近くを歩いていた買い物帰りのおばさんに声をかけられて体を起こし、撫子は大丈夫ですと言っているようだった。手も借りずに立って、すみませんすみませんとなぜかおばさんに謝っている。
俺がようやく追いついた時、撫子はロードを引き起こし壊れていないかいろんな箇所をわかりもしないくせに見ていた。ジャージの足が太腿まで土だらけになっているのも気づかない。
「っ大丈夫か」
悪いことをしたという自覚と大きくコケた動揺で撫子の肩はすくみ、目は泳いでいた。
「ごめ、ごめんね、大切な自転車、壊れてないかな、弁償す」
「バカかおまえっ」
撫子は雷に打たれたように震えあがり、動かなくなった。みるみるうちに顔が赤くなる。
「…どっか、ケガしたか」
語気を弱めて尋ねなおす。
「大丈夫、どこも」
「息は?」
撫子は真っ赤な顔で首を横に振った。
そして「ごめんなさい」と小さな声で言った。何度も言った。
詰まっていた気持ち悪い空気を俺はようやく重く吐き出す。
「…自転車は、別にいい。それよりジャージの膝やぶけてんじゃん」
右足の膝が破れていた。
バレーボールで膝で体育館をすべって化繊が溶けたようなよく見る裂け方だった。おばさんに言ったら撫子は怒られるだろう。撫子は入院の暇つぶしで覚えた編み物が得意だからその延長でこれを縫うくらい簡単なのかもしれない。
ふと、布の裂け目が黒く濡れているように見えて手で布を触ると、確かに濡れている。血だった。
「あ、血」と撫子はわりと平気そうにつぶやいたが、有無も聞かず裾を折り上げ、その白い脚に血の網がひかれているのを見た。
アスファルトに右膝の肉が持ってかれている。
水道が近くにあったのは不幸中の幸いだった。
靴と靴下を脱がせ片足立ちになった撫子に手を貸す。
水で洗うと薄まった朱色になって血は流れて行った。
通り過ぎる人たちがちらちらとこちらを見てくる。
俺が目立つ頭をしているからかもしれないし、撫子が怪我をしているからかもしれない。一応撫子を隠すように立ち、けれど俺は怒っていた。
「もう二度とおまえに貸さない」
「…ごめんなさい」
「俺は自転車のこと怒ってるんじゃない。壊れてないし」
「…」
「おまえにロードは無理だ。体育もしてねえくせに」
「…」
「修学旅行は留守番、運動会も見学させられてるようなやつが。ロードナメんな」
「ナメてないよ」
撫子は挑む気のない声でぽつりと言った。
「おまえは家で編み物でもしてればいいっショ」
「…わたしの肺のことを言ってるの」
「別に」
「やったことがないから、ちゃんと挑戦してみたいの」
見下ろす撫子が奥歯を噛んだような気がした。落ち着いた声に妙に腹が立つ。
「そりゃご大層な意気込みで」
「…」
撫子は置いていた俺の肩から手を離した。
蛇口を止め、ミニタオルで水をふき取ると、たまたま持っていたキャラクターモノの絆創膏四枚を傷口に貼った。パチモンの絆創膏は水気のある肌にうまくはりつかないうえ、あっというまに血が染み出し、膝を折る角度を変えた途端にはがれた。傷は深い。
意地を張って口をつぐんだ撫子は俺に背を向け、斜めに垂れさがった絆創膏を乱暴に膝に押し付けなおした。一度血でぬめった箇所にはもううまく貼りつかない。
声をかけるのに少しの勇気が必要だった。
「そこ、座ってろ」
案の定返事は返らない。こちらを振り返りもしない。
俺は水道脇に寝かせていたロードバイクを引き起こした。
「向こうのドラッグストアでちゃんとしたガーゼとマキロン買ってくるから」
うなずく動きもないまま、直立不動の撫子のポニテだけがさっきよりも力なく五月の風にゆれていた。
やっぱりやらせるんじゃなかった。
あいつにはもっと安全なスポーツがいいはずだ。できれば家でおとなしくしていてほしい。
絶対やらせないと言う。
もう二度とロードバイクに触らせないとも言う。
懐かしいグリップの感触も感じる風も、違和感のあるサドルの高さが台無しにして気持ち悪い。
ドラッグストアを出て、川沿いのサイクリングロードに戻ってきたころには長くなった日も傾きはじめていた。
帰っていくまばらな人の流れからとりのこされて、緑地の斜面にポツンと座る姿が、哀れっぽさをよけいに演出している。
膝に押し付けていた血みどろくちゃくちゃのミニタオルをはなしてチラと傷を見てはまた膝にあてて、その動きがやたら小さいのも、強く言おうと決めていた勢いを削いでいく。
「買ってきたッショ」
ロードから降りて声をかけた。
自転車は斜面にねかせて前にまわると撫子の目は赤い。泣いたあとのように見えて、さらに勢いはせき止められる。
それにちょっと撫子の血が怖い。
こっちが貧血をおこしそうになるのを奮い立たせ、買ってきたタオルとガーゼとマキロンとで手当てした。
撫子はずっとおとなしかった。
痛くないか
平気
それくらいしか会話がないまま、俺が自転車をひいて尾っこひく撫子に歩調を合わせ帰途についた。
力ない指を握ってやる妄想がかすめて(俺は自転車をおしてるから両手がふさがっている)とハンドルに言い訳をする。
「ごめんね」
別れ際、髪で顔を隠したまま撫子がつぶやいた。
その日から撫子はバルコニーに姿を現さなくなった。
五月も半ばを過ぎるとインターハイを控えた練習が本格化し、それ以外のことは頭にはいらなくなっていった。ついでに俺にはインターハイのあとの渡英のこと、そのための準備、勉強まである。撫子のおばさんに頼まれた「仲よくしてあげてね」も、ベランダの向かいの部屋のことも頭からすっぽ抜けた。
いや、ちょっと嘘だ。
夜、家に帰って窓を見るくせが、まだ確かにあった。
蚊に食われるから開けない。そういうことにした。
きっとあいつは今頃部屋で超大作の手芸をしている。
あいつの学校は頭いいから勉強が忙しいのかもしれない。
それとも、あの機械オンチが観念して苦手なパソコンでも練習し始めたのかもしれない。
そう、きっとそうだ。
そう思った俺は、インハイあとにバカを見ることになる。
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