依頼0日目

「そう言うな、弟よ」

いつもどおり依頼を断るシャーロック・ホームズに、英国政府そのものとも言われる男マイクロフト・ホームズはこう言って説得した。

「これはおまえにとっていい話でもある。彼女の知見はなかなかに興味深い。アメリカ政府は月に2回、第二第四木曜日の16時に彼女の屋敷を訪れて調査協力を求めたほどだ。私も時折頼むことがある。彼女の仕事は低価格高品質でね。それになにも一年間彼女を連れまわせと言っているわけではない、たった五日間、六日目の朝にはさよならだ」
「なんでその政府御用達の女をぼくが連れまわさなくてはならない。不可解だ」
「興味が出てきたか?」

シャーロックの口から不可解という言葉を聞いてマイクロフトはいっそう口角をあげて唇を閉じたまま笑う。

「なんでそうなるんだ、帰れよマイクロフト。ぼくは忙しいんだ、そうだろうジョン。今日はこれから依頼人が来る」
「二週間ぶりにね」

昨日壁に開けられた銃創をパテで埋めながら僕はうなずいた。正直僕らの生活は困窮していて、このパテも新しく買うお金がなくて大家のハドソンさんが持っていたものを借りている体たらくだった。
シャーロックはいつもいらないというがマイクロフトの依頼なら報酬は期待できる。
けれどすぐやろうと賛同できないのは、女性を五日間連れまわすだけで超高額の報酬がもらえるなんてスパムメールでしか聞いたことがないからだ。女性とひとくちにいっても色々だし、とんでもない難あり物件だから楽な依頼なのに高額と考えた方がいい。引き受けたら死ぬほど後悔するに違いない。

「依頼人の若者は大事件をかかえて間もなくここにやってくる。これから忙しくなるんだ確実に。あいにくだなマイクロフト、さっさと帰ってくれ」
「そうか…残念だ。彼女は若くて美人で心優しい女性だが、まあおまえはその点には関心がないだろうがな」
「ああ、マイクロフトちょっと待って。僕がメールで読んだ限りだとこれから来るのはかかとに塗っていただけのワセリンが2週間でストック含めて16個全部カラになった謎についての相談だ。ちなみに三十代男性からのやつ」

美人と聞いて態度を翻した僕をソファから振り返ってシャーロックが睨みつけてきたが、僕は肩をすくめてマイクロフトを見ただけだった。マイクロフトは不敵に笑んでいる。

「騙されるなジョン。美しさなんてものは人間の主観でしかない。兄の目にはドーナツの輪がこの世界で最も美しく映っている」
「一理ある。じゃあマイクロフト、確認したいんだけど時々一緒にいる秘書の女の子のこと美人だと思う?」
「ああ、思うね」
「僕が行くよシャーロック」
「なぜだジョン!裏切ったな」
「だってほら、女性には僕の方が慣れてるだろ」
「はっ、君が行ってひとりでなにができるっていうんだ」
「シャーロックが退屈だって言って銃をぶっ放したあとの穴ぼこをパテで埋める以外のことかな」
「その壁に穴が開いたのは僕のせいではない。ぼくが退屈なときにそんなところにあるからいけない。設計ミスだ」
「はあはあそうですか、じゃあ君は設計ミスのこの部屋でワセリン16個からっぽ事件の相談に親身にのってあげるといいよ。きっと興味深い事件だシャーロック、君だけにとっては!僕はひとりでそのきれいな女性と五日間おでかけしに行ってくる。君にはカワイイ女性のエスコートは簡単すぎるか難しすぎて無理らしいからなっ」
「難しすぎるなんて誰が言った。言ったか?マイクロフト?ビリーか?ハドソンさん?」
「女の子のうまい扱いができないから行かないんだろっ」
「興味がない!」
「できないことを興味がないでどうにかやりすごそうとするなよ見苦しい」

以下略の口喧嘩が始まってまもなく「やるか」「やらいでか!」とどちらかが叫び気づけばシャーロックが美女の住む屋敷へ行くことになり、ワセリン16個からっぽ事件を僕がそれぞれ一人で担当することになっていた。
マイクロフトは一人掛けのソファにきれいに足を組み、ひとりにっこりと笑っていた。






依頼1日目

昨日、あのあと依頼人は来るには来たが、シャーロックは寝室にこもったまま出てこなかった。
僕も意固地になっていたものだから、「依頼人の男性が言っていることが不明瞭で話が長くて体臭もすごいから早く解決するために出てきてくれ」なんて口が裂けても言えなかった。

依頼人に約束をしまったから仕方ない。ワセリン16個カラッポ事件の現場の状況を見に行くために、僕は昼過ぎに家を出た。 一方のシャーロックはすごく嫌そうに、マイクロフトからの依頼の女性が住むド田舎へ出発した。
僕は19時頃帰宅したが、まだシャーロックは戻っていなかった。
深夜、彼の行った地方で大雨洪水警報が出ていたことが気がかりで何度か電話をかけたが、電話はつながらずメールにも返事はなかった。
結局、その晩はいつまで待ってもシャーロックが帰ってくることはなかった。



<<  >>