土曜日の朝、蟻の行列をたどるようにルンバを追うのが彼女の趣味だった。
静音性を大幅に向上させた最新型ロボット掃除機は、しずかにフローリングの廊下をすべってゆく。
廊下のおわり、玄関の段差へ向かっていったルンバを見知らぬ手が捕まえた。
ルンバへの注視から徐々に視点を持ち上げていく。

「落っこっちまうよ」

派手なスーツを着こなす色つきメガネの男がニッと笑った。

「おちないようにできているのです」
「賢いね」
「ともだちです」

肩をすくめ「あなどって悪かった」と言いながらルンバを廊下へ返してやった。
彼女はこれを追わず玄関に留まり、赤林は玄関の段差に腰掛けた。

「はじめまして」

おしゃべりの時間だった。







四木が自分からは決して語らない部分のうち、最後のほうについて、よく知っている人間が一人だけいる。







***



ヤクザらしいジャケット、黒の開襟からは金色のネックレスがのぞいている。
そんないつもの格好をした四木が、ほかほかの赤ん坊を前に凶悪な顔で固まっている。
これを粟楠会の人間が見たら腹を抱えて笑うだろう。しかし笑い声は今の四木には届かず、彼らが埋められることはないだろう。
ついさっき発散しきったは赤ん坊の横ですこし眠たそうだ。

「抱いてみて」

は四木が入ってくるまえから始終力ない笑みをしている。
疲れているのだ。なのに、かがやくようだった。
うながされて手を伸ばす。

「いえ。・・・ちょっと待ってください」

四木は言い置いて病室を出ていった。
と赤ん坊はバッサバッサと布をはためかすような音をドア越しに聞いた。
しばらくすると四木は、出て行くまでは着ていたヤクザらしいジャケットを腕にひっかけて戻ってきた。
のまなざしは潤み、ほそめられた。
しかめっ面の腕がもう一度赤ん坊にのばされる。

「・・・ちょっと待ちましょう」

四木は自分で言って直前で指を引っ込めた。

「パパはしかたのない人ですね」

は赤ん坊に語りかける。

さん、“パパ”はないでしょう。このナリで」
「どのナリで」
「このナリで」

白いジャケットを脱いだ自分の姿を示した。
うつろなの視線が四木の膝から頭のてっぺんまでを見た。
いかにも悪そうだ。裏の世界にどっぷりつかった手のひらはクレンザーで洗ったってもう二度ときれいになることはない。
たっぷり間があって

「四木さん、手をだして」
「手?」

右手を差し出す。

「りょうほう」

両方差し出す。
は毛布から手を出して四木の手の甲を片方ずつ唇へよせた。
キスがふたっつ、おとされる

「これで清らかになりました」
「・・・」

四木は、意を決して抱き上げた。
ひとに笑われるような恋をした。
ほらが笑ってる。
一方、しかめっ面のほうはシワが徐々に深くなっていく。
ずしっときたからだ。
正確に計量しても3000グラムに満たない。
筋肉への負担はないはずなのに滑稽なほど腕が震えた。
落としそう
落とすまい
落としそう
四木の視界に赤ん坊しかはいらなくなった。
味わったことのない恐怖だ。

「・・・さん、もう下ろしても」
「まだ」
「いつ」
「ずっと」
「冗談を」

視界に白い手がゆっくりとやって来た。



「守ってあげてね」

赤いほっぺたと四木の黒いそでをひと撫でして去っていった。

「四木さんを」



四木はの言葉を指摘するべきだったが赤ん坊の目が開いたことに息をのんでつっこみわすれた。
生まれたばかりだというのに目が見えるのだろうか。
四木が動くととおなじ色合いの瞳がついてきた。
天才かもしれない。

さん、これ、目がひらいてますよ」

これ呼ばわり。表情に感情は見えないが声は興奮を隠し切れない。
顔を向けるとは目を閉じていた。






パパはそれから「さん」とゆっくり二回呼びかけて、をベッドに置きました。
そこからバタバタとあわただしくなってしまってはツヤツヤのケースに移されたのであとのことはくわしく知りません。
ママのめいにちとの誕生日をみくらべるとわかるような気がしますけれど、かなしいですから見比べることはしません。でもどうか知っておいてください。
ただ死んだのです。
パパのまわりの人たちは違うように言うと知っています。いいえ、ただ、死んだのです。
は五歳になった今もそのときの音とパパの顔を覚えています。
はパパを守らなくてはいけないということを知っています。
の最初の思い出ですからわすれることはないでしょう。

「だからね、おじさま」

赤林は唖然とこれを聞いていた。
本人も言うとおり、五歳だ。

「パパにひどいことをする人がいたらに教えてください。が守りにいきます」

「・・・おいちゃんから、ひとつだけ聞いていいかい」
の知っていることでしたら」
ちゃんは、なんでって名前なんだろう、か」

子供相手に柄にもなく赤林の語尾はよどんだ。
ゾッとしていた。

「ママが目を閉じたときからの思い出がはじまったから」

「うそ・・・」
「うそ」
「ええ?!」
も知りません」
「おやあ」

赤林はほっとしていいのか拍子抜けしていいのかわからなかった。
ずりさがっていた色付き眼鏡を押し戻す。
五歳くらいの子供ってのは大人が話している難しい言葉を聞いて意味も分からず使ったりすることがある。
粟楠茜がこれくらいの頃には(もうちょっと大きかった気がするが)「赤林のおじさんの存在意義ってなに?」と唐突に問われたことがある。
きっとこれもそんな感じなのだ。ちょっと言葉が長くて意味するところが一度かみくだかれた上で発せられている気がするのは気のせいに違いない考えすぎだ昨日天才小学生のテレビ番組とか見ちゃったから、きっとそうそんな感じ。
大人の度肝を抜くおマセな五歳は続けた。

「名前のことは聞いてはいけないことですもの。・・・真夜中に椅子に座って、とてもだらしない格好で小さいグラスに入ったお酒と写真立てをテーブルに置いているんです。が廊下からこっそり見ていたことをパパは知りません」
「・・・なにか話すのかい」
「せきを一度だけ」
「そう」

赤林の寒気も道化もいつのまにかなりをひそめていた。
うわべで返事しながら
(あの人はこちら側の人間だが、ヘンにふつうな神経をもっているところがある)
そう思った。

「それを見ると、がどうしてなのかは聞いてはいけないことだと感じるんです。おじさま、はあっているかしら。感じるだけだから自信がないの」

見上げてくるのはきれいな色合いの瞳だった。四木の鋭さはかけらものりうつっていない。もう片方の遺伝子だけで構成されている。
いや、言葉遣いだけは四木に似たのかもしれない。彼は考えたのだろう。どう話しかけるべきか。
赤ちゃん言葉に逃げるわけにはいかない。四木という人格がこれを許さない。
きつい言葉使いがうつっては不名誉。
では普通の親のような言葉で
・・・どんなだ?
ならば、
敬語

「ねえねえ、おいちゃんは見たことがないんだけどさあ」

不安にゆれる瞳は子供のそれであった。
親子そろってヘンにふつうなところがある。
の問いには答えず、赤林はもうひとつ質問した。

ちゃんのママはきれい?」
「とても」

顔がほころんだ。

「パパが教えてくれたんです、お酒のにおいがしました。酔っ払って、パパがね。ママは“いとしげなひとでした”」

とろけるように笑う。

「じゃあ、ちゃんにもそうなって欲しくてつけたのかもしれないねえ。ママみたいになりたい?」
「なりたい!」

どこからどう見ても五歳児だ。ほっとした。
赤林は色付き眼鏡の左を杖でコツコツと叩いて見せる。

「保証しよう。おいちゃん女とカニを見る目は肥えてるんだ。一個しかないからね、普通の人の二倍だ。なれるよ」
「・・・でも」
「ん?」
がママと同じになったらパパはママのことをずっと思い出して、かなしいままです。ずっと。おじさま、パパは幸せになってはいけないの?」
「難しい質問だねい。そうさな、幸せになっていい順序があるとしたらおいちゃんたちは列の最後のほうだ。ちゃんは心配いらない。君はまだ前のほうだから」
「パパととりかえっこできますか」
「とりかえっこはできない。でも一瞬だけ幸せにしてやれる呪文があるよ。とても強い呪文だ。ラピュタが滅びるくらいの」
「教えて」
「どうしようかな〜。フェアにいこう。交換になにをくれる?」
「ルンバをあげます」
「ハハッ、君のお友だちをもらったら俺が旦那に海苔巻きにされっちまうよ。海へドボンだ。おいちゃんバタフライしかできないからヤバいね」
「Wiiフィット」
「残念。持ってる」
「ではキスを」
「それはマジ危険だからよして」
「・・・」

もうあげられるものがないと肩を落とすは、なるほど赤林の目にもいとしげに映った。・・・あ、ロリコンじゃないよ?
心の保養をもらったので、赤林は呪文を耳打ちしてやることにした。

こしょ こしょこしょ こしょこしょこしょ

「・・・それだけでいいのですか」
「おうとも。いいかい、さっきも言ったけどこの呪文は危険な力を持っている。使うときは他の人がいない場所のほうがいい。巻き込まれた人間は命をおとしかねない。気をつけて」

「何に気をつけるんですか」
「やあ、四木の旦那。土曜の朝早くにすみませんね、専務がそろって来いとのおおせでしたもんで」

廊下の奥から現れたのはいかにも悪そうな奴だ。赤林は腰掛けていた玄関の段差から立ち上がる。
急な呼び出しだったというのに一部の乱れもない、まぎれもない四木である。

「電話でおおよそは聞いています」

革靴を履きながら「それと」と四木は付け加えた。

「赤林さん、ひとの娘に変な事を吹き込まないでいただけますか」
「いやあ、変な事ふきこまれたのはこっちで」

ギロリと睨まれる。

「パパ」

ギロリが方向を変えた。
四木のジャケットの裾を五歳らしい手がくいくいと引いている。

「先に車行ってますかね」

が耳打ちの体勢に入ったのを見るや、赤林はくると踵を返して四木邸の玄関を出て行った。

呪文はこうだ。

(パパ だいすき はやくかえってきてね)




















車へつづく飛び石を踏んだとき、赤林は背に

ケホ

というちいさな咳を聞き、思わず笑った。






ひとに笑われるような恋をしている。






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