「よう」
シャッターがおり、『改装中』の張り紙があるABCDマートの前で軽く手をあげたのは門田だ。
「おう」
俺は夕方出勤の最中で、門田は改装作業の休憩から戻ってきたところらしかった。
「そいやこの前、つか結構前だけど、ありがとな」
言い忘れていたので礼を言う。
「この前って・・・ああ、オルゴールか。ちゃんと直ってたろ」
「直ってた」
「誰か北海道行ったのか?」
「なんで北海道」
「あれって北海道みやげだろ?」
十中八九の自信を持って門田は的外れなことを言う。眉をひそめた。
「なに言ってんだ門田、ありゃスイス製だ。見た目も音もスイスっぽいだろうが」
「スイスっぽいっておまえ。遊馬崎と狩沢が同じの見たって言ってたぜ」
「・・・適当なこと言ってんじゃねえ」
ふつと苛立ちがわきおこる。
「こんなこと嘘ついて俺になんの得があるんだよ。北海道物産展にあったってよ」
それ以上拡げる余地もない話題と思ったのか、門田は軽く挨拶して通り過ぎていった。
基央さんは
あれを人からもらったおみやげだと言っていた。スイスみやげだと。ということは、あげた奴は基央さんを騙したのか。北海道よりスイスのほうが遠くてありがたみが増すから、基央さんにありがたみを押し付けるために嘘を言ったのか!
偽俺の件は棚に上げ、ハラワタが煮えくりかえる。
「門田」
「ん?」
「同じの見たのって、どこだ」
「新宿タカシマヤ。あれ年中やっててありがたみなくなってきた感じするよな」
新宿
煮えたぎっていたハラワタが一瞬で燃え尽きる。
俺はいま、なにを連想しかけた?
***
「穏便めに」
と言ったトムさんの言葉も忘れ、標識を投擲し滞納者の服を塀に縫いとめた。襟を掴んで引き起こしガクガク揺すぶっても「ああああ」わめくだけで一向に「払います」と言わないから、怒りにまかせて殴り伏せた。
あれ以来クサレ野郎の顔がチラつく。
虫唾がはしる。
いつも以上に力のセーブがきかない。
「静雄、回収おわった。次行くぞ」
「・・・うす」
「そっちのおっさん。勝手に財布からとらせてもらったから」
トムさんの声は届いていないだろう。すでに気絶していたから。
おっさんの身体をアパートの中に放り込み、標識を元の場所近くに結びなおして歩き出した。
十歩と行かず鼻腔をかすめる。
「・・・くせえ」
「どした静雄」
先を行くトムさんが高架下で振り返り、渋い顔になった。ため息して「先のコンビニで待ってるな」と言った。
俺はその背にお礼とお詫びをこめて頭を下げてから、ノミ蟲野郎を振り返る。
「やあシズちゃん。元気?」
ポケットに手を突っ込んでひょこひょこ左右にステップを踏みながら近づいてくる。
「ぶっ殺す」
「えー?なんで?まだなんもしてないじゃん」
ケラケラ笑ういけすかない声が線路を支えるトンネルに響いた。
「うるせえしゃべるな耳が腐る」
「腐ればいいのに」
「このっ」
「ちょい待ち。今日はシズちゃんと追いかけっこする気はないよ。昼間重いもの運んでたから疲れちゃった」
「・・・」
「ホントにたまたま通りかかっただけ。俺は通り過ぎようとしたのに振り返ったのはそっちでしょ」
「・・・」
つかめる距離だ。
奴はいまそこまで近づいている。なのに体が動かない。
嗅覚だけは過敏なほど正確に機能する。
臨也は言葉通りとおり過ぎ
「じゃあね」
含んで嘲笑う。
遠ざかる。
追いかけない。
心が驚いて
動かない。
臨也の服から、切り離された世界に住むはずのあの人と同じにおいがした。
***
臨也が運んだ『重いもの』が基央さんの遺体だったらどうしよう。
握りしめるケータイの画面はアドレス帳、一度もかけたことのない基央さんの電話番号を表示して立ちつくす。通話ボタンを押せない。
つながるのがこわい。
最悪の事態を知るのがこわい。
五感が鈍りゆくのに六感だけ冴えわたる。
手が冷たい。
喉はからからだ。
上を電車が通り過ぎる轟音さえ遠い。
こわい
ガガガガガ!
びくりと身体が跳ねた。
手の中のケータイが震えたのだ。トムさんからだった。
『静雄、今日はもう終わりだ。最後の回収先からの振込み確認できたってよ』
これになんと返して電話を切ったか覚えていない。
耳を離すと画面に気持ち悪い汗がべったりとくっついていた。
***
肩で息をする俺を見て、基央さんはベッドから首をかしげた。
部屋の入り口で崩れ落ちるかと思うほど心底ほっとした。基央さんはどことなく疲れているように見えた。
「ぁ・・・こんばんは。走ってらしたんですか」
「・・・」
「なにかあったんですか」
ほっとしたというのに俺は部屋に足を踏み入れない。
基央さんは急にベッドから身を乗り出して不安げな面持ちだ。
彼女の膝の上にあるものをじっと見下ろす。
閉じたままのノートパソコン。
初心者用パソコンマニュアルが数冊散らばっている。
空箱は投げ捨てたように床に転がっていた。
「・・・」
「平和島さん?」
ここは月のタイルの部屋。
いまの俺は善良で素晴らしい偽俺、のはずなのに本物の俺が表面から消えてくれない。
表情が動かせない。
「・・・すごいスね」
自分でも声が出たのが不思議だった。
「パソコン」
基央さんは困ったような顔になった。
面の皮ぎりぎりのところで俺はかろうじて笑う。
「膝にのせて重くないですか」
「・・・ちょっと重たいです」
それ以上パソコンについては触れず、基央さんはパソコンを横にどけた。
妙な間があってから基央さんはことさら静かな声で俺に尋ねた。静かだが焦っている。
「やっぱり、なにかありましたか」
「なにってなんスか」
「元気がない気がして」
「元気ですよ」
いますぐにその『重い』パソコンをぐしゃぐしゃにぶっ壊したいくらいに元気です。
ベッドサイドの棚には小さなオルゴールがちょこんと置いてある。
いつもはオルゴールをまわしてと頼まれてから手に取るそれを勝手に取る。
まわしにくいつまみを爪でひねっていく。
ガリ、ガリリと摩擦の音のあとにポロン、と音がこぼれはじめた。
「・・・これ、スイスのおみやげでしたっけ」
オルゴールを棚のはしに戻す。
音は徐々におそく
基央さんはうなずいた。
「北海道らしいですよ」
「え」
「新宿タカシマヤでやってた北海道物産展で売ってたやつですよ、たぶん」
「・・・」
音がとまった。
「臨也にいわれて俺の相手してたんですか」
臨也の名前が出ると、ほうけていた顔に微妙な変化が生じた。
「・・・ちがいます」
世界はつながってしまった。
***
じんわりと怒りが生まれる。
いつもならカッと激昂するのに、偽俺と混じってるからこうしてゆっくり怒っていくのかもしれない。
偽俺が基央さんを騙していると思ったら、騙されているのは俺のほうだったというわけだ。
「臨也を知ってることは否定しないんスね。盗聴器とかついてるんじゃないですか、俺が馬鹿みたいに浮かれてるのを録音して基央さんもそれを笑いながら聞いてたんですか」
「違います。盗聴器は・・・あると思いますが」
「いいよそんなのどうでも。なんであいつと会ってること隠したんですか。色々もらって、相手しといてとか言われてたんじゃないんスか。あー、もう敬語とかどうでもいいし」
頭をかきむしる。
何も考えられない。
考えたくない。
俺のこれまでの振るまいを思い返すのがいやだ。
基央さんがどんな性悪の顔して俺のいなくなった部屋で嘲笑していたのか考えるのがいやだ。いやだいやだいやだ!
こわい
「なあ」
心が横滑りするのにあわせて口の滑りはよくなった。
「・・・臨也とヤッたんだろ」
「平和島さん待っ」
しゃべろうとした口に手のひらをおしつける。臨也と絡み合う肢体を想像した。想像の一方は蟲だというのに下が疼いた。
「においがうつるくらい、なにしたんだよ」
どうして俺はわらう声をあげるのかわからない。細い身体に馬乗りになるとベッドが軋んだ音をたてる。蝶ネクタイをはずした。
「もしかして基央さんて誰でもいい人?」
引き離そうとする膝が背中にぶつかる。俺の股の下で身をよじる。手のひらのむこうでくぐもった声がする。
「じゃ、俺にもさせて」
ひきつった形のまま、口をおさえる俺の手の甲をかいた。
折り紙をまっすぐに折ることも爪をたてることもできない指だ。
くすぐる程度の刺激に両腕がぞくと粟立つ。
ポロン
と、一音だけ鳴った。
棚の上ギリギリにあったはずのオルゴールが床に落っこちていた。
***
はっとして平和島静雄はベッドから飛びのいた
基央は激しく咳き込み、静雄は彼自身がしていたことにしばらく驚愕していた。
無意識のまま逃げるように踵をかえし、
「平和島さん!」
聞かず、月光で青白く見える廊下を歩いた。
だんだん早足になる
エントランスを走り抜ける
緑のアーチから全速力
角を曲がるたびに転びかけしかし勢いは止まず、黒い獣のように疾走した。
平和島静雄はこわかった。
折原臨也が背にしたコンクリ壁から白いポールが生えている。冷や汗した。彼の頭部めがけて闇を一閃した道路標識は、肝心の表示部分が完全に壁の中にもぐっていてなんの標識だったのかもわからない。標識が投擲されている時点で普通ではないが、普通は標識のほうがコンクリ壁に強度で負けて弾かれるべきところだ。
「・・・やだなあシズちゃん。いきなり追っかけてきて何?俺が避けなきゃ死んでたよ」
獣の第六感は恐るべき正確さで臨也の居場所をつきとめ、サンシャイン60通り、首都高高架下、それから先はどこへどう走ったか。明かりの消えた小さな事業所ビルが並ぶ無人の路地でおいかけっこは仕舞いのときを迎えた。
「・・・」
「なにか言ってよ。気持ち悪いなあ」
いつもならば「うぜえ」だの「死ね」だの「消えろ」だの三文字以内の罵詈雑言を吐く静雄である。ガリ、ガリと金属を引き摺る音の接近とともに、電灯が沈黙する平和島静雄の姿を明るみにさらした。彼の手にはすでに次なる兵器、「とまれ」の標識が握られている。通りすがりにむしりとったのだろう。白いポールは静雄の手の位置でくの字にひしゃげていた。
(やばいな)
あらゆる逃走経路を考え、いずれの方法でも標識に貫かれる自分の変死体が思い浮かぶ。
諦めと同時にバケモノ平和島静雄と一対一に対峙する興奮がこみあげてきて臨也は饒舌になった。
「まさかあんなに気に入るとは俺だって思ってなかったよ」
静雄の足はピタと停止した。
電灯の明るみの淵はひときわ暗い。
「なんで怒るの?楽しかったでしょ?エンターテイメントとカキネタを提供してあげたんだから感謝してもらいたいくらいだよ」
「・・・」
「怒ってるの?怒ってるんだ。アハハ!」
「・・・」
「相思相愛だけど俺は暴力バカだから基央さんにふさわしくない。愛してるけど愛しちゃいけない。でももう愛してしまっている気持ちはどうすればいい!?嗚呼、なんて悲愛!・・・・・・みたいな?」
自分を抱きしめ演技がかったセリフを言い、最後にとびきりの嘲りをこめて静雄を見やった。
続く言葉は色を帯びる。
「ざんねん。ぜんぶ俺が仕込んだ幻です」
咆哮した。
平和島静雄はこわかった。
自分の怒りがこわかった。
殺す標識を後ろへ引き、放
***
後ろ手に鈍い感触があり、幻聴があった。
振り向いてから、世界はスローモーションで流れた。
基央さんは後ろへ振りかぶった俺の右腕を両手で掴んでいる。
切り離された世界は自らつながりにきた。はだしのままで。
すわと体が冷たくなった。
頭が大きく後ろへ反っているのは標識が基央さんの頭部に激突したからに違いない。そのまま外出できそうな見慣れたルームウェアの裾が衝撃でなびくのさえゆっくりだ。
俺の腕を掴む手にぎゅっと力がこもり、後ろへ傾いていた頭が正面に戻ってきた。
「だめです」
ひるまない。
おでこの中心がぱっくり開いて、鼻筋をとおって血が流れ落ちる。鼻血が出ている。血のすじは次々増えていく。目に入るかもしれないのに両方の目をしっかり開いて基央さんは俺に言ったのだった。
ガランと派手な音がした。
音ではじめて自分が標識を取り落としたのだと気づいた。
正しく対面した途端、膝から力が抜けて崩れ落ちた。
好きだった
嘘つかれた
かなしい
こわい
思い出ぜんぶ嘘だった
きえてく
こわれてく
ぜんぶ
偽俺じゃない俺が、基央さんのあごを伝ってルームウェアに零れしみこむ血を見てる。
鼻先から落ちたそれはアスファルトをより黒くしてぬめり光る。
あ、ああ、
口が開く。声は出ない。
俺の腕を掴んでいた基央さんの手は、離れた。
離れて二度と戻らない気がした手は、すぐさま、すぐ・・・ほんとに、驚くくらいはやく、両膝をついている俺を上から抱きしめた。
「こわいおもいをさせてごめんなさい。・・・ごめんね」
こわいと口にしたことはない。俺は今どんな顔をしているんだろうか。
俺は汗をかいているのに後頭部の髪をわしゃわしゃされて、背中を何度も何度もさすられる。
場違いに、小さい頃を思い出してしまった。
風邪をひいて夜中じゅう変な咳をしていた。そうしたら明け方近い真夜中なのに母親が起きだして俺の胸にスースーするクリームを塗った。
俺はそのベポラップ的なにおいが苦手で半泣きで嫌がったのに、心の半分はうれしかった。
起きてくれたことがうれしかった。
今と似てる。
怒りもこわさも蒸発してく。
背に高笑いを聞いた。
***
「アハハ!よしなよよしなよ。あげて落とすとは言ったけどさ、あげて落として、またあげて。そのうえ落とすっていうのはさすがにシズちゃんが人間不信になっちゃうから」
臨也は腹をかかえ息も絶え絶えに笑う。
「・・・ここで待っていてください」
怒りの片鱗をみせながら静雄が基央に向けて言いそうなセリフであるが、言ったのは基央だった。立ち上がろうとした静雄の両肩を軽く下におして制し、臨也と基央が対峙する。
額から流れ続ける血をルームウェアの肩で一度ぬぐった。
「ねえシズちゃん。ひとつ断言しておくとこの女は俺のグルだよ」
ツカツカ、いやはだしなのでペタペタ近づいてくる基央を無視して、静雄の背に投げかける。
「顔だけじゃなく性格までシズちゃん好みにしつらえて買ったんだ。人の道にもとる人体実験の産物ってやつさ。知ってた?いまシズちゃんを抱きしめたのも哀れな人間に慈悲をかけるよう頭の中をいじくりまわされているからだ。ためしにこいつの体の中を医者に見せてごらんよ、医者が目を回すから。ハハッ!こんな人間のニセモノにコロっと騙されちゃってさ、シズちゃんかわいそう」
ついに目の前まで来た基央を臨也はさげすみをたっぷりこめて見下ろした。
「ねえ?菩薩さま」
繊手がひらめく。
「いい加減になさい」
快音であった。
叩かれた左頬に手をあてながら臨也の顔はゆっくりと正面に戻ってきた。薄い唇の右はしがきゅっと持ちあがる。
「痛いなあ・・・」
すらと伸ばされた臨也の手には鋭利なナイフがある。切っ先は血塗れる基央の鼻先すれすれだ。
「ほっぺた引っぱたいたらハッとして君に恋するとでも思った?」
「もう恋をしているでしょう」
凛とした基央の声音に、臨也の冷笑から笑いだけがさざなみのように引いて消えた。
「俺があんたに?・・・なに言ってんの、気持ち悪い」
血の奥でひらき、炯と輝く女の双眸。
しかし声はひそやかに。
「私とあなたはライバルです」
静雄には届かないほどひそやかに。
笑む。
振るったナイフは突進してきた静雄によって阻まれ、基央の髪のひと束をハラリと散らすにとどまった。
臨也は彼の知りうる基央の真実を以って罵った。
金持ち、老人、変態、愛玩用、遺伝子、行動パターン、配列、制御、
記憶、劣悪、抹消、内臓、人体実験、犯罪、廃棄、すべてニセモノ
声を荒げる。焦燥し、まなじりを裂かんばかりに見開き、裏腹にステップを踏む。くるくる回り、両手をひろげる。わらう、わらう、むなしくわらう。途切れ・・・。
どれほど大仰に振る舞っても静雄の耳に届いたのは臨也の罵声のうちいくらかのワードだけであった。静雄がワードに反応を示すことはなく、基央の額をシャツの袖で止血する。細い肩をささえて座らせ、青ざめる基央からひとたびも気がはなれなかった。
渾身の力で投げつけたナイフは静雄の腕に刺さらず落ち、アスファルトの上に乾いた音をたてた。
黒いコートはひるがえり、池袋の夜に溶解した。
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