「でさ、ジャーファルのやつ、最近は“シンドリアのお母さん”なんて呼ばれたりしてるんだ」
フルシア語の授業を終え、部屋に戻ってきたシェハラザードを待っていたのは王様だった。
シェハラザードはシンドリア建国以来、一週間のうち三日は宮殿に仕える官吏たちに語学を教え、三日は宮殿の外の集会所で子供たちに自国語の読み書きを教えている。今日は集会所のほうだった。
授業で使った本を棚にしまっていく後ろで、シンドバッドは愚痴ったり、ディナーに誘ってきたり、とりとめもないことを話している。
「君と同じようなことばかり言うよ」
「そう」
「さすが君が教育しただけある。厳しいのなんのって」
「元気そうで良かった」
シェハラザードは微笑んだ。
「いそがしそうで、なかなか会いにきてくれないから心配していたの」
「ハハッ、そのくちぶり。ジャーファルがシンドリアのお母さんなら、君はシンドリアのおばあちゃんだな!」
シェハラザードは微笑んでいる。
「・・・」
シェハラザードは微笑んでいる。
「?」
「今日は機嫌悪かったなあ。なんでだろ、生理かな」
執務室の机でため息する王の頬に、平手のあとがある。
平手までの顛末を聞かされ、マスルールでさえも(そりゃひっぱたかれる)と思ったくらいだから、ジャーファルはさぞあきれているだろう。
マスルールがジャーファルの様子をうかがうと、彼はこめかみに血管を浮き上がらせ、あきれるというより怒っているように見えた。
「行きましょう、マスルール」
ジャーファルは怒りをシンドバッドにぶつけずに、くるりと踵を返し、王の執務室をあとにした。
マスルールもあとに続く。
「女たらしのくせに、あの人の無神経さにはほとほとあきれます」
「・・・」
「私をおかあさんと言ったのは37564歩譲って許しますが、シェハラザード様はっ、あの方は私より三つ上なだけなんですよっ、ちょっと聞いていますかマスルール!」
「きいてます」
「それをおばあちゃんだなんて・・・!シンにはもったいない人です、まったく」
ぶつくさごにょごにょ
ぶつくさごにょごにょ
結局、そのぶつくさごにょごにょは夜まで続き、マスルールを引きつれ酒場に持ちこまれた。
そこで、マスルールは政務官のとある昔話を聞くことになる。
***
シェハラザードという女が、ジャーファルに関わった。
物音に気づいてベッドのてんじょう裏に張りつく。
両手に投剣を握り、それがやってくるのを待った。
朝のあかるい部屋に現れたのはシェハラザードという女だ。やせ細っていて片腕がない。他の女たちにくらべて髪が短い。
食料ののった銀のワゴンをおしている。
「ジャーファル?」
ベッドがもぬけのカラと女が気づいた瞬間に片方の投剣を打ち込んだ。
女の腕をベッドにぬいとめて、体勢が崩れたところで女の背後に着地する。
首の裏の皮膚があさくへこむ程度の力で投剣を突きつける。
「ジャーファルに関わるな」
ジジジと布が裂ける音がした。
ぬいとめた女の袖が裂けた音。
「また袖が・・・」
残念そうにつぶやく。
つぶやいた喉の振動で、首にあてた切っ先からぷつりと赤い粒がふくらむ。
「ジャーファル。毎朝袖が裂けてしまうのは困ります」
「・・・」
「私はまだ縫い物ができないの」
「・・・」
「あと、首が痛いです」
「・・・」
首にあてていた切っ先を引き、一歩下がった。袖に刺していた投剣も抜きとる。
女がジャーファルの命を狙っているなら、ジャーファルは女を殺す。
けれど女は昨日も、その前も食事に毒を入れたり、毒針を隠し持っていたりしなかったから、ジャーファルも女も生きている。
まずしいスラム街に転がる餓死寸前の女みたいな姿のくせに、女はよく笑う。
いまもそう。
「おはようございます。ジャーファル」
きっと、スラムからシンドバッドにひろわれてきた。
「・・・」
「朝ごはんにいたしましょう」
女の心臓ではなく空っぽの袖を狙うのは、この女が運んでくる食事が毒抜きであるうえに、おいしいから。
くるみの入ったパンが特に。
食料のおかれたテーブル、椅子が二つ。
座る。
座らないと、部屋の中のどこへ逃げても、骨と皮だけの片腕でテーブルをひきずって近づいてくるから。
「いただきます」
「・・・」
「い、た、だ、き、ま、す」
「・・・イタダキマス」
食料を食い始める前に呪文を言わされるのも決まりだった。
これを言うと、女は一人二つあるくるみパンのうちひとつをジャーファルの皿によこす。
毎回つき返す。
「おまえが先にのみこめ。おまえはジャーファルに毒をやると知っている」
シェハラザードという女はひとくちくるみパンを噛んで見せた。
飲み込むところまで見届けてから、パンを奪い返そうと手を伸ばす。
女はひゅっと手を引いてジャーファルからパンを遠ざけた。
咄嗟、テーブルの上に跳び上がり、女の鼻先へ投剣を振りかざした。
女は一瞬のことにびくりと大きく震えた。
しばらく凍って、まばたきすると動き出す。
ゴックンと喉をならしてツバを飲み込むとれいせいさをとりもどし、もとのとおりにうごく。
投剣はまだ顔の前。
「あなたが先にお召しください。あなたは私に毒を盛ると存じています」
「・・・」
「あなたが先にお召しください。あなたは私に毒を盛ると存じています」
「・・・」
「あなたが先にお召しください」
「あなガタさきにおめし・・・」
言い直しさせられるのも、昨日と、その前と同じ。
脅すと一瞬弱り、まばたきで強くもどるのも昨日と、その前と同じ。
刃をひく。
テーブルからおりる。
椅子に座る。
シェハラザードという女・・・あなた、はまた笑った。
ジャーファ・・・わたし?はずっと、あなたがしんせつな理由は、わたしをあざむくためだと知っている。
すきを見せればジャーファルを殺すだろう。
***
殺されないまま、一ヶ月過ぎた。
あなたはわたしにことばづかいとマナーを教えた。
さらにしばらくすると、数学と語学のじゅぎょうがはじまった。
わたしが一日にすることは、ごはん、洗濯、宿題、授業、散歩、寝ること。
あなたは昼のうちは使用人たちと一緒に屋敷の掃除をして、午後になるとわたしに勉強をおしえる。
あなたはわたしといるときはていねいな言葉づかいをした。
屋敷の主、シンドバッドと話すときには、もうすこしくずした話し方をしていたと思う。
授業のあと、夕方の散歩はわたしがあなたの手を拘束し、先を歩かせる。
あなたには左腕がないから、右手首の骨を掴んでおけば後ろからブスリとやられたり、振り向きざまにザバっとやられたりすることはない。
こちらの身の安全が確保できると思ってそうしていた。
後ろからブスリとやられたり、振り向きざまにザバっとやられることもなく、油断とともにいつしかわたしの掴む手の位置は手首の骨の位置から下がっていった。
下がりゆくわたしの手がすりぬけないように、あなたの、わたしよりもほそい指はゆるいカギをつくっている。
屋敷は丘の上にあって、見下ろせば夕日で金色にひかる海と町が一望できた。
あなたは「きれい」と感動した。
はじめて見るようなくちぶりだ。
それはおかしい。
「ここに住んでいたのではないですか」
「二年前まで、この海の向こうにいました」
海に沈む夕日を見つめ、目をしかめたのは、まぶしくてでしょう。
「二年間ここから景色を見ませんでしたか」
「怖いような気がしてあまり外に出ていなかったのですよ」
「・・・こわいですか?」
「いまはジャーファルがいるから怖くないわ」
あなたは微笑って、わたしは誇らしいという気持ちをはじめて知りました。
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