すべての秘密は石碑の裏に
「わざわざ送ってくださってありがとうございました。シェハラザード先生、よければ中でひと休みしていってくださいな」
「どうぞおかまいなく」
「それじゃあお見送りだけでもさせてください。ホラ、ヘンな密航者が増えているって噂もあるじゃないですか。じき主人が帰ってきますので」
これを丁寧に辞すと、母親の腰の横から子供がぴょこりと顔をだした。
「先生さようなら」
「さようなら、よい夜をお過ごしください」
「よいよるをおすごしください!」
子どもは言葉を真似て手を振り、その母親はぺこりと戸口で頭をさげてシェハラザードを見送った。
シェハラザードは笑顔で会釈し、家路についた。
からっぽの左袖が風にふわふわとひるがえる。
シンドリア王宮、緑射塔への家路。
とっぷり暮れた夜空を見上げる。
遅くなってしまった。
集会場での授業は夕方には終わる。
しかし今日は熱心に質問をしてくる子たちの相手をしていたら日が暮れ、家まで送っていった結果こんな刻限になってしまった。先ほどの奥様が言ったとおり、最近夜の路地に女子供を連れ込んでいかがわしい振る舞いをする痴漢が出るとの噂があるのだ。
家々からこぼれる橙色のあたたかな灯りの間を歩く。
王宮への家路は長い長い上り坂。肩にかけた大きなカバンには集会場での授業道具一式がおさまっている。ズシリと重い。
このカバンは二年前の誕生日にジャーファルが贈ってくれたものだ。
丈夫で機能的であることが重視されたカバンには、一方で女性への贈り物にふさわしい装飾は一切みられない。肩掛けにヨソから取ってつけたような赤い造花がひとつ結んであるが、これは贈り物を用意したあとにその無骨さに気づいたジャーファルが、慌てて夜なべして作ったものらしい。
やや下手くそなところがジャーファルらしいとシェハラザードは気に入っている。
ふと、橙の光源が弱まっていることに気づいた。
足元を見た。
夜が色を増している。
顔を上げる。
向かう先の王宮は輝くというのに、その途中の道はシェハラザードの二歩先からいよいよ真っ暗であった。
ごくりと喉がなる。
かぶりを振る。暗闇を怖がっていい年ではない。
踏み出した。
ふくろうの視線
ぱっと振り返った。
橙色のほのあかるい道があるばかり。
人はない。
誰も。
汗がつたい、足元をさっと冷たい風がさらった気がした。
シェハラザードはカバンの肩掛け紐の位置を直すと改めて王宮へ歩き出した。手は肩掛けを握りしめたままになったのは無意識だった。
しばらくいくと、今度は足音を聞いた。
ついてくる?
「・・・」
ついてきている。
確信に変わった。
しかし、心配はいらない。大丈夫、王宮への一本道までたどり着ければ、顔見知りの衛兵が立っているはずだ。大丈夫、早足に
背後から両肩を掴まれ、路地に引きずり込まれた。
「痴か…っ」
痴漢!
と叫ぶ声はのどの奥に封じられた。
口には固い手のひらが押し付けられている。
「んっ!んん…!」
変態!
と叫ぶ声ものどの奥に封じられた。
「し、しー!シェハラザード、俺だよ」
オレオレ詐欺!
と叫ぶ声もまたのどの奥に封じられ、・・・聞き覚えのある声にハタとまばたきした。
暗さに目が慣れ、男の輪郭の内側が見えてくる。
「…シン」
「そう!」
シェハラザードは抵抗をやめたので、ここでようやくシンドバッドの手がシェハラザードの口からはなされた。
「あなただったの」
「ハハッ、びっくりした?」
「女子供にいかがわしい振る舞いをしている痴漢というのは」
「違います」
***
誤解を解くと、金持ちの三男坊のような無責任な格好をしたシンドバッドは紳士ぶって胸に手をあて
「今夜ご一緒しても?」
とカッコつけて誘った。笑んだ唇からのぞいた白い歯は暗闇なのにキラリと光る。
シェハラザードはうなずかず、首をかしげた。
「ジャーファルには言ってきたの」
「・・・言ってないけど」
「では王宮にお戻りください」
シンドバッドの顔が急にムッとふくれた。
腕組みし、プイとそっぽを向く。
「いやだ」
「みなを困らせないでください」
「い・や・だ」
「?」
「丁寧語はいやだ!」
シェハラザードは黙り、きょとんとした。
きょとんとしてから息をもらして笑った。
「じゃあ。帰りましょう」
許され、ようやく二つの影は王宮への帰り道を歩き出した。
歩き出してもシンドバッドは天をあおいで
「デートしたいー、デートしたいー」と繰り返す。
「帰り道デートね」
「俺はもっとちゃんとしたのがいいんだ。ああ、荷物持つよ。うわ、重っ」
シェハラザードの大きなかばんをひょいと取り上げ、シンドバッドはその重さにびっくりした。肩にかけ、あきれた声をあげる。
「いつも言っていることだけど君はさ、夜道を一人で歩いたりこんな重い荷物を抱えて坂をのぼったり。危ないから従者をつけてくれないか」
シェハラザードは幼馴染の心配性を小さく笑って「大丈夫よ」と言いながらシンドバッドの肩にかかった自分のカバンを引っ張った。
かえしての意味。シンドバッドは返さない。
「心配だから言っているんだ」
カバンを取りに来た手を逆につかまえ、語調を強めた。二人の足が止まる。シンドバッドの目は一心にシェハラザードにそそがれる。
夜風でシンドバッドの髪と、シェハラザードの薄手の左袖がふわりと舞った。ほんの一瞬、シンドバッドの視線が途切れた左腕にいったのを、今まで見つめ合っていたのに気づかないはずがない。シェハラザードの指はすばやくシンドバッドの手からすりぬけた。
ばつが悪くなったのか、シンドバッドは話を切り替えた。
「俺が去年あげたカバンも使ってほしいな。よく似合うよ。だって留め具の宝石は君の瞳と同じ色にしたんだからね」
「ええ、とても綺麗。けれど普段使うにはもったいない感じがして」
シェハラザードの肩書きは一介の文官である。
シンドバッドの縁故のみによって高待遇をうけるのははばかられ、23歳のときに官吏登用試験を受け、合格した。賃金は雀の涙ほどだが、食事は王宮の食堂がある。住む場所は官吏として緑射塔の一角が与えられている。服はこの官服がある。相応の生活をしていれば金に困ることは無かった。
「じゃあパーティーで持つといい」
「そうね。そうする」
シンドバッドや八人将、高官たちと違って、末端の文官にパーティーなどそうそうあるものではない。いなされたと気づいたのか、シンドバッドは不満そうだった。
行く先に王宮の門が見えてきた。シンドバッドの肩にかかったカバンをくいくいと引っ張る。
「ありがとうシンドバッド。そろそろ」
「・・・」
「もうすぐ門番の子たちがいるから」
シンドバッドは心底不満という様子だったが、何も言わずシェハラザードへ肩掛けのわっかを戻した。けれど重みが返ってこない。
「じゃあ、こうする」
シンは荷物が詰まっている部分を両手で抱えていた。妥協案というわけだ。
しつこくも愛嬌のあるやり方にシェハラザードは思わず笑ってしまった。
「あと、こう」
すきありとばかり、チュウされた。
***
「おや、シン。前傾姿勢でどうなさったのですか。つーか今までどこにいたんですか」
壁を頼りに執務室に帰ってきた主に、書簡を抱えたジャーファルは訝しげな顔を向けた。
シンドバッド王はひどく憔悴した様子で、とさかはタランとしなだれている。
力なく、くずれるように椅子に座った。
「シェハラザードにグーパンチされました。腹に・・・」
「なんでです?」
「“ただれている”って」
「まったく、今度は何をしでかしたんですか」
「軽くジャレついただけなのに」
「なんだかよくわかりませんが、だいたいシンが悪いと思いますので大いに反省してください。あとこちらはあなたがシェハラザード様にふしだらにジャレついている間にたまった報告書です。しっかり目をとおしておいてください」
ドドスン!
といういやな音とともに、シンドバッドの木卓にお仕事が積み上がった。
「ヒドイッ、俺は傷心なんだぞジャーファル!」
「バルバッドの船舶貿易中止に関する調査報告書、国営商館における掛売り金及び掛売り金の受領状況に関する報告書、それと海上部・治安部から出ている密航者に関する共同調査報告書は明日の朝議で扱いますので、必ず今晩のうちに確認してください。残りの資料はすべて明日中には確認してください」
「優 し く し ろ よ ゥ!」
「上から緊急度が高い順に並べています。これが私の優しさです。バルバッドの件は十中八九、直接出向いての交渉が必要になる見込みです。日程は明後日にお知らせします。では私はこれで」
ぐすんぐすんいいながらも書簡を手にとったのを見届け、ジャーファルは執務室の扉を静かに閉じた。
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