私はほかの使用人たちと同じように、あなたを「シェハラザードさま」と呼ぶようになった。
シンドバッドにはまだ様付けで呼んだことはなかった。
屋敷の雑用や、市場への買出しを手伝うようになって見聞がひろがるうち、ふと疑問が芽生えた。
(なぜシェハラザードさまはシンドバッドの奥様ではないのだろうか)
屋敷の人々には、シェハラザードさまを奥様と呼ぶ人はいない。
私の見識がいま少しひろければ、囲い女という可能性も考えたのだろうが、当時は知らずそこには行き着かなかった。
疑問が晴れないある日のこと、買出しから戻ると玄関で商人と使用人が立ち話をしているのを聞いた。
「どんなにいい品でも買えないよ。それは既婚の女が身に着ける色じゃないか」
「港で聞いたはなしではこちらにはお美しい恋人がお住まいとか。若い男女が結ばれるのなどあっという間ですよ。先に整えておけばあなたは用意のいい使用人として旦那様に気に入られましょう」
「いや、結婚はなさらないだろう」
「どうしてです?」
「なに、大きな声では言えないが、お医者の話ではね。恋人さまはお子ができないそうだから」
それを聞くと商人はあきらめ、とぼとぼと丘を下って帰っていった。
(シェハラザードさまはお子ができない)
お子ができないことに悩んで、だから結婚なさらないのか。
そのことばかり考えながら歩いた。
「おいジャーファル。厨房はここだよ」
声に弾かれる。
私が抱えているのは今日の使用人たちの夕食のための食材だから、厨房を通り過ぎてしまったのを料理人が見咎めたのだった。
「ぼうっとするんじゃない。先月みたいに給金を0にしてしまうぞ」
私は屋敷で働き、対価をもらうようになっていた。
買ってきた魚のうろこに傷がついていると難癖つけられて、先月は給金をもらえなかった。
シンドバッドが四度目の迷宮攻略に出て以来、賃金はおそろしく不公平な金額にされた。しかし暗殺以外の相場を知らなかったので不公平と思うことはなかった。
またある日、買出しのために朝の市場へ行ったときのことだ。
並んで歩く夫婦の何人かの腰に、親指くらいの大きさの同じ人形が結ばれているのに気づいた。あれはなんだろうと強く関心をひかれたのは、おなかの大きな妊婦はきまってそれをつけていたからだった。
そのときだ。
「おまもりだよ!おまもりだよ!」
威勢のいい声が聞こえた。
市場のさきにひとだかりができている。
「幻の海馬のたてがみでつくった子宝のおまもりはいかがだい!すばらしい才能をもったお子をさずかると東の都で大評判の代物だよ!」
買わなくちゃ!と跳びあがった。
そう、文字どおり跳びあがってひとがきを越えておまもり売りの商人の前に着地した。
目を丸くする商人に尋ねる。
「おいくらですか」
商人はびっくりしたまま手のひらをひらいた。
銀貨五枚
慌ててポケットに手を突っ込む。
買出しのための金貨は使い終わっていたから、ポケットの銀貨五枚は自分のもつ全財産・・・。
「シェハラザードさま、シェハラザードさま」
市場から帰ったその足で、給金0も忘れて厨房を通り過ぎシェハラザードの部屋に駆け込んだ。
「ジャーファルどうしました。そんなに急いで」
「これ、街で流行っているおまもりです。きっとよいお子を授かります」
肩で息をしながらおまもりの人形を差し出す。
シェハラザードはたいそう喜んで「大切にします」と受けとった。
***
(シェハラザードさま、よろこんでた)
昨日のやりとりを思い出すだけで頬がゆるむ。
薄暗い厨房の奥で床を拭くお役目にも力が入る。
「ちょっと、これを見ておくれよ」
廊下とつながる厨房の入り口がざわっと騒がしくなった。
使用人たちのいつもの世間話だろう。勤勉なジャーファルは掃除の役目を続けた。
「シェハラザード様の寝台のそばにこんなものが」
シェハラザードと聞き、ジャーファルは厨房の奥からこっそり顔を出す。
集まった使用人たちのひとりの手に昨日ジャーファルが贈った人形がぶらさがっている。
大人たちは汚いものでも見るように顔をしかめた。
「また誰かの嫌がらせだろう」
「捨てておけよ」
「いや待て。本当にお子ができないと決まっているのかい?」
「聞いたろう。鎖につながれて乱暴されているうちに、内臓ごと壊れちまったのさ」
背筋がぞっとして、全身が冷たくなった。
そのくせに心臓がどくどくと音をたてる。
ジャーファルは食材を調理する台の裏にうずくまり、なにも考えられないのに考えた。
どうしよう
どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう
でも
シェハラザードさま、よろこんでた
ちがう!
あれは、私が傷つくから、我慢してかなしくないふりをしていたんだ。
かなしませたんだ。
かなしませてしまったんだ。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう
どうし
「すみません」
シェハラザードの声がして、ジャーファルは咄嗟に口を覆った。
ドンとひときわ強く打った心臓の音が口から漏れることを恐れたのだ。
シェハラザードが話しかけたのは、どうやらたむろする使用人へ向けてだった。
「小さな人形をどこかで見た方はいらっしゃいませんか」
「え・・・」
使用人たちの声や空気に緊張の色がまじる。
いまの会話を聞かれやしなかったかと怯えているのだ。
「こ、これでしょうか。さきほど向こうに落ちていましたもので・・・」
「はい、それです」
シェハラザードの声がきゅうに明るくなった。
「拾ってくださってありがとうございました。大切なものだったのです」
「それはようございましたでは私どもはワイン蔵へ用事がございますのでこれで」
ぞろぞろと全員が足早に厨房を出て行くから、シェハラザードは不思議に思って全員が出て行くまで厨房の入り口にとどまった。
どこかへ立ち去ってと調理台の裏で祈っていると、しかし逃げる使用人のひとりが去り際に厨房へ言葉を投げた。
「ジャーファル、火を見ておいてくれ」
断獄の声であった。
「ジャーファル・・・?」
調理台の影から出て立ち上がる。
「ああ、ジャーファルいたのね。ごめんなさい、せっかくのプレゼントをなくしてしまって」
プレゼントをどこかで落としたと思っているシェハラザードは、申し訳なさそうにジャーファルのそばまで歩いてきた。
「すててください」
青い顔をしたジャーファルが床に向かって言った。。
「え」
「捨ててください」
「ジャーファル、急にどうしたの」
「捨てろよっ!」
シェハラザードの手から人形を奪い取る。
ジャーファルが本気になればシェハラザードがそれを阻めるはずもない。
一拍遅れて人形へシェハラザードの手が伸ばされた直後、ジャーファルはかまどの火の中へ人形を投げ込んだ。
シェハラザードは燃え盛る火の中へ手を突っ込もうとした。
びっくりしてジャーファルはシェハラザードの腕にとびつく。
二人まとめてすっころぶ。
ばっと振り返る。
シェハラザードの右手はかまどに届いていない。
指先は白いまま、火傷はない。
その先でおまもりの人形がジュッと音をたてて燃え、縮み、またたくまにかまどの底にたまる燃えカスと同化した。
「あ・・・」
同じく床に倒れたシェハラザードも人形が燃え尽きるのを見たようで、かなしそうな声をこぼした。
いまさらになって、シェハラザードを床に倒してしまったことに「わ!」とおののいた。
「すみません、シェハラザードさまっ、あ・・・お、お怪我は!?どこか、折れたり、ごめんなさいっ、痛いところは、痛いところはありませんかっ」
「・・・」
シェハラザードは起き上がりながら腕をみたり、肩の後ろをふりかえったり、悠長な動作でやってみせる。
あわてふためくジャーファルに
「あら、たいへん」と大きな目を見開いた。
「え!?」
「左腕がとれてしまいました」
「え・・・それは元から、です」
ジャーファルのあせりをくじくと、シェハラザードはにこりと優しく微笑んだ。
「そうでしたね。それ以外はなんともありません」
確信犯だ。
ジャーファルは後悔と焦りとケガがなくてほっとしたのとで混乱し、表情をぐるぐる変えながら最終的には泣きそうな顔になった。
「シェハラザードさま、ごめんなさい」
座った形で向かい合うととても近い。
「なにも知らなくてっ、ごめんなさい」
無意識にシェハラザードの服の布をぎゅうと握り締めていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「いい子、いい子」
シェハラザードはジャーファルの額をみずからの胸におしあてて、背をトン・・・トンとおなじリズムでたたいた。
「うっ」
「これほどやさしい子を神様がさずけてくださった」
「ううっ」
「おまもりのおかげでありましょう」
ジャーファルはうぶごえのように、声をあげて泣いた。
***
「と、いうことがありました」
ジャーファルはカウンター席につっぷし、シェハラザードがいかに包容力に優れ、尊敬に値する人物かを後輩マスルールに語って聞かせた。
グラスの水滴はカウンターに大きな水たまりをつくっているが、しかし手放さない。
だいぶ酔っている。
「いい話すね」
「私が14歳のときの話だと言ったら?」
「・・・」
「恥ずかしくて吐きそうなのでなにか言ってくださいマスルール」
「いい話すね」
「うそだ、ぜったい恥ずかしいヤツだって思ったでしょう。8歳くらいの頃の話だって思ってたでしょう!」
「思ってますん」
「どっちだよ!」
ジャーファルは「シンのバカ、シェハラザード様のバカ、なんでシンなんですかすごいわかる気もしますけどなんでなんで」と複雑なことを言いながら眠ってしまった。
マスルールは、シンドリア王国が崩壊するのは意外と痴情のもつれからかもしれないと思ったり、思わなかったりした。
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