オルゴールをまわすとさんは喜んだ。

「このオルゴールって誰かからのプレゼントですか」

俺の言葉に、さんはハタと長いまつげをしばたたく。

「こういうのってあんまり自分じゃ買わないような気がしたんで」
「あたりです。スイスのおみやげ」
「へえ。なんかスイスっぽい音っすもんね」
「スイスっぽい?」

俺の適当な音色評価とスイス観はほがらかに笑われた。
誰からもらったのかは聞きそびれたまま。指先がままならない病気の名前も聞くのが気が引けて、知らないまま。
サナトリウムは今日も穏やかだ。
こんな場所が池袋のど真ん中にあるというのは、俺もはじめて来た時にはおどろいた。たくさん植わっている広葉樹のおかげで道路は見えない。人ゴミのうるささも届かない。レースのカーテン越しに広がる風景は高原にある療養施設(幽の出てたドラマで見た)を思わせた。青々した木々のてっぺんには高層ビルの頭が生えているけど。

「そういえばさんの個人ジョーホー盗まれてた件ってケーサツに届けたんでしたっけ」
「もう解決したらしいです」
「よかったスね。ネットにバラまかれたりすると大変だってトムさ・・・仕事の先輩が言ってて、たぶんそういうのされる前に犯人捕まったんじゃないですか」
「大変というとどんなことがあるんでしょう」
「うちインターネットないんでわかんないスけど・・・不幸の手紙が来るとか寿司の出前100人前がいきなり届くとか」
「100人前も・・・」

神妙に呟いたさんがおかしくて笑った。

「あ、そだ。これ発売してたんで」

ここへ来る時はワンピース最新刊を持ってくる。

「ありがとうございます。続きが読みたかったんです」
「今回も熱いっすよ」
「うん」

さんがときどき敬語を忘れて、俺の言ったことに「うん」とか「そうね」と相槌をうつのを聞くと得した気分になる。「大人の女の人に年齢を聞いてはいけない」という母親の教えを忘れ、うっかり聞いてしまったところによるとさんは一コ上だ。俺に敬語を使う必要はないと言ったけど

「いつもいいんでしょうか。平和島さんがまだ読んでいないものをいただいてしまって」

という具合だ。
ビニールがかかったままの単行本を受け取って、さんは覗うように俺を見た。

「全然。俺ジャンプ読んでるんで」

さんの書架に一巻から並ぶワンピースは俺の部屋にあったものを俺が寄贈した。出会ってからは最新刊が出るたびに届けにきている。元気がでるようにと思って持ってき始めたのに、ナミとベルメールさんのところや、チョッパーや、アラバスタのあたりで泣かれてしまってあん時はかなり焦った。真顔でポロ・・・と涙だけ落ちたのはすごかった。なんつーか、すごかった。



『平和島さんと話すのが嬉しい』
『ケータイを持っていないから直接会うことがなにより楽しい』
さんは俺を喜ばせるようなことばかり言う。
『平和島さんは優しい』
さんはそうも言う。俺は否定も肯定もせず「そすかね」とひたいをポリポリかきながら苦笑する。
さんは
俺がどうしようもなく凶暴な人間だと知らないから優しいなんて大ハズレのことを言う。本性を隠して、まるで根っから善良で温和な人間のように振る舞うからあなたは騙されているんだ。さん、俺がここにくるのは優しいからじゃないんです。理想の人間になれるからなんです。絶対言わない。

ここでの俺は、

生来気がながく、人に何を言われても怒ったりしない性格だ。
暴力なんてもってのほか。学生時代はとくに何事もなく地味な青春をおくり、大人になってからは地味さを脱却するために髪など染めてみたが、やっぱり地味に平和に静かに毎日を過ごしている。
標識?そりゃ守るもんだ。
自販機?そりゃ買うもんだ。
臨也?IKEAなら知ってますけど。

ここでの俺は偽俺だ。






***



ここを初めて訪れた日は印象深く覚えている。

「乱交モノAV52本とフランダースの犬最終巻を二年八ヶ月借りっぱなしの女ってどんな女だよ」
「怖いすね」
「変な奴じゃねえといいけどなあ」
「そすね」

会員情報を頼りにやってきた住所は、白い柵と木々に囲まれ、入り口までの30メートルは新緑のアーチが続く療養施設だった。
緑のにおいをいっぱいに抱いた風がそよぐ。

「ここであってんのか・・・」

メモと緑のアーチを見比べ、トムさんは首をかしげた。
トムさんに続いて頭をぶつけそうな高さのアーチをくぐり抜ける。秘密の花園っぽいと思い浮かんだ。といっても秘密の花園という言葉だけ知っていて見たことはないからこれは俺の勝手な“秘密の花園観”だった。
古めかしい両開きの扉は軋んだ音をたてて開き、天井は吹き抜けになっていた。ステンドグラスの天窓から、つやつやの床に色とりどりの光が落ちている。
幻想的なエントランスに現れた取立て屋さんを受付のおばあちゃんは入院者の家族が来たかのように暖かく向かえた。
顔に刻まれた笑顔の皺がおそろしく深い。おばあちゃんはそれ以外の表情ができないに違いない。強盗がきても同じように暖かく向かえるのだろう。
トムさんが簡単に事情を話すとおばあちゃんは上向けた手のひらで丁寧に左へ続く廊下を示した。

「月のマークのある部屋ですよ」

『事情』はトムさんが次のように説明していた。
「ここにいるさんって方がDVDを借りっぱなしなので返してもらいに来たんですけど、いますかね?」
「へえ?デービーデー?」
「いや、ディーブイ・・・レンタルビデオです」
「ああ、はい、はい」

そんなこんなで、およそビッチとは結びつかない雰囲気の施設の廊下へ足を踏み入れた。

廊下の天井は総ガラス張りでコンビニの店内並にあかるい。
長い長い廊下をなす白い双璧に、四角いくぼみが等間隔に空いている。くぼみにはそれぞれ横開きの扉があったがすべて閉まっていた。扉の数のわりに廊下には物音ひとつない。人の姿も、調度品すらなかった。
俺が一つの可能性を思いついて首を横に傾けていると、トムさんが「どした?」と尋ねてきた。

「・・・横にして見たら別の模様が見えてくる気がしたんで」
「あー、確かにだまし絵っぽいな」

そんな印象の廊下の先、表札がわりに月のマークのタイルが埋め込まれた部屋。

乱交モノAV52本とフランダースの犬最終巻の延滞者『』はベッドで上半身だけ起こしていた。
イヤホンのコードを手の甲同士ではさんではずすと、ゆっくりこちらを振り返った。きれいだった。
俺は一目で(この人じゃない)と思った。トムさんもそう思ったからこそ困ったように笑ったのに違いない。
彼女のイヤホンの先にあったのは携帯型カセットプレーヤーだった。

月のタイルの部屋には該当のDVDはなく、それ以前にテレビがなかった。
家族の誰かが会員カードを使ってるということはないかとたずねると

「ないと思います。家族はおりませんので」

俺だけでなくトムさんもぎょっとした。それ以降は少し声のトーンを落として
あなたの個人情報や各種証明書が悪用されている。今後うちの系列での不正利用は防げるけど、ほかの場所で悪用される可能性はある。心配なら、ケーサツに相談したほうがいいですよ。お邪魔しました。お大事に。
トムさんはそうアドバイスし部屋を出て行った。
始終黙ってうしろに突っ立っているだけだった俺もあとについて出て行こうとすると

「あの」

背に声がかかった。

「オルゴールをまわしていただけないでしょうか」
「・・・これすか?」

フリスクの半分くらいのおおきさのオルゴールが薄い手のひらに乗っていた。
指先がわずかに痙攣している。手の甲でイヤホンをとっていたのは指先が上手く動かないからなんだと察した。
断る理由はない。
オルゴールをとり上げ、爪でつまみを回す。

ポキン

「あ」

俺は思わず小さな声をあげてしまった。
つまみ、折れた。
平謝りしてその場はオルゴールを預かりトムさんを追いかけた。





***



数日後、仕事が休みの日に月のタイルの部屋を訪れた。
さんの携帯型カセットプレーヤーはiPodに進化を遂げていた。イヤホンはこの前のまま。手の甲ではずしてゆっくり振り返る。
きれいだった。

「先日の」

覚えられていた。
療養施設にバーテン服着たこのナリじゃ覚えられて当然かもしれない。

「・・・ども」
「こんにちは」
「これ、このまえのお詫びです」

駅ビルで買ったモロゾフのクッキー詰め合わせとラッピングされた箱を渡した。
箱の中身は門田の知り合いに修理してもらったオルゴールだ。格安でもと通りになったうえ、箱とピンクのリボンまで付けて返してきた。不審がる俺に
「だって女だろ」と門田は言い当てた。
「女の人だけど・・・」なんか、そういうんじゃねえし。

後半俺は言いよどんだ。結局そのまま持ってきた。
さんは喜んだ。そしてまたオルゴールをまわしてと俺に言う、性懲りもなく・・・。
俺は嫌だった。
また壊すのが怖かった。
俺の悪評を少しも知らないからそんなことが言えるんだ。
誰かの大切なものを壊すこわさを知らないからそんな軽々しく俺に頼みごとなんてするんだ
なんも知らねえくせに・・・!






(知らない)






この人は俺のことを知らない。

知らない

知らない







ここは切り離された世界















リセットできる。



つまみをやさしく三周回す。
指をはなすと、ぽろん、ぽろんと鳴りだした。

「なんの曲かしら」
「聞いたことある気がしますけど、曲名はちょっと」

曲名も良さもわからない。けれど俺はリセットされているから

「いい曲スね」

高尚なクラシック音楽を趣味にもつ人間のように、心にもないことを紡ぎあげた。恐る恐るだった。
さんは音に聞き入りながらこくんとうなずく。

「荘厳な感じがします、オルゴールなのに」
「・・・そーごんですね」

目の前の女性の所作と言葉から学び、調子を合わせる。そーごんってどんなだ。

「それ、聞いてるの。クラシックとかですか」

イヤホンを目で示し、できるかぎり穏やかに振る舞う。
動きと、表情と、話題。静かな発声で会話をして、やがて椅子をすすめられ、二人でモロゾフのクッキーを食べた。
ここには臨也がいない。
俺を知る人がいない。
俺に暴力を振るわせる奴は誰もいない。
俺は誰も傷つけない、良い人間。
それが偽俺の始まりの日。






***



ワンピース最新刊という免罪符を片手に俺は月のタイルの部屋を何度も訪れた。
そのうち単行本発売の間隔を待っていられなくなり、訪問日はいつしかジャンプの発売日へとシフトしていった。ワンピースのページだけ千切ってホチキスでとめて持っていく。
合併号の次の週なんかは辛抱たまらずアパートの部屋の中を転がりまわった。ら壁を踏み抜いてしまった。
両隣が空き部屋でよかった。つか俺が越してくるまでは人居たんだけど引越し終わって数日せずに両隣とも引っ越した。(ん、俺のせいか・・・?)
隣の部屋とつながった壁の穴と正座で向かい合い、長らく考えてからガムテでふさいだ。ここの大家さんに追い出されたら今度こそ住むとこなくなる。

「あら、さんは罪作りねえ」

足繁くここを訪れる俺を見て受付のおばあちゃんが言った。おばあちゃんが邪推したような色っぽいことは何もない。
あちらの俺なら躍起になって否定し
「だから違うっつってんだろうがああ!」
くらい言うだろう。
あいにくこちらの俺はそんな乱暴なことは言わない。

あちらでは絡んできたチンピラをぶん殴り、こちらでは絡んでいたイヤホンコードをほどいてやる。
あちらでは進入禁止の標識を引っこ抜き、こちらでは庭の雑草を引っこ抜く手伝いをする。
あちらでは自販機を投げ飛ばし、こちらでは紙ヒコーキを飛ばしあう。

「それで最後のところで外側に折って」
「こうですか」
さんそれ逆」
「こっち」
「そっち」

ポケットティッシュに入っていたコンタクトレンズ屋のチラシでヒコーキを作った。
俺が折り方を教え、さんが手のひらの腹をつかってペタン、ペタンと折る作業だ。紙をつまんだり線にそって正確に折るような指先を細かく使う部分は俺がやった。子供っぽい作業だが、指先を動かすのはさんのリハビリにいいらしいので真面目に取り組んだ。
俺のがひとつ、さんのがひとつ完成した。

「見ててくださいね。投げ方は、こうっ」

お手本として俺から先に意気揚々、第一投。
マイナス30センチに墜落した。

「ん・・・、おかしいな。昔はもっとめっちゃ飛んだんすけどね。紙のせいか?」

ぶつくさ床に落ちたそれを拾っていると、

「イテ」

後頭部にサクッととんがったものが当たった。
振り返ればヒコーキを飛ばした姿勢のままさんはルフィのようにあけすけに笑っていた。上品なルフィだ。
頭をさすり、しかし俺は怒らない。

楽しい

嬉しい

なにもかも思い通りの自分だ!

偽俺ならこの人を愛してもいいような気さえして・・・

・・・いや、
そんなんしたらさんにも俺にもいいことはないとわかっている。嬉しいのは偽俺の恋愛が成就したその一瞬だけで、あとはむなしいばかりだろう。
じゃあ愛だの恋だのはいらない。
理想の自分を楽しむことができればそれだけでいい。
そうだろう俺
そうだろう?
そうだ
そうとも
そう
念じながらカビ臭いアパートの布団を頭からかぶって暗闇でケータイを開く。
データフォルダからムービーを選択した。
小さな液晶の中でさんは陽光を背負いにっこり笑って微動だにしない。きれい。
『・・・ムービーすよ』
『え』
『動いて、しゃべってください』
『え、は・・・はじめまして』
『誰に言ってるんですか』
『笑わないでください・・・っ、止めて、ストップにし』
そこで傾き、ムービーは終わる。
(バカップルぽい)
布団の中でもじもじした。ら敷布団が裂けた。






***



ひとつ不思議だったのは来るたび一つずつ、さんの周辺に変化があったことだ。
カセットプレーヤーはiPodに。
古めかしいイヤホンは密閉型ヘッドホンに。
綿の枕は低反発枕に。
パジャマはそのまま外出できそうなルームウェアに。
伸びっぱなしで両サイドに分けていた前髪が短く整い、少し化粧をするようになって、さんが動いた時だけほんのりと香水のにおいがかすめるようになった。いいにおい。

『俺が起こした変化』

うっとりするフレーズが頭のなかをくるくるまわった。

「平和島さん」
「はィ!」

うっとりしていたところで声がかかってしゃっくりのような声をあげてしまった。
さんは入手したばかりというケータイを握りしめている。

「今度、電話をかけてみてもいいですか」
「電話ですか、別にい・・・」

いいですよ、と言いかけてやめる。
気持ちうつむき目を隠す。

「・・・どすかね。仕事が結構遅いんで、出られないかもなんですけど」
「そうなんですか」
「すみません」
「気にしないでください。そういえば、そう、平和島さんのお部屋は壁が薄いと仰ってましたよね。夜におしゃべりしたら周りの部屋の人たちにもご迷惑になってしまいますし」
「・・・」

違うんです。
俺は、あちら側にいるときに、こちら側から電話がかかってきたらどの俺が出ればいいのかわからないから電話は嫌だと言ったんです。
イラだっている時にさんからかかってきたりしたら、せっかく切り離されている世界がつながってしまう。
それはだめだ
絶対だめだ
いやだ

自分が失言をしたせいと思ったのか、目を合わせず口ごもる俺を痛ましく見つめ、

「オルゴールをまわしてくれませんか」

そうっと俺の手においた。
ほかはなにもできない俺にできること
うなずき、優しくまわす。
ポロン、と始まる。
不自然な沈黙がやわらいでいく。

オルゴールを持たせたときのままさんの手は俺の手から離れなかった。
慰めるように、体温をわけるように、離れなかった。
ポロン、ポロンと手のひらの上で鳴るそれが徐々にゆっくりになってきたころ、俺の顔はさんの顔に近づいていた。
寸前で唇はそれて、互いの肩にくちづけるような格好になった。

「ごめんなさい」

どうして謝るの、とさんはやさしい声で俺に尋ねた。

「電話、出れないから」
「・・・」
「ごめんなさい」
「いいの」
「ごめんなさい」
「いいのよ」



あちらの俺は絶対にこんなふうに女の人の細い肩に頭をあずけて甘えたりできない。
偽俺だからできることだ。
なのにどうしてだろうか。
一瞬、本物の俺がそこにいてさんの肩に頭をあずけてしまったような気がした。






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