6日目

ベーカー街221Bのまえに、これから王女を乗せるにしては地味な黒塗りの車がとまっている。女王の紋章付きの旗はもちろんついていなかった。
マイクロフトが迎えに来ると、は世話になったベーカー街221の住人それぞれに丁寧に挨拶と礼を済ませた。

マイクロフトに手を引かれ階段を降りて行き、下までつくと不意にその足をとめ、
「マイクロフト」
と呼びかけた。

「なんでしょう」
「キスをして」

マイクロフトは笑みを崩さずに尋ねかけた。

「聞き違ったと思います、もう一度お願いできますか」
「キスをしたら治る気がする」

ねだるふうもなく、命じるようにあの目に見つめられて、嘆かわしく眉を顰めてマイクロフトは声をひとつ低くした。
たった五日間とて世俗に交わらせるべきではなかった。

「…ご自分の仰った言葉の意味を分かっておいでですか」
「おまえがキスをしてくれたならこの目は見えるようになる気がすると言いました」

マイクロフトは唖然とした。
見送りに出てきていた三人は顔を見合わせ、ハドソン夫人は1階のキッチンへ、ジョンに引っ張られてシャーロックも2階の部屋のなかに消えて戸が閉まった。
静まりかえった階段の下でマイクロフトはまだ口を半開きにして固まっていたが、2階の戸が閉まる音に眉を弾かれると、胸を張った。

「外で、車を待たせております」

扉の前に立ってが行く手をさえぎった。

「おまえはこれまでわたくしの幸いのために勤めを果たしてきたと知っています。この目に見えるように美しい景色の写真を針の先ほども小さく縮小してみたり、花のかんばせの混じりようが人間の嗅覚に心地いい組み合わせを私的に長大なレポートにまとめたり、現代医療の及ばぬ領域を政府の末端に籍を置くマイクロフト、おまえ自ら研究したこともあるでしょう。そんなそぶりはひとかけらも見せませんでしたが、わたくしの目はシャーロックの言葉を借りるなら、少しズルいのです」
「…」
「おまえの最後のつとめです」
「…なりません。それ以上仰せに」
「キスをしたら見えるようになる気がする」

麦の黄金色を純水でうすめた大きな目が揺るぎない意志を持ってマイクロフトを見上げていた。

マイクロフトはためらいながらの頬に手のひらをそわせた。
見えもしないくせに睫を伏せたと額をあわせ、鼻先がかすめる。
感じるの体は強張っているのに肌は火の玉のように熱かった。
マイクロフトはの唇のはしに触れるだけの口づけをして、はなした。
額をあわせたまま、マイクロフトはため息まじりに尋ねた。

「見えるようになりましたか」
「見えるようになりませんでした」

ほら!マイクロフトは床を蹴りたかった。何万何億とこの小娘をできるだけ豊かに生きながらえさせる方法をシミュレートし試しつくした論理的努力と試行のその末に、その解法をキスなどに一瞬でも委ねた愚かさに怒りさえ覚えていた。

「けれど幸せです」

間近で、唇をむすんで上品に微笑み、麦の黄金色が和やかに細められている。

「...Your Highness」

強く唇を重ね合わせた。
は扉に背をぶつけたがその音はもはやマイクロフトの耳に届かなかった。














その後のについて僕らが知る情報はほとんどない。
どこの病院に行ったのか、いつ手術を受けたのか、本当に手術をうけたのか、マイクロフトが長きにわたりつとめた任をはずれたのか、がいまどこでどうしているのかも、すべて謎だった。

シャーロックは「二人はマイクロフトの家で生活をし始めた」と推理した。

「どうしてそう思うの?」
「マイクロフトからの連絡が減った」
「なるほど。だが君にしちゃあ決め手が弱くないか」
「どれだけ調べてもなにひとつ情報が出てこないことこそがまだ兄が関与している証拠だ」
「調べたのか」
「全然」
「やっぱり君さ」
「なんだ」
「いや、なんでもない。もしそうならすばらしいことだ。いや待てよ。とすると、陛下がその、OKって言ったわけだよな、ふたりについて」
「…」
「ところでずっと気になっていたんだけどマイクロフトってちゃんと女性としてのこと好きなのかな。過保護が過ぎてちょっと君とマイクロフトの関係にも見えたっていうか」
「僕は階段の下でマイクロフトとキスなんかしない」
「悪い。僕も想像してちょっと気持ちわるかった」
「万が一このあとが妊娠したら結果的に”そうだった”とわかるが、そうなったらロイヤル・ベビーだ。はわきまえているし英国王室の不祥事をおおむね握りつぶしてきたあの男がそんな面倒事を自ら犯すはずがない。ありえないさ」
「チューはしちゃったのに?」
「…」


目下、真相は調査中だ。



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