ハイラル平原に風が吹き渡った。
100年にわたるガノンとの戦いから解き放たれたゼルダの姿は、まさに光臨といってはばかることのないものだった。
次の矢をつがえていた弓を降ろし、リンクはぼろぼろの姿でゼルダを見つめた。
風をうけて髪が揺れると、分厚い本のページが次々めくられていくように、記憶が戻って来る。
群衆のなかからはじめてゼルダ姫を見た幼い日の喝さいから、使命を果たせずにたおれた日の土の冷たさまで。
「姫様」
唇の端からこぼすようにつぶやいた。
ゼルダは微笑み、リンクはめぐる記憶のうずのなか、ひざまずいてこうべをたれた。
百年の闘いへの敬意か、百年の遅参への懺悔か、百年前、守り切れずにたおれた後悔か、リンク自身にもわからない。ついた膝は力が入らず、もう二度と立ちあがれそうにない。
草のなかについた手が震えているのが視界にはいった。
いけないとリンクは思った。
こんなことでは、いまイーガ団に襲われたら、ガーディアンの照準が向けられたら、ガノンが現れたら、守れない。
頭のむこうで音がした。
弾かれるように顔を上げれば、ゼルダが草のうえに横たわっている。
リンクは細く喉を鳴らして抱き起こし、ガノンとの死闘の疲れもシーカーストーンを使うのも忘れて馬より速く走った。
コログの森に跳び込んできたリンクの蒼褪めた様子と対照的に、デクの樹は悠然とかまえてふたりを見おろした。
若い枝葉を降ろし、少しぶりに見たゼルダの身体を下から救い上げる。
葉脈ごしにおだやかな鼓動が伝わって、命の心配はないことがデクの樹にはすぐにわかった。
一方で返答次第ではリンクのほうが今にも死にそうだ。
デクの樹はできるだけやさしくいった。
「だいじょうぶ、すこし休めば目覚めるだろう」
「百年ですか」
デクの樹は森ぜんぶの葉を揺らして笑った。
「十日間」
盛り上がった根が幾重にも重なって作られた樹洞の奥にゼルダの身体は置かれた。
一日間は騒がしくするなといわれ、きっちり一日経ってからゼルダの寝所に向かった。
緑のつるが垂れた御簾を六つくぐって、七つ目の御簾の前に来たとき、つるの横にいたコログがいった。
「まだねてるよ」
「それでもいい」
右側のつるをコログがよけてくれて、左をリンクが手でよけてくぐった。
コログの許しを得てつんだ花を三輪、胸の前に祈るように握る。
樹洞の天井は根が網上に組み合って空を覆っているのに、その隙間から陽光がやさしくふりそそいでいて、なかはまぶしいほど明るかった。
真ん中に緑の小舟のような器があり、横たえられているゼルダの額が見えた。
目をとじて動かない様子に、指先が冷たくなり、花の茎を握る手に力がこもった。
「いきてるよ」
顔のそばに浮いていたコログがいう。
リンクはうなずき、呼吸を整えた。
大きく吸って一歩を踏み出し、見おろしたゼルダが一糸まとわぬ姿だったので俊敏に回れ右した。
コログは背を向けてしまったリンクのまわりを不思議そうに飛び回る。
「ほんとうだよ、ほら」
コログがゼルダの手のひらをすくって、リンクの腕にあてた。
びっくりしたが、ぬくもりがある。
「…わかった、ありがとう。もうお手を戻して差し上げてくれ」
花瓶はなかったので花を小舟の前に置いたらお供え物みたいになってしまった。
しかし、聖域にこれ以上はいられず、そのままにして御簾をくぐって来た道を戻った。
人の心の機微を不思議がったコログが二、三匹ついてくる。
「おまえたち、服はないかな。体が休まるようにゆったりしたものがいいんだが」
「ふくってなに?」
自分の服を引っ張って示す。
「こういうのだよ。姫様もお召しだったろう、白くてきれいな。ああいうのだ」
「ないよ」
コログの姿を見て納得する。
「ないの?」
とは今度はコログの問いかけだった。
たしかにコログよりは人間の服を持っている可能性が高い。
「着古したものをお渡しするなんて無礼だ。それに男物だし」
「オンナモノ、ないの?」
女人禁制のゲルドの街へ入るために入手した民族衣装が脳裏をよぎる。
「ないの?」
「ない」
「報せよ」
デクの樹はリンクにそういった。
「できません。万が一にでもイーガ団や、ガーディアンや、ガノンの残滓がここを襲ったら。いまはあの方のおそばを離れることが何よりおそろしい」
リンクはかたくなに拒んだが、百年にわたりマスターソードを守り抜いた森の主は根気強かった。自然の理をかたるかのごとき言葉で説得され、ついにリンクはコログの森を出たのだった。
隠密の黒衣に身を包み、リンクはカカリコ村を見おろす崖に降り立った。
ラネール山から吹く冷たい夜風が引き結んだ髪をさらって、首筋と心をざわつかせる。
夜のカカリコ村にはいくつもたいまつの火がともっていた。
巡回と門番の数がいつもより多いのは厄災の消滅にすでに気づいているからだろう。この村なら、インパなら当然だ。
しかしゼルダ姫の生還までは誰も知らない。
―――シーカーストーンを使えばすぐに行って戻れるものを。
リンクは自分がひどく冷静さを欠いていたことにようやく気が付いた。
まぶたを閉じるとガーディアンの照準が額にあたる光景がよみがえる。
ゼルダの悲鳴を聞きながらリンクはたおれ、照準は額に。
すべての記憶と使命を忘れ、野の獣を射、跳ねながらリンゴを取っていた自分を殺してやりたい。
いま必要なのは冷静さと、ゼルダを脅かすものを速やかに退ける冷徹さである。
―――研ぎ澄ませ
はるか昔に聞きなれた言葉が身の内から響きだし、リンクはしずかに両の眼をひらいた。
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