「パパ」

幼声に、リビングのソファーから首だけ振り向けた。
小さな生き物が廊下からこちらをのぞいている。
廊下は暗く、リビングはシンプルで高級で硬質だ。
のぞく生き物は身の丈も声も手足も小さい。身体半身だけ見えていて、身体半身は壁に隠している。

四木は、日付が変わってから帰宅し、土曜日のAM3時になってようやく金曜日の朝刊を読む時間を作れたのだった。

「起きていたんですか」

20時には寝つくとハウスキーパーから聞いている。
生活時間帯のズレから会話はそれほど多くない。

「ママとどちらがすきですか」

半身を隠したまま尋ねた。
人形のように大きな瞳はじっとこちらを見つめている。四木は表情を作らない。

「どうしたんです急に。どちらも好きですよ」
「どちらのほうがよりすき?」

より好き、なんていつのまにそんな難しい言葉を使えるようになっていたのか。

「どちらのほうが、よりすき?」

面食らって四木が黙っていると、はもう一度繰り返した。
感情のない声で四木は言う。

「・・・ママが一番、が二番」
「わあ」

顔がほころんだ。

「てっきりがショックをうけるかと思って冗談ですと言う用意をしていたんですが」
ね、ママのことがすきなパパがすき」

うれしそうに笑い、言い、かけ去る。
階段をのぼる小さな足音がして部屋の扉が閉まる音が続いた。

四木はゆっくりと新聞に向き直る。
静かなリビング
高級感漂う、
硬質な、

ケホ

ちいさく咳をした。














***


人に笑われるような恋をした。

今や、粟楠会の四木といえばその道で名を知らぬものはない、一目置かれる人物だ。
しかし当時の彼はまだ現在のようなマネジメントポジションではなく、実働部隊の実力者という立場にあった。



車寄せから洋館の大扉へ続く階段のうえ、中くらいの鞄を持った女が立っている。
という。
時代錯誤のワンピースドレス、つばのひろすぎる帽子は映画マイ・フェア・レディの衣装を思わせた。しかし色は黒一色。
服喪の期間を確実に履行するならわしが、人里離れたこのド田舎には残っているらしかった。

裸婦像のまわりに噴水があり、噴水のまわりに車寄せが円をかく。円を縁取るのは花の開花・閉花時間を利用した巨大な花時計であった。
車寄せには黒塗りの車が一台止まっている。
横に立つ四木はいつもよりフォーマルなスーツを着ていた。階段のうえの彼女には負けるが。
四木は黙礼して後部座席のドアを開いた。
しばらく待っても降りてくる気配がない。
顔をあげた四木と視線が交わった。
するとはおもむろに帽子を取り、それから蓮歩といってふさわしい優雅な歩みで階段を下りてきた。



故人には絵画の取引で贔屓にしていただいた。
屋敷の調度品の整理とあなたの身の回りに不自由がないようにと頼まれている。


という内容を車内で丁寧に説明した。
表向き、四木は絵画代理販売会社の社員である。
彼女の緊張はうつくしい横顔がこわばっていることから読み取れた。
膝の上に置いたマイ・フェア・レディの帽子に手を添えたまま、静かにこれを聞いている。
時折、
きれいな色合いの瞳が四木のほうをうかがうように見た。
四木の人相、ではなく服装を見るような視線であった。いつもよりはヤクザヤクザしていないと自負がある。

「ですから法律上の手続きは、・・・どうされましたか」

三度目このまなざしに気づいた時に、話を折って四木から尋ねた。
「いいえ」とゆっくり首を横に振る。それでも四木が見ていると、は困ったように小さく笑みを返した。

「帽子が、その・・・大きすぎたと思いまして」
「素敵な帽子ですよ」
「ありがとうございます四木さん。でも、どうぞ正直におっしゃってください。都会の方はみなさんおしゃれだと思ってこれをかぶったんです。きっと間違いましたわ」

四木のシンプルなスーツスタイルを見て認識の誤りに気づいたのだろう。その帽子には燕尾服でも着てこないとつり合わない。
ふむ、と四木は思案顔での膝から頭のてっぺんまでを見た。

「・・・明るい色のほうがお似合いになりそうだ」

四木のやさしい気遣いにの顔がほころんだ。





<<    >>