「おやあ。今日はちゃんのお見送りはないんですかい」

赤林が階段の上を覗きこんで笑う。
四木は革靴の紐を手早く結びながら「そうですね」とだけ返した。
ときおり、送迎の車は赤林を積んでくる。理由は赤林と四木の自宅が比較的近いこと。目的は経費削減だ。
そして当然のように赤林は四木邸の玄関まであがりこむ。
今日のような緊急招集であっても、赤林は飄々として変わらない。
幼稚園が夏休みに入ったので夏季保育に出していたが今日からは夏季保育もお盆休みだ。娘はまだ二階で寝ているだろう。

「お待たせしました。急ぎましょう」

四木が立ち上がったとき、
タン
と背で小さな音を聞いた。
階段の同じ板の上に両足乗ってから一つ下へそろりと片足を下ろす、聞きなれた軽い足音だ。

「やあ、噂をすればお姫様のおでましだ。オハヨー」

そんな悠長なことをしている場合ではない。特に四木については四木の管轄である“オリハライザヤ”がらみの緊急召集だと聞いているからイの一番に駆けつけなければならないのだ。

「赤林さん、しめますので」

ドアを閉める間際に四木が一言かけるだけで必要充分だ。
というのに赤林は無視して、おろか、靴のままで廊下に上がりこんだ。これには四木もぎょっとした。

「これどうしたの」

赤林は階段を下りてきたをとっ捕まえると、真剣な声を発した。
四木からは図体のでかい赤林に隠れての姿は確認できなかった。
声だけがする。

「・・・パジャマ」
「パジャマじゃなくて」

ゴボ、と変な音の咳を聞くや赤林はこれを持ち上げて四木に突き出した。
発疹が出ていた。
顔全体を赤い小さな斑点が覆っている。
は明らかにはれぼったい目で四木を見つけると、宙ぶらりで

「パパいってらっしゃい」

と発音した。明瞭ではなかった。
赤林から受け取らないまま四木の手がのパジャマの前をたくしあげた。
四木の眉間のしわが深くなる。
発疹は全身だ。

「すごい汗かいてる。旦那、これすぐ病院へ」と赤林が早口に言う。

「病院はだめだ」

即答であった。
赤林が眉をひそめるよりも四木が言い直したほうが早かった。

「いえ、すみません。そうですね、病院へ」
「へいき」

四木が抱くのを変わるとがあやしい呂律で言った。

はおうちでお絵かきをしています」
「あなたは黙っていなさい」
「へいき」
「黙って」

四木邸の玄関口に不穏の色を聞いて、門の外で待機していた迎えの部下と運転手が二人顔をだした。
四木は彼らに短い指示をした。








四木と赤林の車は緊急招集のかかった本部へ遅れることなく到着した。
着くなり四木は専務室に呼び出され、赤林は別室のソファーに腰掛けて会議開始の報せを待った。そこに青崎も到着し、なにかと敵対する青崎だからこそ赤林に小さな違和感を覚えた。

「なにふてくされてんだ」
「青崎さん。なんです、俺がかわいく頬袋でもふくらましているように見えましたか」
「アホか」
「アホは四木」

聞いた青崎は面白がって豪快に笑った。

「珍しいじゃねえか。おめえが四木の悪口たあ。四木の旦那ァってな猫なで声はもうやめたのか」
「ビョーキの子供を部下にポイとあずけてハイおしまい、ですよ?人を見る目はあるほうだと思ってたんですがね、とんだうぬぼれでしたよ。しかもちゃんを病院へつったら最初、病院はだめだってさあ。虐待でもしてるのかって勘繰っちまう」
「へえ」

赤林がつらつら愚痴を口にするのは珍しい。よほど腹にすえかねたか。
四木
病院
、ちゃん
古株の青崎がどこかで聞いたキーワードだ。

「・・・それ、びびってたんじゃねえか」

意外な青崎の言葉に赤林の眼鏡がずれた。

「ビビって?」
「びびって」うなずく。
「四木の旦那が?」

なにに?
と尋ねる前に会議開始の報せが来て、二人は頭を切り替えた。






***



「お口アーンして、アーン・・・あー口の中にもぶつぶつできて、苦しかったねえ」
「へいきです」

新羅の診察中、パジャマ姿の幼児は首を横に振った。
目はとろんと垂れて、発疹は顔といわず腕といわず腹といわず全身に広がっている。

「喉痛い?」
「へい、ぎ、です」と息をつまらせながら言った。

「ぶつぶつかゆいよね?」
「いいえ」と腕をガリガリかいていた手をピタリ止めて答えた。

「鼻水でるし」
「・・・へいきです」と、もう生涯鼻はすすらないとばかり、思い切り鼻をすすってから答えた。息をするために口がぽかんと開く。

「頭あつくてぼーっとしない?」
「へいきです」と診察開始からおわりまで椅子の上で頭をふらふらさせながら言った。

「はしかですね」

明瞭な診断に「はあ」と生返事をしたのは粟楠会の強面パンチパーマである。

「お得意様にこんなこと言うのはなんですけれど、こういった症状は普通の小児科の方がいいんじゃないですか。親御さんが来られないという理由だけでうちを利用されては料金的にも子供の情操教育的にもメリットはないと思いますよ。わかりますよねパンチパーマさん」

言いながらも新羅はテキパキと動く。カルテにペンを走らせ、判子を押す。

「ええ、その・・・病院にと言われたんですが看てもらう前のアンケートみたいのがサッパリで、岸谷先生んトコに」

たしかに他人の子どもの問診票など書けるわけもないが、電話で親に聞くでもなんでも手はあるだろう。
新羅はピピピと電子音を鳴らした体温計をとりあげた。

「38.5、まだまだあがりそうですね。安静にして水分はとらせてください。ああパンチパーマさん、幼稚園とか行っているようなら治った頃に病院に行ってちゃんとしたお医者さんから許可もらってくださいって親御さんに伝えてください。お大事に」

「いや、先生そう言われても困りやす。あと自分はパンチパーマって名前じゃあ」

「うちは託児所ではないんですよパンチさん!」

以前粟楠茜を保護した事例はあるが、あれはやむをえない事情があった。
今回は単なる親の怠慢だ。いくらお得意様とはいっても味を占められてはたまらない。
強気な態度に出る新羅にパンチパーマはたじたじになって冷や汗している。この子の親は彼の上司なのだろう。板ばさみだ。

「あなたからこの子の親御さんに連絡できないようでしたら私から四木さんあたりに告げ口しちゃいますよ。まったく、一回お説教でもしてもらうべきです。親御さんのお名前は」

「四木さんで」

「ぶへええ!?」






***

ケータイは電源が切られており、粟楠会本部にかけても四木さんは重要な会議中だから出られないという。
いてもどうしようもなかったのでパンチパーマさんには帰ってもらい、連絡がとれるまでここで子供を預かることにしたのだと、新羅は私に説明した。
PDAに文字を打ち込む。

『あれが四木さんの娘さん?』

「そう、ちゃん。びっくりだよねえ」

廊下の向こう、一人がけソファーの上からまあるい後頭部が少しだけ見えている。これを確認してから私は自室に体をひっこめた。
ピンクのパジャマ姿のこの体に頭がないのを見たら驚かれてしまうだろうから。
四木さんが茜ちゃんに優しかったのも小さいお子さんがいるなら頷けるような、子供がいること自体信じられないような・・・。

『悪い病気なのか』
「はしかだよ」
『はしか?よくわからないが軽い病気か?』

「ポピュラーな病気さ。ぼくも子供のころかかった。けど熱はこれからまたあがってくるはずだから安静にしないと。ああそうそれでね、しばらくセルティの部屋借りれないかなと思って。となりの部屋はあいつがいるし、ぼくの寝室はホルマリン漬けとかあるし」

『もちろん。かまわない。というか是非そうしよう。子供の教育によくない。』

「教育といえば、あらゆる症状を否定するんだよねあの子。名前とかは素直に答えるのに」

へえ、そうなんだ。反抗期というやつだろうか。
まあそれはおいておいて

『私は一旦お風呂に隠れているからそのうちに』

ここで私は手を止めてしまった。

「ん?どうしたのセルティ」

「おじゃましました」

ぺこりと頭をさげて廊下を横切った子供を新羅が慌てて追いかけた。
ちゃんは玄関で足がもつれて靴箱に激突しそうになったが、すんでのところで新羅が間に合った。ほっとした。
新羅は子供のわきを後ろからすくった格好で持ってきた。とても抱っこしているとはいえない抱え方だった。
パジャマが上にひっぱられて覗いたおなかにも赤い小さなぽつぽつが浮いている。顔の発疹だけでも痛々しいのに。

「大人しくしててね。汗びっちょりだ」
『すぐに布団を用意する』
「ありがとうセルティ。あと君のパジャマの替えを着せてあげてもらえるかな。ボクのだと首周りが寒いだろうから」
『わかった』
「ぼくは体拭くタオル持って来るね」

子供を置いて新羅が駆け去った。
そこでハッとした。
私、いま、ヘルメットかぶってない!
部屋の前に取り残されたちゃんがじっとこっちを見ている。
あ、ああ、どうしよう。
怖がらせてしまったらどうしようっ!

「・・・」

なんでなにも言わないの!?
無表情なのが逆に怖い。四木さんの子供だからかなあ。あ、いや、具合悪くてそれどころじゃないのかもしれない。
とりあえず屈んでみた。

『あの、大丈夫?』

PDAを向けてみるとその文字へうつろな瞳が移ってきて

「・・・」

コテンと首をかしげられてしまった。これは、どういう意味だろう。同じ気持ちになろうと鏡のように私も首をかしげてみる。
・・・あ、もしかしてこのくらいの子ってまだ文字読めないのかな。

『だいじょうぶ?』

ひらがなで再トライすると

「だいじょうぶです」

と返ってきた。よかった。通じた!
しかし言い終わるとちゃんはゴボと重い咳をしたのでここからはすばやく全てひらがなで打ち込む。

『いまふとんをしくから、ままがくるまでやすんでいようね』
「ママは来ないです」
『そんなことないよ。きてくれるよ』
「・・・ほんとうですか」
『もちろん(^^)』

無表情だったちゃんの顔がほころんだのを見て私まで嬉しくなった。
私の手に指先をひっかけて、部屋の中へ手を引くとそのとおりについてきた。
座卓を横に押しやって布団をしきながら、ちゃんのママは仕事なのだと私は勝手に思いこんでいた。のちに(^^)なんてつけなければよかったとものすごく落ち込むのだけれど、この時点では気づけるはずもなかった。





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