あいつはクライマーだ。
センスある!
小野田坂道
クライマーだ!

いい気分だった。
この帰り道が登りだったらよかったのにと思うが、家へ続くホームストレートはいつもどおりの平坦だ。
いつもどおりのその道で、うちの上の塀に赤色灯が反射していることに気が付いた。
救急車がの家の前に泊まっている。
滑り台の下、6歳のがぐったりと横たわる姿が脳裏をよぎる。上がっていた熱が急に引き、ペダルを踏む足から感覚が消えうせた。
自転車を倒して救急車からストレッチャーを降ろした消防隊員に掴みかかろうとしたとき、が門から顔をのぞかせた。

「巻ちゃん」
、おまえっ、また」

俺の勢いに気圧され、はびっくりしている。
目を丸くしていたがはっと気づいて首を横に振った。

「…わたしは平気。お向かいのおじさまが、ぎっくり腰になってしまったらしくて」
「ぎっ…くり?」
「ぎっくり」とがうなずく。
「ぎっくり…」

俺はガクンと力が抜けてうなだれた。
落とした視線の先、尻尾をふって俺の制服の匂いをかぐ冬太が目に入った。
冬太は幼稚園バスのバス停に捨てられていたところを二人でひろってきたオスのワンコで、うちはダメだと言われたから一人っ子だったの家で飼うことになった。明らかに洋犬の見た目だが、冬に見つけたから二人で冬太と名付けた。俺にもよくなついている。

「紛らわしいんだよ」

にできないかわりに冬太の首をわしゃわしゃかき乱してから、自転車を起こした。
さっさと立ち去りたかったのに「巻ちゃん」と背に慌てた声がかかる。

「なに」
「きょう、あの」

お向かいのぎっくり腰おじさんと救急隊員に配慮してか、は早足に寄ってきて背伸びをし、唇をよせた。

「あとで、散歩がおわったら話したいことがあるの」

出てこられる?と耳に吐息がかかった。
白内障気味の冬太は、ひきつった形で固まった巻ちゃんのこの指は一体どうしたことかと、ずっと鼻をこすりつけていた。






に自転車をすすめたのは会話のはずみで、本気ではなかった。
自転車を始める前までは病弱だったという箱学の一年クライマーの話を東堂から聞かされて、挨拶をするのと同じ感覚でにもその話を聞かせただけだった。一晩寝たらもうすっかり忘れていたようなレベルの話を、しかしは後日、わざわざ俺を呼び出して自転車の乗り方を教えてほしいと頼んで来た。もちろんママチャリのことじゃない。ママチャリは一応乗れるから。
休みは休みたいとしぶったが根負けし、次の休みの日に中学のころまで使っていた初代ロードをガレージから掘り起し調整してやった。

「すごいのね。巻ちゃんプロの整備士さんみたい」

サドルの位置を見る俺の後ろでは嬉しそうに待っていた。
3年近くずっと使っていなかった初代ロードは調整だけでもなかなか言うことを聞かず、力が要った。軽く汗をぬぐうと不意に後ろの髪がすくわれ、首を涼しい風が撫でる。
なにやら髪をいじっているとわかるがいま手が放せないし、涼しいからそのままなにも言わず俺はメンテを続けた。

「っし、こんなもんショ」
「ありがとう。かっこいい」

俺の髪はいつのまにか右肩へ流すようにゆるく三つ編みにされていた。






初代ロードを押して、準備運動がてら家から少し離れた川沿いの緑地まで歩いて行った。
冬太はもうおじいちゃん犬だから今日は家で留守番だ。
緑の草のうえ、キラキラ輝く川を背景に、は五月晴れを背負って高校ジャージにスニーカーという出で立ちだ。初代のグリップを握りフレームを撫でてまだうれしそうに笑う。興奮した頬が走る前から赤みを帯びていた。

「速そう。細くて、かっこいい。やっぱりすごいな、巻ちゃんはこれに乗ってすごく速く走るのね」
「落ち着け」
「巻ちゃんはどんな道を走るの?どこが一番大変だった?」
「は?大変って…箱根とか」
「箱根!すごいなァ、合唱祭でとなりのクラスが歌っていたよ。箱根の山は、天下の険」
「あ、そ」
「ちゃんと乗れたらどこまで遠くへ行けるのかな。富士山?」

適当に返しながら
おまえには無理っショ
本当はそう思っていた。口に出して言うほどのことではない。

「う、これ、前…怖い」

鼻息荒く、股間強打スレスレのフレームの高さを乗り越えてなんとかサドルをまたぎ、ゆっくりと前に進みだした。
ほどなく、生まれたての小鹿みたいに前輪が震えだす。
速度がでないうちには車体を大きく傾けて片足を地面についた。車体は倒れず、傾いただけでとどまった。
車体を支えて、下から逃がしてやるとはしばらく呆然とした様子でペダルを見つめ、一言「難しい」と神妙に言った。
俺は聞こえるようにため息をつく。

「これでわかったショ。おまえには難しい。遠く行くたって、どうせあのアウトレット行くくらいだろ。あれくらいママチャリで」

「もう一回」

「はァ?」
「まだ一回目だもの、次こそ」

まじめな顔しては再びロードにまたがった。

「っ…う」

ビビっている声がする。
前に落ちそうになるのを恐れ、前身を起こそうと腕から肩まではピンと張りつめ、背から首は弓なりに反っている。グラビアでああいうセクシーポーズはよく見るけれど到底ロードバイクに乗る姿勢ではない。
顔も体もガチガチで、とんでもなく情けない速度で、自転車はふらふら前とも横ともなく進んでいる。

「危ねっ、そんな遅く走ってたら転ぶショ、普通にこげって」
「はいっ」

こぎ始めはふらふらしていたが、それでもペダルを踏めば前に進む。スピードが出る。スピードが出ればある程度は安定する。は広い緑地を無軌道に進んだ。
緑地が広くてよかった。
額に汗し、いつもの笑い顔もなりをひそめて真剣に道とロードバイクに向き合っている。
一つにくくったの髪が後ろになびき、いつもベランダから見ると違って見えた。
いつもより、すこし、の世界がひろい。

「…」

もしかして案外向いてるのか
そんな気の迷いが芽生えかけた矢先、速度をゆるめて一旦降りようと地面に着いた左足が、回ってきたペダルに膝カックンされて自転車ごと無様にスっ転んだ。
慌てて駆け寄り、転んだの脚のうえでカラカラとむなしく車輪をまわすロードを引き起こす。
ペダルに押されたふくらはぎにはひっかき傷みたいな白い線が入っている。あとでミミズ腫れになるやつだ。大した怪我ではないのに腹の底に穏やかでない感情が渦巻くのを感じた。
開口一番、は「ごめんなさい」と謝った。
緊張している。俺相手に。

「自転車、壊れてしまった…?」
「軽いからこれくらいじゃ、別に」
「そう、そうなの」

よかったと胸をなでおろし、は機敏に立ち上がる。

「次にコケるときには、巻ちゃんの初代ロードは全力で救うから」

ジャージの尻についた土を豪快にはたき、わき目も振らず持っていこうとしたハンドルを、俺は掴んだままにした。

「まだやんの」

「…お願い」
「またコケるッショ」
「自転車壊さないようにします、絶対。だから、お願い」
「そうじゃなくて、…」

目をまっすぐに見られたら、そうじゃなくて、のあとの言葉を継げず、俺はそれからしばらく緑地を見おろす斜面に座って川との練習風景を眺めることになった。
斜面になった上には緑地と並行して市民憩いの散歩道がある。自転車と歩行者の道は線で区切られていてロードやクロスバイクでのんびりとサイクリングを楽しむ人も多い。冬太の散歩コースでもあるその道は天気の良さもあいまって今日は特に人がたくさんいた。
腹の底がまだ重く暗いものを抱えたまま、野の花が揺れる斜面での胸を見つめる。

成長した。

いやらしい意味じゃない。

の体は成長し、体の成長に追いつかなかった肺は引き伸ばされた。

幼稚園のころから数えてもう5回も開胸手術をしたのに、あいつはいまだに体育の授業もほとんど参加できていない。
気圧の変化に影響をうけやすいから、新幹線や飛行機は医者の許可がなくては乗れないし、バスや車で標高の高い地点を越えるのさえNGだ。
だけど可哀そうと思うにははあまりにも幸せそうだった。
耐えているところは必ずあるだろうが、平気かと尋ねると全然平気と笑って、「次の手術ね、パカって開きやすいようにここに蝶番つけるの」と見舞いに来た俺に冗談を言う余裕さえみせる。はそういう強いヤツだった。
遠くでは小学生たちが野球をしている。釣りをするひともちらほら見える。みんな自由気ままだから気にする人は少なかったが、無邪気なちびっこがを指さして「あのおねえちゃん自転車のれないの?大人なのに」とに聞こえる大声で無慈悲なことを言ったりもした。小学生のチャリンコ集団が「あいつめっちゃフラフラしてる、ギャハハ!」とわざと悪童としてふるまい粋がるのも聞いた。の顔はずっと真剣だ。
(あれは、あいつにできることなのか)
いや、ロードは身を以て知っている。
サイクリング程度ならできるだろう。でもあんな顔つきで本気でやろうとするのは無理な話だ。
小さな肺はすぐに息が上がって、できなかったとあとできっと傷つく。またぶっ倒れるかもしれない。

「お、あれ、ジョシコーセーじゃん?」

ロードにまたがるグル―プが上の道でペダルを止めた。
振り返らないでおくが、大学生か社会人だろう。

「一人かな、セイシュンだねー」
「行っとく?」

うしろでロードを降り斜面に足を踏みいれる音がした。

、そろそろ休憩しろ」

強めに声を発した。
ナンパで練習やめるような連中よりも、コケても笑われても両腕の筋肉ぷるぷるさせながら取り組むあいつのほうがよっぽどマシだ。

「うわ、男だった」

振り返ると、ロードの三人組は俺の肩に伸ばしかけた手をひっこめ、びっくりしているところだった。数秒かけてその驚愕の意味を理解し俺の顔は歪む。が結った三つ編みを乱暴にくずした。



アホ三人組グループが逃げるように道に戻っていったのと入れ替わりで、が斜面をあがってきた。

「いまの人たちは、部活のお友達?」
「知らない人ショ」
「そうなの」
「ん」

横にあったのカバンから水筒をとって渡す。この女子っぽいカバンというオプションもついていたから間違えられたのに違いない。絶対そうだ、絶対。
喉を鳴らして水を飲むの首には汗が光っていた。
そらされた首の下に目がいく。
熱かったのか、ジャージのジッパーが胸元まで下げられていて、中にTシャツが見える。流れた汗が、Tシャツと肌の隙間へ吸い込まれていった。
小刻みに上下する胸にいやらしさでなく不安がよぎる。
休憩といったが、もうやめさせたほうがいい。

「巻ちゃん、次教えてもらっていい?」
「…やだ」

冗談だと思ってが明るく笑う。無視して立ち上がった。

「俺はもう帰る。やることあるし」

斜面を下り、立てかけられていた初代ロードのハンドルを掴む。

「待って」

本気とわかったが慌てて追いかけてきた。

「まだやりはじめて一時間も経ってないのに」

無視して自転車をおしながら斜面を登る。

「ロードバイクを倒してしまったことは、その、本当に」
「別にそれは怒ってないショ」
「…」
「俺ははやく帰りたいの」
「じゃあ、あの、ロードだけもうすこし貸してもらっていい?」
「絶対ェやだ」
「どうして」
「そりゃ、…おまえがコケまくるから、自転車壊れるからっショ」

苦し紛れにはっきりと矛盾したことを口走った。
矛盾を突かれる前に素早く口火を切った。

「だいたい、おまえにはロードは無理だ。全然むいてない」

がいまショックうけた様子で立ち尽くすのを見ていられなくて、視線をそらす。

「コケたのは…本当に、ごめんなさいだけど、でも、ちょっとわかったの。たぶん芝生のうえは地面が柔らかいから走りにくいのかなって。むこうのアスファルトのところでやってみたらきっと」
「あ、取んなっ」

気を抜いた一瞬のうちににハンドルを持っていかれた。
振り返りもせず素早くペダルをこぎだし、自転車専用の道へ入って行った。
あっというまに遠くに行ったを走っておいかけるが追いつくはずもない。
タイヤが自転車用道路と芝生の境目に徐々に寄って行くのを後ろから見て、鈍く嫌な予感がした。
次の瞬間、はブレーキをかけたと思う。
車輪は芝生で横滑りしてはアスファルトに放り出された。
それほど速くないこの足が全力で地面を蹴った。



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