知ったらと想像すると、月島は見たことのない娘を不憫に思った。
鯉登が揺らした便箋の隙間から、不意に小さな紙が落ちた。
月島の足元に来たそれを拾うと、写真であった。
被写体に月島は目を剥く。
ちょっともの凄いほどの美人である。
若さのせいか、まだ瑞々しいあどけなさも残っているが、これが妙齢になったならと思うと末恐ろしい。
「こ、この方が」
冷静沈着と評される月島も、思わず声が震える。
「ああ、私の写真を送ったら向こうも送って来た。まったく、あの人もよくやる。…何を変な顔をしている」
月島は何から突っ込むべきか短時間で悩み、とりあえず
「少尉が、写真を…」
というところから突っ込んだ。
「のりがうまくつかなくて失敗したやつをな」
そう言って鯉登は手前の引き出しを開けた。
中には蓋のついた木箱がひとつ。それ以外の空間は、鶴見中尉を除いた他人の顔をひとつ残らず鯉登の顔に張り替えた写真が埋め尽くしていた。
このイカれた写真を送ったと聞いて、「らしさ」に妙な安心を覚えてしまったが、そんなものを送りつけられたにもかかわらず、このまっとうな写真を送り返してきた婚約者殿の心情を思いやると、鬼軍曹月島の目頭も熱くなる。
鯉登に写真を返して、
「なんとも、お美しい方で」
というと、鯉登は眉根を歪め唇をへの字にした。
「はァ?これのどこがだ?」
あ、ブス専だったか。なるほど。
あるいは本当に排他的な鶴見専か。
しかし、やはりそれではあまりにこの婚約者殿が不憫である。月島は同情して援護射撃を始めた。
「その写真は、みながうらやむような美人ですよ。差し出がましいことを言いますが、大切になさらねばばちがあたるというものです」
「ばちだと。何も知らずに勝手なことを。言っておくがな月島軍曹、これは向こうの一方的な努力ではない。“互いの”努力だ」



「世が世なら」
その娘をあらわすときに誰も彼もが枕詞にそういった。
明治の世になにをいう。
鯉登音之進は聞くたび心の中で吐いて捨てていた。
それが、本部の上層部から呼ばれたと騙されて連れてこられ、見合いの席につかされて、憤りはいま頂点に達している。
向こうの方が家の格がうえだから、ししおどしの打つ音の聞こえる一室に「世が世なら」の一族がおくれて入って来た。
父親同士は知り合いらしく、きょうはよく来てくださったとか、いやあ本当にお美しいお嬢様でとか言葉を交わしている。父がへたな標準語を話してへりくだっているのも腹が立った。
父親たちの後ろ、庭に面した廊下に人形のように白い頬をした娘が口元だけをうっすら笑わせて幽霊のように立っていた。一番憎いのはあの父親どもだが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
両家が卓をはさんで席についても、鯉登音之進は正面に目もくれず、座敷の奥の畳の目ばかり睨みつけていた。
ほどなくして
「あとはお若いお二人で」
などとのたまって、二人は野に放たれた。
切りそろえられた緑の野に小川が巡り、赤い橋のかかる、それはそれはうつくしい庭園だ。
放たれてすぐ、鯉登はずんずん歩いた。
こちらは軍服で、むこうは重たそうな着物だ。ついて来られないのはわかっていた。
こんな縁談、ぶち壊してやる。その思いだった。
料亭の屋根がだいぶ遠くなった丘まで来たとき、ようやく鯉登は足を止めて振り返った。
女の姿は見えない。
よし、と思ったが同時に達成感とは違うもやもやしたものが心にかかった。
同じやり方で縁談をぶち壊すのはこれで三度目だった。
晴れわたる空を見上げて、早く帰りたい。と思った。いや、兵営に戻ったら戻ったで、また「ボンボンがだだをこねて戻って来た」とか陰口をたたかれるのだ。
これよりひと月とせず、鯉登は鶴見中尉旗下に加わり、もてあましたその熱の預け先を得ることになるのだが、まだ知る由もなく、今はただ、道すがら拾った小枝で素振りをするくらいしか、くすぶる熱を預ける先がなかった。
ふいに丘の上に近づいてくる足音がきこえて、鯉登は驚いた。
とっくにあきらめて屋根の下に帰ったと思っていた振袖姿の娘である。
裾を引き、下駄の足元を見ながら登って来た黒髪を見つけ、鯉登は思わず身を隠す先を探した。
すぐ近くに大きな樹が一本だけ生えている。が、その影に逃げ込む自分を想像し、あまりの情けなさに思いとどまる。
こうなっては真っ向勝負よりほかない。
ひとつ息を吸って胸をはり、仁王立ちして娘の到着を待ち構えることにした。
登り切った娘の額にはうっすらと汗が光っていた。
「…音之進さま」
はずむ息の合間、やけに静かに呼ばれた。
「なんですか」
「結婚はおいやですか」
文句をいわれるかと思いきや、いきなり核心をつかれて面くらう。しかしこれは話がはやくてちょうどいい。
「ええ、いやです」
鼻をならし、腕組みしてこたえる。
女の唇の端が不敵にあがった。
「わたくしも」
「はあ?」
鯉登はひるんだ。
いまのは、あんたのことが嫌いだ、とお互い言い合った、という状況であっているだろうか。なぜだか少し、自信がない。
「ものは相談なのですが」
女のみょうな切り出し方に、鯉登は眉間のしわを深くした。
「仲の良いふりをしませんか」
それはから持ち掛けられた作戦だった。
互いに誰とも結婚したいと思っておらず、何度も縁談をぶち壊してきた。こっちは三回やったが、向こうは四回やったらしい。いい加減家族を悲しませるのもやめにしたいが、だれとも結婚したくないから、仲の良いふりをしてできるだけ結婚を先延ばしにする。最後、もう結婚しかないところまで追い詰められたら適当に理由をつけて別れる、という算段だ。
「ふむ…」
鯉登はしばらく顎をひねり、
「なかなかいい考えです」
といった。
「ではさっそく作戦の詳細をつめましょうか」
「そうしましょう」
は手巾で額の汗をふきふき、二人は木陰にはいった。
「会う頻度は四か月に1回以下におさめる、というのでどうです」
「わかりました。それ以上会わされそうになった場合には、事前にわたくしが風邪をひきます」
「それはさすがに、何度か使えば疑われませんか」
「もともと体は弱いほうなので大丈夫です」
「それなら結構」
「手紙も書いておいたほうがそれらしいでしょうか」
「そうですね。少々面倒ですが、そうしましょう」
「来たものをすぐに捨てると怪しまれますから、取っておくというのは」
「なるほど」
その後も、会う時は早々に「二人きりになりたい」とか言って周りの目を遠ざけることや、きょう両親にはどう伝えるかなど細かいところまで入念に打ち合わせ、会議は終了した。
しかし今戻ってはまだはやい。今少しとどまったほうが仲むつまじい感じが出るだろう。
別々に好きなことをやって時間をつぶそう、と取り決めたものの、庭園のはしの丘の上でできることなどそう多くない。
しばらくは無為に草を千切る沈黙が続いた。
飽いて、鯉登は手慰みにさっきまで使っていた小枝を拾い、木を挟んで反対側にいって素振りなどしてみたが、軽すぎて鍛錬にならない。次に会う時は事前に木刀をどこかに仕込んでおくべきか、と思案をはじめてすぐ、視線を感じた。
振り返ると、木の影からが大きな目の玉でこちらをじっと見ていた。目が合いそうになるとの眼は草に逃げた。
「なんですか」
「いえ…」
さっきまでの歯切れのよい調子が嘘のように口ごもるので気になって睨んでいると、しばらくこちらをちらちら見てはそらしていたが、やがて木のうしろから出てきて、うつむいたまま重そうに口をひらいた。
「音之進さまは、…その、自顕流のすごい使い手でいらっしゃると」
「誰がそんなことを」
「兄が」
「ふむ、よい兄君をお持ちだ。そうですが、お互い好きにやる、そういう取り決めだったでしょう。別にいいですよ、無理にこちらに話を合わせようとしなくても」
「いえ、そんなことはっ」
言った本人が自分の発言にはっと驚いている。
まるで自顕流に興味のあるような口ぶりだ。眉間にしわをよせて睨んでいると、みるみるうちに顔が赤くなっていった。さっきまでの才気あふれる悪女から人格が入れ替わったようだった。いや、これが年相応というべきか。
はもはやここまでと観念し、
「…実は、わたくしも剣術の練習など、少々、しておりましたものですから」
と白状して苦笑した。
「なんだ、そうだったんですか。流派はどちらです」
はかぶりをふる。
「滅相もないことです。わたくしは道場には通えませんでしたので、兄たちから習っただけで。それに今はもう、父に禁じられています」
の家の子息といえば、三人とも新陰流の達人と聞く。興味がそぞろわいた。
「一度自顕流を拝見してみたいと」
「ちょっとし合いましょうか」
ひっくりかえったような短い声を聞いたが、おかまいなしに硬直している手に枝を渡し、距離をとった。
助けをもとめるように口が動いたが、声になっていない。
無視してこちらが腰に小枝をおさめる動作をすると、とたんに唇を引き結び、視線を下へ向け
「…お待ちを」
と静かにいった。
下駄も白足袋も脱いで捨てた。
白い素足にぎくりとし…はて?ぎくり?心の中で首をかしげてから、はっと思い当たって鯉登は自分も軍靴と靴下を脱いだ。
そのあと、帯揚げの絹を取ったので長い袖を上げてしばるのかと思ったが、袖を上げかけてやめ、長い袖の先を帯の隙間に差し込んだだけだった。
互いに背筋がすっと伸びる。
が中段に構え、このとき鯉登ははじめて相手の顔を真正面から真剣に見た。
鯉登は上段にかまえ、が切っ先を進めた瞬間に高速で振り下ろす。そのつもりだった。
しかし打ちこめない。
前方からいまだかつて経験したことのない波動を受け、一歩たりとも動けない。
の双眸は炯々と輝き、背からは後光のような光がさしている。
「…きっ、キィエエエエエエエィ」
得体のしれないおそれを振り払おうと声を発したが、ただただその場で奇声を発しただけで体が動かない。上段に構えたがら空きの腰に、
「どうっ」
が決まった。



「…完敗だった」
膝に肘をおろし、指を組んで、しみじみと鯉登はいう。
「わかるか、月島軍曹。対峙した瞬間、こうっ、ぶわと汗をかいて、そのうえ動悸がして、全身の毛は逆立ちっ、皮膚がぞわと粟立った!いや、いや、わかるまい。あれは、体験した者にしか…」
「それはつまり、恋「おそるべき気迫!」
机をたたいて立ち上がった鯉登の横で月島は閉口し、石になった。
「信じられるかっ!?この私が、この私がだぞ!?一歩も動けなかった。女の身とあなどっていたが、あのひとの気迫は今までし合ったどんな強敵よりも凄まじいものだった。まさに、最強の剣士」
「…」
「聞けば、剣の鍛錬を父親に禁じられたのは男によく見初められるためらしい。あのような剣士から剣を奪うとは、結婚とかいうものは実に、実にくだらんっ」
「はあ」
「そのあとも打ち合わせのとおり、会うたび二人きりになったからな、人目をさけて試合をしたが、私は打ち込むどころかまともに動けたためしがない」
「はあ」
もはや、お相手のほうはせめて少尉よりも賢いことを祈るばかりだ。
「しかし、四度目に会ったときには、もうやめておきましょうといわれてな」
ああ、それ向こうが気づいてかわいそうになったんだな。
「実力が、違いすぎたのだ…」
眉間に指をあて、未熟な我を嘆いて首を振る。
「というわけでな」と眉間から指を放し、背もたれに体を預けて足を組んだ。
「しばらくして私は旭川に正式配属されたから、いまはこうしてこれでフリを続けているというわけだ」
手紙を指でつまんでまたぞんざいに揺らし、ピッと弾いて机の上におとした。
月島の脳裏で再びあの子のくせっ毛が潮風に揺れ、無性に腹が立った。
「立ち入ったことを聞きました。申し訳ありません。それでは」
くるりと回れ右してつかつかと部屋をでた。急に出ていったから「あ、おい」と後ろから慌てて呼び止める声を聞いたが無視した。
しんと冷える廊下にわざと足音をたてて進む。
思い違ったまま、さっさと結婚でも破局でもなんでもしてしまえ!



「なんなんだ、急に」
浮かせかけた腰を椅子に戻して、鯉登は口の中でもごもごいった。
「…」
机のうえに弾いた手紙をとって、自分と中尉の写真で埋め尽くされた引き出しのなかの、木箱をあける。
木箱の中にはこれまでに送られてきた手紙が几帳面に重ねられて保管してある。そういう取り決めだ。
机の上に残っていた写真を拾い上げ、目の前に持ってきて眉間にしわを寄せる。
「…写真うつりが悪すぎる」



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