静雄と幽の対戦が36回戦を迎えた頃、露西亜寿司のバックルームには15分休憩にはいったの姿があった。
板前ユニフォーム、髪は首のあたりでひとつに括って飾り気のかけらもない。

金曜日の夜ということもありおもては大あらわだ。にぎやかな声がここまで聞こえている。
手狭なバックルームの中央にはステンレス製の大きな台。築地でマグロを一匹買ってきたような時にはここで解体が行われる。が、いまは広々した台の上に湯気をあげる湯のみが一つ、ぽつんとあるばかりだった。
逆さにしたビールかごを二つ積んだものが腰掛けだ。
これに座り、はバックルームでひとり、ひたすら静かに湯飲みを見つめていた。

湯飲みの横にプリンが加わる。
はビクリと肩を震わせた。

「オーびっくりさせるのヨクナイネー、目ん玉飛び出してナァイ?」

外でビラ配りをしているはずの身長2メートルを越える巨漢がを覗き込んでいた。
台に置かれたプリンはサイモンがの前に置いたらしい。店で出しているものだ。
は、サイモンがバックルームに入ってきてから目の前にプリンを差し出されるまで彼の存在にまったく気づかなかった。の心が虚空にあったためか、あるいはサイモンが足音を立てずに接近する技術を心得ているのか。

「ごめんなさい、ぼうっとしていて。椅子どうぞ」

後輩らしくサイモン先輩にビールかごの椅子をゆずった。彼が座ったらおそらく木っ端微塵になるだろう。サイモンは華奢な肩を椅子に押し戻した。

「食ベル?」
「ありがとうございます。でもお店のプリンを食べたらマスターに怒られてしまいますので」
「ダイジョウブ。賞味期限ギリギリで熟してるからオイシイヨ」
「・・・廃棄の。では、いただきます」

プリンを手に取り、プラスチックスプーンでひとすくいした。
スプーンの上でぷるぷる。
魅惑的なそれを見ても食欲がわかないのは、腹持ちのいいやきそばを昼にたくさん食べたせいに違いない。

「目ん玉飛び出しそうなときと元気がないときはプリンが一番効くヨ」

おもむろにサイモンが言う。
強面だからこそひときわ寛容にやさしげに耳に届く。
プリンを見つめる目を見張る。
弱音が呼び起こされる。
言うべきか言わぬべきか逡巡する
言わぬべき

なのに、太い指がの下まぶたをひと撫でした。弱った犬猫にするように。
すくっただけで口に運ばれないプリンが、容器の中にぺとりと落ちた。

「・・・あの」

スプーンに話しかけるようには声を発した。
口よ止まれ。
醜いことを言ってはならない

「家族が、すこし」

まばたきを控える。落ちるな

「うらやましくて」



わたしに家族はあったろうか、思い出そうとすると黒い伽藍堂に辿りつく、ないほうがいい、培養液から生まれたほうが幸福だ、手の中にあったものを失ったのだと知るよりももとからなかったほうがずっとずっと心が楽だ、折原臨也がそう呼ぶように人ならざるものから生まれた人間もどきでありますように・・・・・・いやだ、考えたくない、はやくお店に戻りたい、働いて、動いて、生きていいのだと私に教えていたい。



「そうか」

サイモンの声とは一瞬間わからなかった。
ガシッ
後ろから頭をまるごと掴まれる。
痛くはない。
ペタシ、ペタシ
手の大きさからは想像もつかないほど軽やかに叩かれる。
痛くない。
クシャクシャクシャ
もう頭はぼさぼさだ。
唇を引き結ぶ。
なぐさめられていると理解できた。でも静雄と幽の風景と重なって余計心が乱れた。
これ以上乱されてはならないという心とせめぎ合って、きつく板前ユニフォームのすそを握り締める。



「サイモン、看板娘の髪きたなくすんじゃねえよ」

家政婦は見た、のワンシーンのように店主が横開きのドアを細く開いてこちらを睨んでいた。
手にひらめくは出刃包丁。

「オーウ!よかったーネ!いま看板のムスメって言われたヨ。家族できたね。ご両親看板だけど落ち込むことナイヨ。看板イイヤツだヨ」
「おめえはビラ配り残ってんだろ。は鏡行って頭直してこい」

店主の一声で素直にビラを掴んで遠ざかるサイモンの背に

「すぱすぃーば」

前に教えてもらった。ロシア語でありがとう。が慌てて投げかけた言葉であった。
サイモンは、ニッと笑うとには聞き取れない言語で素早くなにか言った。どういたしまして、にしては長いように思われた。

「サイモンッ」

慌てたふうに店主がサイモンを叱る。
口説くような、艶めいたその言葉の意味がにはついにわからないまま、サイモンは外へ行ってしまった。
ははっとして「整えてきます」と早足に店主の前を横切った。



「パパは三つ編みが好きだ」

ビックリしてが振り返る。
すでに横開きの扉は閉じられ、店主の姿は店内へ戻ったあとであった。






この日を境に、露西亜寿司の看板娘のユニフォームに三つ編みが加わったことは言うまでもない。



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