杜王町の六月と七月には大きな隔たりがある。

7月1日に川開き海開きがあり、そのシーズンだけこの町の人口が二倍に増えるのだと、岸辺露伴の家の周りをうろつく高校生が物知り顔で言っていた。
6月24日、今日はどうだろう。
海開きまであと一週を残す海岸沿いの国道は、ジョギング専用コースのようにはるか遠くまで自動車の姿も音もない。海岸でスケッチをしている間も、この道を通ったのは一台の救急車だけだった。いまはただ、波打つ音と大きなスケッチブックを肩にかけた岸辺露伴が帰り路を行くばかり。
その眉がぴくりと上がる。
西日さすアスファルトにひな人形が落ちている。
拾い上げるとお雛様は思った以上にソフトな素材でできているようだった。体のパーツから髪、着物に至るまでその造形は見れば見るほど見事で精巧にできている。
露伴が息するようにひっくり返して人形の股を覗いたのは男のサガというやつだ。
「おいおい」
ここまで精巧に作るやつがあるか。これを作った人形職人は変態に違いない。露伴が嫌悪に顔をゆがませながらも見ていると突然、人形のふとももがぴったりと閉じた。
「な、なにをなさいますっ」
「ちがう!たったいまぼくは拾っただけだ」
露伴は驚きあたりを見回した。
前後に伸びる国道にも海にも人はいない。
「痛っ」
また声だ。
同時にもぞもぞと動く手のなかでうごめいた。
まさかと思って目をやれば、岸辺露伴の手の中で逆さまにされたひな人形が顔を真っ赤にして苦しんでいた。






新手のスタンド攻撃か、あるいはスタンド使いになにかされた普通の人間か、地底人、謎の宇宙生物かもしれない。
早足で自宅へ戻って鍵をかけた。
編みカゴに乗っていたフルーツを転がし、リビングのカウンターのうえでスケッチブックケースのチャックを開け、逆さに何度か振ると人形が落っこちてきてカゴのなかに転がった。
露伴が早足していたあいだに酔ったのか、落とされた衝撃で頭を打ったのか、お雛様は前後不覚に陥り、カゴのなかで膝をついている。そのカゴを、露伴は容赦なくひっくり返した。すかさずその上にフライパンを置いて重しにし、露伴は悪の親玉みたいににやりと笑った。その手では先のとがった丸ペンが不気味に回る。
「君は何者だ」
編みカゴの檻のすきまで額を押さえていたひな人形が、露伴の声に反応して前を向いた。
カゴの網目にすり寄り、隙間から腕を出して逃れようとするが、網目の隙間は彼女の頭や肩よりも小さい。
「おい、答えろよ」
隙間から出ていたきれいな袖を丸ペンの先で軽くつつくとヒュっと袖が中に引っ込んだ。
「君は何者だと聞いているんだ」
網目の隙間から丸ペンをゆっくり差し入れる。小さなカゴの中でひな人形が奥へ奥へと逃げて、追いつめられてゆくのが見えた。ふむ、不思議とたのしい心地である。
「ほら、こんなとがったペン先でつつかれたらどんなに痛いか。さあ、はやく吐いてしまえよ、ほら、ほら」
さらにカゴのなか深くへペンを差し込んでゆくと、「あぁ」と小さな悲鳴をあげて逃げようとしたひな人形の袖だけを、腕を刺さないように正確に素早く縫いとめた。
奥の人形はがたがた震えて、必死に袖を引こうとしているが全長でいえば自分と同じほどもある武器でさし抜かれていては、引きはがそうとする手にも力が入らない様子である。
「っう、うう…」
「勘違いをするなよ。僕は別に君にいかがわしい真似をしようという魂胆の変質者じゃあない。君がナニモノで、どれだけ興味深いネタかを知りたいだけだ」
「お放しくださりませ」
「人の話をきけよ。この丸ペンだって君に突き刺したり、服を破ったりしたかったわけじゃあないんだぞ。こうするためだ」
露伴の背から彼の漫画の主人公と同じ姿の少年が浮かび上がる。
短く息をのむ声を聴き、露伴は確信した。
「やはりそうか!スタンドはスタンド使いにしか見えない。貴様のスタンド能力、この岸辺露伴が暴いてやるぞっ」
目を輝かせてカゴをはじき跳ばす。
「ヘブンズ・ドアー!」
ひな人形が「あ」という驚きの短い声をあげた次の瞬間には、操っていた糸が切れたようにコテンと横たわった。
小さな頬がページとなって翻る
引き出しから研いだ凶器をとり出すように虫眼鏡を取り出し、興奮に目を見開いてページになったお雛様の頬へぐうっと寄せた。
「なになに…」
お雛様の、この世のものとは思えないほど美しい容姿も漫画家・岸辺露伴のネタに対する探究心の前にはなんの意味も持たない。

「今は、昔……」







きのう、隣の学校の男性教師が死んだ。
杜王町の海岸沿いの国道で倒れていたそうで、町ではそのニュースがまたたくまに広がり、住民の間では根拠のない憶測が飛び交った。殺人鬼がまだ町内をうろついているとか、お化けに憑りつかれたんだとか。
ぶどうヶ丘高校二年に進級して三か月、東方仗助、広瀬康一、虹村億泰は昼休みに飛び交う噂話を、まわりの生徒たちよりももう少し身近なものとして聞き耳立てていた。
「ねえ仗助くん、スタンド使いの仕業だと思う?」
「どうだろな」
内緒話の声で尋ねた康一に仗助は椅子を後ろへ傾けながらあいまいに返した。
吉良吉影が引き起こしていた静かなる連続殺人事件に幕を引いた彼らである。スタンド使いの仕業ともう思いたくはなかったがしかし同時にもしそうならば、自分たちがこの町と大切なひとたちを守るのだと、その決意は砕けない。
「そいや、うちのクラスの女子が妙なこと話してたんだけどよォ」
億泰は紙パックのストローから口をはなした。声のボリュームを絞り、億泰にしては神妙な顔つきである。
「となりのガッコの古文のセンセ、死因は心臓ホッサだったんだって」
「それ、なんも妙じゃなくねえか。つうかカップラーメン食いながらよくいちごミルク飲めるなー」
「最後まで聞けって。妙なのはそこじゃなくてよう。なんでもその先生死んだときにさ、たけのこ物語のプリント持ってたらしいんだわ」
「竹取物語だね」
「そう、それだ。なんでも、そのプリントからかぐや姫の名前の文字だけ全部きれーに消えてたんだって。だからその先生殺したのはかぐや姫なんじゃねえか、ってさあ」
仗助と康一は一瞬ぎょっとしたが、竹取物語の文章の中から“かぐや姫”の文字だけ消えている状態を改めて思い浮かべたとき、あまりにも身近に思いつくものがあった。
「それ、穴埋め問題のプリントってことじゃねえの?」
「え!」
「億泰君ったら」
昼休みの教室の一角にしょーもない笑い声が生まれたころ、予鈴が響いた。仗助は「あ」と椅子の傾きを戻した。
「古文で思い出した。康一、辞書貸してくんね?五時間目」
「いいけど、仗助くんこの前新しいの買ったって」
「なんか、またなくなった」
「モテ男はつれーなあ」


きりーつ、れー、ちゃくせぇーき。
先生は喪服で教室に入ってきた。となりの学校の古文の先生の葬式があるのだと、教科書を顔の前に立てた生徒の間で素早くアイコンタクトがかわされた。
「ええと、それじゃあこのまえので袴垂れのところはおしまいでしたから、みんな予習してきたー?次は教科書122ページ、竹取物語。ここまでは期末の範囲だからね」
なに、
違うさ。
どこの学校でもちょうど高二はいま頃に竹取物語をやっているのだ。
「では122ページだから22番、東方くん、立って音読してください」
縁がありすぎだ、とこれにはごちてしぶしぶ立ち上がる。
教室の白カーテンは夏が始まろうとする風をはらんでふくらんだ。

「竹取物語」

「今は昔、竹取の…おう」
「おきな」
「おきなといふものありけり。野山にまじりて竹をとりつつ よろづのことに 使いけり。名をば、さぬきの…」
「みやつこ」
「さぬきのみやつことなんいいける」

放課後、億泰が仗助の教室にやってきた。
揃って下駄箱まで行くと、昇降口に康一と山岸由花子が待っていた。
目があってうなずき、言葉も交わさず昇降口を出た。
億泰の話が杞憂ならそれでいい。ただ、自分の目で、耳で、手で確かめもせずに「こんな穏やかな町で、そんなことがあるはずない」と思って目を背けてしまったなら、この町と人々を守れない。彼らは深く知っていた。
目指すは海沿いの国道、となりの学校の先生が死んだといブブブブ
校門から踏み出した瞬間、仗助のケータイが鳴動した。長く震え続けて、どうやら電話の着信である。
「ああもうなんだよ仗助ェ、せーっかく今“出陣!”ってカンジでカッコよかったのによォ」
「まあまあ億泰君」
「それにあんたそんなにカッコよくなかったわよ。康一くんは素敵だったわ!最高に」
「ア、アハハ…、ありがと由花子さん」
「露伴だ。嫌な予感するなー。…もしもーし」
仗助は電話に出つつ坂道を下ってゆく。
あとの三人も気合をほどいていつもどおりに歩き出した。

「はあ、え…承太郎さん?知ってますけど、なんで連絡すんスか?……え?ちょっともう一回言ってくださいよ。や、別に俺がバカとかじゃなくて先生の言い方が一足飛びっつうか、え、あ…はい…」



「…ひな人形みたいなスタンド?」

三人は目をむいて顔を見合わせた。





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