かの島は突然に現れた。
彼らは自らの国を孤島と呼んだが、その面積は実に五領をも上回るのだから大陸といってふさわしい。
ティスビムの人々が一夜のうちに姿を変えた水平線を臨んで大いに動揺したのとほぼ同じころ、
「星霊たちがびっくりしてる」
メナンシアにいたリンウェルが突然宙に目を瞠り、フルルが狂ったように頭上を飛び回ったことで、アルフェンたちもすばやくこの異変を察知した。
翌日にはアルフェン一行はガナスハロスに駆け付けた。
三日目にテュオハリムの指示で調査隊が組まれ偵察に向かった。調査隊は戻らなかった。
七日目に、豆粒みたいな調査隊の船を先頭に、大軍船団が沖を真っ黒に埋め尽くした。
レナ人もダナ人も等しく困惑し、戦慄し、答えと助けをもとめて一人の男をふりあおいだ。
その男、テュオハリム・イルルケリスは
「歓待するよりほかあるまい」
迷うそぶりも見せず、ため息交じりにそう言った。



戦艦の主砲塔はそろってガナスハロスを向いていたが、先頭の船から鋼鉄の跳ね橋が下ろされると、戦艦群のぴったり中央から左右に分かれ、その向きをかえた。
黒衣の兵士たちが槍と大盾を手に整然と上陸してきた。先鋭部隊にしては重装備である。黒い鋼鉄の鎧には金と銀の装飾が入っていて、礼装のようにも思われた。無言の兵士たちは二列を成して向き合った。
その間をいま、進んでくる者たちがある。
「あれがこの騒動の主役だな」
柄に手をかけてアルフェンが前に立った。
「アルフェン」
テュオハリムはこれを冷静にいさめて、後ろにさがらせた。
「ここで戦うわけにはいくまい」
黒衣の二列の外には非武装の民衆が、なにごとともわからずに、恐れるべきものとも知らずに、ぽかんと口をあけて取り囲んでいる。
一番前の二人の顔が見えてきた。
一人は鮮やかな赤い髪を長く伸ばした、よく言えば華やかな、悪く言えば軟派そうな三十半ばほどの男だった。長身で、背よりさらに高い大槍を携えている。薄い弧をかいた目はテュオハリムの、その後ろにいるシオンとキサラを品定めするように動いていた。
もう一方は怜悧な美男子であった。幅の薄い細長のめずらしい剣を帯びている。
この二人を双璧として、その後ろに立つ威容の大男こそが今回の首魁とみて間違いないだろう。
日差しをうけてつるりと光るスキンヘッドとその巨体はカラグリアの領将ビエゾを思い起こさせるが、精悍さと思慮深さを併せ持つ顔立ちはどこかジルファに通じるものを感じさせた。
堂々たる歩みで近づいてきて、巨躯の影に入った。
「貴殿はこの地の統治者、テュオハリム・イルルケリス殿とお見受けする」
「一般人ではあるが、名はいかにも」
「われらはヴァン大国、彼方に見えるはわれらが都、ナム孤島。望まざる招きによって此方に移された」
うしろでロウが「のぞまざるまねき?」と小さく繰り返し、テュオハリムを除くアルフェン一行ははっとした。
あの、あちこちの異次元をつなげて楽しんでいた研究員だ。アルフェンたちに怒られてもうやめると言ったのに、性懲りもなく、またやったのだ。
謎の侵略者からダナとレナを守るため、一肌でも二肌でも脱ごうと正義の思いでここまで来たが、100:0でこっちが悪いとわかって、みな一様に目が泳ぎだす。
唯一テュオハリムは
「ふむ。それはたいへんお気の毒なことです」
と言っただけで、眉ひとつ動かさない。それどころか
「して、此度のご用向きはいかようか」
原因について心当たりどころか確信があるにも関わらず、すっとぼけたうえでのこの不遜なふるまい。ロウは愕然としつつも「さすが大将…」と、どこか憧れめいたものさえ感じた。
当のテュオハリムは、これだけ後ろが狼狽しては自身のポーカーフェイスに嘘を隠す効果はないと理解していた。原因がこちらにあると知ったうえで大男がどう出るか。関心はそこだけだ。
兵の練度と軍船の造り、規模から推察するに、むこうは歴戦の軍事国家。対してこちらは奴隷解放黎明期の、国の形すら成さないごった煮状態である。交渉の余地すらない状況下であっても交渉に持ち込むこと。それがいまの自分の務めだと、テュオハリムは理解していた。
「儂は宰相の役を仰せつかる者。われらが大王様御自ら、貴殿と話しをなさりたいと思し召しあそばされ、この旨を伝えに参上した」
大男こそがその王と見えたが、名代であったか。驚きは顔に出さず
「承った。さっそく会談の仔細を城で」
と半身を開きかけて、宰相が一歩横に退いた。巨体を小さくかがめ、うやうやしく首を垂れる。
「おそれながら大王様に申しあげます」
宰相の巨躯に隠されて、白い絹を頭からかぶった娘がひとり、立っていた。






テュオハリムと“大王様“と呼ばれた娘が、扉の奥の部屋に入っていってしばらく経ったころ、
「なんの声も聞こえねえ」
ロウは臨時の会談場となったデル=ウァリス城の壮麗な扉から耳をはなして振り返る。
「なあ、あれが大王様って本当だと思うか。布で顔は見えなかったけどさ、こーんな、リンウェルくらいしかなかったぜ」
「なによ。私がチビみたいに言って。私はまだ成長期だし、ロウこそチビじゃない」
「俺だってまだまだ成長期だっ」
「二人とも。静かにしないか」
キサラにたしなめられて互いにぷいと背を向ける。あきれて頭をふるそぶりをしながら、キサラはそっと大国の兵士たちに目をやった。互いの声が聞こえない程度の距離をあけ、宰相と近衛の二人、それから侍女と思われる女が二人立っている。
城内に限れば人数はイーブン。向こうはそのうち二人が武器を持たない侍女で、もう一人は称号に反して小柄な大王様だから、見かけ上はこちらが優勢だ。とはいえ、シオンのように武器を隠し持っているかもしれないし、リンウェルのように強大な魔力を持っている可能性もある。油断はできない…と、ふいに赤髪の男がキサラに視線をあわせてにこやかに手を振ってきてぎょっとした。直後に赤髪に宰相の巨大なげんこつがおちる。
「油断…、してはならないんだよな?」



ようやく背後の扉が開き、テュオハリムが出てきた。
扉を支え、隙間から出てきた小さな王様が宰相たちのもとへ向かったのを見送ってからこちらへやってきた。
「どうだったんだ」
「悪くはなかった」といつもの調子で言う。
「もっと具体的に」
「平和のための協定に合意した」
「すごいじゃないか!」
「あいにく文字が違うようだから、協定の内容をこちらと向こうから一人ずつ立ち合い人を出して確認する必要がある。向こうからは宰相殿が出てくるだろう。こちらはアルフェン、君に頼めるかね」
「俺でいいのか」
「解放の英雄が、謙遜をする」
アルフェンは浮足立ったが、シオンは冷静だった。
「この戦力差で協定なんてあてになるの」
「もっともな指摘だ。協定の担保としてあの姫君のような大王様は、ああ、という名前だそうだが、メナンシアに住まうことになった。かの国では王のいる大地への攻撃を禁忌とする慣習があるそうだから」
キサラは顎をひねる。
「王自ら人質、というわけですか」
「それだってあてになるのかしら。祖国では反体制派がひしめいていて、身の危険を感じて亡命しようとしているという可能性だってあるでしょう。下手にかくまったら戦争よ」
「この協定がものわかれに終わっても戦争だろう」
軽やかに放たれたこの一言で一同黙りこむ。
「アルフェン」と呼ばれてあわてて顔をあげた。そう、立ち合いの役だ。先に向こうの宰相と王が二人、扉の中に入っていくのが見えた。一瞬のぞいた王の横顔は若く、たいそう美しかった。
すぐに後を追うかと思いきや、テュオハリムは「そうだ」と思い出したように言って振り返る。
「私と彼女は結婚することになった」




***




王というよりはか弱いお姫様といった見た目のその人がアウテリーナ宮殿に入場して数日もしないうちに、テュオハリムは政務のためにメナンシアを離れた。アルフェンとリンウェルの三人でグラニード城に向かっていたころ、リンウェルの熱弁はカラグリアの熱気に勝るとも劣らない。
「ぜーったい、ぜーったい、ぜったいぜったいぜったい変だよ!テュオハリム騙されてる。裏がある!嘘つかれてる!」
リンウェルは顔を真っ赤にして訴えた。その根拠はこうである。
「だって漆黒の翼のおはなしの挿絵にそっくりなんだよ。真ん中に大きな黒い山があるの、きっとダナを闇に引きずり込もうとする悪い王様の国なんだよ」
「ふむ、それは興味深い考察だ」
テュオハリムは手元の帳簿から目を離さずにリンウェルに応じる。紙の束はカラグリアの自警団がとりまとめた要望書だ。
「それで、私は悪い王にどのようにあざむかれているのだろうか」
「だからそれはえっと、そう、あの女がメナンシアを乗っ取ろうとしてるんだよ。いい国だから」
「ありがとう」
「そうじゃなくて!」
「俺は政治とか戦略みたいなことはよくわからないんだが、乗っ取るだけなら最初から大砲で俺たちを殺してしまえば早いんじゃないか。船とかすごかったし」
「そ、それは…平和的に乗っ取ろうとしているんだよ!おいしいお店とか、かわいいカフェとか、壊すともったいないし」
さすがのアルフェンも、彼らがおいしいお店とかわいいカフェ狙いの軍団とは思えず苦笑する。
「こちらにあまりに有利な“不平等協定”であることは私も理解しているつもりだ」
視線は文字の羅列を追ったまま、テュオハリムは続ける。
「会談の席で、あの宙の小舟は仲間かと尋ねられた。我々が300年気づかなかったダエク・ファエゾルに数日のうちに気づくほどの科学力を持った絶対王政の軍事国家でありながら、しかしこちらへの要求はリスト化された人員の出入国と食料の輸出入、漁業権だけとはあまりに慎ましい」
テュオハリムは少し笑って振り返る。
「真の狙いはどこかにあるだろうが、よこしまな動機で乗っ取られないようにヴィスキントにはシオンとキサラとロウに残ってもらっているのだから、心配なかろう。それともあの三人では力不足と思うかね」
リンウェルは「うっ」と一瞬ひるんだが、再び前のめりに言う。
「シオンとキサラはともかく、ロウはぜんっぜん役に立つはずないよ!」
この言われように涙がちょちょ切れる思いがして、アルフェンはおずおずと援護した。
「本人は不本意だろうけど、ロウはもともと蛇の目の一員だったから、あやしい動きをつかむのはうまいと俺は思うぞ」
リンウェルは激しく首を振る。
「だって、相手が美人だもの!」
アルフェンは反論のすべを失った。

確かに、かの国の王は美しかった。美醜にうとい自分ですらそう思うのだから、ほかの人からしたらよほど美しいに違いない。アルフェンはそんな奇妙な物差しでかの王の美貌をはかっていた。
その王様にロウが惑わされているかどうかはわからないが、リンウェルの言葉でひとつ不安なことを思い出した。
あれは王がメナンシアへ移動するための大行列にアルフェンたちが護衛兼監視兼案内役として連れだって歩いていた時のことだ。
「なんだい、俺の得物をじろじろ見て。すけべ」
赤髪の近衛兵がにやにや笑ってアルフェンに声をかけてきた。
「すまない。変わった槍だと思って。つい」
「お目が高い。武具がお好きかい」
「好きというか、興味はある。どういう素材で、どういう風に作られた剣なんだろうとか、どういう仕組みの機械なんだろうとか。あんたもそうなのか」
「俺は硬いもんよりは柔らかいもんがスキ。けどまあ、歩いているだけってのも暇だし、説明してやろう。ついでにあの子らも呼んでおいでよ」
そう言ってアルフェンにリンウェル、シオン、キサラも合流して、“右の近衛”なる赤髪の男は大胆にもアルフェンに槍を渡して見せてくれたし、かの国が持つ技術についても説明してくれた。
かの国には星霊はないが、そのかわりに島の中央に黒々とそびえる火山があって、麓の巨大な発電施設で火山の力をエネルギーとして使えるように変換しているのだという。
アルフェンは不謹慎と思いつつも、複雑に入り組んだ歯車と鉄骨を想像してわくわくした。
「中がどんなふうになっているのか一度見てみたいな」
「女の子たちは今度連れてってあげるよ。俺こう見えて武官の最高職の一人だからさ、偉いの」
雲行きが怪しい。
「君たちはかわいいから特別に秘密情報もおしえてあげる」
そういえばアルフェンは右の近衛の重い槍を持たされたままである。
右の近衛は「実はあの施設の中身はからっぽで、化け物がうろついてもう誰も手が付けられねえのよ」とおばけのジェスチャーでリンウェルを怖がらせ、
「と見せかけて本当はうちの姫様のパワーでエネルギーを生み出してんの。彼氏いる?」とキサラに言い寄り、
「というのは嘘で、あの施設は歴代の王に呪われていて、入ったやつを食べちまうんだ。特にあんたみたいな美人をね。お名前なあに?」とシオンを口説こうとしてきた。
不安だ。
シオン、無事でいてくれ。



アルフェンが気もそぞろになっていたころ、テュオハリムはしかし集中していた。
移動の時間を惜しんで大量の紙の束を最後のページまで読みこみ、グラニード城に着くなり自警団と会議のテーブルにつき、陳情を聞き、現地視察をし、たくさんの書類にサインをいれて、分刻みで深夜まで目まぐるしく動き続ける。
そんな日々が半月のあいだ続いた。
グラニード城に無理やりにしつらえた執務室から連日遅くまで明かりが漏れているのを見、心配になったアルフェンはある日部屋を訪ねた。
「大丈夫か。あんまり根詰めると」
「そう見えるかね」とテュオハリムが忙しく書類に筆を走らせながらいう。
「見えないな」
慣れたアルフェンには「退屈だ」とテュオハリムの顔の端に書いてあるのは見えるが、彼の顔も一挙手一投足も彼のする判断も、ずっと寸分の乱れもなく整ったままだ。
アルフェンもダナの代表として協議の場に立ってはいるけれど、協議で選択しうるいくつかの道筋をあらかじめ見通し、方針にしたがった計画の大綱を一夜のうちに作り、力を借りたい者たちへの根回しまですませているのは、すべてテュオハリムである。
よく忘れてしまうが、この男はたった七年で今のメナンシアを作り上げた、300年に一人の類まれな統率者なのだ。
アルフェンは頭をかく。
「…俺ももっと手伝えたらいいんだが」
「君はよくやっている」
「うん」
「ダナの代表としてばかりではない。メナンシアを出てから今に至るまでレナとダナの襲撃を六回受けたわけだが、リンウェルが星霊の異変をすばやく察知して、私が執務室にこもっているうちに退けてくれたのは君だったと記憶しているが」
「うん…」
「それ以上は気持ちだけで十分だ。カラグリアの自警団はよくダナをまとめてくれているし、かの国の官吏たちの働きもあってなかなか楽をさせてもらっている」
「そうなのか。何人かこっちに来ているのは見かけたけど」
「特に、諍いを起こしているレナとダナの調停役を買って出てくれているのはありがたい。ダナの元奴隷が出て行っても、レナの元領将が出て行ってもこんがらがるだけだったろうからな」
「なんでそんなことまでしてくれるんだ」
「王命だそうだ。真の狙いは知らないが」
「王命」と繰り返して首をかしげてみたが、テュオハリムにも読めない大国の戦略が自分にわかるはずがない。
「今の我々のこの状況に降って湧いたように第三勢力が現れたのは、案外幸運だったのかもしれないと最近思うよ」
「リンウェルが聞いたらまた怒りそうだ。騙されてる!って」
「そうさな」とテュオハリムは一瞬手を止めて自嘲するように笑い、すぐにまた筆を走らせ始めた。その横には未確認の書類の山が積みあがっている。
“メナンシア4個分、プラス、レネギスだろ。大将ならできるって”
世界を救い、さあこれからが大変だというときにロウがあっけらかんと言った言葉を思い出す。
いくら第三勢力があやしいとしても今はそんなことにかまっていられないほど内事で手一杯というのが、正直なところなのだろう。




***




かの国の漁夫たちがティスビムの村人たちになぜか魚介類の養殖方法を教え始めた頃、まもなくアルフェンたちがカラグリアから戻るとの報せがキサラたちのもとに入った。
麗しきアウテリーナ宮殿にしつらえられた王の居室の、その扉の前には常にかの国の近衛兵とメナンシアの衛兵が立って厳しく見張った。その扉と門番たちをさらに遠巻きからシオンとキサラ、ロウが交代で見張っている。
が、ちょっと異常なほどに動きがない。
このひと月、部屋に出入りしたのは世話係の女数名と、島とこちらを行き来している宰相、宰相が連れてきた高官とみられる少数の官吏だけだった。
王本人は一度も部屋から出てきていない。
生活に必要な設備は中にすべて整っているし、入城初日に通信装置らしき機材が運び込まれたから、自国との悪だくみ会議も中で完結できるようだが…。
「なにかあやしい動きはあったか」
日中の監視を締めくくる報告会で、いつものキサラの問いかけにシオンは軽く肩をすくめた。
「ないわね。いつもどおり、世話係が来ただけよ」
「同じく。てかさ、あの王様が本当に中にいるのかが一番あやしいぜ。一か月も一度も部屋の外に出てこないなんて俺なら耐えらんねえ。誰もいない部屋を監視してるって思ったらこっちまで耐えらんねえしさあ」
ロウは優雅なラタンの椅子でだらしなく両手両足をなげだした。吹き抜けの高い天井、聞こえてくるのは室内庭園を優雅にめぐる水のせせらぎ。十六歳のロウにはこの宮殿は物足りない。
「それでかの国の宰相殿と修練場で遊んでいたのか」
背もたれからはね起きる
「やっ!あれはっ、あれは違って、たまたま修練場行ってみたら、じゃなくて、あのおっさんがあの部屋を出たあと修練場に行くのを見たから、そう!中の様子を聞き出すために」
「中の様子を聞き出すために12回も連続で一対一を挑んだのか」
「う。どこでそれを」
「修練場にいた向こうの国の兵士たちだ。なんだか最近やたらと話しかけられるんだ。12連敗だったそうだな」
「ちがう!11敗1分けだ」
「そうか」とキサラは力なく肩をおとした。
「でもさ、でもさ、最後の一回で感覚はつかめたんだよっ」
「ねえ」とシオンが氷のような声でつぶやいた。
「だから次こそはあのインテリ筋肉だるまおっさんをダウンさせられる!」
こぶしを突き上げいきり立ったロウの顎の下に、いつのまにか冷たい銃口がそえられていた。シオンの目が青く光る。
「修練場でサボられている間、交代が来なくてずっと監視してたの、私」
「すみませんでしたっっ!!」



罰として、王様が本当に中にいるのか宮殿の外から極秘裏に確かめる任務がロウに課された。
危険な任務であるが、昔取った杵柄が役に立った。
下層の樹海からわきあがる朝もやにまぎれ、軽業師のように壁を伝い、かの王の居室の、その窓の横までたどり着いた。
カーテンの隙間からそっと中を覗き込もうとしたとき、窓はしずかに内側から開かれた。
うわ!という声はなんとか喉の奥に押し込んだ。
壁に張り付き、眼玉だけ動かして窓の方をうかがうと、ばっちり目が合った。
「…おはようございます」
美しい女がおだやかに微笑んで出迎えた。
「なかへ」
促され、ロウは声も出ずに首を激しく横に振ったが、王はにこにこ笑って
「よい」
といった。
流されるまま窓の桟から室内に降りた。
ロウが王の顔をまじまじと見たのはこれがはじめてのことだった。
背はやはりリンウェルほどしかないのだが、子供とは思えない落ち着いたふるまいで、年齢はよくわからない。ダナでもレナでもない異国の女の容姿が珍しく、目と口を丸く開いて阿呆のように見続けた。
「外は寒かったでしょう。温かい飲み物を用意させましょうか」
異国の夜着を着ていた。一枚の長い布を前で合わせて腰を帯で締めるだけの、きわめて防御力の低い衣服である。早朝であるから当然だ。ベッドには今めくったばかりという形で、毛布、が、ふくらん、でいる。
へんな動悸がしてきた。
「ホットミルクはお好きかしら」
なぜだかそれがいやらしい言葉に聞こえて、ロウはさらにうろたえた。
「い、いや、イイ!いらないですっ」
「そう」とかわいい女子が首をかしげる。
「お、おなかが今、ちゃぽちゃぽで」
「そうでしたか」
王は門番を呼ぶでもなく、警戒して距離をとるでもなく、落ち着いている。
一方のロウは初めて入った女の子の部屋の空気の清きに住みかねて、奇行と動悸がやまない。
何か気の利いたことを言わなくちゃ。
正体不明の焦燥にかられたが共通の話題があるはずもなく、それよりなによりこちとら侵入した分際であるわけだし、「すっかり朝が冷えてきましたね」なんて、季節の話だってできやしない。
それにしてもこんな弱弱しいなりで筋肉隆々の宰相と兵士たちを従える王様とはやはりどうにも信じられない。この小さな体に秘めたる力があるのだろうか
体に。
からだ

「テュオハリム様のご友人ですね」
下に行っていた目線を素早く戻し、気取られないように何度もうなずく。
「そうそうそうそう、そうです」
そうだ、共通の話題が一つあった。テュオハリムだ。この人はテュオハリムと結婚するんだった。話題の糸口と侵入を許されるかもしれない糸口を見つけてすがりつく。
美男美女で、ロウから見れば不気味なほどに釣り合う二人だが、テュオハリム曰くお互い見た目にはそれほど興味がないらしい。
ガナスハロスで行われた二人きりの会談でこのお姫様から結婚を申し出、
「あなたの都合がわるければ救国の英雄殿でもかまわない」
と、のたまったそうだ。アルフェンを差し出すのはシオンに申し訳が立たないから自分が受けたと、自分のことなのにまったく興味がない様子で言っていたのを思い出す。
余談であるが、あとで気になって、道中男性陣だけになったときにロウは小声でこうたずねた。
「大将ってさ、もしかして女に興味ないの」
テュオハリムは「そんなことはない」と平然と応じた。
「領将のときは、裸の女が定期的に夜の寝室を訪ねてきてくれていたものだ」
いま思い出してもあのときのすまし顔が憎くて憎くてしかたがない。
よみがえった負の感情がいい塩梅にロウを落ち着かせた。
「わたくしはと申します。あなたさまは」
「俺はロウっていいます」
「ロウ様、よしなに」
「ど、ども」
「そうだ、お菓子をあげましょう」
「いや、全然、大丈夫っす。おれ侵入者だし」
「よい。たくさんありますからね」
子供に接するように言うからどうやら彼女はロウよりも年上らしい。動作もゆっくりだし、話し方もゆっくりだし、なんだかおばあちゃんと会話しているような気分になってきた。
向こうの棚からきれいな箱を持ってきて箱のままロウに持たせた。見たことのないきれいな包み紙に、読めない文字でなにか書かれている。
「もっと持っていけますか。ほかのお菓子もありますから」
「や、もうぜんぜん!大丈夫す!これだけで、たくさんあるし」
「そう」
がちょっと残念そうに言ったとき、控えめなノックの音がした。
「おそれながら、姫様、中に誰かいるのですか」
門番である。ロウは思い出したように慌てたが
「よい」
「はっ」
その短いやり取りで扉の向こうからの声はやんだ。
ほっと胸をなでおろす。
声を小さく改め
「いま、“姫”って」
「古くからある慣習です」
「じゃあ、ちゃんと、本物の王様ってこと?…ですか?王様の替え玉とかじゃなく」
はにこにこ笑ってうなずいた。
このまま堂々と扉から出て行ってもこの人の「よい」の一言で番兵が見逃してくれそうな気がしたが、ロウは一応、侵入者の礼儀として来た窓から出ていくことにした。
王はいた。それをしっかり確認したのだから目的は果たしている。
手提げを用意するといったのを辞し、お菓子の箱を小脇に抱えて窓の桟に乗った。
「危なくはありませんか」
「これくらいカンタンカンタン。つうか、俺が言うのもなんですけど、外からの侵入経路も警戒しておかないと危ないっすよ。それじゃ」
「…もし」
王は一度視線を下へはずしてから、ゆっくりと持ちあげた。
「宰相の相手をしてくれたそうですね」
「ああ、この前」
そういえばその共通の話題もあったか。
「ありがとう」
深い笑みをする。
「あの者はむかし、戦であなたくらいの歳の子を亡くしたから」
静かに虚を突かれ、体の熱がうしろへ尾を引いて冴えた空気の中に消えていく。
キサラやシオンには言わなかったが、あの宰相は体格や雰囲気がすこし父に似ていた。父親を重ねて感傷的になって挑んだわけでも、甘えようなんて気味の悪いことを思ったりしたわけでもなかった。
たまたま修練場で目が合って
「やるか小僧」
「やったらい」
で始まったあの取っ組み合いがただ楽しかった。
言葉の外で「これだ!これがしたかったんだ!」とおもった。夢中だった。
だれと?と問うことは思いつかないほど。






孤島から来た兵士たちのあいだで修練場がにわかに流行りだしたころ、カラグリアに行っていた三人がヴィスキントに戻り、リンウェルの心配は現実のものとなっていた。
「あの人べつに悪い人じゃないぜ」
アウテリーナ宮外苑の噴水のふちに腰かけて、口の中に飴玉を放りこむ。
「ほら!ほら!私が言ったとおり」
リンウェルは憤りを隠せない様子でロウを指さし、アルフェンをにらんだ。
アルフェンはなんとか話を切り替えようと試みる。
「その飴どうしたんだ」
「お姫さんにもらった」
「監視がほだされてどうするのよ!」
「別にほだされてねえし。そういや大将は?一緒に戻ってきたんだろ」
「フィアンセのご機嫌をうかがってくるそうだ」
「ほらァ!これだから男は、相手がちょっとかわいいとすぐデレデレしてっ。シオンからもなんか言ってやって!」
「監視はしへうわ。れもあの子、全然部屋から出てこらいのよ」
シオンの口の中でも大きな飴玉が転がっているのを見、リンウェルはよろよろと後退る。手には見たことのない、白い食べ物も載っている。リンウェルの視線を追って、シオンは力強く飴をかみ砕いて飲み込んだ。
「こっちは餅っていうの。お米から作ったそうよ。食堂でもらえるからリンウェルももらうといいわ。醤油をつけるとおいしいわよ」
そういうと餅をつるりと飲み込み、しょっぱいもののあとは甘いものね、などと言いながら飴の包装をひらく。
「シオンが餌付けされてる…」
「餌付けって。失礼ね」
「策略だよ!絶対そうに違いない!ヘルガイの果実とか、常習性のある薬物とか」
興奮するリンウェルの肩を叩いてキサラがなだめる。
「落ち着けリンウェル。わたしもそう思って何度もよく調べたんだが飴の原料はただの砂糖だった。リンウェルも食べてみるか。ロウがたくさんもらったんだ」
リンウェルは眉間にしわを作り、歯を食いしばって打ち震える。
「俺にもくれるか」
「アルフェンまで!」
「砂糖の少し焦げた感じがいいわよ。リンウェルは本当にいらないの?」
「~~~~~、い、いっこだけ」
ぽいと口に放り込む。
「あ、おいひー」




***





リンウェルが異国の飴玉に舌鼓を打ったころ、王の居室ではテュオハリムとがティーテーブルを囲んでいた。紅茶は間もなく運ばれてくるだろう。
「貴国の仲介には助けられています」
きれいに足を組み、テュオハリムが言う。大きな国の小さな王は、着物なる民族衣装に身を包み、長い袖に覆われた手を膝に丁寧に重ねている。デル=ウァリス城で話したときも終始にこにこ笑っていたが、それは今日も変わらない。
「両者を席に座らせただけです。道筋をつけたのはあなた様の手腕でありましょう」
「百戦錬磨の事務官と見えましたが」
「臣下を褒めてくれてありがとう」
「避難民の仮の住まいも」
うなずく。
レネギスから降りてきた人々や、住処を壊されたミハグサールの人々に、あっという間に仮設の住居が用意された。カラグリアでその設営の手際を目にして、レクチャーを受けたダナ人もレナ人も一様に舌を巻いていた。
「さきほどすれ違ったときに宰相殿にも御礼申し上げた。“機会が多くて、壊して作るのは得意になってしまった”と笑っておいでだったが」
「そのとおりです」とも苦笑する。
「こちらで不自由はなかったでしょうか」
「すこしも。窓から見える街並みも美しい」
「それはよかった」
先日の早朝にロウと窓辺で遭遇したと聞いたが、それは不自由にはあたらないらしい。
それからいくらか優雅で空虚なやりとりをした。穏やかでのんびりしているふうでいて、付け入る隙を見せず、言うべきでないことをうっかり口走る気配もない。いっそ剣豪と試合でもしているような気がしてきた。
感情を顔にださないことにかけてはテュオハリムもひとかどの者であるから、向こうも同じ思いかもしれない。
テュオハリムは少し露骨に言ってみることにした。
「結婚の約定を訳した文書がまだこちらに届いていないとか」
「遅らせたい者たちがおりますから。それはかまいません」
案外素直に言った。妨害がはいることは織り込み済みというわけだ。
「結婚はわたくしがここに来るための口実です。この土に王がいるかぎりこの大陸を攻撃することはできません。転移に必要な演算が終わるまでこの拮抗を維持できればよい」
その話はすでに一度聞いている。
「攻撃できない。…」
テュオハリムは含みを持たせて繰り返す。
「なぜ」と短く問うと、
「慣習です」と短くかえった。
「いや。なぜ、我々を守るような真似をなさるのか」
「わたくしはわたくしの国の民の安寧を守っています。千年の永きにわたり、絶えず戦を繰り返してきました。苛烈な先王時代にもはや敵と呼べる規模のものはなくなり、飽いている者たちがいる。此度の邂逅を渡りに船と思っていることでしょう」
喜び勇んで戦を始めないように楔を打った、と。
相変わらず眉唾な話ではあるが、庭園のバラの咲き具合を語るような声音でこんな話をされると信じられる気がしてくるから不思議だ。
テュオハリムは「ふむ」と肩をすくめる。
「いまにも貴国で反乱が起きそうだ」
「それはありません」
これもにこにこして言うから、信用していいのか暗愚なのかますますわからなくなってくる。
「ひとつ。あなた様の領民をそそのかして火種を作らせようとはするでしょう」
「私の領ではないが、なるほど」
ノックの音がして、紅茶が運ばれてきた。
給仕の娘はヴィスキントに住むダナ人だ。テュオハリムが領将の座を退いてからもアウテリーナ宮殿に仕えてくれている、信頼のおける人物の一人だった。そそのかされて悪事に手を染める人ではないが家族を人質に取られて、ということはあるかもしれない。
そそがれた紅茶に
「ありがとう」
と言ってテュオハリムから口をつけた、その時である。
頭上でけたたましい音がして、明り取りの窓から色ガラスが降ってきた。
寸前で絨毯から大岩が立ちあがり鋭い欠片を退ける。テュオハリムの星霊術だ。手にはすでに棍がある。
続けざまに陶器の割れる音と悲鳴を聞いたが、それは驚いた給仕がティーポットを取り落としただけであった。
蒼い余韻をのこした目で二人の無事を確かめたとき、ごとり、と岩にぶつかって何かが床に落ちた。
短い導火線に火花、
両眼の蒼い炎が再びほとばしった。
次の瞬間、閃光とともに視界は一度ゼロになった。
聴覚も失われ、高いただ一音の耳鳴りを聞くなか、まず、塵と外の風を頬に感じた。
にわかに衛兵が騒ぎ出した音を聞き分ける。
視界が戻り、テュオハリムの目に飛び込んだのは外の景色だった。
とっさに爆弾との間に作った岩壁は頑強な盾となって爆発の勢いを向こうに逃がしたが、かわりに部屋の壁の一角が吹き飛び、外に向かって大穴が開いていた。
給仕の悲鳴を聞いて振り返る。
座り込み、後ろに倒れかけている給仕にが覆いかぶさるような恰好をしていた。すぐ近くには窓ガラスとも陶器ともわからない破片が散らばっていたが、そこに給仕が背中から倒れこまないようにの片手が支えている。
「二人とも、怪我は」
「ありません」
が応じた。そのうえで
「もう心配いりませんよ。大丈夫、大丈夫」
半狂乱になって泣きじゃくる娘を落ち着かせにかかったことにはちょっと感心した。
「テュオハリム!」
風通しの良くなった外から聞き覚えのある大声がした。ロウだ。
「南だ」
地上のロウに声が届いたかどうかはわからないが、投げ込まれた方角を指さすしぐさでロウはうなずき、あっという間に走って消えた。
テュオハリムは壁に空いた大穴と割れた窓とを岩で塞ぐと、腰を抜かして歩けない給仕を有無も聞かずに抱え上げた。他国の首長であり一応婚約者という立場でもあるのだからまずの手をとるべきところだろうが、そうはしなかった。いまこの状況における行動の優先順位はテュオハリムとで一致していると、不思議な確信があった。
ふさいだ壁の隙間からこぼれる外の光を頼りに素早く扉へ向かう。扉の前には爆風で吹き飛ばされた大きな岩がごろごろ転がってふさいでいたが、いま向こうから無理やりに押し開かれて女一人であれば通せるほどの隙間があいた。
「姫様!」
「テュオハリム様!」
左の近衛とメナンシアの衛兵が同時に声をあげ、テュオハリムのうしろからが顔をだした。
「大事ない。テュオハリム様が守ってくださいました」
「爆弾が投げ込まれた。南だ。追っ手はもうかかっている。宮殿の警備体制は維持するように通達を。警備を崩したうえで我々を引きずり出すためのおとりの可能性もある」
「はっ」とメナンシア兵が応じ、後ろに向かって指示をとばす。
そのすきに左の近衛が腕を差し伸ばしてきた。
「姫様、こちらに」
「よい」
「何をおっしゃいます」
左の近衛は整った顔をゆがめたがは笑ったままだ。
「それよりも」
落ち着いたまなざしがテュオハリムを見上げて給仕を先に外へ出すよう促した。
「左近や、この人に毛布と飲み物を用意してあげてください」
を見下ろしてふと、右袖のふちだけ布の色が濃くなっていることにテュオハリムは気が付いた。体の影に隠して。
テュオハリムは娘を先に部屋の外に渡した。
左の近衛は給仕の娘を受け取ったがもう一度「姫様」と呼んで食い下がる。これにもは泰然とした笑みで返す。
「テュオハリム様がおっしゃったとおり、あれがおとりであればわたくしはしばらくここを動かないほうがよい。心配はいりません。窓と穴はふさがれています。それに、テュオハリム様がおいでです」
「任された」

左の近衛殿には殺気じみた眼を向けられたが、テュオハリムとを部屋に残したまま再び扉は閉ざされた。
目で示され、部屋の中央までについていくと
「治してください、早く」
声をひそめて早口に言われた。
真剣なまなざしの下、差し出された手のひらには色ガラスとも陶器ともわからぬ欠片が深々と突き刺さっていた。給仕が破片のうえに倒れないよう支えていたときに刺さっていたのだろう。もしや痛覚がないのだろうか。
「はやく」
傷ついた手を下から支える。
「こらえて」
言い置いて宙空で糸を引くように指を動かすと細かな破片が白い肌から一斉に抜けた。これらももとは石くれと土くれだ。
一瞬歯を食いしばった姿をうかがい見て、痛覚があることを知る。
あらわになった傷口から血があふれる。白い腕にすばやく赤い網をひき、肘からこぼれて絨毯の色を濃くした。
治癒術はいま傷口をふさぎおえた。
「ほかに怪我は」
嘘つきは自分の手のおもてと裏とを確かめて「ありがとうございます」とつぶやくと、おもむろに木棚へ行った。割れずに残っていた葡萄酒の瓶を手に取り、蓋をとったそれをどうするのかと見ていると、血の垂れた絨毯まで戻って右手を差し出し、躊躇なく瓶をひっくり返した。
葡萄酒が右袖と絨毯をたっぷり濡らす。
「ふむ」
テュオハリムは腕組みして絨毯からのつむじまでを見直した。
「存外大胆な隠し方をする」
秘密を共有した仲だ。物言いは少々無礼に改める。
横顔はうすく微笑むような形をつくって、葡萄酒の最後の一滴をみおくった。

「なぜ」

「禍根をのこす」




***





まさしく王である。
テュオハリムは、が本気で自国が他国へ侵略することを阻む目的のためだけに行動していると信じ始めた。異常な不平等協定も、結ばれる必要のない婚約も、メナンシアへの滞在も、隠蔽された傷跡も、かの島にいるという戦争中毒の者たちに侵攻の機を与えないための判断だとすればつじつまが合ってしまう。
そして、もし、
この推測のとおりの人ならば、
かつてメナンシアの領民たちが、キサラが、テュオハリムにねがった偉大な性質を、はその身に備えている。
常に公人であり、ひとかけらの私心も持たない。
民の安寧を一途に願う、民が求める、まさに完全無欠の王!
――――――そんな人間がいるわけがない。
くだらない私欲があの清廉潔白ふうの身の内にもあるはずだ。
テュオハリムは自身の内に、第三国の戦略を探ろうとする以外の邪な探求心がうごめき始めたことを自覚していた。
さりとて内事だけで忙殺される日々である。他にかまける余裕はない。
にもかかわらず、テュオハリムは探求心を満たすための行動に出た。

領将の私室にの住まいを移させたのはまだいい。テュオハリムにへんに気を使って誰も使っていなかった部屋だ。窓の外は奈落で、百年経って樹海の木々がここまで伸びてこない限り外から出入りすることもできない立地だから警備の都合もいい。

ディナーに誘った。

宮殿内の吹き抜けの下をめぐる朝の散歩に連れ出した。

交わされたのは優雅で心地よい会話だ。どこの誰に聞かれたとて恥じることのない内容だ。
私利私欲の一端すら垣間見ることあたわず。

攻め手を強め、深夜の図書の間に連れて行ったりもしてみた。
司書のツグリナはテュオハリムとその横のにねっとりとした視線を巡らせ、
「やらしぃことをして本を汚さないでくださいね」
とだけ告げて鍵を預けてくれた。
ついてきた大国の左の近衛を廊下にとどまらせ閉め切ると、分厚い扉の向こうから殺気を感じたが無視をする。
「気に入ったものがあればいくつか借りていくといい」
無人の静まり返った空間にただ二人。おとなしく書架を見上げるの後ろにそっと立って影に入れ、視線の先の本を取って渡した。むろん、わざとやった。
長椅子に座らせ、難解な図書を薦めたりもした。
「ダナで掘り出された古い石板の記述を研究したものでね。大変に興味深い」
不躾に突き返すことはしないとわかっていた。
読み始め、読むに困ったの横に「どれ」と言って座り、髪が触れあうほど体を寄せてみたりもした。キサラが“たらし技”という蔑称をつけた手口だ。蔑称をつけられてふさわしい。
本をじっと見つめたまま説明を聞いて、ほんの少し体を離された。
うぶな。
しかし、ぼろはださない。
毎日の途方もない量の政務と、連日連夜の無為な探求の末に、先に力尽きたのはテュオハリムだった。
元私室をたずね、シスロディアの治水支援の礼を装って互いの国の酒の話にスライドさせ、「どうかね、一献」。
やがて寝不足と疲労、慣れない異国の酒に酔いがまわった。
は下戸だといって一滴も飲んでいない。
さくりゃく家め。
重なるところなんて一人で着替えができないことくらいしかない。
「テュオハリム様、お加減がすぐれませんか」
「いや」
卓に肘をつき、深くうなだれた格好のまま答える。
「…近衛を呼びましょう」
素早く正しい判断を下し、扉に行こうとした手をつかまえる。
つかむ力の強さにさかしくも何かよくないものを感じ取ったのだろう。は手首を引き抜こうとして、できない。
「あなたの夢は何か」
「ゆめ」
「そうだ。夢は」
「…民の安寧」
唐突な問いに戸惑いながらもは律儀に答えた。
「そうではない。そうではない、そうではなく、もっと、老後に遺跡を探検したいとか、身近な人の悲鳴を聞きたくないとか、そういうくだらないことだ」
「ありません」
「嘘だ」
「考えたこともない」
「嘘だ」
「…」
「うそだと言ってくれ」
は手を引こうとしなくなった。こちらが力を緩めたからかもしれない。
頭が重い。
視界がくらくなった。
自分が目をつぶったからだと気づくまでにしばらくの時間を要した。
肩に、ひと肌のぬくもりを宿した布がかかったのを感じた。孤島製のあの見事な柄の羽織だろう。つづけて頭のうえにやさしい声が降ってきた。
「…むかし、わたくしの部屋の窓の外に蝶のさなぎがあって、友達だと思って、毎朝心の中で話しかけていました。けれど気付かないうちに蝶にかえってどこかへ消えてしまった。さなぎと友達になりたかったことは、あなたのききたいくだらない夢でしょうか」
「さびしい」
「違うのですか」
「そういうことだが、ちがう。もっと愚かなことだ。たとえば、いまの、私ほど…」
が困って沈黙したのか、自分が寝入ったのか、これより先は記憶が定かでない。
ただおぼろげに、あるいは自分の願望が聞かせた声かもしれないが、しばらくの無音ののちに声をきいた。



雨の中を 歩いてみたい







テュオハリム・イルルケルスにはゆっくり二日酔いになっている暇もない。
武装したレナ人の集団が大国の火山発電施設に侵入したとの急報が飛び込んできたのだ。
一施設であの大陸ともいうべき孤島全土にエネルギーをいきわたらせているというからまさに要所中の要所である。
そのような場所にどうやって侵入したのかはわからないが、大国の重要施設を人質にした無謀な者たちの正体は聞かなくてもわかっていた。テュオハリムの統治を認めないレネギスの名家のいずれかである。
まっすぐに元私室へ向かうテュオハリムの後に、アルフェンたちも硬い表情で続く。
「要求はなんだろう」
アルフェンが深刻な声でいった。
「さしずめ、私を今の地位から引きずり下ろすことが狙いだろう」
仲間たちは重苦しく沈黙する。
「そんなに統治したいならばぜひ変わってもらいたいものだが、強大な第三国を巻き込むような者たちには望むべくもないな」
場の空気をほぐそうと冗談半分に言ってみたつもりが、ほぐれた気配は微塵もない。私は本当にこういうことがうまくないと諦めて、元私室の扉を押し開く。
すでに集まっていた孤島の面々は通信装置の前の椅子にゆったりと腰かけて、場違いなほど落ち着いているように見えた。
完全無欠の王はこちらに微笑んでただ一言、
「よい」
といった。



前回の領戦王争の勝者、名門ミルグリス家から火山発電施設へ送り込まれた装甲兵たちは、伽藍堂をみた。
宰相が「あとは任せろ」と言うのでぽっかりと時間が空き、誰が言いだしたわけでもなく外の噴水のそばに仲間たちで集まった。
そこでアルフェンに、右の近衛が語ったという施設の噂話を聞かされた。
実は施設はからっぽで、化け物がうろついて手が付けられない。
本当はの力でエネルギーを生み出している。
歴代の王に呪われていて、入った人間を食べてしまう。
国家のかなめと見せて実は何もないという噂を流せば流すほど、いや必ずなにかあるはずだと悪い奴らが寄ってくる。戦争をしていた時もそうやって使っていたのかもしれない。
ではどこで、どうやってあの広大な孤島全土をまかなえるエネルギーを生み出しているのか。
荒唐無稽な噂話のひとつが急に現実味を帯びた。
リンウェルはまるでおばけを見たように声を震わせる。
「ほっ、ほらぁ、私の言ったとおりだったでしょ。テュオハリムは騙されているんだよ!やっぱりあの王様は悪い王様で、化け物だったんだよ」
「そうか」
「メナンシアを乗っ取られちゃうんだよ!」
「うん」
「大丈夫ですか。なんだかぼうっとしていますが」
「すまない。少々二日酔いがたたっているようだ」
「こんなときに二日酔いって、あなたねえ」
怒りかけたシオンをアルフェンがなだめてくれた。
「きっと疲れがでたんだろう。今日はあの事件のおかげ、というかあの事件のせいというか、ともかく予定が全部延期になったわけだし、ちょっとゆっくりするといい。リンウェルも落ち着くんだ」
「なんでアルフェンはそんなに落ち着いていられるのっ」
「ヘルガイムキルとか、でかい星霊を見てきたから」
ロウが両手を叩いて笑った。
「はは!そういやそうだな。忘れてた。やーい、リンウェルのびびりー」
「べ別にびびってなんかないもん」
元気に言い合いを始めた子供たちを差し置いて、キサラは大人たちを見渡す。
「私は話したこともないしお姫様のことは正直わからないが、少なくともあの国の兵士たちは人間だぞ。修練場で切磋琢磨をしてきた者たちだ、その点は自信がある」
きりりとした顔で握ったこぶしを胸当てにあててからテュオハリムに向き直ったとき、表情はさっきよりもやさしい。
「発電施設がからっぽだったから、だから私たちになにか新しく打てる手があるかというときっとないでしょう。いつもどおり気を抜かずに見張りと警備にあたるだけです。それは私たちに任せて、どうか休んでください」
「面目ない」
仲間たちにはそういったが、テュオハリムの知性と理性は正確にはたらいていた。
思い出す王の微笑に、人ならざる美しい魔物の舌なめずりを見ようとして、ただの顔がうかぶ。
あれは人間ではないかもしれない。その事実をテュオハリムは誰よりもあっさりと受け入れることができた。
人間でないなら、どうりで完璧な王であるわけだ。
ダナにとってのヘルガイムキル、ヘルガイムキルにとっての星霊があったように、かの大国の人々にがある。
そんな途方もない化け物への妄執の果ての、昨晩の自分の行いがますますむなしい。
拍子抜けして、ひさしぶりにゆっくりとメナンシアの空を見上げた。
あいにくの薄曇りだ。向こうの空には分厚い黒雲が見えた。
「雨が降りそうだな」
同じ方を見上げてアルフェンが言う。
「ほんと!?」
口喧嘩を中断したリンウェルが明るい声をあげ、ロウは眉をひそめた。
「なんでうれしそうなんだよ」
「前ね、街で流行ってるレインコートを買ったんだ。シオンとデートしてね。やっと着られる」
「さっきまで泣いてたくせにおまえ」
「泣いてないし。首の留め金が蝶々の形になっててかわいいんだよ。かわいさはシオン師匠のお墨付き。あとでみんなにも見せてあげるね」
「いいよ、別に、そんなん」
「ロウは別にいいもん、センスないから。テュオハリムには見せてあげるから、褒めてね」
「心得た」
思いもよらずふっと笑えて、友の明るさに救われる。第三国で同胞がテロに失敗している最中とは思えない。
少しだけ軽くなった心でもう一度暗い雲をみあげた。

さなぎと友達になりそこねたあの魔物は、
メナンシアの召使いを助けるためにとっさに自分が怪我をしたあの姫君は、召使いが怪我をするよりもよほど大きな禍根になりかねない事態を袖の中に隠した。
あの、愚かで完璧な王。




***





ヴィスキントの石畳を雨粒が叩き始めたころ、テロ未遂を犯したレナ人は強制送還の途についたと報告を受けた。
レインコートで街へ繰り出していたリンウェルは日没前に宮殿に戻り約束どおりに見せに来て、約束どおり褒めた。
一番のチャームポイントだという首元の留め具について尋ねると、リンウェルは喜んで仕組みを教えてくれた。
貸してほしいと頼むと顔を引きつらせ、変質者を見るような目をしたが貸してくれた。
まもなく日付が変わる刻限に元私室を訪ねた。
門番をしていた左の近衛に鬼の形相で制止され、詰問された。
「…君は、夜にフィアンセの寝室の扉を叩いた理由を私に尋ねているのかね」
左の近衛はかっと赤面した。白皙の美男子が台無しだ。メナンシアの門番が横ではらはらした様子で見ていたが、若くともさすがに大国の選りすぐりの近衛兵である。テュオハリムに殴り掛かることもなく、歯を食いしばって中へ通してくれた。
寝巻姿のは少し驚いた様子で、読んでいた本を閉じ寝台をおりた。
を一度通り過ぎて窓をあける。
雨だ。
窓の外は奈落である。百年経って樹海の木々が伸びてこない限りここから出入りすることはできない。テュオハリムの眼が樹海に向かって蒼く光った。
「どうされました」
「夜分すまない」
「いえ。…昼間の件でしたら、皆様無事に」
言葉の間に距離をつめる。
目前に立たれ、は白い首をそらしてテュオハリムを見上げた。
さがろうとして、背中を男の腕に抱き留められるとめずらしく顔がこわばった。






降りしきる雨の中、ヴィスキントの南門へ続く橋に人はなく、雨音が外界の音の一切をかき消していた。
門の前までいけば衛兵が立っているはずだが、視界は雨粒に細かに遮られ、街頭の明かり程度では橋の中ごろにぽつんと立つ大小二つの影など到底見通せない。その二人というのがレインコートを目深にかぶっているのだから、なおさら誰とはわからない。
腕を緩めて濡れた石畳に下ろすと、足の裏が冷たかったのか、生まれてはじめて裸足で踏む地面の感触を入念に確かめようとしたのか、はゆっくりとその場で足踏みした。
部屋で、首元の蝶の留め金をもたつくことなく付けられたことに気を取られ、寝巻の足元が裸足であることにテュオハリムは気が付かなかった。
は踏み出さない。
「ここで暗殺をしようというわけではない。心配は無用だ」
テュオハリムを静かにあおぐ。
「どうして」
長いまつげに雨粒がたまるのを見たが、完全無欠の王はまばたきもしなかった。
「あなたにとってもわたくしにとっても、婚姻の約定などどうでもよいことなのに」
「…」
目に水がかからないようにレインコートのフードの形を整えてやる。次いで、首から肩口にかけて意味もなく整える。留め具に触れ、外し、肩からおろして二つ折りにして預かった。
あっという間に薄い夜着が濡れていく。
手遊びの先もなくなり、テュオハリムは観念しての目を見た。

「あなたに取り入ろうと」

互いに表情もない。
しばらくあってから、一粒の雨だれが目をとおったところでは足元へ視線をにがした。
背を向けて小さく一歩踏み出した。
もう一歩、
一歩、

立ち止まって真っ暗な空を見上げた。
そういうつもりで脱がせたわけではなかったが、テュオハリムは薄絹がぴたりと写しとったの後ろ姿から目をそらすことができなかった。



後半
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