兄の声はよそ向きの声だと感じた。

「おとーとの幽っす」

ボロアパートにおよそ似つかわしくない冷艶な青年である。
その後頭部に恐れもなく手を置いて平和島静雄はわしゃわしゃに乱した。整っていた髪形を鳥の巣にされたというのに表情を動かさず平和島幽はちゃぶ台をはさんで対面する女性に会釈した。女性もまたボロアパートにはたいそうもったいない、うるわしい佇まいの人である。
次に静雄は女性のほうに手のひらを向けて「こちらは」と硬く紹介をはじめた。
平和島幽は兄が好きであったから、兄が家に呼んでくれたのは嬉しかった。恋人ができたという話は以前からメールで聞いていた。幽は「その人に挨拶したい」とも言っていたので今日を迎えることができてよかったと思っている。反面、警戒してもいた。
兄にメールで二人の出会いについて聞いたときには急に不機嫌になり、折原臨也がらみであることが容易に推測できた。芋づる式に美人局、篭絡といった言葉が浮かんでくる。

「俺の・・・かの、か、階、同じ階のお隣さんのさん」

言い終えた当人が憤慨して眉をひくつかせている。己のふがいなさを嘆いてであろうと幽は横目で察した。
この器用でない兄が万が一にも騙されていてはいけない。
(俺が見極めよう)
平和島幽は、無機質無表情無感動といわれるその身のうちに熱い決意を秘めてここへやってきたのであった。

険しい感情と裏腹に表情に乏しい幽に対し、は会釈のおわりに小さく笑みを返した。
第一印象はよかった。
人に愛される笑顔だ。穏やかそうで優しそうで美しいひと。
非の打ち所のないこの印象こそ油断ならない、幽はそのように感じていた。






***



「はじめまして幽くん」
「・・・兄がご迷惑をおかけしてます」
「迷惑だなんて、平和島さんにはいつもお世話になってばかりで」
「!?」

定型句の会話に静雄は不自然な驚愕を見せた。
どうしたのかと問われると静雄は首を何度も横に振って、なんでもないと主張した。真相は、『平和島』が室内に二人いるのだから名前で呼んでもらえるのではなかろうかというささやかな陰謀が早々ついえたためであった。
陰謀がついえた頃、地デジ非対応のブラウン管テレビはお昼休みはウキウキウォッチングな踊りを映していた。

さて、
と気を取り直した静雄が膝を起こす。

「幽、おまえメシ食うだろ?やきそばな」

幽はこくりと頷いた。
「ん」とだけ返し、静雄はエプロンをひっかけるとコンロに向かった。

「なにか手伝います」
「いいっていいって。さん座ってて」
「俺手伝うよ」
「うっせ。座ってろ」

幽にはぶっきらぼうに返す、その顔がゆるみそうになるのを静雄は噛み殺した。ちゃぶ台には静雄の好きなものが二つ並んでいるのだ。キャベツを「ざくざく」切る包丁の音が「ざっく☆ざっく☆」になってしまうのもいたしかたない。






***



そんな包丁音の微妙な変化には、弟といえどさすがに気づかなかった。

「・・・」

ちゃぶ台に二人取り残された。
はて。
何をしゃべるべきか。いや、どうさぐりをいれるべきか。こういうのやったことないな・・・、と幽は慣れない疑心暗鬼をもてあましていた。
パステルピンクのエプロンの背をじっと見ながらいかんとすべきか考える。上機嫌に料理を作る兄から会話の援護射撃は望めないだろうし

「平和島さん、マスターにいただいたムキエビがあるんですが」

対面する女性が背をピッと伸ばした。

「マジすか、シーフードやきそばできますね。よかったな幽、海っぽいの好きだモンな」
「・・・うん」

兄の背ばかり見て返していると、の声は今度は幽に向けられた。

「セワタをとるのを手伝ってもらってもいいですか」

やわらかい声だ。世界優しいお姉さん選手権があれば上位に食い込むであろう微笑みだ。おそらく、セワタをとりながら幽と打ち解けるための申し出であろう。幽には、自分を懐柔せんとするこの申し出すら不快に・・・思わねばならないのだろうか。

「・・・手、洗ってきます」



テレホンショッキングがテレビに映っている頃、兄の恋人は壁の穴からムキエビを取りに出て行った。

「・・・なにあの穴」

人間ひとりが通れる程度の穴が平和島静雄の部屋の壁にうがたれている。その異常な光景を幽は淡々と兄に尋ねた。

「ちょっとな」

静雄は魚肉ソーセージを切りながら返す。
が部屋にいないせいか、よそ向きの声からヤル気が三割減しているように思われた。

「のぞき穴?」
「ちげーよ。さんは通れて俺は通れないっていう、なんつうかこう、いましめ的な、俺の理性の門的な真面目な穴なんだよ」

やらしい。
言わず、幽はセワタをとるための竹串とボウルを用意してちゃぶ台にスタンバイした。と、電話がかかってきたので「いいとも」と答えて電話を切った。






***

セワタを取る作業の最中も幽は警戒を怠らなかった。
は幽が出演した映画について、

あの映画がおもしろかった。あのシーンがこうでこのシーンがああで・・・

感想は素直にうれしかった。
話し方からは、あまり自分からおしゃべりをするタイプではないように聞こえた。それでも懸命に感想を捻出している姿を見るに、単なる映画好きではなく、幽に気に入られようとする打算も少しは含まれているように思われた。
そのような打算は幽にとって心地よいものではない。しかし当然のものとも感じる。
彼女が悪意を持って静雄に近づき幽すら取り込もうとしている場合にはお世辞を使うであろう。
そういった魂胆なく、ただ彼氏の弟に気に入られようと努めている場合にもお世辞を使うであろう。
前者をうたぐる自分がいて、事実は後者であった場合、
(俺はチョキで殴られてしまいたい)
そう思った。



フライパンに投入されたエビたちがいい音をたてている。
ソースのにおいがおいしそうだ。
エビのセワタを取り終わってもは引き続き出演作の感想を伝えている。ろくな反応を返さない幽が話し相手であるから、彼女にも疲れの色がみえはじめていた。なんとなく罪悪感がふくらんでいく。

話題
こっちからも出してみようかな

そう思うほどに

「・・・あの」
「はい」
さんは兄のことが好きなんですか」
「か、かすか!おまっなに言っ」
「好きです」

コンロから音速で振り向いた兄にかぶせ
毅然と
臆すことなく

「すごくですか」

はここでようやく赤面し、困ったように笑った。



ズザザザザザザザザザザザアァア!!



「ほら!かすかっ!好物のシーフードやきそばできたぞ!マヨるか!?マヨるべ!?マヨれな!なっ!」

と静雄が二人の視線の間に滑り込んできた。
の比にならないほど赤面し、動揺し、幽にやきそばとマヨネーズをつきつける。

「・・・」

幽はこれを受け

「・・・マヨる」

沈黙を打つししおどしのごとくうなづいた。チョキを覚悟しながら。






***



やきそばのお皿が三つ、ちゃぶ台に並んだ。
幽は大盛り、静雄は特盛り、は並盛り。

「いただきます」
「おー食え食え。つかおまえちゃんと食ってるか?最近痩せすぎだろ、肉くえ肉。ソーセージ入ってっから」

魚肉
言わず、幽はやきそばを口へ運ぶ。

なつかしい味がした。
両親が共働きだった平和島家では学校が午前中しかない日は静雄が昼ごはんを作っていた。普通の子供ではふれないような重い鍋でもふるうことができ、チャーハンはお手の物。やきそばも具がたくさんでおいしかった。レパートリーはあと、パスタとホットケーキ。

「かーちゃん心配してたぞ、あんま連絡しねえつってな。まあ俺もだけどよ」
「この前まで映画で減量してたから」
「もういいのか」
「もういい」
「じゃ食え。キャベツもめっちゃ入ってるから。あ、さんのエビ食ってみ。さっき味見したらすげえうまかった。ぷりぷり」
「うん」

おいしい
あったかい

「おいしい」
「だべ」
「エビも」
「だろッ!やっぱ寿司屋のエビは新鮮で」

静雄はぱっと顔を明るくして、エビ提供のお礼をいうべくを向いた。というのに固まる。
は静雄と幽を眺めてほうけていた。

「・・・さん?」

はたとまばたきして戻る。

「ぁ」

「大丈夫すか。なんか目が」

うるんで

「・・・湯気で。私もいただきます」

それ以上を遮られた。
は上に乗っているキャベツからはふはふしながら食べ始めた。おいひい、おいひい、と必要以上に何度もやきそばを褒めた。聞くなとばかりに。不審を尋ねることは静雄にも幽にもできなかった。



平和時家の慣例にしたがい、やきそばにマヨをかけると「お好み焼きの味がします」とは感動しきりであった。

「この前サイモンさんが言っていたプリンと醤油でうにの味がするというのと同じでしょうか、すごいです」

なんとなく違う気がしたが静雄は頭をかいて

「そすかね」

と料理の腕を褒められたわけでもないのに照れ笑いしていた。幽はハムスターのようにもくもくと食べた。
食事をしながら、あるいは食事のあとには兄弟ならではの思い出暴露話を中心として、幽の出演作のこと、おいしい串焼き屋のこと、飯から酒の話になって今度ショットバーに一緒に行ってみよう、幽の彼女もつれてという話になって、

「俺たちがどこか行くと写真とる人が隠れているかもしれないけど、いいの」
「あー俺写真とられんの苦手なんだよなあ。絶対目ェつぶる」

静雄が微妙にズレたことをため息しながら言い

「私戸籍がないので一緒に映って詮索されてしまうと幽くんまで変な目で見られてしまう可能性が」

という、内容は衝撃的だが論旨としては的確な軌道修正が成されたのに続き、は恥ずかしそうにぽそり呟いた。

「おしゃれな場所に着ていける服もありませんし・・・」

これを幽が耳聡く拾い、現在が持っている外出着のバリエーションは金銭上の問題から三種類しかないという話になった。

「俺が雑誌で女装したときの服いりませんか。・・・もしよければ」
「え」
「おおあれな。雑誌あるんでさん見ますか?たしか押入れに」

返事を聞く前から押入れをごそごそまさぐり始め、一冊取り出すと付箋のページを開けて見せた。静雄はわがことのように誇らしげに幽のページを紹介する。
押入れにはこれ以外にもうず高く雑誌が積まれている。そしていずれも付箋が飛び出していることに幽は気づいた。この直後、幽があぐらから正座に足を正したことは静雄たちには気づかれなかった。

「綺麗・・・幽くんはなんでも着こなせるんですね。わあ、足もきれい」

雑誌のページを食い入るように見つめてが言う。幽がなにか言う前に

「そうなんすよこいつスタイルいいんで。次のページの着ぐるみも結構よくて」

スタイルについては幽の頭をわしゃわしゃにかき回すこの兄のほうがよほどと幽は思う。けれど表情にも口にも出さず、いまだけは二人からのべた褒めを正座でたまわるに徹した。
ああ
なんて
こそばゆい






***



心を許した人間相手にはたいそうおしゃべりになる静雄がしゃべり続けた。
幽とは主にうんうんとうなずく係りだ。
昼食から二時間、露西亜寿司の遅番があるというのでとはお別れの時間になった。
万が一にも変な噂を立てられて幽の仕事に影響があってはならないと、は穴から彼女の部屋に戻り、そこからアパートを出て行った。
錆びた鉄板の階段をカンカン鳴らしながら下りていくのが聞こえる。
足音の最後に、幽は静雄の部屋のドアを開けていた。
は階段の下で振り返り、大きな瞳を見開いて驚く。
静雄が後ろから慌てて「かすかっ」と呼んだのも聞かず、幽は廊下の手すりまで前に出た。



「兄をこれからもよろしくお願いします」



幽の姿からは想像できないほどよく通る声であった。

見開かれていた瞳は、まばたきの回数とともに和やかに細められてゆく。
は何も言わず、ただ一度深く深くお辞儀をした。






「おまえなあ、せっかくさんが気ぃつかって別の部屋から出てったのに」

ドアの内側にひっこんでから静雄はぶつくさ言う。しかし決して不機嫌そうではなかった。

「ごめん」
「いいけどよ」

そう唇をとがらせる。
兄の声はいつのまにかよそ向きの声ではなくなっていた。
喉を懸命に使うことをしない声。
滑舌はあまく、耳が慣れていないと聞き取れないだろう声。

「ゲームすっか?」

昔みたいだ。
心臓がじわっとあたたかさを持った。とたんに細く痛む。
その申し出は静雄にとってはなんでもないことだった。にもかかわらず、その提案が、声が、幽にとっては驚くほど嬉しかった。
変わらない表情の中で奥歯を噛んだ。こんなことで感動するのはいくらなんでも気持ち悪いから。

「忘年会の景品でWiiとマリカーもらったんだよ。社長気ィつかってコントローラー六個もくれたし。まだ二個のこってるからやるべ」
「・・・いい人だね」
「社長?」
「社長もだけど」
「・・・おー、いい人じゃなきゃ俺なんかとつきあってくんねえよ。おまえの映画ももっとめちゃほめて気に入ってたぞ」

照れ隠しに話題をそらされた。

「うん」

幽は近くに転がったWiiのACアダプタを無言で電源プラグに差し込んだ。
静雄は1コンを握り、幽は2コンを手に取った。取り合う必要はない。
ボロアパートに・・・よく見れば、大中で似たようなシルエットの背が並び、テレビに向かう。

「・・・」
「・・・どした幽、元気ねえな」
「べつに」
「うそつけ」
「ちょっと、チョキで殴られたいだけ」
「なんだそれ。映画の格言かなんかか」
「兄貴はさ」
「ん?」
「義姉さんができても兄貴は俺の兄貴だね。・・・なんかさびしくて変だ俺」
「・・・たりめーだ。クッパ最速伝説くらいあたりまえだ」

わけのわからない比喩とともに、よそ向きでないその声は独り言のように小さい。耳が慣れていないと聞き取れないだろう声だった。だから幽は正確に読み取ってゲーム画面を見たままうなずくのだ。

「うん」

すこし笑って。








1位:クッパ(静雄)
2位:ヨッシー(幽)

「っし、勝った。やっぱクッパ最強」
「またまけた」
「おまえ昔っからあんまくやしそうじゃねえよな」
「・・・くやしいよ。もう一回」
「うし」

夜になり、広告の裏にボールペンで書かれた対戦成績表が三枚目に突入した時分。兄弟水入らずの空気を打ち破るピンポン連打が平和島静雄の部屋に響き渡った。開けてみれば

「やあシズちゃん。会いたくなかったけど今日も来てあげたよ、あの人間もどきと二人でゲームなんて卑猥な真似はさせな・・・あれ弟くんだった?うわ、マリカーとか・・・。知らないと思うから教えてあげるけど俺ネット対戦のマリカーのポイントかなりすごいよ?あ、もしかしてシズちゃんてマリオサーキットのショートカット知らない人?うわー、かわいそー。仕方ないなあ、じゃあ教えてあげようか、お邪魔しま」

「おめえのコントローラーねえから」

鉄ドアは閉て切られた。





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