翌朝、改めて
弱いノックのあとに、頭に白いターバンを巻いたシンドバッドがぴょこっと顔を出した。
「・・・やあ」
全身はみせないまま、おっかなびっくりな表情だ。
声もどこかぎこちない。
ベッドに腰掛けていたシェハラザードは少しだけ驚いて黙り、それからこちらもぎこちなくニコ、と笑う。
「おかえりなさい、シンドバッド」
かすれた声はそのままに。
時がすすみはじめた。
毎日小さな変化があった。
毎朝の食事を、シンドバッドとシェハラザードはふたりでひとつのテーブルをかこんで食べるようになった。
シェハラザードはここに来てからほとんどこの部屋を出なかったと聞いて、シンドバッドは屋敷のなかや、庭の見所を一日に一箇所ずつ案内してまわった。冒険好きのシンドバッドらしく、地下の抜け道や、隠し小部屋がいくらもあった。
「すごいのね。ずっと先まで続いている。この抜け道はどこへ通じているの」
「気に入った?町の歓楽街のほうだよ」
シンドバッドは太陽のように笑って答えた。
シェハラザードは月のように微笑み、「そう」と夜闇のようにあいずちした。
***
案内のあいだ、使用人とすれ違うたびシンドバッドはシェハラザードのことを紹介した。
男性には「俺の大切な人だ」と説明し、女性には「幼馴染だ」とシェハラザードを紹介した。
「どうして相手によって違うの」と尋ねると
「男というのは油断ならないものでな、君の魅力に気づいたら主人の幼馴染と知っていても手をだす輩がいるかもしれない。だから大切な人だとけん制しておくことが重要なんだ」
と迷いなく答えた。
シェハラザードの疑問はシンドバッドが女の使用人に対してだけ「幼馴染だ」と紹介したことにフォーカスしていたが、シンドバッドの回答は別のほうにフォーカスしていた。そのため、シェハラザードが納得できたのは「男というのは油断ならないものでな」の部分だけだった。
事実、周囲の使用人たちのなかには、シェハラザードが美人だと気づき、見直しはじめる者がでてきた。
髪は首の横で結べるくらいに伸びて、体型も少しだけ健康的なほうに近づいた。どの程度か具体的にシンドバッドに言わせると「おっぱいに触りたいと思うくらい」とのことだ。
シェハラザードはシンドバッドがいないときにはまだ男の召使いたちを避けがちだったが、傍付きの使用人のなかには友だちもできた。
***
シンドバッドは冒険の話を一切しなかった。
それは2度目の冒険の間にシェハラザードが傷つき、傷ついたシェハラザードとどう接していいかわからずに3度目の冒険へ逃げ出したうしろめたさからだった。
冒険の話などしたらシェハラザードがいやな思いをするかもしれないと思うと恐ろしくて、とてもとても、話す気にはなれなかったのである。
けれどある日、シェハラザードのほうから「冒険のはなしをきかせてほしい」と頼んできた。
以来、シンドバッドは毎晩冒険の話を聞かせ、シェハラザードを楽しませた。
なんといっても迷宮を三つも攻略してきたから、話しても話しても冒険譚は尽きなかった。
シェハラザードが笑ってくれるのが何より嬉しい。
眠るまで横の椅子に座って話して聞かせ、シェハラザードが眠ってしまったらランプの火を消して部屋に帰った。
シェハラザードとヘンなコトをしたことはない。
お医者が言った「子供は生めない」という言葉の意味が、機能だけが壊れてしまったということなのか、シェハラザードのなかが壊れてしまったということなのかわからなかったし、聞けなかったからだ。
・・・キスはしました。
***
かつて暮らしたあの町でもう一度革命が起き、あたり一面焼け野原になったと船乗りたちから聞いた。
新しい領主の名はシェハラザードもシンドバッドも知らない人だった。
シンドバッドの口からそれを伝えると、シェハラザードは冷静にうなずいて一瞬微笑み、唇のはしがひくと震えたかとおもうとうつむき、奥歯をかみ締めて涙を一粒こぼした。シンドバッドは黙ってそれを抱きしめた。
***
またある日には、上腕の半ばで途切れた腕の治療に立ち会った。
「イタタタタタ!痛い!お医者さん、やめてくれ!」
目を覆い悶絶するシンドバッドの横で、平気な顔のシェハラザードがお医者に患部を診てもらっている。
「もうちっとも痛くないわ、シンドバッド」
「そ、そうかい?」
指の間からチラリとシェハラザードを覗う。
しばらくじぃっと左腕を見て、隙間をつくっていた指がパシっと閉じた。
「やっぱり痛い」
トサカのように立つ髪が力なくしなだれる。
「本当に痛くないわ。それにシンドバッドは痛くないでしょう」
「だって・・・痛そうじゃんか」
「では外で待っていてください」
「それはやだ」
「もう、そんな子供みたいに言って。シンがついて来ると言って聞かなかったのに」
「・・・」
「前にしてくれた、巨人の島で船長さんが食べられてしまったときの話のほうが、ずっと怖くて痛そうだと思います」
「あれは君じゃないもの」
そうこうしている間にお医者はカバンを閉じて帰ろうとしていた。
「あ、お医者さん、まだシェハラザードに薬をやっていませんよ」
慌てて引きとめたシンドバッドにお医者は言う。
「もう薬なしでも大丈夫でしょう。では私はこれで。どうもごちそうさまでございました」
***
「この子はジャーファルというんだ」
部屋で本を読んでいたシェハラザードのところへ、ある日シンドバッドが子供をつれてきた。
12か13歳くらいだろうか。シンドバッドの友人にしては幼く、隠し子にしては大きい。
白い肌と、銀のように輝く髪は精霊のようにきれいだが、目つきはするどく、まるで獣だ。
「ジャーファル、あの人はシェハラザードだ。俺の幼馴染」
幼馴染と紹介したということは女の子だと、シェハラザードは変な判断を下した。しかし、(まさかシンドバッドでもあんな子供に手を出すことはないだろう)とまで思い至り、シェハラザードはジャーファルを歓迎した。
「ジャーファルにはまだ友だちがいないんだ。仲良くしてやってほしい」
「もちろん。はじめましてジャーファル。とても綺麗な髪の色ね」
「・・・」
ジャーファルは答えなかった。
冷たい目をして黙っているその姿に、シェハラザードはしばらく前の自分の姿を重ねていた。
本を置いてそばまで寄り、絨毯に屈み目線をジャーファルより下にすると、もう一度優しくはなしかけた。
「はじめまして。ジャーファルはどこから来たのですか」
「・・・」
シェハラザードの目をじっと見てはいるものの、一言も発しない。
シンドバッドは笑って助け舟をだした。
「俺の暗殺者として差し向けられたんだ」
助け舟に当て逃げされて、バランスの悪いシェハラザードの体はよろめいた。
すかさずシンドバッドが支える。
「とまあ、危なっかしい二人だからちょうど良いかと思ってな、ハハハ!」
笑いごとではない。
笑いごとではないジャーファルとシェハラザードの物語はまた別の機会にお話しするとして・・・
***
「けどな、船にむらがってきたのは猿たちだったんだ。猿といっても小さいのじゃない。真っ黒のゴリラみたいな連中で力が強いしすばしっこいのなんのって。俺たちはフン投げゴリラのフンみたいにあっという間に船から放り出されたというわけさ」
シェハラザードが眠るまで楽しい冒険の話をきかせる日課は、一日も欠かしたことがない。
話の流れによってはシェハラザードを怖がらせたり、びっくりさせてしまったりするけれど、最後は笑えるようにもって行く手腕は、我ながら見事だ。
いまもほら、シェハラザードが肩をゆらして笑ってる。
これほど嬉しいことはない。
幸せだ。
「あいつらめ、次こそは絶対こらしめてやるんだ!」
座っていられずに立ち上がりジャブ、ジャブ、ストレートのシャドウボクシングをして見せて、はっとした。
シェハラザードの肩の揺れはいつのまにか止まっている。
「・・・」
怒っている様子はない。
口元には微笑がある。
でも黙っている。
「ごめん。うるさかったかい。もう夜遅いものな」
しぼむように着席する。
へんな沈黙がおちてから、シェハラザードはやさしい声で言った。
「・・・シン。次はどんな冒険に行くの」
「え」
輝きをとりもどしたうつくしい瞳がじっと俺を見つめている。
「い、行かないさ。なにを言っているんだい」
「・・・」
「君と話していたほうが楽しいからね!」
俺は「太陽みたい」とシェハラザードが褒めてくれる笑顔で言う。
シェハラザードはこまったような顔をした。
「どうか行ってきて」
どこかへ行ってしまえと、その言葉こそ俺が最も恐れていた言葉だった。
怖気づいた俺に気づいて、「そういう意味ではありません」とシェハラザードは首をゆっくり横に振る。
「風をつかまえておくことは誰にもできないもの」
「ううん。俺は君といたいんだ」
シェハラザードの右手に重ねてぎゅっと握った。
「愛しているよシェハラザード」
「もう、腕はちっとも痛くありません」
「・・・」
「お屋敷のなかで友だちもできたわ。みんなおおらかで、いい人たちです」
「・・・」
「ジャーファルも何かと手助けをしてくれます。あの子はとてもしっかり者よ。だから、だからね」
「・・・」
「わたしはもう大丈夫」
きみが太陽みたいに微笑う。
「また、シンドバッドの冒険のおはなしを聞かせて」
俺は言葉を失って、口をつぐんだ。
考えて
考えて
考えた。
考えれば考えるほど、シェハラザードにはすべてお見通しのように感じられる。
下を向いて、シェハラザードに赤くなっているであろう顔を見られないようにした。
胸が熱い。
意味もなく指でこめかみをかいた。
「なんだか、最近の君はすごいな。なんというか・・・しなやかだ」
「助手にしてくれる?」
俺はガバと顔を起こした。
ああ
ああ・・・!
聞きたかった、なつかしい言葉
心が風のように天空へ舞い上がった。
泣きたいくらいに笑う。
答えはきまっている!
「だめさ!」
それからシンドバッドは何度も冒険の旅にでた。
いくつもの迷宮を攻略し、王国を築き、冒険好きの貧しい少年シンドバッドは、シンドバッド王になった。
王様になっても冒険から帰ったその日には必ず、かわらず、ずっと、ずっと
「やあ」
「おかえりなさい、シンドバッド」
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