「パパ」

幼声に、リビングのソファーから首だけ振り向けた。
ちいさな生き物が廊下からこちらをのぞいている。
午前3時、ハウスキーパー曰く「20時には寝ている」はずの五歳の娘だ。
先日も同じようなことがあった。四木が帰って一息ついた頃に、見計らったようにやってくるのだ。
母親ゆずりで色合いの美しいうつくしい瞳はいったいいつから起きていたのか。

「もう寝なさい」
「パパ、これはなんですか」

ちいさな手がむんずと掴んで突き出した、毛むくじゃらの物体。
小ぶりのゴーヤくらいの長さがある。
動物の尻尾の形状だ。
ぬいぐるみだろうか。
四木は目を細めて物体を判定しようと試みたが距離があるのでよく見えない。
前回もそうだが、はなぜかリビングに入って来ようとせず、半身だけのぞかせる格好で四木とコミュニケーションをとる。
娘が寄って来ないので四木から行ってやると、物体は動物の尻尾を模した大きなストラップのようだった。

どこかで見覚えが・・・ああ。
いわゆる『妻との思い出の品』のなかのひとつ。ささいな思い出だ。多くを語るべくもない。

「これをどこで?」
「おようふくのしかくい部屋に」
「クローゼット」
「クローゼットに落ちていました」
「そうですか」

は無言で突きつけ続ける。

「これは動物の尻尾型ストラップです。あげますから早くベッドに行きなさい」

四木はちいさな背を階段へ押し出す。

「今度こんな時間まで起きていたら怒りますよ」

みじかい腕がゆっくり下りた。
押し出すといっても、背に片手をかざすだけでは素直に歩いた。
文句は言わない。
駄々もこねない。
転んでも泣かない。
ハウスキーパーが不在の休日に四木が急な呼び出しで家をあけることになっても「おうちで待っています」と言う。らくがき帳とクレヨンを持って「お絵かきをしています」と言う。
誰もいない日の夕食は短縮ダイヤルの1〜5番で出前をとることも覚えた。
手のかからない子供だった。



階段の下まで送ったところでは段をひとつひとつ上り始めた。
五歳の背は階段の手すりを掴むには足りない。手すりの下は格子状になっていては格子を掴んでのぼり、見届ける四木と同じ目線まで行ったところで止まった。
四木の目をじっと見る。
なにを考えているのだろうか。
目線が合うのは慣れない。
しゃがみこんでやったり、抱き上げることがないからだ。
四木からのスキンシップはほとんどない。

「パパの」

格子の間から、尻尾を握った手がこちらへ伸ばされた。
なるほど、返そうとしていたらしい。

のものにしてかまいません」
「パパのしっぽです」

語弊がある。
突き出されたものを四木は受け取らない。そんなものを四木が持ってもホラーになるだけだ。が持っていればメルヘンだ。

「いりませんよ」
「どうして」
「どうしてもなにも」
「ママがえらんでくれたのに」
「・・・」

どうしてそれを
言葉が次げなくなった。
知っているはずがない。
これを買ったのは結婚する前の話だ。

「・・・パパ」

声がやや変だった。
よわい

「ママのこと、きらいになっ、ちゃったの・・・?」

ぱっと手が開き、落下した尻尾を四木が捕まえた。そのすきにトトトと身軽な足音をたては階段の上に姿を消してしまう。



家は急に静けさを取り戻した。
四木は明かりの消えている階上を見上げていたが物音ひとつなかった。
手すりに手をかける。
段を踏む。
の駆け上がった二階はドアを開け閉めする音さえないほど静かだったからだ。






***

階段を上りきった先でうずくまっていた。
不規則にちいさな背中がはねている。
見覚えのある風景だ。サイズは違うが
この、四木から見えなくなったところで泣く習性ははたして遺伝子の記憶だろうか。



・・・よっこらしょ
重い



甲殻類のように殻にこもったきり動かないように見えたが、抱き上げると暴れもせずにしがみついてきた。
やわらかなひたいがシャツの肩に押し付けられる。
四木は、ばら色の頬に尻尾を近づけた。

「持ってください」

うるみきった瞳がちらとこれを見、さらに泣いた。

「持って」

パパのばかあ

と泣きながらも尻尾は受け取られ、しかしみじかい腕が尻尾をぶんぶん振り回した。
言うのはなんだが、こんなアグレッシブな娘の態度ははじめて見た。
あいた両手で持ち上げなおして歩き出す。

「貸すだけです」

腕が止まる。
四木は子供部屋のドアを開けた。






ベッドに下ろされた頃、の機嫌は急激になおっていた。
ベッドのすぐ横には肘掛つきの椅子があり特大の熊が鎮座していたが、はこの熊をすばやく絨毯へ下ろすと座面を手のひらで払った。
そして四木を見る。
どうぞ、とまだ涙で輝く瞳が訴えかけていた。四木は掛け時計に目をやる。

「3時16分、寝てください」

明日というか今日が土曜日とはいえ、五歳が起きていていい時間ではない。幼児期の睡眠の必要性は大人のそれとはわけが違う。
椅子にはかけずに四木が出て行こうとすると

「わすれものです」

と尻尾をかかげて見せられた。
いらないと言うとまた「パパのばかあ」が始まる予感がしたので、四木は受けとって速やかに退出する方針を決めた。
ベッドに寄ってつかもうとした瞬間、尻尾が逃げた。
尻尾はこれまで熊がいた椅子に置かれた。
是が非でも座れと。

「・・・」

ため息して椅子にかけ、足を組んだ。



「狙いはなんです」
「おはなしを聞かせてください」
「・・・」
「そうしたらねます」
「・・・」

巧い。
相手の立場、自分の状況、両者の損益、周囲の環境、これらを把握した上で言っている。まさか涙さえも布石だったのではあるまいか。
いつからこんな脅しめいた取り引きができるようになった。誰に似た。

抑揚なく音読するだけならばさしたることでもない。上司への口頭報告と同じ要領だ。
四木はベッドの横の本棚からなるべく薄い一冊を引き出した。
冒頭をまずは黙読する。幸いにも文字数が少ない絵本のようだった。
1ページにたった1行ずつ。

「さる るるる」

表題を口に出した瞬間悪寒が走った。
しかし四木は一切の感情を殺した声で、滔々と読みきった。
四木の徳が上がった。
この苦行にちいさな拍手が送られる。

「パパすごい、お経みたいです」

褒められても微妙だが、そもそも褒めているのかが微妙だった。

「でも、聞きたいのはパパとママのおはなしです」
「・・・」
「絵本ではないです」
「・・・」
「パパ、お顔があk」
「寝なさい」

ぴしゃり封じた。






「パパにも毛布」

そう言って、は布団の下からおもむろに毛布を引っ張り出し、四木の膝にもその恩恵を分け与えた。
四木の方を向いて横になり、目が(うれしい?あったかい?)と無言で尋ねてくる。

「・・・どうも」

たったそれだけでは幸せそうであった。さっきまで泣いていたのに。

「ところで、どうしてこれを選んだのがママだと知っていたんですか」
「パパは買わないです。でも持っていて、ずっと持っているのでママがえらんだからです」

冷静な人間観察と行動科学に基づく名推理だ。



「パパ、これはなんのしっぽか知っていますか」

かつて、これを買った直後、無理やりベルトに結び付けられたときにも同じことを聞かれた。
覚えている。
答えは猫。
覚えていたが、あのときと同じように四木は間違えることにした。気まぐれである。

「タヌキですか」
「チシャねこです。アリス、の・・・」

の言葉がうとうとしてきた。
まばたきがゆっくりになっていく。

「そうですか」
「ねこなの」
「ええ」
「ねこね・・・」
「ええ」
ね」
「・・・」
「パパとママ、の、おはなし、・・・ね、ママのおはらぃ・・・・・・」

寝た。
すうすうと。
布団を肩までかけなおす。
寝つきがいいのもあの人ゆずりだろうか。
四木は背もたれに体をあずけ、首をそらせた。
手はしっぽをゆるく握る。

なんでこんなものを買うハメになったのか
きっかけはなんだったか
たしか
あの人が学園祭を絶叫アトラクションのように勘違いして、私がそれを指摘して、遊園地の話になって、それで.........



その夜、四木は子供部屋の椅子で眠りなつかしい夢を見た。
尻と背骨の痛さで起きたときにはその夢はすっかり忘れてしまったけれど、指にかろうじてひっかかるしっぽを見たらじわり何か思い出しかけて、やっぱり思い出せなかった。




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