旭川の本部に月島が戻ったのは小雪のちらつく夜のことだった。
奥から鯉登少尉がわざわざ軍帽をかぶって走って来たが、鶴見が一緒でないことがわかるとあからさまに関心をなくして帽子を取った。
月島の階級が軍曹とはいえ、鯉登はまだひよっこの少尉である。無礼な態度に目を丸くする者がいたが注意するものはなく、鯉登は廊下の向こうへ消えていった。鯉登の振る舞いをかき消そうと、二等兵の若者が場違いに明るい声を発した。
「そういえば、いま、ちょうど夕食ができたところです」
「そうか。ありがたい」
「先日、士官食堂の屋根が雪の重みで壊れてしまいまして、少々混みあっていますが」
部屋に荷物を置いてから食堂へ行ってみると、二等兵のいっていたとおりほとんど席が埋まっていた。
食事を取って見渡していると顔なじみの軍曹が手をあげて隣をすすめくれたが、月島は軽く手をあげかえしただけで、別の方向へ進んだ。
混雑しているのに鯉登少尉の隣と正面だけ、ぽっかりと席が空いている。
月島が正面に座ると、下から睨みつけるような視線がきた。
これくらいはもう慣れたものである。
味噌汁をすすって一息つき、
「どうですか、こちらでの任務は」
「どうということもない。子供の遊びのような訓練と雪かきばかりだ。くだらん」
鯉登は深くため息をつき、最後にぽつりとこぼす。
「はやく鶴見中尉殿のお役に立ちたい」
「あー…」
振る話題を間違えた。
場を和ませるような会話が得意かといえば、月島は月島で故郷で悪名を轟かせ、死刑囚として収監されていたような男であるから、得意なわけはない。が、この席のあけられっぷりと、鯉登本人は慣れてしまってほとんど気にしていないありさまを見、旭川をあけていた期間の「新任少尉への補佐」任務の埋め合わせをせねばならないという思いが勝った。
「例の許嫁殿とは最近どうですか」
「お互いうまくやっている」
うまくいっている、を言い間違ったのではない。
鯉登少尉と東京のご令嬢は周囲の目を欺くために仲睦まじい演技に励んでいるのだ。ただの許嫁なら近況を聞いたりしないが、共謀者という間柄は月島も興味のあるところだった。あと、鯉登はおそらくご令嬢に惹かれているところもあるようなのだが、当の本人はそのときめきを「剣の達人から発せられる気迫」によるものと信じて疑っていないのも、月島の秘めたる世話焼き気質を刺激する。
「今度の東京出張でも会うんですか」
「当たり前だ」
おお、と思うが
「会わねば怪しまれるだろうが」
と周囲に聞こえないように小声で続いて月島はなんだかほっとする。
「会って何をするんです」
そんなことが聞きたいのか、と鯉登は器用に顔を歪める。
東京の士官学校を卒業したあと、鯉登は半年間、見習士官として第七師団所属になった。
が、ちょうど日露戦争が終わった時期と重なり、北海道旭川本部での受け入れはできなかったため、「東京で待機せよ」という臨時命令が下った。
その間はたいそう暇だったそうで、共謀者の二人は、「会う頻度は四か月に一回以下におさめる」という協定に反して、休みがある度ほぼ毎回会っていたという。
戦争の事後処理が落ち着いて旭川に配属されてからはさすがに文通だけだそうだが、この鯉登少尉と年頃の娘が週1で会っていったい何をしていたのか、新発見の珍獣の生態を知りたいのと同種の関心がある。
「お互い好きにやっているだけだ」
「はあ」
「別々に本を読んだり、疲れていたら昼寝したり、私は木刀を持って行って素振りしたり、剣の試合は実力が違いすぎて相手をしてくれないが、あとは」
鯉登は宙を見上げて指を折る。
「あの通りの店がうまかったとか、どこどこで見た曲芸がすごかったとか、将棋と、カイセンと」
「カイセン?」
「なんだ、知らんのか」
すこし得意になった。
「こう、お互い鉛筆で書いたマス目の上の好きなところに船を置いて、相手の座標を推理しながら大砲を打っていく遊びだ。相手の配置が見えないように腹這いで向き合ってな。当たらなくても船の近くに落ちるとしぶきがかかったことを申告しなくちゃならん。なかなか面白いぞ」
「…」
「ちなみに、こちらに来るまでの勝負は153戦して私が78勝している」
鯉登は鼻を鳴らして勝ち誇る。
「将棋の勝敗も聞きたいか、うん?」
何べんも会って、そのたび飽きもせず「当たった」「はずれた」「さっきしぶきがかかったことを言ってない!」などと座敷に寝転がって一日中言い合っている姿を月島は想像する。
それは許嫁というよりは
「なんというか、友だちみたいですね」
意気揚々と将棋の戦況をいおうとしていた口が、偉そうな形で開いたまま止まった。
しばらくするとその口から偉そうな色だけが溶け落ちて、やけに細い声で
「…トモ…ダチ?」
と鳴いた。



鯉登の東京出張を見送る前に、月島は忙しく鶴見のいる小樽に戻った。
その日はよく晴れていて、昼下がりは雪のせいで窓の外がまぶしかった。
窓際の椅子に腰かけた鶴見に一対一でこまごまとした報告を済ませ、その話の終わりに、鯉登の東京出張の話が出たのは偶然だった。
月島は許嫁の「い」の字も出さなかったが、紅茶のカップを優雅に持ち上げた鶴見がふと動きをとめて
のご令嬢、か」
といったから驚いた。
「ご存じだったのですか」
そう返した直後、いや、この人に知らぬことがあるほうが珍しい、と深く納得した。
鶴見の唇に触れることなく、カップとソーサーはテーブルにもどされた。
組んだ膝の上に指を組む。
「ご令嬢を見たことはないが、母君ならば知っている。たいへんに美しい人だ」
血肉が散る凄惨な光景を「美しい」と形容する男の言葉に、月島は我知らず汗をかき、喉が生唾を飲んだ。
「父親は徳川宗家のながれをくみ、母親は旧摂家、その血統がかすむほど。まあ…少々男運はなかったが」
むかし、何かあったのですか、という疑問は墓の中まで持っていく。
懐かしむように琥珀の湖面に視線を落としたまま動かない。その横顔を、息を呑んで見ていると、突然目玉がぎょろりとこちらを向き、口角があがった。
「良縁だ。次に鯉登少尉に会ったらその縁を大事にするように私が言っていたと伝えろ」
悪いことを考えている顔と声が戻って来て、月島は胸をなでおろした。





東京までの道のりは鉄道と船を乗り継ぎ、数日を要する。
鯉登の気持ちは重かった。
鶴見の命令とはいえ、北海道内でさえ鶴見から離れていることが嫌だったのに、さらに離れなければいけないのがまず嫌だったし、東京での任務はほとんどお使いのようなものばかりで、二週間もいるのに予定がスカスカなのも役立たずといわれているようで嫌だった。
嫌だ嫌だと思うのにも疲れてきて心を無にして鉄道の車窓を眺めたとき、あるいは船酔いでゲロを吐いたとき、月島の言葉が何度か頭に浮かんだ。
「なんというか、友だちみたいですね」
鯉登はこの性格であるから、いままでに友人がいたことはなかった。兄弟もない。年齢があがり、陸軍幼年学校、士官学校で多くの同級に囲まれるなかで「友だちいない」レベルは順調にあがり、いつからか友人とかいうものを欲しいとすら思わなくなった。
ここ数年は、鶴見という絶対的な存在が心のほとんどを埋め尽くしていたことも、レベル上げに大きく作用した。
そこにきて、友だち。
横濱港に降り立ち、駅舎に向かって舗装された道を進み始めるとすこし心が落ち着いてきた。
―――我々は共謀者である。
鯉登はごく冷静に思った。
列車に乗り込んでしばらくぼうっと窓の外を眺めていたが、退屈からポケットに入っていた便箋を取り出す。
手紙は旭川を出発する直前にから届いたものだ。
あさっての本邸に迎えにいく時間が、確認のために書いてある。周囲の目を欺くには、ただしく計画を履行することが必要だ。
手紙には行きつけの料亭の個室で海戦の154戦目をやりましょうとも書いてあった。さいご、「敬具」の「具」の字が「見」になっているのは、自然に発生した遊びだった。毎回、「具」の字を形の似た別の字に置き換えて、それをどちらも突っ込まない。もう何通目になるだろう。
そういう遊びだった。
「…」
目をふさぎ、窓枠に預けていた腕に額を強く押しつけた。



中央の司令部には出張者向けの兵営が備えてあるものの、狭くて汚いので鯉登は東京の芝にある別宅に寝泊まりした。
灰色雲が重たく空を覆い、冷たい風が肌を刺す夕方、司令部の三階から嘲笑が軍帽に降って来た。
「あのボンボン、きょうも芝のお屋敷に帰るそうだよ」
ギロりと見上げた窓にはもう人の姿はない。
どいつもこいつも薄っぺらな徒党を組み、自らが泥沼に浸かっていることにも気づかず人の足を引っ張ろうとする。なんとくだらない者どもか。
いつもならいちいち腹を立てるところだが、いまは睫毛に雨粒の最初の一滴があたって気がそれた。
―――あの人の口からひとの悪口は一度も聞いたことがない
雨粒が唐突にへんな気づきをもたらし、三階の窓より、屋根よりうえを見上げる。
明日も雨だろうか。






案の定、日曜日は凍るように冷たい雨だった。
小石川にある家の屋敷は、正方形をしている。地図で見ると小さな正方形だが、実際に行ってみると2メートルはあろうという高い漆喰の塀が道の向こうまではるかに続く。
約束の時間に家の正門を訪れると、女使用人の長だろう老婆が出てきて、曲がった背をさらに深く曲げた。
「あいにく、姫様のお加減が優れず。今朝ほどから」
男兄弟三人のあと、だいぶ間をあけて生まれた娘を、この家の者たちは外であっても臆面もなく姫様と呼ぶ。
「風邪ですか」
「ええ…はい、然様で。誠に、誠に、あい申し訳ございません。お帰りの車をあちらに用意いたしました」
「あぁ、そうですか。おだいじに」
は体があまり強くないことは知っていた。
当日門前で言われたのは初めてだが、見習士官時代にはが体調を崩して会うのが中止になったことが何度かあった。
その日のうちに使いがきて、から果物と一緒に手紙が届いた。
ご足労をおかけしたのにどうのこうの、お詫びのしようもどうのこうのと書いてあった。
次の木曜日の午後はあいていたので仕切り直しをすることになり、木曜日に行ってみると、また老婆が門前で腰を折った。
「あい申し訳ございません」
前とおなじことを言い、深々と頭をさげたまま人力車を手のひらで示す。
「お帰りの車をあちらに」
「…ずいぶん悪いんですか」
「ええ、はい、然様で。いえっ、もう治りかけで。誠に、誠に、あい申し訳ございません」
さらに次の日曜日、いまにも雪が降り出しそうな雲の下で起きたのは、三度目の正直ではなく、二度あることは、だった。
ひとつちがったのは、老婆が腰を折ったまま屋敷の北を囲う塀沿いの道を示したこと。
「お帰りは、こちらから」
その道の先に人力車は見当たらないが、老婆は顔を上げず、手だけ北の道を示して石のように動かない。
鯉登は固まった老婆が指し示す道を歩き始めた。
一歩進むたび、胸が妙にざわついた。
包んで持って来たショウガとネギを渡しそびれたことを思い出す。
戻らずに進む。
漆喰の塀沿いを半ば以上進んだところで
「もし」
老人のしゃがれた声がした。
前にも後ろにも人の姿はない。
塀から少し距離をとって軍帽のつばをあげると、白い塀の上から頭にハチマキを巻いた老人が顔を出しているのが見えた。
梯子にのった庭師だろう。
鯉登が眉間にしわを寄せていると、庭師は道の左右を素早く確認し、小さく手招きした。
「…」
しゃがれたささやき声で
「いま梯子を降ろします」
と聞くよりはやく、鯉登は軍帽を取って左足を大きく後ろに引いていた。
ごく短い助走で跳躍し、塀の上に片腕をかける。庭師が仰天してバランスを崩しかけたのをさしおいて、あとは漆喰をひと蹴りしただけで塀の上に乗りあがった。
屋敷のほうを見ると、曇り空とはいえまだ昼間だというのにどの棟も雨戸が閉まっていて、静まり返っていた。
無言で睨みつければ、呆けていた庭師がはっと我に返った。
庭師は唇を真一文字に引き結び、屋敷の一角をまっすぐに指さした。
ひとつだけ、雨戸のあいている部屋がある。



部屋の主は庭に立った軍服の男に気づかなかった。
寝間着姿のまま、抱えた膝に深く顔をうずめ、結っていない長い髪が床に広がっている。
鯉登の膝が廊下にあがった。
整えられた庭に臨む雨戸を開け放っているのに、どうしてだろう、この部屋は、いや、真っ白い壁に囲われた内側すべて、空気が淀んでいる気がした。
軍靴を廊下に着けないように膝立ちで部屋に近づいていくと、床がゴトゴト鳴るのでさすがにも気づいて顔をあげた。
互いに息を呑む。
声を上げそうになったのをはとっさに口をおさえてこらえたが、真におさえて隠すべきはその腫れあがり、血のにじむ左頬だった。
鯉登は全身の毛が逆立つのを感じた。
「誰にやられたんです」
詰め寄ると、はベッドの脚に背中をぶつける。
「誰にっ」
は表情も体も凍りつかせていたが、ふいに腕だけがすうっと鯉登の首へ延びた。
「む?」
詰襟を両側から引っ掴まれ、膝立ちだったこともあり、いとも簡単に横薙ぎに床に張り倒される。息もおかずベッドの下に押し込まれた。
「姫様」
廊下の障子越しに若い女の声が聞こえ、鯉登は抵抗をピタリとやめた。ベッドの下で息を止める。
「はい」
さも、ずっとベッドに腰掛けていましたがなにか、という落ち着きはらった声で返事した。そののかかとは、鯉登をもっと奥に隠そうと顔をぎゅうぎゅう踏んでいる。
使用人は障子から半身だけ姿を見せて、部屋の中に盆を進めた。
「氷のうをお持ちしました。それから…旦那様はたったいま裏門から外出なさいましたから、もう…」
女使用人の声は震えていた。
わずかにベッドの脚から外に出ていた軍帽を、静かにベッドの下にひっこめる。
「わかりました。ありがとう。下がって結構です」
これを聞くや女は取り乱して膝をにじり寄せた。
「姫様、姫様、あたしどものことなら、旦那様のこぶしが飛んで来たって大丈夫ですっ。あたし、こう見えてとっても石頭で。奥様だって知れば離縁するときっとそうおっしゃいます。ですから、どうかもう旦那様からお隠れを、どうか…」
「ありがとう。けれど、誰にもいわないでおくれ、後生です。いうときはわたくしがちゃんというから」
すがるような声に笑って返した。
足音がじゅうぶん遠のいたのを確認してから、鯉登はベッドの下からほふく前進で這い出した。
その鯉登に向かっては指をつき、額を床にこすりつける。
「申し訳ありません。何度もお運びくださったのに、我が家の問題で音之進さまにまでご迷惑をおかけして、お詫びのしようもありません」
謝るをさておき、軍靴を脱いで寝かせて横に置いた。
「…」
鯉登の言葉を待って伏せ続けるを見おろす。
唐突にの右の袖をめくると、ほそい手首にまだ新しいあざと腕に古いあざをいくつか見つけた。
顔を伏せたまま、暴かれた右腕の傷を左の手が握りつぶすように隠した。
上半身を殴られるときはとっさに腕が防御しようとするから、自然とそこに怪我が集まる。
はじめて会った日、し合おうといったときにが袖をあげかけてやめた小さな仕草がいまになって甦り、鯉登は自分の記憶力に感心する。
今日は防御に失敗したのだろう。
この前の木曜と日曜も。
「申し訳ありません、音之進さま」
いまのこの姿は鯉登にはおもしろくなかった。
寝そべってカイセンするほうがおもしろい。
19連敗していたこの人が20回目で勝って立ち上がって笑ったときのほうが、おもしろい。
「とりあえず冷やしたらどうです」
「…はい」
氷のうを取って近づける。
家のほかの者たちに標的が移らぬようにことごとく縁談をつぶしてきた娘は、ようやく体をおこした。母親にすら隠しとおしてきたものを鯉登に見られ、うつくしい顔はいま青をとおりこして白い。だが、その眼の奥にはまだかたくなに消えない炎があった。
その炎に怖じるそぶりもなく「それから」と鯉登が続ける。
「結婚しましょう」
きょとんという言葉を説明するなら、のこの顔を模範として示すべきだと鯉登は思った。
「…なぜ?」
「友だちだから」






鯉登少尉と「世が世なら」<<  >>「世が世なら」in豊原