ハテノ古代研究所にはプルアのチョークが黒板をはしる音が響く。

「つまり誘導石の起動において必要とされる要素のひとつは生態の特徴、ひとつは物的要素、もうひとつはいわゆる神的要素で、これらの確認に必要となる古代エネルギー供給はこういう式になって、かなり微弱なもので済んだってわけ。さらに粘性のある液体形状であることも影響してこの係数が」

机に向かうゼルダは真剣な表情でプルアの講義に聞き入って、百年分の研究の遅れを取り戻そうとしている。プルアもいつもの奇天烈ぶりはなりを潜めて、すっかり研究者の顔に戻っていた。
窓際の席に座り、リンクも理解しようと試みたがさっぱりわからない。
姫様はよくわかるなと感心していると、ほどなくリンクは舟をこぎ

「チェッキー!」

チョークが額に直撃した。
プルアが次弾のチョークを指の間に装填すると、ゼルダは優しい笑みでプルアをなだめる。

「いまくらいは休ませてあげてください。リンクはいつも気を張ってくれていますから」

ゼルダのその気遣いも恥ずかしく、「鍛錬をしてまいります」とリンクは外に出た。



「危ないから離れていろよ」

コログにいって柄を握りなおす。
外は寒かったが、剣を振っていればすぐに気にならなくなった。
放たれた矢を上に跳ね上げるイメージで、吐いた白い息を下から両断して跳びあがり、柄を返して地面に突き立てる。
次は、首を狙ってくる円月刀を左で受け止め、相手の肘を関節の逆にへし折るイメージで左の籠手を打ち付ける。
次は
次は
仮想のイーガ団を百人撃退したところで一度汗をぬぐう。
向こうの窓に、黒板に向かうりりしい横顔が見えた。
目を輝かせるその姿に、ゴーゴーガエルの効能を説明しながら詰め寄って来た日のことを思い出した。
リンクの記憶に残るゼルダはたいてい無理矢理に肩ひじを張っているか、肩を落としているかだったけれど、確かにあの目の輝きもあった。
肩肘を張らせる重責も、肩を落とさせる使命もなくなったいま、ふと、あの輝きが毎日見られるのかもしれないと想像する。

「…」

なにがとはうまく言葉にできないが、それはものすごいことのように思われた。






「プルアに何を教わっておいでなのですか」

帰り道に尋ねるとゼルダは指を折って数え始めた。

「村々の生活基盤の状態と、地域ごとの環境変化と、流通の状況、種族ごとの分布、それから古代遺物研究の百年分の成果と。まだまだ聞き切れていませんが」
「難しそうです」
「そんなことはありません。プルアはきっとあなたのほうが詳しいと言っていました。世界中を見てきたあなたなのですから。鍛錬の時間を削ってしまうのは申し訳ないですが、どうか教えてください」

ゼルダに頭を下げられて答えに困った。

「シドからはじきに手紙で近況の報せが来ると思います。ゲルドの族長のルージュからも」
「シド。あのかわいらしいシド王子、ふふ」
「かわいいかは…」
「ルージュというのはウルボザの末裔ですか」
「はい。まだ小さいですが振る舞いも立派で、ウルボザのことをとても尊敬しているといっていました」
「そうなのですか。会える日が待ち遠しい。ゴロン族はいまの長があなたと共に戦ったのですか」
「助けてくれたのはユン坊といって、少し気が弱いですがいい奴です。そういえば、ロベリーから便りが来ませんね。カカリコから伝令が飛んでいるはずですが、どうしたんだろう」
「…ロベリーは、私たちの力になれなかった百年前の後悔から連絡ができずにいるのだろうと、プルアが」

プルアの話によれば、リンクが眠りにつき、ゼルダがガノンの中に消えてからもロベリーは古代遺物の研究を続け、ついにガーディアンに対抗する武器を発明した。罪の意識から自らその弓をとり、危険を顧みずクロチェリー平原に残っていたガーディアンを射たという。

「だから、こちらから会いに行くほかありませんね」

遠くを見たまなざしには炯々たる光が宿っていた。
いつからか手を貸す必要のなくなった丘の道には、もう雪はほとんど残っていなかった。












昼は毎日プルアのもとに通い、夜は夜更けまで蝋燭の灯りで本を読み、熱心にノートにペンを走らせる日々が続いた。
プルアのところへ行く度勉強の役に立たないリンクは追い出され、外で鍛錬するのが日課になり、時折窓からゼルダの横顔を見るのも日課になった。

放っておくと体力を超えても止まらないゼルダに、今夜もホットミルクとクラッカーを運ぶ。

「もうお休みを」
「そんな時間でしたか」

ぐんと伸びをする
ノートのすぐ横にうすい石板が置いてあった。
石板の表面には繊細な文字が刻まれている、ゾーラ族の使う便箋である。

「シドからの手紙にはなんと」
「ぜひゾーラの里に来て欲しいと」
「そうですか」
「ゾーラは長命です。ミファーを死に追いやった私はさぞ憎まれているだろうと思っていましたが…。ありがとうリンク、あなたのおかげです」
「いえ…」

気を取り直してミルクを置くと、拡げたままのノートにガーディアンに似たものが描写されているのが目に入った。その周りに数値や数式が細かく書き込まれている。
ゼルダは見られたものを一瞬手で隠しかけて、やめた。

「…ガーディアンの改修に関する調査をしようかと」
「ガーディアンの?」

リンクは自分の耳を疑った。
いま生きるひとのほとんどはあの兵器の恐怖を知るまいが、これ以上ないほどにあの恐怖を知るゼルダの言葉だ。

「砲台を取り払います」

ゼルダの声は真剣そのものだった。

「各地の生活基盤の調査と課題の確認が第一です。ガーディアンの改修は二の次でもない、もっとずっと先になるでしょう。ですが、重いものを運ばせたり、高い場所まで持ち上げたりできたなら、それだけでも大規模な土木事業で皆の役に立ちます」

しばし睫毛を伏せてから「ハテノ砦の壁を覚えていますか」とゼルダがいう。
リンクはうなずいた。
今は忘れようとしても忘れられない、絶望と希望の景色である。

「砦のくずれた石の壁は百年あのままです。今を生きる人々はそれぞれ懸命に、幸いに生きていますが、ハイラルの人々から石の建物をつくる技術は百年前に失われて、それきり時が止まっている。私にはそれがくやしいように思うのです」

壮麗な街並みを誇った中央ハイラルの城下町はあとかたもなく、今となっては吟遊詩人が歌い継ぐばかり。
ほとんどの者は逃げる間もなく命を落とし、人々の思いのみならず長い年月をかけて培われた知識も技術も死に絶えた。
人々の紡いだものが完全に忘れ去られたとき、紡いだ者たちはもう一度死ぬのだと、リンクはたしかに知っていた。

「ガーディアンは、厄災から女神の末裔と勇者を守るものだと言い伝えられてますが、ゼルダと勇者を守ることで人々の平穏な営みを守る、そのために生み出されたものたちです。名にある役目を果たせずに人を襲ったまま時を止め、さぞ、無念だったことでしょう」

役立たずと十年さげすまれたゼルダがいう。
リンクが黙っていると、重くなりすぎた雰囲気をごまかすようにゼルダは苦笑した。

「すみません。よくわからないことを言いましたね。夜更けというのはどうにも思い込みが過ぎていけません」
「お供します」

ゼルダが目を見張った。
役目を百年忘れたリンクにはゼルダの言葉にわからないところなどひとつもなかった。
冗談をいえない騎士の宣誓に、ゼルダは表情をかたくして厳粛に立ち上がる。

「リンク」
「はい」
「あなたはその責を全うしました。私はもはやハイラル王家の王女ではなく、女神の力が再びこの身をおとなうこともないでしょう。償いのように生きることはありません。あなたの思うまま、自由に生きてよいのです」

デクの樹とおなじことをいわれた。
あのときは悲愴にうちひしがれ焦燥に駆り立てられながら償いたいといったけれど、ここのところ、償いにしてはやけに楽しい。
輝くまなざしの先が見たい。



おなじ問いを、朽ち果て苔むした王城の前でいわれたとしても、なにひとつ迷うことはない。



この人こそが私の主、ハイラルの偉大な導き手



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おまけ

ゼルダが二階で床につき、一階のテーブルのうえの燭台を吹き消そうとしたときである。
机の上にシドからの石板の便箋が置いたままであることに気づいた。
片付けようと手に取ったとき、たまたま一文が目に飛び込んでリンクは眼を剥いた。
許しも得ずに上から読む。
いけない。危険だ。厄災は去ってはいなかったのだ。
確かに主旨としては「ぜひゾーラの里に来て欲しい」というものだが、冒頭は「愛するゼルダ姫」ではじまり、「あなたのシド」で結ばれている。
途中の文章に含まれる言葉も情熱的を通り越して、これは、完全に、愛の手紙である。

近くでコログがぽとりと落ちた。



おしまい