ハテノ村の近くには小さな森がある。
この森にはボコブリンが住み着いていて村人はあまり近寄らなくなっていたが、行ってみるとボコブリンの姿はどこにも見当たらなかった。
「白いボコブリン?」
「はい。特に手ごわい種で、たしかこの辺りにもいたのですが」
歩きながら気配をさぐっても、セグロヤギが一頭、こちらに気づいて遠ざかったくらいしか感じられなかった。
「どのような見た目なのですか」
「白い体にこう、紫色の模様がところどころはいっています」
「紫の文様…」
ゼルダは考え込む。
「いまは魔物の気配はありませんから、ご安心を」
「そのような魔物の種類は百年前には聞いたことがありません。ガノンの影響を受けて変異したのかもしれません。城で古代の文献を遡れば手掛かりがあるかしら。ほかの土地でも変化があるか観察したいところですが」
「しばらくはこの周辺でご辛抱ください」
「ええ、わかっています」
森の散策と弓の初訓練が本日のゼルダの体力作りメニューである。
墨で二重円を描いた板を枝にかけると、ゼルダも自然観察の欲求をひとまず抑えて、木の弓をとった。
「真ん中を狙います」
「弦で怪我をなさいませんように、お気をつけて」
優しい言い方にゼルダはすこし反抗したい思いが湧いた。
ゼルダとて光の弓の射手として一応の訓練を受けていた経験があるのだ。百年前のことで、式典用の練習ではあるけれど。
習った作法を思い出しながら胸を張り、足を開いて、つがえる。
はたからみればチープな木の弓には不釣り合いなほど美しい型であるが、本人にはいま放ったら半歩先に落ちるだろうという予感と焦りがある。
思ったよりもずっと腕に力が入らない。
もう引けそうにないが、リンクが真面目な顔でこちらを見ているのを背に感じ、ゼルダは意固地になった。
思い切り息を吸ってもう一度力を込めて引く。
突然ものすごい力で弓がしなり、弦が張り詰めた。
「こうして引きます」
リンクの声がすぐ近くで聞こえ、弓と弦にその指がかかっていた。
ゼルダの身体に触れないように気を付けているらしいが、背中に体温を感じるほど近い。
「指をお放しください」
声の吐息が耳の先にかかり、体がびっくりした拍子に指示どおり指が離れ、その直後にリンクが矢を放った。
木の弓とは思えない剛弓が短く風を切って枯葉を的の中央に縫い留めた。
体温が背から離れると外気の冷たさがさきほどよりもよくわかった。
リンクは矢を取って、犬のように駆け戻って来る。
照れてもない。
「どうぞ」
「…ひとりでやりますから、見ないでください」
「畏れながら、初めてでうまくいかないのは誰でもそうです」
「そういうことではなく…いえ、初めてでもないのですが、だからそういうことではなく」
「お顔が赤くなっています、お加減が悪いのでは」
「そういうことではないと言っているでしょう!教えるなら、その、言葉でよいのです」
「申し訳ありません」
ゼルダを怒らせた理由はさっぱりわからない様子だが、生真面目に挽回を試みる。
「それでは言葉で。言葉で…その…」
リンクは深く考え込み、自分の感覚を精密に言語化しようと試みる。
「このように、ぐぅーっと引いて、ビッと放します」
「…」
さては伝わらなかったと察して、もうひとつわかりやすく言語化を試みる。
「ぐぐぅーーーと引きまして、ビッ、です」
「いやいや、姫さん!兵卒の訓練教官なんて相棒にゃあできねえよ!あいつの身体能力は天才肌が努力しちまった結果だからな。何を教えてもさっぱりわからん!」
酔っぱらったダルケルの言葉をゼルダはひさしぶりに思い出した。
村の散策においては、やぼったい茶色いジャンパースカートに木綿のシャツという装いはしっかりと迷彩の役割を果たしている。
それでもリンクはハテノ村に足を踏み入れたなら周りへの警戒を怠ることはない。もともと少数の行商を除いてほとんど旅行者も来ない村だ。よそ者の噂はすぐに広がる。若い娘とあなどって、どうにかしてやろうという不心得な者も出てくるかもしれない。
こと、マンサクに関してはゼルダをひと目見かけたときから、体の向きが例の娘のいる宿屋の方角からこちら向きに変わっている。いまも。
「…」
ぽとりとコログが地に落ちる。
「村の人をそのように怖い顔で睨んではいけません」
「はっ」
ゼルダは小さくため息をついた。
「リンク、あなたの忠勤には感謝していますが、私の素性を隠したければまずはあなたのその態度と言葉遣いをどうにかしてください」
「は、申し訳ございません」
「それです」
「…すみません」
反省とふさわしくない言葉遣いへのとまどいにさいなまれ、前を行くゼルダの背中に軽くぶつかってしまった。
「申し訳ございませんっ、お怪我は」
言われたそばから大声で言葉を間違えたことにしまったと思ったが、ゼルダは気にも留めずに立ち止まって左の店をじっと見ている。
店の棚には色とりどりの生地が並び、奥には大きな樽が見えた。
ハテノ染めの「東風屋」である。
「なんてきれいな朱色でしょう。この染料はなにを原料にしているのですか」
「ヒヒヒッ、これはマンジュシューゲの根っこでっしゃえ!一年乾燥さシてすりつぶすんでっしぇえ!高級シんでっしぇえ」
「一年も。では、こちらのエメラルドのような緑は?」
「これはヒヒヒッ!まさにエメラルドでっしぇっ!色を出すためにデスマウンテンの灼熱温泉でじっくりコトコトごぼごぼ煮出すんでっしぇえ!」
店に入ってもうどれくらい経ったろうか。
ゼルダはでっしぇえ調の店主の話に聞き入って、染料の棚の前から離れない。店主のほうも、若者のハテノ染め離れを何より憂いていたところにやっと関心を持ってくれる娘が現れ、大喜びで説明する口が止まらない。
リンクは勇者の石像のようにじっと店の軒下で待った。
かれこれ一時間以上話し込んで、ようやくゼルダが胸いっぱいに知識を詰め込んで満腹といった様子で長く息を吐いた。
「それでは、この色にします」
「毎度でっしぇえ。じゃあこの材料を持って向こうの階段を上らっしぇえ」
「そこの階段ですね」
何の店だか忘れかけていたが、思い出すなりリンクの全身に稲妻が走った。
「お待ちをっ」
ゼルダが階段の上で立ち止まった。
その隙に店主の肩を掴んで詰め寄る。
「あの方は絶対に樽に落とさないでくれ。別のやり方で染める方法だってあるだろう、ほら、服だけ落とすとか」
ふんふんとリンクの話にうなずき、店主は腕組みしていた親指を力強く立てた。
「任せるでっしぇえ。この前新装置を入れたでっしぇえ」
「そうなのか」
あの原始的かつ野性的な装置から入れ替わったというなら、まあ…。
なぜだかまだ胸がどきどきする。
「もっと右でっしぇえ」
「このあたりでしょうか」
階段をのぼりきった先でゼルダが右に動く。
樽の真上の板のところに。
「でっしぇえ!」
音を立てて床板が開き、ゼルダの姿が大樽に消えた。
目にもとまらぬはやさでリンクも樽に跳び込んだ。
店主曰く、落とすときの床板を新しくしたのだという。
一時間も熱心な立ち話をして体力を使ったところに樽ポチャの憂き目に遭っては、ゼルダが具合を悪くしたのも必然のことである。
散歩を切り上げゼルダを支えて家に引き返す間、痛恨の事態にリンクの表情は厳しい。眉間のしわをコログがずっと撫でているが緩みそうにない。
ゼルダは勝手をして困らせたことを謝ろうと口を開いたが、一度唇を引き結び、それから口角を引きあげた。
「お揃いですね」
服は二人とも朱色に染まっている。
和ませようとしたゼルダの努力を察し、女性の服を褒め慣れていない真面目な騎士がたどたどしくいう。
「きれいな色だと思います。似合っておいでです」
「ミファーの色に似ていると思って」
「…」
リンクは前を向き、ゼルダには彼の進む一歩が力強くなったように感じた。
「とてもきれいな色です」
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