依頼5日目

日も傾き始めた頃、ベーカー街221Bに客があった。

「やあ、ジョン」

雨も降ってないのに傘を持ち、ぴったり身の丈にあった上質のスーツに磨かれた革靴を履いて、見慣れた口だけの笑顔を浮かべて入ってきた。
マイクロフトは立ったまま僕だけが一人掛けに座る部屋を見渡して
「もう行ったようだな」
と言った。

僕は愛想笑いを作ることはできなかった。

「シャーロックは今さっき」
「ああ、外で会った。…彼女の姿が見えなかったが」
「シャーロックが現地集合って言ったらしくて、別々に。どうせあんたの部下があちこちから助け舟をだしてくれているんでしょうから心配はしていません」
「無論だ」
「綺麗でしたよ。ハドソンさんが髪を結って麻薬王だった元旦那さんからもらった髪飾りをつけてやってね。誰が見たってあの人はお姫様だって思うくらい」
「そういう呼び方は慎んでもらおう」

マイクロフトは否を許さぬ笑みを作った。
僕は一応紅茶と菓子を用意しながら無性にこの男に腹が立っていた。
マイクロフトの座ったソファの前にティーカップをガチャンと置き、ドーナツの皿をガツンと置いて僕はマイクロフトを睨みすえた。

「何しに来たんです」
「依頼が履行されているかの確認だ。彼女は楽しんでいたか」
「もちろん。自殺現場に、僕の料理に、フルオープンUNOにお菓子作りも楽しんだ。かわいいドレスも、選んで」
「そうか」
「特にシャーロックとはいい雰囲気で、帰り道にはキスするかもしれない」
笑みを絶やさぬマイクロフトはドーナツを食いながら肩をすくめて簡単に言って放つ。
「弟はそんな勇気は持たない。この依頼を頼む先の絶対条件は勢い余って彼女を妊娠させないことだった」
僕の怒りを上滑りさせるこの男に言葉遊びで挑むべきではないことは知っていた。
だから僕はまっすぐな正義の鉄槌を振り下ろす。
「…はあなたのことを大切に想っている」
「ああ、彼女は誰に対してもそうだ。その目で調べろと死にかけのわけのわからん多足生物を持ってきたアメリカ人相手にも好意的に接した」
「違う!この、バカ兄弟!」
「無礼だな」
「あんたらほどじゃない」
「どうしたジョン。今日はずいぶん落ち着きがないが」
「…そうだな」
僕は苛立ちを隠さずソファに座り、マイクロフトがドーナツを食う姿を睨む。
「…それ、おいしい?」
「そこそこかな」
「そのドーナツはが作ったものだ。ハドソンさんにわざわざ頼んでいた。あんたのためだ」

マイクロフトは欠けたドーナツを持ったまま一時停止した。
すぐに動き出し、ドーナツを皿の上に戻してペーパーナプキンで指についた砂糖を拭くと、両の肘掛けに優雅に腕をおいた。

「仕事上の付き合いだ」

マイクロフトはそれきりドーナツに手をつけようとしなかった。
紅茶を一口飲みソーサーに置くと部屋はしばらく静まり返った。

「障害を持つ彼女の存在を消すことは私の初仕事だった」

時計がシャーロックとの現地集合の時間を指した。

「もう20年近く前のことになる。うまくいったよ、とてもね。はじめは目が見えないのだと診断されていたが、やがて何もない場所で何かに怯えたりたくさんの虫がいると言って肌をかきむしったり突然泣き出したりするようになると別の分野の医師が付くようになった。まさか目が良すぎて人間に見えていない微生物が見えていたなんて誰も想像しなかったよ」



片方の空は晴れて鮮やかな茜色に染まっている。もう一方を見ると灰色の雲が垂れこめている妙な天気だった。
さきほど夕立もあって、ロイヤル・アルバート・ホールに臨む石階段は濡れていたがそれでもコンサートに向かう観客でいっぱいだった。
その隅っこの人の流れを妨げない場所にイブニングドレスにケープをかけたがぽつんと立っていた。
一応ドレスコードはあるものの、ドレスまで身にまとっているのはまわりを見てもくらいだった。目を引く容姿もあいまって通り過ぎる人々がちらちらと振り返っていたががその奇異の視線に気付くことはない。
待っているうちにあたりがざわつき始めた。電子のシャッター音があちこちから聞こえ、人の流れが止まってしまった理由もにはわからなかった。

「虹が出ているからだ」
「シャーロック」
「向こうの曇り空に大きな虹が出ているからみんなはそれを見ている。ロイヤルアルバートの丸屋根を越えてむこうまでかかっている」
「そうだったのですか。みなさんカッコイイとおっしゃっていますね。きっと素晴らしいものなのでしょう」
「ただの光の屈折だ。…可視光線以外も見える君の目に虹の始まりは見えるのか」

は明るく笑った。

「詩を聞くような素敵な問いです」

シャーロックは顔をしかめた。

「興味があっただけだ。変な受け取り方をするなよ」
「見えます」
「…」
「とてもきれい」

は確かに虹のはじまりの方角に稀有な色のまなざしを向けていた。
の光彩と瞳孔がフォーカスを変えて本当にそれを見たのか、見えていないのに楽しんでいるふうを装ったのかシャーロックにはわからないが手のひらを横にしての目の前を覆った。

「また倒れる」
「…倒れそうになったら頼みます、シャーロック」

は自分の体の仕組みがシャーロックにすっかりバレていることをいま知ったが動揺を見せることなく微笑んだ。シャーロックはぷいと前を向きホールのエントランスへ向かって歩き出す。

「まわりの足が止まっているうちに行くとしよう」

5メートル先に進んでからがついて来ていないのに気付き引き返してきた。
横に立って肘でくの字を作って無言で立っているとはシャーロックがいそうな位置を手でさぐり、腕の形を確かめ童女のように笑って自らの手をその腕に預けた。

「楽しみですね」
「席がウケる。この席はロイヤルシートだ」
「珍しいこと、マイクロフトのミスね」
「慣れないことをするからだ」

改めて後姿ばかりはお似合いの二人がロイヤル・アルバート・ホールのエントランスへ歩き出した。

「はじめてあの目を優秀な顕微鏡として使うことを提案した時もそうだった」

外に大虹が出ているとも知らず、曇り空が暗くする部屋の中で英国政府そのものともいわれる男は珍しく古い話をしていた。

「成長するにつれて自分が遠ざけられたことを強く自覚していったよ。14、5歳の時には笑うことも泣くことも言葉を発することもなくなったあの方が、私の提案に突然あの目を見張って何度もうなずいたのを覚えている。久しぶりに聞いた声で、役に立ちたいと言った」

ロイヤル・アルバート・ホールに開演の拍手が鳴り響いた頃、マイクロフトは悪の親玉のようにソファに足を組み、感情の抑揚なく言葉を続ける。

「彼女をむやみに屋敷から出すことは許されなかったし、彼女の目は写真やモニタの表現できる画素数に勝っていたから実物を持ってくる必要があってね。グロテスクなものもいくらも見せたが彼女はそれを全力で分析していたよ。周囲と、やがて彼女自身も器官の異常な発達を礼賛するようになった。客が来ない間はあちこちの鉱石を集めありとあらゆる葉脈を研究し恒星の放つ光線を人類がまだ見つけていないことになっているものも含めて体系的に分類し名前を付けていた、熱心に。より高度な分析と有益な考察を我々に示すためだ」

その時ホールは静まりかえり、指揮者がはじめてタクトを振り上げていた。
オープニングファンファーレの粒子が燦然との視覚にだけ輝き、もちろん音楽として聴覚を目覚めさせ、シャーロックはその横顔をじっと見ていた。

「しかしながらと言うべきか、しかるべくして言うべきか、成長期を過ぎても視覚の発達は止まらなかった。その感覚が人間には到底理解できない領域まで達すると依頼もこなせなくなっていった。うえの許可を得て私が摘出手術の話を持ちかけたのは本当に数日前のことだ。そうしなければ命を落とすと判明したからだが、私はその目を開発中の人工神経につないで人類未踏の研究に活用する計画があがっていると説明した。客が来なくなってからも常に平静を保っていた彼女が私のスーツを掴んですぐにでも手術をうけたいと、もう見えていないから大丈夫だと言っていたよ。今日にでも、明日にでもと言うあの方に私は5日間無理やりに猶予を作った」

は暗がりで歯を見せて笑ってシャーロックのほうを振り向いたから、つられて笑うような顔をしてしまってシャーロックはすぐに口角を元に戻した。
マイクロフトが唇を結んだまま、笑う形を作ったのがかろうじてわかった。

「発達しすぎた器官は人間を殺すのだよ、ジョン」

明かりもつけ忘れ話を聞くうちすっかり外は夜になり、ジョンには目の前の男がどんな目をしてこれを話しているのかもうはっきりとは見えなくなっていた。

「私は明日病院まで送るのを最後にこの任からはずれる。哀れな娘だ、ありもしない人工神経の開発などにあの目を捧げる、生き甲斐もな」
「マイクロフト、あなたの言うとおりだ、発達しすぎた器官は人間を殺す。僕はそういう方面ではあなたやシャーロックより詳しいから言いますが、の目をとってそれきり知らぬものにしたら、あなたは死ぬほど後悔する」

マイクロフトはこたえず、席をたった。

「もう仕事に戻らなくては。シャーロックに伝えてくれ、この夜が長く続くようにと」












「素晴らしいコンサートでした」
「そう」

ロイヤル・アルバート・ホールからの帰り道でシャーロックはのハイヒールを手に持っていた。
はなんとか自分の足で歩くことはできたが、ヒールを履いたまま姿勢を維持することはできなくなっていた。落ちそうになる瞼を必死にこらえている。

「このようにはしたない姿を往来の人々に見られたなら、あの者はさぞや怒るでしょう」
「心配ない。ロンドンの道には詳しいんだ」
「すごいのねシャーロックは」
「そっちへ行くな」

街路樹へ突っ込みそうになったのを引き戻す。
その拍子にの体が胸の中におさまってまるで恋人同士が抱擁するような恰好が、閉店した店のショーウィンドウに映し出された。シャーロックはの背からパッと手をはなす。反対にはシャーロックのコートの背を絞るように掴んでこう言った。

「叩いて」
「なに?」
「わたくしを叩いて。眠りたくない」
今夜は眠りたくないの、そういう慣用表現を愛読する女性週刊誌の読み物欄で見たことがあったし、女の体は火照って少し震えてもいたがニュアンスが違う気がした。
「びっくりさせて笑わせて」
「…なんで泣いている」
「いいえ」
「手術が怖いのか」
「いいえ」
「目を取るときに麻酔はするから痛みは感じない。術後はおそらく鈍痛がするが鋭い痛みはないはずだ。もし痛かったらたっぷりのモルヒネを使うといい」
「怖くないわ」
「けど涙が出ている。…泣きおさめというやつか?もし、明日涙腺も切るなら」
「うん」とは言った。
「マイクロフトには秘密よ。これはとても楽しい旅行で、わたくしの幸いそのものだとあの者は信じているのだから」
「君がそう知っているのはマイクロフトの塩基配列を読んだからか」
「いいえ」
「…兄は人間に慣れていないから、言ってやらないとわからないんだ」
から声は返らず、シャーロックははなしていた手をしずかにの体にあてなおした。
背を上から下へ、上から下へ撫ぜた。
しばらくそのままでいたいようないいさわり心地だった。
きっと高級な生地だから。

「マイクロフトなんか好きになるからだ」












ついに動けなくなったを背負ってシャーロックは帰ってきた。
は歩けもしない状態なのに、二人でずっとどうでもいいおしゃべりをしながら簡単に寝支度を整えて、シャーロックの寝室へ入って行った。
そのあとも開け放たれたままの寝室の奥から、ずっとシャーロックの抑揚のない声が聞こえていた。
眠りたくないをつなぎとめるためらしかった。
どんな話をしているのか見に行くと、ほとんどはマイクロフトの小さいころの話だった。
麦の黄金色を涙で薄めたみたいな目はうっすらと開いていて、寝室のオレンジ色の灯りをうつして輝いていた。
シャーロックが話すマイクロフトの話はだいたい悪口のようなものだったけれど、ベッドに横たわったまま、傍らの椅子に腰かけたシャーロックが詩を読むような声で語り聞かせる物語に、は時折うなずき、たまにえくぼを作って、寝物語は夜をできるだけ長く続かせていた。



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