は屋敷から出てはじめて見た人間、四木を覚えこみ、車内で緊張をとくと以後彼に追従し、愛着を示した。

東京に着いた翌々日、は四木と並びフランス料理店のエントランスに佇んでいた。
六本木で、および腰のに明るい色の小綺麗な服を着せ、そのまま車に乗せてやってきた。
強引であったことは四木自身も認めている。
口説くための行動だった。
口説くだけの価値のある女だった。

「四木さん、お気持ちは嬉しいのですが、わたくし、やはり」
「予約していた四木です」
「お待ちしておりました」
「四木さん」

ドレスコードのあるレストランだ。
椅子をひいてくれるタイプのレストランだ。
純白のクロスがかかる丸テーブルに椅子がふたつ。大きさの違うナイフとフォークがずらり並んできらめき、その間に一品ずつ料理が運ばれてくるタイプのレストランだった。
四木は給仕に食前酒を伝える。

さんは」

ワインの銘柄以外を言いたげに見えたがは口をつぐんでしまった。

「彼女にも同じものを」と伝え、給仕がテーブルから離れるとは店の雰囲気に配慮した声で辞退の旨を訴えた。
車内からこればかりだ。

「おいとましますわ。せっかくお誘いくださったのにごめんなさい」
「もったいないですよ料理も、その服も。どうぞ遠慮しないで」
「でも」
「とてもよく似合っています」
「・・・」
「こういった場所はお嫌いでしたか。あなたと話すことができればカフェや普通のレストランでもよかったんですがね」
「わたくしも四木さんとお話ができることはうれしく思っております。でも、その、さわりがありま、・・・」

給仕が運んできたワインによっての言葉はくじかれた。
ワインがそそがれ、給仕がさがってもはくじかれたきり。
両手は膝の上、肩は強張り、ワインの湖面を見つめる瞳は神妙であった。
四木は繊細なグラスを持ち上げる。
はうつむくばかりだ。

「どうか機嫌をなおしてください」
「・・・四木さんに恥をかかせてしまいますもの」

消え入るような声が不思議だった。
ヤクザもののイロと見られてが恥をかくことはあっても、四木がに恥をかかされるということはない。
ワインのグラスを持ち上げてくれない今この状況が“四木さんに恥をかかせて”いるという意味だろうか。いや、違うだろう。それでは矛盾している。
オードブルが運ばれてきてもの手はお膝。
しち面倒な女との乾杯はあきらめ、かわりにナイフとフォークをとって四木は思い当たった。
作法がわからないことを恥じているのか
意外だ。
こういう席にはなれているものと思っていた。だが、
なんだ
そうか
かわいいものだ

「好きに食べていいんですよ」

ようやく、うつむいていた顔があがった。
まだ不安の色を帯びている。視線だけがこっそり動いて周囲のテーブルの客をうかがう。

「みなさん会話と食事に夢中ですから」
「・・・ありがとう、四木さん」

無理やり笑ったというふうであった。
お膝の上でおとなしくしていた手が持ち上がり、ワイングラスのほっそりした脚をきゅうとつかんだ。両手で。
手はカタカタ震え、固唾をのむのさえ見てとれる。
緊張しすぎだ。
四木もグラスに持ちかえる。
目でうなずいて乾杯。
グラスに唇をあて



ガ、シャン



レストランじゅうの目がこちらへ向いた。

床で砕けている。
テーブルクロスとの膝の上のナプキンが盛大に濡れている。
グラスを取り落としたのだ。
はパッと椅子を立ちあがった。
床に膝をつき、素手で破片を拾いあつめようとしたのを四木の手が制した。
四木はある違和感をおぼえ、用意していた紳士的な言葉をかけ忘れた。
は青ざめ目を見張っている。まるで粗相を見つかった子供だった。

「お客様、お怪我はありませんか」

給仕の声に気をとられたすきに四木の手からほそい指がすりぬけた。
ごめんなさい、お騒がせして申し訳ありません、申し訳ありません
静かに謝り続けるを、布巾をもった給仕がスマートに化粧室へうながした。
別の給仕が空いている席へ四木を案内し、また別の給仕が破片を片付け、あっという間にレストランの空気は修復された。

別の席に移り5分ものあいだ、四木は自分の右手に感じた違和感を反芻していた。
彼女の手は異常な強張り方をしていた。
席を立った。

清潔なタオルをもって化粧室に入ろうとした女性スタッフに声をかけ、中にいるであろうを呼んでもらった。
泣いているという予想ははずれた。
対応してくれていた女性スタッフに丁寧にお詫びとお礼を言いながら、しかしは平静であった。装っているというには笑顔も声もいつものやわらかい調子であった。
おかしなところといえば正面の膝から下だけスカートの色が違うところ。あとは足首に近い場所に絆創膏。

「ケガを?」

四木は、女性スタッフがその場を離れてから尋ねた。

「破片で」

は申し訳なさそうに笑った。






***



彼女は元高級娼婦だ。
しかし見てのとおり手錬れらしからぬ素人くささのにじみ出る女だ。
立ち居振る舞いだけみれば姿勢、歩き方、車の乗降、話し方に至るまでご令嬢のそれである。
四木が報告を受けた限りの内容では、彼女は義務教育を終える前からとある老富豪に奉仕していた。勃つこともない体相手だ。介護に近かっただろう。まさに奉仕だ。
彼女のみずみずしく若く美しい十数年は人里離れた洋館で老人の介護に費やされたのである。
最後の仕事として死に水をとると彼女は自由の身となった。
莫大な退職金を得て。
遺言であった。
ハイエナどもは一斉にたかった。
粟楠会は誰よりもはやいハイエナであった。
手を握る前から高級フランス料理のフルコースに誘うほど性急でどう猛な。



結論を言えば、のちに四木は彼女の懐柔に成功する。
この功績は粟楠会での四木の地位を確固たるものにした。
金は満額手に入り、裁判を起こすかもしれない可憐な唇は永遠に塞がれることになる。
『冷酷無情』『極悪非道』
彼は金と地位と畏怖を手に入れるのだった。






***



テーブルには戻らず、部下の運転する車で送った。
レストラン側は気を遣ってランチで出している小菓子を包んでくれた。後部座席の四木との間にちょこんと置いてある。

「四木さん、あの」
「はい」
「・・・申し訳ありませんでした」
「いえ」
「せっかくの服も食事も台無しにしてしまって、なんとお詫びしていいか」
「その手はご病気で」
「はい」

早すぎる答えが不審を呼んだ。
今は両手とも強張っているように見えない。どうしてと深く尋ねる間はなく

「先にはっきりと申し上げればよかったのに、ごめんなさい。四木さんと出かけることができるのが嬉しくて」

「無理に誘ったのは私です。お気を悪くされていなければまたお誘いしても?」

は「はい」の口の形をつくりかけ、閉じた。
肩をおとし、しみのついたスカートへ目をやって困ったように笑う。
外での食事は避けたいとあらわしている。

「では、映画はお好きですか」
「とても」

顔がほころんだ。

「それはよかった」

営業スマイルを返す。
どんなに笑ってみても柔和であるという評価をもらえたことはないが、は心底ほっとした様子を見せた。



車はのマンションの前で停止した。
粟楠会が斡旋したマンションである。
夜は著しく人通りが少なく、色々な取引に便利に使っていたが今は一階から六階までのものだ。(使っているのは三階のワンルームだけだそうだ)

「スケジュールを確認してまたご連絡します。おやすみなさい」
「おやすみなさい、四木さん」

四木のこけた頬に可憐な唇が寄せられた。
キスではなく親愛をこめて頬をあわせるだけ。
この行為には強面相手に恐れも恥らいも見せない。
彼女がいたお屋敷での習慣らしかった。






車が角を曲がるまでルームミラーにの見送る姿が映っていた。
四木の指先に忘れ物がコツンとぶつかる。

「もどれ」

運転する部下は一方通行だと返した。

「とめろ」

黒塗りの高級車は見知らぬ駐車場へはいったところで止まった。
四木だけが出てきて道を戻る。菓子のはいった小さな紙袋を手に。
人のない闇夜でなければ職質必至の不気味さだった。
中型トラックが地響きさせながらやってきてのマンションを通り過ぎた。四木の横も通り過ぎる。
そのライトが一瞬だけ照らし出したの姿は、まだマンションの外にあった。
こちらに背を向けてマンションの入り口でうずくまっているように見えた。
腹でも痛いのか
踏み出して、とまる。

泣いている。






「いらっしゃらなかったんですか」

小さな紙袋を持ったまま戻ってきた四木に運転手が声をかけた。
ミラーごしにギロリと睨まれ、車はそれ以上無駄口を叩くことなく発進した。

「女の手がいかれてる原因を調べて報告しろ」

諾以外の一切を許さない声音であった。





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