後日、四木は報告を受けた。
『犬のように喰え』
勃たない老人の奇怪な嗜好が、食事中彼女の指をてん足のように固定した。
食事は一日に一度。
食事以外ではつけていない。
指は美しいカタチのままだ。
食事ではしばる。
きつく
十数年
映像資料付きの報告書を見終えても四木は眉さえ動かさなかった。
(反吐がでる光景など見慣れているからに違いない)
そう思い、調査にあたった黒スーツの面々は肝の据わりきった上司に畏敬の念を新たにした。
実際、このとき四木はテトを可憐と思ってはいたが憐れみを覚えてはいなかった。
「金のウツシが済むまではこの資料を外へ漏らすな」
四木はそれだけ部下に指示をした。
映像は四木が実行中の“穏便な計画”が失敗した場合には脅しのネタに使う。その後は裏AV行きだ。
***
深夜3時の娘の言葉で出会いからのいろいろを思い出し、深夜4時に四木はベッドに入った。
明かりを消し、天井を見る。
いま思い返せば一体どこから彼女をそういうふうに見ていたのか。
中くらいの鞄を持って洋館の大扉から出てきたのを見たときだろうか。
右も左もわからない都会でマンションを与えてやったときだろうか。
四木さん四木さんと刷り込みされたヒヨコのように慕ってきたときだろうか。
四木さんとでかけられるのが嬉しくて食事を断れなかった、と聞いたときだろうか。
人前では完全な平静を装って、車が走り去った途端に泣いたのを見たときだろうか。
マニアックなAVのような映像とともに報告をうけたときだろうか。
“可憐と思ってはいたが憐れみを覚えてはいなかった”
字面で見ればなるほど微妙に矛盾している。このへんからすでにだめになりはじめていたのだ。そして決定的に間違えたのは
・・・ああ
あのときか
***
食事は鬼門。
懐柔計画においてこれほどの不都合はほかになかった。
映画を観終わったらそれきり行く場所がなくなる。
二時間の映画を飲まず食わずで見たあと、飲まず食わずでお買い物にでも付き合うか?イラついて思わず「口座はどこだ」と率直に言ってしまいそうだ。映画がオペラや絵画展に置き換わったところで同じ。穏便に、などとへんに気取ったのがあだとなった。こんな面倒な女ならハナから事務所にブチこんでクスリをぶちこんでやれば
「四木さん」
「あぁ?」
間違えた。
「失礼。あくびが」
映画館を出たところでテトは心配そうに四木を見上げた。
おデートの最中、映画を観終わった直後に「あくびが」というごまかし方はよくなかった。
昼間に動くタイプの交友にはなれていない。
日差しが目にしみる。
喉が渇いた。いや、これも仕事だ。仕事。
「・・・お仕事が忙しいのですか」
「ご心配には及びません。テトさんこそ慣れない生活でお困りのことはありませんか」
テトの両手のひらが胸の前で素早く揺れた。いいえ、と。
手
冷ややかに見下ろす。
両手で握り締めたワイングラスを取り落とすような人間が、どうやってひとり、あのマンションの三階で食事をとっているのだろうか。
笑ってみせる。
「よろしければお手伝いをしましょう。生活に使うものがおおよそ揃う店がすぐそこですから」
通りをはさんで向かいに見えるのは東急ハンズ。
***
自分で来るのは学生以来だった。
いつもの格好で部下をつれて乗り込んだら営業妨害だが、今日は格好だけならごく一般的だ。顔のキツさは仕方ない。
テトはキッチン用品が並ぶ東急ハンズ三階がお気に召した様子である。
食事は鬼門という認識を四木に植えつけておきながら本人は気楽なものだ。
膝を折って陳列棚とにらめっこするテトの横で、四木は手近の商品を手に取ってはもてあそび、興味なく棚に戻すのを繰り返していた。
四木がブタ型おとしぶたを持ったり、ウシを模したミトンを置いたりしている姿を粟楠会の面々が見たら腹を抱えて笑うだろう。そして埋められるだろう。
早々に飽きて女の観察に切り替えた。
女といえば均一な肌の色、目を殴られたような色つきまぶた、刺さりそうなまつげばかり相手にしてきた四木である。
見おろす女の化粧はうすい。しっかり化粧をしたならさぞ画面栄えするあでやかな女になるだろうに、この顔で十代前半から二十半ばまでヒヒジジイのオモチャだったとは。
イラときた。
飢えと乾きで血糖値が下がったためだろう。
テトは陳列棚との長い長いにらめっこの末に、底が深めの紙皿と雑巾を選び出した。
四木は今になって急に反吐が出た。
「よしなさい」
テトは止められた理由がわからない。目をぱちぱちした。
「・・・もうあなたには必要ないものです」
掴んだほそい手首は骨の形がはっきりわかった。
***
莫大な資産を狙い、その後も順調に逢瀬を重ねた。
四木はそのたび言葉と行動の選択を少しずつ間違えた。低血糖のせいだ。
その結果、東急ハンズから三週間後の同じ曜日にテトは四木の自宅玄関に佇んでいた。
テトをダイニングの椅子に座らせ、四木は滅多に使わないキッチンに立ち向かう。
「四木さんはお料理ができるのですか」
「たいしたモノはできません。簡単なものなら昔は作っていましたが期待はしないでください」
昔というのは十年も前だ。下っ端だったころは自炊も必要に迫られた。
四木はプライベートゾーンに他人を招き入れるような人間ではない。そんなもの見た目で分かるだろう。
加えて言えば他人に手料理を振る舞うのは人生ではじめてだった。
今まで作り上げてきた四木という男の人格を揺るがすこんな大サービスは、低血糖による判断力の低下と彼女の背後に莫大な金があるからに他ならない。当時の彼の主張である。
「素敵なテーブルですね」
途切れていた会話をテトは家具を褒めることでうめた。短く礼を返す。
「・・・よごしてしまうかもしれません」
「そうしてもいいように上がっていただいたんです」
「やさしいひと」
ばかげている。
フライパンを火にかけた横に、いつのまにかテトが並んでいた。
穏やかな笑みはあたたまりゆくフライパンに注がれている。
「四木さんはどこまでご存知なのですか」
「どこまで、とは」
シラを切った。
テトは笑う。
「どこかに差し上げるべきだと思っております。わたくしには多すぎますもの」
微笑とも苦笑とも据えがたい。
四木は平気なしかめっ面でフライパンにバターをほうる。冷静であった。
「悪いことに使わないと約束してくださるなら四木さんに差し上げます」
「・・・悪いことに使うに決まっているでしょう」
四木は、大きく言葉を間違えた。
「では、もうしばらく考えます」
驚きも怒りも見せずに椅子に戻ろうとしたテトの腕をつかまえる。
「こちらへ傾かせるには」
四木は目を見て尋ねた。
大きな瞳だった。
見たことがないほどうつくしい色合いの瞳だった。
突然に腕を引かれた驚きがおさまると、テトは四木の指を一本一本つまんで放させた。
はにかんでわらう
「・・・食卓をよごしても怒らないで下さったら、すこし」
「それはお約束しましょう」
「ほんとうにきたなく食べるの」
「かまいません」
「・・・」
「そのために連れてきた」
「ありがとう」
バターのこげつく音がした。
***
オムライスが二皿、硬質のテーブルに並んだ。
久しぶりに作ったにしては上出来であった。
「なにを書きますか」
言いながら、四木は買ったばかりのケチャップをバリッと開封する。
内部のシールをとっていると中の米にケチャップを混ぜるのではなかったかと気づいた。黙っておいた。中身はただのチャーハンだが、上からかけて混ぜても同じような味になってくれるに違いない。
「かく?」
テトはきょとんとして首をかしげた。
「ケチャップで文字やマークを。こちらの世界のローカルルールですよ」
「なんでも書いていいのですか」
「品の悪い言葉でなければ」
「四木さん」
「なんです」
「四木さん」
「なんですか」
「四木さん」
「・・・」
四木は、手ずからひとのオムライスに自分の苗字を「さん」付けで書くという奇妙な作業をすることになった。
画竜点睛を終えたオムライスを見つめたテト曰く、
「おいしそう」
「いやらしいことを言わないでください」
ひとに笑われるような恋をしていた。
***
「どうして四木さんの唇は薄いのですか」
おだやかな声がセミダブルのベッドに横たわる四木に向かって尋ねた。
赤ずきんちゃんのワンシーンに似ている。童話と異なる点といえばテトも同じベッドにいることだろうか。まっぱで。
「さあ」と短く答え、四木はサイドデスクの上から手探りでタバコをさがした。
ブラインドの隙間からさしこむ朝の日差しが眩しくて眉間にシワを寄せる。
「切られたのですか」
テトは自分の唇の前で指を上下させた。かんなでそぎ落とす、を示す動作と思われた。
タバコが見つからなかったことと、日差しと、物騒な仕草が四木の眉間のしわを深くした。
「いいえ」
言うと、いとしげな色合いの瞳がほそくなってころころわらった。
四木は反撃にうってでる。
「あなたの胸がささやかな理由は?」
「・・・知りません」
温度を下げ、テトはうつぶせでぽつり言う。
「切られて?」
「ひどい」
「私の唇があついほうが好みでしたか」
「いいえ、かわいいと思います」
「・・・」
沈黙を置いて、よっこらせとテトの背に寝返りをうった。
「四木さん重いです」
「ガマンしてください」
「ガマ・・・っん」
「すぐ済みますから」
うつぶせの肌とベッドの間に指を滑り込ませてもみもみしてやった。
抜け出そうと体を浮かせたテトの耳の後ろ、うぶ毛に触れるか触れないかの位置にうすい唇を這わせた。
「かわいいと思いますよ」
ほんとうに
***
「どんな手を使っても女から財産をしぼりとれとは言ったがな・・・」
粟楠会若頭、粟楠幹彌は本部の革椅子にかけたまま言葉を選んでいた。
卓をはさんで向かいには四木が立っている。
「おまえの仕事が確実ってことも知っているがな・・・」
平時は感情をおもてに出さない幹彌がめずらしく複雑な表情をしていた。
一方、四木はいつもどおりの四木である。
「なにも結婚しろとまでは言ってないだろう」
幹彌は表情をつくりかねた末に笑った。
ひとに笑われるような恋を・・・
四木は
これより先の記憶を口にすることはない。
それゆえに人々は想像のつばさを羽ばたかせた。
『粟楠会の四木は例の女のマルメに成功したそうだ』
『四木さんがあの年でのし上がったのは、この功績があったからさ』
『金を根こそぎ奪い取った上で、面倒な口はふさいじまったんだと』
『冷酷無情』
『極悪非道』
『恐ろしい男だ』
四木が自分からは決して語らない部分のうち、最後のほうについて、よく知っている人間が一人だけいる。
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