真波には隣の家に住む幼馴染がいる、東堂はそう言った。

「窓同士が向き合っている場所に部屋があるのだ!都市伝説だと思うだろう、巻ちゃん」

息巻いて語る調子を急におさめ、声をひそめて
「それが、本当なのだよ」
と続けた。

ケータイを一応耳にあて、「あぁ」とか「そ」とか「ショ」とか適当にかえしながら、俺は雑誌を高く持って、見開きのグラビアポスターを眺めていた。
「信じがたい!信じがたいことだ!別に決して全然羨ましいわけではないがな!オレくらいの美形になると隣りの家に女子などいなくても、女の子を持つご家庭がこぞってうちの隣りに引っ越したがり、土地の値段が高騰し、それゆえに誰も引っ越してこれなくなる、そんな現象さえ起こるのだ!」
「おまえの実家旅館っショ、となりとか無理っショ」
「無理ではないな!そうではない、そうではなくて、オレはそんな都市伝説シチュエーションは真波にはもったいないと言っているのだっ」
「言うほど珍しい状況でも」
「なァにを言う!」

うるさい
思わずケータイを耳から離した。まだぎゃんぎゃん鳴っているので、長くなりそうな力説が終わるまで放っておくことにし、音をひろう穴を指でぎゅっとふさぎ、ベランダへ出た。
春の夜はまだ風が肌寒い。

「ヨォ」
「巻ちゃん」

東堂と同じ呼び方をして、隣りの家の、窓が向かい合っている部屋の女の子が顔をあげた。
の部屋のバルコニーは広くとってあってビーチサイドにあるような横になれる椅子が置いてある。そこにシロクマのひざ掛けをして座っているのがの定位置だ。
俺はベランダのふちに肘をつく。

東堂の話の冒頭によれば、箱学のその一年というのはかつて病弱で、となりの家の女子に励まされて自転車をはじめたのだという。そして今では王者箱学でレギュラー争いに食い込までになっているらしい。

「…おまえも自転車やる?」
「ロードバイク?やってみたい。急にどうしたの」
「ビョーキ、治るらしいっショ」
「自転車に乗ると?」
「そう」

こいつが言ってたと、音を拾う穴をふさいだまま、ケータイを揺らして見せる。
手元でいじっていた糸とカギ針を置き、立ち上がってもバルコニーのふちに腕をおいた。ゆったりした寝間着の半袖ワンピースからのぞく腕は、筋肉の線のない細くて白い腕だ。

「“トードー”君ね」

去年の夏に窓をあけたまま電話で話しているのを聞かれて以来、はその名を知っている。
が俺を”巻ちゃん”と苗字をもじったあだ名で呼ぶのは、の父親が俺と同じ名前だからだ。おかげでの父親に俺はやたら気に入られている。ちなみに兄貴のことは「巻ちゃんのお兄ちゃん」と呼ぶ。

「いま電話しているんじゃないの?」
「話がなげーんだよ。あと1分くらいして相槌うったら充分っショ」
「お友だち少ないから、大切にしないと」

うっせ、と言おうとした声が出ずに止まる。
たしなめるが手すりから少し身を乗り出すような姿勢をしたら、ワンピースの丸襟と首の間に空間がうまれ、鎖骨の奥に白い輪郭の内側を見てしまったからだ。
俺がさっき見ていたようなグラビアアイドルとはかけ離れているが、貧相なの体の線から繰り出される、わりとあるソレが、その、ラッキーとは思えども同時に小さいころから知っているだけに、ムラっとしてしまってスミマセンという気持ちになる。

「巻ちゃん」
「え?」

声に弾かれ、下心と罪悪感の交錯で集中力を欠いた手からケータイがすっぽぬけた。
慌ててベランダ下を覗き込むと、垣根が小さな音を立てたのだけ聞いた。どこに落ちたのかは暗すぎてちっとも見えない。

「たいへん!ケータイ大丈夫かな」
「草のトコ落ちたっぽいからたぶん大丈夫っショ。つかおまえ夜なんだから声、うるさい」

のせいというわけでもないのに、目はおろおろとして下の闇のなかにケータイを見つけようとしている。ついに見つからず何を思ったかは急いで家の中にかけ戻って行った。開けっ放しの窓の向こうで階段を駆け下りる音がした。

「バカ、いいって、走んなっショ」

止めたが間に合わず、サンダルをつっかけて外に飛び出すと、が庭同士の境界にある鉄格子の扉を開けようとしていたところだった。
この扉はまだ俺たちが幼稚園のとき、両親とも仕事で家を空けがちな俺たちが遊びやすいようにと両家の親が合意してとりつけたものだ。
中学にあがるとん家の庭にある滑り台を使うことも、俺の家の裏庭のブランコを使うこともなくなった。思春期に加え、俺はロードを始め、はもともと持ってた肺の弱点がわざわいして入退院を繰り返した結果、今ではこの扉はすっかり錆びついてしまった。
「仲よくしてやってね」とのおばさんに頼まれて、高校にあがった時からまた話すようになった。
といっても俺は部活で忙しいから、夜、ベランダ越しにたまたまタイミングがあったらしゃべるくらいだけど。
錆びついた錠があげられず焦るのかわりに、こちらから錠をあげた。耳障りな音がして扉が開く。手に赤さびがついた。

「ケータイ、あった?」
「…」

心配そうに俺の顔を見上げ、答えない俺のからっぽの手を見た。
その隙に俺はの胸を見おろす。ブラジャーをつけていない胸の谷間を見たいんじゃない。
が無意識に手でおさえている右胸の肺がわりと普通に心配だったからだ。
思いやりの言葉を言えるほど口はうまくない。

「たぶん、このへんにあるっショ」

と目を合わすのは気まずかった。目をそらすも目的もかねて、しゃがみこんで手近なところから垣根を順に揺らす。垣根の下は暗くて見にくい。
も横にかがんで垣根を揺らしだした。

「…」
「…」
「…」

そのカッコウで、平気で隣りに並ぶなと言いたいが言えない。
ノーブラでパンツと、ワンピース・・・

「巻ちゃん」
「ッ!?」
「あった?」
「い、いや…」
「懐中電灯持ってくる」

が立ち上がって自分ちへ走って行き、一旦距離が離れたことにほっとする。

「てかおまえはまた、走んなってば…」

ワンピースの背中はすでに見えなくなっていた。
俺はバシっと自分の両頬を叩く。
普通にしろ、俺。
あいつとはのおばさんが言うからまた話してるだけだ。
俺はクラスメイトの女子とかでは抜けないタイプだ。そういうのは専門のおねえさんの映像か、グラビアじゃないとダメなタイプだ。だからをそういう目で見るのはもうやめろ。エロいとかなんとかよりも自分が気持ち悪すぎて嫌だろ、そうだろ。
深呼吸を二回してそのあと力ないため息をついてしまった時、走って芝を踏むの足音が聞こえてきた。

「走んなっつの」

その言葉はすんなり出た。
それが聞こえたらしくて、家の角から姿を現したは競歩みたいな早足でやってきた。

「持って来ました」

満を持して現れたが競歩しながら待ちきれないとばかり懐中電灯のスイッチをONにした。
懐中電灯はつかない。

「…」
「…」

高速でON/OFFを繰り返し、一向に点灯しないまま足を緩めた競歩が俺の目の前までたどり着き、困った顔で口をあんぐりあけ、俺を見上げた。

「アホづら」
「そ、そうだ、わたしのケータイ持ってくればいいんだ。すぐ、超特急!」
「だから走んなって」

超特急で行こうとしたを追いかけ家の芝に踏みこみ手首を掴んだ。

「何度言わせりゃわかんだよおまえは」
「…」

ほんの一瞬で手首ははなした。
振り向いたの目を見ないようの家の生垣に視線を逃す。
そこにぼんやり光る俺のケータイをみつけた。まさに救世主だった。

「あったのね、よかった」

俺の視線の先を追ってがケータイにまっさきに駆け寄り拾い上げた。

「壊れてないみたい。巻ちゃんのケータイ振動に強いやつね」
「違うけど、ラッキーだっただけっショ。貸して」
「あ、…っ…」
「なに」
「…」
「…?」

の背中に投げかけた声は返ってこない。
不自然な沈黙が生まれた。
生垣のそばの暗がりに立つの手が口をおさえていることに気付いた瞬間、背筋が一瞬で凍りつく。

「くるしいのかっ」

前にまわり声をかけると、は口をおさえたまま首を横に振った。

「平気じゃないっショ。だから走るなってあれほど、とにかく中入れ、歩けるか?今日おばさんたちは」

はまだ口を覆ってさっきより必死に首を横に振る。
を守る家族は今いない。
俺は心が強くひきしまるのを感じた。
ずっとむかし、急に息ができなくなったが滑り台の下で倒れたあの日、どっちの親も仕事でいなくて、ビビった俺は家に駆け戻ってうちの親の電話を何度も鳴らした。つながらなくて当時高校生だった兄貴に電話して兄貴が救急車を呼ぶまで、をひとり土の上に置き去りにした。
今は違う。
体をこうして支えられる力と心を備えた。

「心配すんな。おまえは俺が」

“巻ちゃん”

耳元に囁くほどの音量の小さな小さな声を聞く。よほど苦しいのだ。
が弱っていくほど俺の心はどんどん強くなっていく。
目をまっすぐ見ることだって不思議と今はちっとも怖くなかった。



「絶対ぇ守る」



“電話、つながってる、トードー君ッ”

「え」

の手元で光り続ける俺のケータイ画面に



通話中
通話時間 23分06秒
To Do




通話時間は今もなお着実に時を刻み続けている。
から無言でケータイを受け取る。
自分の手が震えているのを見た。
俺の親指は音もなく終話ボタンを押した。
一切ロスのない動作でケータイを閉じる。
の背中に触れている左手の触覚は麻痺し、視力は失われ(たぶん俺はいま白目を剥いている)、なにか謝っているらしいの声はひどく遠い。
空気を読まず右手のなかでケータイが震えだした。



着信
To Do




かに道楽の看板のようにしか動けなくなった俺は混乱の果てに通話ボタンを押下し、みょうな角度で曲がったまま固まった腕でケータイを耳にあてた。

「どどどどどどういうことだ巻ちゃん!!!い、今の会話はいったい!?なにがあった!じょ、じょじょじょじょ女子の声がしたではないか!しかも最後の“おまえは俺が絶対ぇ守る”とは!?いいいいいったいどういうシチュエーションだ?!オレと言う者がありながら、じゃない、ロードというモノがありながら!こんな夜更けに、夜更け、夜更けって…?さっき巻ちゃん家にいるって…言ってたよな?うそだ、嘘だ嘘だ嘘だ!クライマーとしての力は同等だとしても、女子人気ナンバー1の東堂尽八様より先に巻ちゃんが女子としっぽりだなんて、そ、そんなことはあるはずがない!あってはならない!男なら!自転車一本で!生きて行けよ!ライバルはオレ!恋人は自転車!!そうだろ?なあ、なあなあなあなあ!ぜんぶ嘘だといってくれ…っ、巻゛ぢゃ゛ん゛!!」

「嘘っショ」

ツーツーツー

電話を切り、電源まで切り、勘違いで死ぬほどクサいことを言い放って燃え尽きた俺の目に、俺を見上げるがうつる。
の眉が残念そうにさがった。

「ぜんぶ嘘かぁ」

心なしか肩をおとして苦笑した。

「へ?あ、いや…」
「それじゃあ、また」とは逃げるように離れていく。
「ぉまえが息、苦しくなったとき助けんのは本当ショ」

口から飛び出した声は思いのほか大きく、夜に響いた。

「や、変な意味じゃなくて、そんなの普通のことッショ。道端でひと倒れてたらAEDするショ、ふつう。そういう意味ッショ」

俺の目は途端におよぎだす。
心臓が、山頂まで残り100メートルで競るのと同じ速度で脈打っている。
まわして進むペダルはなくて、立ち止まったの言葉を待つこの足は地面にはりついて離れない。

「…自転車」

が言った。

「自転車に乗って元気になりたいって、さっきまで思っていたのだけど、心が揺らいでしまう」
「元気んなんのは揺らがせたらだめっショ」
「うん」

恥ずかしそうに小さくうなずいたの後頭部を見て、張り付いていた足が1センチ宙に浮く。
いつもとどこか違う調子の「おやすみ」を交わし俺は悪くない気分で錆びた扉のむこうへ踵を返した。
両親がデジタル一眼レフをまわしていた。

「「な、なに!?」」

同じ言葉を発したを振り返ると、の両親が壁の影から三脚付きのカメラをまわしているのを発見し、俺は再び触覚と視覚を失った。



それから一週間、東堂からの着信は鳴りやまず、一週間後、錆びた鉄格子の扉は両家の親の合意に基づき、真新しいハートモチーフの扉へ新調された。



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