大都市豊原に不死身の杉元の名を轟かす
杉元のその宣言で始まってしまった曲芸修行は、いよいよ明日、本番を迎える。

豊原で鯉登が選んだ旅館の部屋はだだっ広かった。
「私が払ったんだからお前たちは別の部屋へ行け、さもなくば外で寝ろ」から杉元と取っ組み合いになったが、月島が鯉登をなだめて先遣隊は大部屋におさまった。
疲れて先に眠ってしまったチカパシを襖で仕切られた小さめの座敷に寝かせて、外もすっかり静かになった刻限、室内に杉元の絶叫が響き渡った。

「え、ちょ!おまっ!結婚してんのっ!!?」

「うるさい。貴様に関係ないだろうそんなこと」
もともとは、前夜の興奮で眠れないという谷垣のためにはじまった雑談だった。しかし、男子数名が布団に入り中心に向かって頭を寄せあうと、いかなる健全な話題からはじまってもやがてはある方向へ収束する。
「自分も…知りませんでした」
「隠すことですか」
「余計なことをいうな月島軍曹!」
「写真見せろよっ!写真っ」
杉元は畳んで置いてあった鯉登の軍服に跳びかかり、ポケットというポケットをあさった。
「やめろ貴様っ」
鯉登も布団から転がりだして服を引き戻そうとするが、一瞬早く杉元の指先が胸の内ポケットにあった写真をとらえた。
「あった!あった!」
「ばか、やめろっ、汚い手で触るなっ!」
鯉登をぶん殴って振りほどき、布団の中心に跳び込んできた杉元は、ドキドキしながら小さな写真を表に返した。

鶴見中尉だった。

崩れた杉元を一発殴ってから写真を奪い返し、鯉登は写真に息を吹きかけて杉元菌を除菌する。
「いつご結婚を?」
「谷垣一等卒、口を慎めっ」
「まだ一年経っていない」
「月島ァ!」
「月島軍曹は顔みたことあんの?やっぱ鶴見中尉に似てるわけ?」
半笑いでいった杉元が鯉登とまた取っ組み合いを始めたのを無視して、月島がいう。
「第一師団なら少佐を知っているだろう。あぁ、日露戦争のときはまだ大尉か」
大尉?あの男前の?」
杉元が動きをとめた瞬間、鯉登は上から殴りかかったが巴投げで壁まで吹っ飛ばされる。
世俗にうといマタギが尋ねた。
「有名なのか?」
「第一師団じゃ知らない奴はいないよ。あの人なら機関銃の十字砲火を浴びても弾の方が恥じらって避けるって有名だった」
「そうなのか…知らなかった」
「あんまり美人だからヘンな気を起こした奴らが夜中に何人も忍び込んだらしいけど、翌朝全員ボコボコにされて塹壕に放り込まれてたって話だぜ。なんでも、新陰流免許皆伝の腕前なんだと」
「その人の妹だ」
ふたたび杉元の絶叫が響き渡った。






月島はの令嬢は写真で見たきりであったが、長兄である第一師団の少佐とは話したことがあった。
戦争中でなく、つい最近、有坂中将が小樽の鶴見のもとを訪ねてきたときのことである。
耳の遠い有坂中将と鶴見が新型の武器のまわりでワーギャー話しているとき、家のひさしの下に背の高い軍服の男が立っていることに気がついた。
「失礼。閣下のお連れの方です、か…」
近づいてみると、男の顔は写真で見た鯉登の共謀者と瓜二つだったので驚いた。一目で血縁者、兄君であろうと察しがつく。
敬礼も忘れて口をあけて呆けている月島に少佐はにっこりと微笑みかける。
住む世界の違う美貌は月島の背筋をぞっとさせるほどだった。
さらに、鶴見と昔なにかあったかもしれないご婦人の子息と思うと、目が勝手に鶴見との顔の共通点を探してしまう。
「月島軍曹」
涼やかな声に弾かれて敬礼する。
名乗った覚えはなかったが、なぜか疑問を感じなかった。
「あなたは鯉登少尉の補佐役だとか」
「は、そうであります」
「私は少尉の兄になったわけだから、ここに来る前、旭川に寄ったついでに挨拶をしようと考えたのだけれど、あいにく出かけていて会えなかったのだ」
少尉の兄になった、という表現がひっかかった。あのふたり、頃合いを見て結婚の前に別れる算段のはず。兄君はほぼ結婚を確信しているのかもしれないが。
「なるほど。その様子だと補佐役の軍曹にも秘密にしている」
「え」
「四か月ほど前、鯉登少尉が我が妹にキュウコンしたのだよ」
はあ、と月島は生返事をかえし、言葉の宇宙のなかで音にあう漢字を懸命に探した。
「球根」
「根でなく」
「吸魂」
「吸わない」
「…」
「結婚を申し込み、我が妹は承諾していま東京芝の鯉登家の屋敷に住んでいる」
何も聞かされていなかった月島は、目と口に竹でも突っ込まれたような顔をした。
少佐は月島の心を見透かしたかのように、鯉登と妹君の急転直下の結婚劇と、そののちに家で起こった刃傷沙汰の顛末を話して聞かせた。

いうことを聞かない三兄弟と、徳川と旧摂家というものすごい後ろ盾を持つ妻、婿という立場、軍部では与えられた階級は妻の威光だと揶揄されて、そのうっ憤が末娘に向いた。息子たちがそれぞれ結婚して家を出ると日に日に暴力はエスカレートしていった。
もともと体が弱かったので、末娘はお抱えの医者を買収したうえで具合が悪いといって布団をかぶることで家族に傷を隠したという。
鯉登少尉にどう口説かれたのか兄君たちには頑として口を割らなかったそうだが、頬を腫らした娘から鯉登家に行くと聞いた途端、母君は頭の中でこれまでのすべての疑問の解が一列につながったのだろう。「善し」と言って放ち、三日後の夜には息子三人を従えて板の間の下座に座り、上座の夫に離縁を迫ったという。
当然むこうは激昂し、臆病から持ち歩いていた拳銃を妻に向けたが、あらかじめ息子らが銃弾を抜いておいたので乾いた音がしただけでおわった。ついには発狂したようになって床の間の家宝刀をひっつかんで向き直ったが、新陰流免許皆伝の三兄弟がすでに真剣の鞘をば払って上段、中段、八相に構えてすさまじい殺気を放っている。ここに満を持して背後の襖が左右にひらかれ徳川宗家に連なる公爵のおじいちゃんが登場し「ひかえおろう!」で、めでたく幕を閉じたという
これは有坂中将と少佐が帰ったあとのことになるが、「奥方は終始凛然として眉一つ動かさなかったそうです」と月島からまた聞きすると、鶴見はやけに満足そうに笑って窓の外を見つめた。
ひととおり話し終えると、少佐はほうとため息をついた。
「なぜ殴られてまであの家にいたと私たちが問い詰めると、三番目の弟には、自分がいなくなれば母や使用人が殴られると思ったといった。二番目の弟がさらに問い詰めると、母や私たちの家名に自分がきずをつけるわけにはいかないといった。さいごに私が優しくたずねると、楽しい思い出もあったんですと、ついにぽろぽろ涙をこぼしてすべてを告白した」
月島はお家騒動を聞かされているはずが、最後の方はなんだか自慢話を聞いているような心地がした。
「私は国を守る立場だが、月島軍曹。私には愛する家族を差し出してまで守る国も家名もありはしない。あれはちょっとバカだが、私はあれを守るためならばどんな手でも使う。わかるかな」
微笑のなかの眼光に月島の背筋がまた冷たくなった。
「は、はあ」
「という話を鯉登少尉に伝えたかったのだが」
少佐の長い指が軍刀の柄をゆっくりと撫ぜる。何度も。何度も。
「会えず、私がたいへんに残念がっていたと伝えてくれたまえ」
少佐!ちょっと来なさい!鶴見くんのお願いで!ちょっといいものつくりに行きたいから!お買い物に行く!」
向こうから有坂中将がわめく声がきこえ、少佐の視線がはずれると月島はつめていた息を大きく吐き出した。
「わかりました、中将殿。では月島軍曹、くれぐれも伝言よろしく」
にっこり笑った少佐に敬礼し、すれ違った背を見送る。
ほっとしたのも束の間、少佐が振り返った。
「ひとつ大切なことを言い忘れた」
「は、なんでしょう」
「私の弟たちが鯉登少尉を訪ねてきても決して扉を開けてはいけない。あれどもは兄馬鹿が過ぎるから」






山田一座、まもなく開演の時である。
「やばい、急がないと」
杉元が出演者の控室へと天幕の間を縫って走っていたときだった。
後ろで何かが落ちる音がした。
振り返ってみれば、やけに薄着をした和人の女が地面に倒れ込んでいる。
駆け戻って手を貸す。
「おねえさん大丈夫?」
「ありがとうございます」
杉元の差し出した手に透きとおるような白い手が重なった。ちょっと見たことのないような美人だったので、長く手に触れてはいけないような気がして、パッと手をはなして後ろにまわす。
女は茫然とあたりを見回し、不安げな顔が杉元の前に戻って来る。
いや、待てよ。見たことのないような美人と思ったが、この顔、どこかで。
「あの、どっかで会ったことあります?」
不安そうに首を横に振った。震えている。当然だ、そんな寝間着のような着物では。改めて見てみれば髪も結っていない。一方で傷ひとつない手と日焼けしていない肌の色、まとう雰囲気から「いいとこのお嬢さん」を感じ、杉元は「あっ」と思い当たる。
「もしかして追いはぎにあった?」
「…」
声もだせない状態だ。さては、曲馬団を見に来た金持ちを狙っていた連中が、この娘が一人になったところを見はからって身ぐるみはいだのだろう。なんとも不憫である。
「近くに家族はいるんだろ?」
そのとき、どこかの天幕から杉元を探す谷垣の声が聞こえた。
「やべ、行かないと」
杉元は着ていた外套と軍服を脱いで女の肩にかけた。
「とりあえずこれ着てて。あとで返してくれればいいから」
開演ギリギリで控室に駆け込むと、フミエ先生のしゃがれた喝が飛んだ。
「すぎもとぉ!あんた大トリだからって本番舐めてんのかい!こんだけ遅れたんだ、入場券は全部売って来たんだろうね!?」
「…売った」
「なんだい今の間は?だったらさっさと売上金を寄越しな」
ほとんど売れなかった入場券とわずかばかりの売上金は、さっきの人に貸した外套のポケットの中だ。
「…落とした」
「スゥギィモォトォオオオ!」



公演は大盛況のうちに幕を下ろし、暗殺者の遺体の処理が済んだ頃にはもう豊原の空は暮れようとしていた。
杉元たちが天幕の中で後片付けを手伝っていると、なにやら天幕の入り口あたりが騒がしい。野次馬をして戻って来たチカパシを谷垣が呼び止める。
「なにかあったのか」
「なんかね、そこできれいな和人の女の人が団員の人に会いたいって言ってるみたいで、おっぱいは中くらいだった」
「チカパシ、おっぱいの話はいい」
「鯉登少尉の追っかけかもしれませんね」
月島が何の気なしにいうと、鯉登はまんざらでもない様子で前髪をなでつけ、杉元に視線を送る。
「言っとくが、俺のとこのほうが盛り上がったからな」
「私は芸で魅せたが、おまえがやったのはただの犯罪だろう」
「んだとこのっ…ん、和人のきれいな女の人?」
「そうだよ」
杉元は開演前の娘のことを思い出した。
「あー」
と大仰に天をあおぎ、はふはふと笑いだす。
「その子俺の追っかけだわ。残念だったな鯉登少尉。ちょっと行ってくる」
軽快な足取りで天幕の入り口に向かう杉元に、後ろからチカパシが声をかける。
「行かない方がいいよ杉元ニシパ。大人たちがね、ねーちゃんがこのあと酒に付き合ってくれんなら中にいれてやってもいーけどよー、みたいにからんでてめんどくさそうだった」
そのチカパシの言葉の直後、天幕の入口の方から女の声が響いた。
「無礼者!手を放しなさい」
こりゃ、余計行かなきゃまずい。
杉元がまじめに土を蹴った瞬間、獣のような速さで何かが杉元を追い抜いた。
「鯉登少尉」
鯉登は入り口に群がっていた男たちを瞬く間に蹴散らすと、最後に立っていた大男、女の腕を無理矢理掴んでいたそれに向かって軍刀を振りかざした。
「手をはなせ」
「え」と動転した大男が手を掴んだまま固まっていると、鯉登の眉間がひきつる。
容赦なく振り下ろされた刀はすんでのところで男の腕を逸れ、地面に斜めに突き立った。
白い手が大男の腕をかばうように掴んだからだった。
呆気にとられていた大男のあごに鯉登の柄頭による一撃がはいり、どっと地面にたおれた。
杉元に続き、月島、谷垣、チカパシも追いついてくる。
「なぜあなたがこんなところに」
「音之進さま」
は息をもらすようにつぶやいて、鯉登の外套の端を強く握った。





を連れ、急ぎ旅館に戻る道中、杉元は後ろの二人が気になって仕方がない。
「わからない?」
が力なくうなずくと、鯉登は眉間のしわを深くした。
「今朝まで東京の芝のお屋敷にいたのですが、気づくと地面に倒れていて」
「ひとりでですか」
「はい」
「なにか思い当たることはないんですか。ヘンなものを食べたとか、眠り薬をかがされてここまで運ばれたとか」
すこし考え込んで「あ」と顔があがる。
「一日でなくても、半日でもいいから音之進さまに会いたいとずっと神様にお願いをしていました」
前を歩く杉元と谷垣と月島が、三者三様に甘酸っぱさをかみしめる。振り返ってガン見しているチカパシは谷垣が前を向かせた。
さすがの鯉登もいじましいその言葉には面食らったようである。
「なっ、な…、そ、そうなんですか」
明らかに動揺し、照れている。
「全然手続きが進まなくて。音之進さまに書いてもらわないといけない書類がたくさんあるのです」
鯉登がひきつけを起こしたような声をあげたのを聞き、杉元は肩を震わせて笑いをこらえた。
「せっかくなら書類と印鑑を持ってこられたらよかったのですが。このような格好のままこちらに来たところを、そちらの杉元さまが助けてくださったのです」
杉元は照れ隠しに軍帽のつばを下げる。
鯉登があからさまにいやな顔をした。
「じゃあそれ、あの男のなんですか」
「はい」
「脱いだ方がいいですよ。かぶれるから」
「かぶれねえよ」
鯉登はの肩から杉元の服を引っぺがし、杉元の背中に投げつけた。
が拾いに行こうとしたのを鯉登が手をかざして妨げたが、その手にチョップを落としてが拾った。パッパッと砂をはらう。
「ありがとうございました。実は、ポケットに入っていた入場券を一枚使ってしまったので、今度お詫びとお礼をさせてください。お住まいはどちらですか」
「いいって、そんな気ぃつかわなくて」
困ったように笑う、いい娘である。こんないい娘があのボンボン少尉と夫婦であるとは天地がひっくり返ったって信じられない。まだいろいろ書類を出していないということは実際、内縁状態なのだろうが。
「おねえさんきれいだね!俺、チカパシ!名前の意味はチ」
「チカパシ、リュウのことも紹介してやらないと」
「ああ、こっちはリュウだよ」
「はじめましてチカパシちゃん、リュウ。わたくしはといいます」
にこにこしているが肩が震えていた。宿まではもう少しかかる。夜の樺太で寝間着姿では風邪どころか低体温症にだってなりかねない。自分が貸すとまたごちゃごちゃ言いそうだから、ここはに免じて杉元は鯉登に譲歩することにした。
「鯉登少尉、この格好じゃあ風邪をひく」
「なぜ私が服を貸さねばならん。寒いではないか」



今朝まで東京にいた人がいま樺太にいるなんて話はいまだに誰も信じられないけれど、信じる信じないに関わらずここにいるものは受け入れるしかない。
山田一座の興行のせいで、宿は満室だった。
「しかたない」
宿の受付から振り向いた鯉登は、月島、杉元、谷垣、そしてチカパシを見渡した。
「貴様らは外だ」
「外は死にます」
月島が冷静に返す。
月島も年頃のご婦人と同じ部屋で寝泊まりすることは避けるべきと考えていたが、この状況では仕方ない。すったもんだの末、大部屋を襖でしきった小さい座敷側をの寝床、広い側を男どもの寝床とすることで決着した。
旅館の女将から綿入りのはんてんを貸してもらい、食べ物を口に入れるとの血色もだんだんとよくなってきた。
「したらさ、谷垣だけ写真館で騙されて」
「そうなのですか」
「これ以上言わないでくれ杉元」
「そのときの谷垣ニシパの写真あるよ。見る?」
「チカパシもよせっ、こら、待ちなさい」
は鯉登とすらまともな会話のできる人間だから、月島の想像のとおり食後の、少し酒の入った会話にもすんなり混ざり、よく笑い、場を明るくした。
チカパシが糸が切れるように眠ってしばらくすると、ここまで会話に入ることもなく長らく黙っていた鯉登がきゅうに立ち上がった。
「どうしました、鯉登少尉」
様」
鯉登が目も見ずにいう。
「風呂へ案内します」
少佐の話では、鯉登は求婚から三日後には東京を発ってそれきりだそうだから、もう10か月近く会っていないことになる。積もる話も、積もった若い欲求もあるだろう。
「風呂かぁ、俺も行くかな」
「しばらく二人きりにしてやろう」
杉元を制した月島の言葉に、谷垣もうなずいた。



風呂へ行くといったのに、案の定ふたりは途中の廊下で立ち止まって何ごとか話しこんでいた。
廊下の角から谷垣、杉元、月島の頭が団子のように並ぶ。
「あの、二人きりにしてやるんじゃなかったのですか、月島軍曹」
「合流はするなという意味だ」
「しっ。聞こえないだろ」
三人は聴力のギアを一段上げた。

「見ていたんですか」
鯉登がたじろぐ。
「はい、ぜんぶ!本当に、本当に、ほんとうにすごかったです。あんなに高い場所でぴたりと重心を保てるなんて。お召し物も素敵で、特にあの黒い足袋がとてもかっこよくて。あんなにすごい芸は生まれて初めて見ました。ずっと練習したのですか」
「あれくらい、一日でできましたよ」
腕組みして胸をはると、は素直に感動し、感嘆のため息をこぼした。
「すごい…」
「別に、あれくらい」
羨望のまなざしに鯉登は唇のはしがゆるむのを隠しきれない。
「あの、縄を渡るのはどうやったのですか。縄を飛んで、梯子のうえに乗ったのは、それから馬の上に、あれはどのように?」
「そんなに一度に教えられませんよ」
「ではひとつだけ」
「いいでしょう」
得意になってうなずいてみせると、がひときわ美しく微笑んだ。
「あの、唇に手をあてて、はなしたのは、なんです」
声から温度が消え去った。
鯉登は大きく身震いする。
「あ、れは…」
は微笑したままたたみかける。
「観客のご婦人がたが、みなさま首を絞められたような声をあげて」
目はおよぎ、鯉登の頭の全周から突如としてへんな汗が噴き出す。
投げ接吻をした手が、それらしい意味を探して顔の前後を往復し続ける。
「あれは…その…こう…」
「なんです」
「……風圧が」
「 風 圧 が 」
「ヒッ!」
鯉登は、と小枝を構え合ってはじめて対峙した時とは異なるたぐいの鬼迫を真正面から受けた。波動に肌がびりびりと後ろに引っ張られるようだった。
「間違いました!あれはっ、こう…」
必死で意味を探すうち、偶然にも本番と同じように指先が唇にあたり、チュッが投げられた。
が ぽ となる。
不覚をごまかしては咳を払う。
「た、確かに、多少風圧があるようです…」
「え、そうなの?」
月島は少佐があの子を「ちょっとバカ」といっていたのをしみじみと思い出した。






大部屋に戻ると、床には布団が述べられていた。杉元、月島、谷垣、チカパシがそれぞれすでに場所を取っている。
わあ、と湯上りのの口が嬉しそうにひらいた。
「音之進さま、わたくしこういうの初めてです。どこに布団を敷けばいいでしょうか。早い者勝ちですか」
もう寝ているチカパシに気をつかって、囁くように尋ねた
「あなたはそっちです」
鯉登は後ろ衿をつまんで、襖で仕切られた小さい座敷側にを持っていく。
襖の向こうにさらに衝立がひとつ立っていて、その向こうに布団があった。
二組。
鯉登は広い座敷側を睨む。
「なんだこれは」
やさしい顔をした三人がそっと襖を閉じようとしたのを、指を挟んで鯉登が阻む。
「おいこら、やめろっ。やめさせろ月島ァ!」
「大きな声を出されてはチカパシちゃんが起きてしまいます」
「っぐぬぅぅィデデデデ!」
鬼軍曹とマタギと不死身は、指が挟まっていようが容赦なく襖を閉じきった。

外の月明りで真っ暗闇にはならなかったが、一緒に閉じ込められた相手の姿が見えるのは、それはそれでやりづらい。
こちらの部屋には火が入っておらず寒かったので、適正な距離をあけ、背を向け合う格好で鯉登とは別々の布団におさまった。
襖の隙間から細く漏れていた隣の灯りも消えてしばらくした頃、
「まだ起きていますか」
と小声が聞こえてきた。
すぐに返事をするのはなんとなくいやで、だいぶ間をあけてからが諦めたころに
「起きてる」
が布団の中で体の向きをかえた音がした。
「神様にお願いしたとき、一日でなくてもいい、半日だけでもと祈ってしまったから、もうすぐわたくしは戻るのかもしれません」
「そうしてください。私は作戦中ですから」
「危ない作戦ですか」
「言えません」
「…あまり、怪我をなさらないで」
鯉登は鼻で笑う。
「女でもあるまいし、軍人に言うことですか」
「言います」
「…」
「わたくしの怪我を見て音之進さまは怒ったではありませんか」
「それは、」
「友だちだから」
「っ…あぁもう、はやく寝てください」
かすかに笑った声がして、背を向けた衣擦れの音がした。
それを最後に音が消えた。
できるだけ音をたてないようにの方に首を動かす。
まだ布団はふくらんでいる。
「…なるべく、気を付けます」
「うん」とが短くこたえた。
「また音之進さまとカイセンで遊びたい」
「うん」
「剣の稽古も…」
「うん」
「………



「…寝たんですか」
鯉登は布団から身を乗り出す。
消えてしまった?
四つん這いで近くに寄って布団を踏まないように慎重にまたぎ、顔があるかを確かめる。
顔はあった。
気の抜けた顔ですこやかに寝息をたてている。
確認を終えたところで、鯉登は自分がに覆いかぶさるように手と膝をついていることに気が付いた。
気が付いてしまうと急激に喉が渇いた。
おあつらえにの身体が横向きからわずかに仰向け方向に傾く。
鯉登の肘が曲がり始めた。
腕の筋肉がぶるぶる震える。
この人は友達だ
接吻
友だちだ
せっぷん
ともだち
せっぷん
せっぷん
せっぷん
「…」
のひたいに前髪が触れる距離までいって、鯉登の肘はすっくと伸びた。
―――友だちだ。大切な。
「わっ」と谷垣の声がして鯉登の肩がびくりと跳ねて硬直した。
「やばいやばいやばい!」
杉元の声での瞼がひくりと震え、声にならない猿叫をあげる。
「あ、倒れる」
月島の言葉と同時に、盗聴用のコップを強く押しつけすぎた襖が倒れ、襖に押されて衝立が倒れ、衝立の上端が鯉登の後頭部に激突した。






「少尉、鯉登少尉殿、そろそろ起きてください」
「ん…」
鯉登はうつぶせの格好で目を覚ました。窓から見える空はよく晴れている。
頭が痛い気がした。頭痛でなく、後頭部が猛烈に痛い。
触ってみると大きなタンコブができている。
なかなかひらかない目をなんとか開けると、布団にべったりと血がついていた。
顔をこするとすっかり乾いた鼻血が手にこびりつく。
「なにこれ」
襖で仕切られた広い座敷のほうを振り返る。
月島と谷垣が忙しく寝具を畳んで出発の準備をしていた。チカパシは広い部屋の中を走り回っている。
「いつまで寝ぼけてんだよ。ったく、飯食っちまうぞ」
ちゃぶ台から杉元が飯をかっこみながらいう。
「…様は」
様?誰だそれ」
「誰って、いただろう昨日」
「知ってるか谷垣?」
「いや、自分は」
谷垣も首をかしげる。
月島がため息をついた。
「頭でも打ったんじゃありませんか」
鯉登は難しい表情のまま固まる。
二個並んでいたはずの布団もない。
「…おい、そこの子供」
「なにー?」
「昨日だれかいたか?」
「いないよ」
「では様の胸の大きさはどれくらいだった」
「中くらい!」
谷垣が慌ててチカパシの口をふさぎ、杉元と月島は部屋を飛び出して逃走した。
豊原の青空に怒りの猿叫が響き渡ったのとほぼ同時刻、
東京・芝の鯉登屋敷では、姫君を起こしに来た使用人が鼻血を出して布団に横たわっているその人を見つけるのだが、先遣隊は知る由もない。
衝立が激突した衝撃で唇と唇がぶつかったのかどうかもまた、誰にも知る由のないことだった。













鯉登がまとめる荷物の中に、月島は見慣れない黒い足袋を見つけた。
よく見れば、山田一座から貸与された曲芸用の足袋である。
「鯉登少尉殿、それ持ってきたんですか」
「これくらい別にいいだろう。私はこんなものでは間に合わないほどの働きをしたと思うが?」
「そうですけど、盗むなんて」
ボンボンなのに。
「…このまえ、様がこれを履いた私の姿が特にかっこよかったと言っていたのだ」
足袋を見つめる褐色の頬がほんのりと色づいていることに気づき、月島メーターは「許す」に振り切れた。
「だから今度、鶴見中尉殿の前で履いてみようと」
ひったくって窓の外に投げ捨てた。



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