狐谷山房でのひとり言
目  次
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BASS秘話     しもつかれの作り方 山房周辺のことば
コンパクトカメラ     阿呆鳥の旅日記 奥州街道と富士山
蓮の育成    
その1
蓮の育成       先頭へ   目次へ
   
 4月になったら 蓮の種の底の部分を 粗めの紙やすりで削ります だいたい気温が15℃が目安です 削った種を水が入ったペットボトルに入れます 2リットル用がいいかもしれませんね 私は普通のペットボトルを使いました  葉が1枚目水面に出てくると 2枚目が水中に現れます 上の写真は 2枚目が水面に出てきた時に撮りました  2枚目が水面に現れると 3枚目の葉の芽と 根っこが現れます 写真の右側が根っこです
   
 2枚目の葉が広がると 根っこも結構伸びます 蓮鉢に 黒土を半分ほど入れ 水を2〜3cmくらいの深さに入れます ペットボトルをハサミで切り取り 蓮をそっと入れます 瀬戸物の蓮鉢は高価なので 漬物用樽です  上の写真は 4枚目の葉がでてきたときです 根が地中に潜り込んでいます 市販の固形肥料を鉢の周りに埋め込みました まだ若芽なので 肥料は控え目が良いでしょう 大きく育った時はそれなりに追肥してください  ほぼ2カ月経ちました 9枚目の葉が出始めましたまだ葉が小さいですね 肥料もそれなりに追加しています どういうわけか 貧弱な葉は枯れました
 7月中旬頃の撮影 葉が立つようになりました 肥料を与えているので元気に育っているようです 他の家の蓮鉢を見ると もっと大きな葉が生えないと花芽が出ないようです 今年咲くかどうか半信半疑です  2カ月半経ちました 元気に育っているようです 半日陰の場所なので 元気に育つか半信半疑です  蓮の葉が枯れ始めました 結局花が咲くことはありませんでした 発芽の年は難しいのかもしれませんね 来年に期待します 2023年の記録はこれまでです 来年も引き続きお願いします
奥州街道と富士山       先頭へ   目次へ
  いろいろと諸先輩方から、奥州街道上で江戸に向かうと最初に富士山が見えるのは、現在のさくら市喜連川(きつれがわ)であると聞かされておりました。しかし、見たという人に会っていません。よって、喜連川のどこなのかも分かりません。現地調査の結果、地理的に喜連川城下は盆地なので、次の山越えの降り口である、現在のさくら市早乙女の南端の旧弥五郎坂ではないかと結論付けました。そのうち、喜連川の知り合いと偶然宴会場でこの話をする機会がありました。そしたら、本人が、「昔そこで見たような気がする。ポツンと見えた。それ富士山だったのかなぁ。」ということになりました。ハッキリ富士山とは言わなかったが私の推理では間違いないと判断しました。栃木県大田原市御亭山で、富士山を写真で撮っている方にどのような時に見えるのか教えてもらいました。まず、冬場は正月か季節風の空っ風が荒れ狂うとき、秋は台風の通過後であるということでした。どうしても、東京都心の排気ガスと日光・赤城からの雲が常に邪魔をするので、そう簡単に見られないということでした。その後何回も弥五坂に足を運びましたが常に空振りでした。2010年2月7日(日)は朝から強風が吹きまくっていました。無線で交信していたら関東一円が強風であるということがわかり、それではということで、空振り覚悟で夕方強風の中出かけました。ついに、念願の富士を見ることができたのです。雪中の写真から概要が判断できるでしょう
 2010年2月7日撮影(空っ風の強風時)
 
2012年1月2日撮影(正月) 
   
 撮影場所の全景
 旧弥五郎坂の途中に、古戦場の碑と五輪塔を納めた小さな祠があります(写真の左端)。天文18年(1549年)、宇都宮氏約2000騎と那須氏約500騎との間で戦いが展開され、宇都宮氏側の総大将であった宇都宮尚綱が戦死し宇都宮氏側が敗退しました。尚綱を討ったのが那須氏側の鮎瀬弥五郎で、敵将尚綱の菩提を弔う為にここに五輪塔を建てたのでこの坂を弥五郎坂と呼ばれるようになりました。
 右側が旧奥州街道(陸羽街道)で、正面が東京方面で手前の山側がさくら市喜連川方面になります。旧街道が狭いので、正面200m前辺りで別ルートの広い道を新設しました。現在の国道293号線です。
 
その2
BASS秘話        先頭へ   目次へ
 ベースまたはバスとよびます。クラシックではコントラバス(ダブルベース)、ヴィオローネ、バスガンバ等がこれに該当します。現在はエレクトリックベース(単にエレキ)があり、前者と後者が入り乱れて使われています。こんなに混同している楽器はベースだけです。声楽でも低音部をべースとよびさらに混乱の上乗せです。ここでは弦が付いている楽器のベースを取り扱ってみます。よって、声楽やキーボードなどのベースを省きます。
 ベースを大きさで分類するとアコースティックベース、エレクトリック・アップライト・ベース群とアコースティック・ベース・ギター群に分類できます。前者が人が立ち姿勢で抱え込んで演奏する大型の楽器です。後者は通常のギターと同じ大きさの楽器になります。後者は当然小型ですから弦だけでは低音が出ませんので無理やり電気的に低音を発生させることになります。私はクラシック派なので
今後ベースは全てクラシック音楽で現在使われているアコースティックベースを指すことにします。
 ところでベースとはどのような理由で出現したのかということになります。西欧古典音楽においては、弦楽器はヴァイオリンの延長上のヴィオラさらにヴィオロンチェロ(単にチェロ)が主流で、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロで和声を成立させていました。これらは、調弦が5度で弦の数が4本で単純に楽器の大きさを変えるだけで高音部、中音部、低音部を構成することができました。誰もが考える方法でしょうし必然的といえば必然的です。ところが、小規模な楽器編成ではこれだけで十分でしたが、時代が進むにつれ大規模な楽器編成になりどうしてもさらに低音部が必要となってきたのです。しかし、和声はヴァイオリン族で十分に構成されているわけですから、さらに低音部の和声構成の必要性はありません。そこで、チェロの担当部を補完させることすなわちオクターブ下をベースに担当させることによって、曲全体を重厚なものにしたのです。
 でもベースはどこから来たのか? その由来は? たしかに、ヴァイオリン属やビオラ・ダ・ガンバ属の延長線上にはない楽器です。ヴァイオリン属の最低音部は古典音楽ではチェロより一回り大きいヴィオローネで、ビオラ・ダ・ガンバ属はバスガンバです。ビオローネは基本的には5度調弦でフレットがありませんが、バスガンバは4度調弦でフレットがあります。ベースは4度調弦でフレットがありません。歴史を組み込みます。ヴィオラ・ダ・ガンバは15世紀後半頃から文献などに顔を出すようになり、16世紀〜17世紀に全盛期を迎えます。ヴァイオリンは16世紀後半には文献的に顔を出すようになり、17世紀〜18世紀頃には、ヴィオラ・ダ・ガンバにとって代わって世界に躍り出ます。基本的には、ヴィオラ・ダ・ガンバは
上流階級の楽器で、ヴァイオリンは下層階級の楽器であったようです。したがって、文献的には宮廷中心の文化が表面に出易いので、一概にヴィオラ・ダ・ガンバが古くヴァイオリンが新しいとするのは危険で、それぞれが同時に発展したのではないかと推察します。ヴィオラダガンバは優雅に、ヴァイオリンは大音量で楽しく。
 私の結論です。もし、現在のベースをヴァイオリン属と同じ5度に調弦すると、楽器自体が大きくなり演奏が難しくなるだろうと予想できます。4度であれば大きさ的には無理がなくなる。多分、バスガンバがヒントとなっていたのではないでしょうか。すなわち、弦の数を6本から4本に減らし低音を重視し、大型化して低音を出し易くする。さらに、微妙な音程を重視するために、ヴィオローネをヒントとしてフレットをなくす。
ベースはヴァイオリンとヴィオラ・ダ・ガンバの混血である。(汗) 現在は擦弦楽器がヴァイオリン属のみになってしまったので、ヴァイオリン属扱いです。
ヴィオローネ(ヴァイオリン属、古楽器)
 チェロを一回り大きくしたもので、演奏スタイルはチェロと同じです。ヴィオラ・ダ・ガンバと違いフレットがありません。弦の数は4本で調弦は4度と5度の変則調弦やすべて5度といった変遷をたどっているようで、コントラバスの前身です。このヴィオローネはチェロの前身でもあるのです良質のスチール弦が作れるようになり小型のチェロが出現し、ガット弦のヴィオローネはオクターブ下を担当することになります。さらに、コントラバスが作られてからは衰退の一途をたどります。私のホームページの音楽配信に載っているブランデンブルグ協奏曲第2番第1楽章と第3楽章は、チェロとチェンバロが通奏低音を受け持ち、これとは別に、ヴィオローネが組み込まれています。通奏低音の補助的役割だったようです。第2楽章では使われていませんので注意深くお聴きください。
 余計なことですが、チェロの語源は次のように変化して出来上がりました。
   
ヴィオラより大きい楽器 ⇒ ヴィオローネ ⇒ ヴィオローネより小さい楽器
   ⇒ ヴィオロンチェロ ⇒ 略してチェロ

すなわち
   ヴィオラ   + オーネ(大きい)  ⇒ ヴィオローネ
   ヴィオローネ + チェロ(小さい)  ⇒ ヴィオロンチェロ
このことから、楽器の成立順序と大きさが明確にわかります。とすると、ベースはこのチェロの後成立したと考えると違和感なく理解できます。バッハの時代はベースではなく、ヴィオローネが通奏低音(チェロやハープシコード)の補助として使われていた事実からも納得できますね。

バスガンバ(ヴィオラ・ダ・ガンバ属、古楽器)
 ヴィオラ・ダ・ガンバを直訳すると「脚のヴィオラ」で、すなわち、脚で支える楽器という意味です。ヴァイオリンの元の語源はヴィオラ・ダ・ブラッチョで直訳すると「腕のヴィオラ」ですが、現実的には腕と肩と顎で支えるという意味です。ヴィオラ・ダ・ガンバは、ヴァイオリン属とは異なり4度調弦で、弦の数は6本でリュート同じようにフレットが付いています。演奏スタイルは前述通り脚に乗せたり挟んだりして演奏する弦楽器で、その最低音担当がバスガンバです。楽器の形はヴァイオリン属と似ていますがヴァイオリン属をスマートな形にしたものです。古典音楽ではヴィオラ・ダ・ガンバ属のアンサンブルが盛んでしたが、ヴァイオリン属に押されて、最後に残ったのがバスガンバということになります。ヴィオローネ同様コントラバスの前身です。高音部から順にトレブル、アルト、デノール、バスという楽器名になります。
その他

 番外編として、これらのヴァイオリンやヴィオラ・ダ・ガンバ以前の擦弦楽器は何であったかです。文献によると、
中世フィドル(Medieval fiddle)と呼ばれる楽器があったようです。ヴァイオリンやヴィオ・ラ・ダガンバより丸型の楽器ですが、ヴァイオリンの前身の楽器であったと窺わせる形状をしていますし、絵画に描かれている演奏スタイルはまさにヴァイオリン風です。
リュート奏者(by Caravaggio、1595)
 
この絵画の年代は16世紀末です。リュート奏者の机上の楽器を拡大したのが下記の絵です。この楽器どう見てもヴァイオリンです。当然ながら、黎明期のものですから、作りが現在の形とは多少異なります。リュート奏者ですが、貴族風には見えません。ヴァイオリンが、下層階級の楽器であったことを考えれば、さらに納得できます。
 アンドレア・アマティ(1505?−1577)がヴァイオリン最初の制作者とされ、ストラディバリ(1644−1737)やガルネリ(1698−1744)が多くの名器を作り出しました。もしかすると、この絵画に使われた楽器はアマティ作?(汗)
比較
 コントラバス(左)
 バスガンバ(中央)
 チェロ(右)

 はっきりとした違いがわかりますね。右の絵はバスガンバの演奏スタイルです


(by Jean Marc Nattier, 1754)
その3
しもつかれの作り方        先頭へ    目次へ
 栃木ではこの「しもつかれ」が郷土料理になっていますが、基本的には初午のときに氏神様やお稲荷様に赤飯とともにお供えする料理です。材料は正月の新巻鮭の頭、節分の大豆、大根、ニンジンがベースで、酒粕や油げなどか好みによって加えられます。味付けは醤油だけです。このとき、独特な道具として鬼おろしを使います。この道具を説明します。Y字状の木に溝を10本程度つくり、竹を大きなのこぎりの刃の状態にしたものをつくり、Y字の木の溝にセット固定します。目の粗いおろしができます。おろしの長さは40cmくらいの大きさになります。これで大根やニンジンをおろします。では料理開始です。
(1)荒巻鮭の頭を2等分しよくこんがりと焼きます。
(2)大根とニンジンを鬼おろしでおろします。鬼おろしがないときは超粗目のおろしでよい。
(3)おろした大根とニンジンを絞ります。
(4)しぼり汁で、細かく砕いた焼き鮭の頭を煮ます。水不足のときは水を加えます。
(5)次に大豆を加えます。節分の大豆ですので炒り大豆のはずです。
(6)炒り大豆でない場合はフライパンで炒りましょう。
(7)頭や大豆がが少々柔らかくなったらおろし大根とおろしニンジンを加えて煮ます。
(8)油げや酒粕を加えるのはこのときです。(油げ:方言でお稲荷さんのこと)
(9)水が不足したら少々加えます。
(10)最後に醤油を加え味を調えます。
(11)水分が少々残る程度に煮詰めて完成です。
(12)冷やして食べるのがベストです。
冬場食べ物を無駄にしないECOな料理だったようです。しかし、よく考えてみると、栄養のバランスもグーのようです。タンパク質、ビタミン、カルシウムなど。
 みなさんもチャレンジしてみたらいかがですか。
鬼おろし
 当家に伝わる鬼おろしで、明治時代に現在の地にお祖父さんが住むようになってから、ずっと使い続けている代物です。年季が入っています。近くのおばさん達も借りにきます。これをみて旦那さん達が鬼おろしを自作しているようです。
しもつかれ完成品
 大根、 ニンジン、炒り大豆、鮭の頭、油げ、酒粕、醤油を使用しました。鬼おろしを使ったので、肌理が粗いのが良くわかるでしょう。細かく摺り落とすと水っぽくなり、しもつかれ独特の食感がなくなります。この作品は隣の老夫婦です。
 
その4
山房周辺のことば          先頭へ    目次へ
    赤字は特に方言色が強い言葉です。
お晩ですぅ 今晩は
さみぃ 寒い
こわがんべぇ つかれたでしょう     (別)恐ろしいでしょう
ごじゃっぺだっべぇ でたらめでしょう
きどころ寝すんなぁ 服を着たまま蒲団を使わず居間などに寝ないように
せいふろに入るぞぉ おふろに入ります
まがんべぇ 美味しいでしょう     (別)上手でしょう
えがんべぇ いいでしょう
ほったらかしておけぇ かまわないでおきなさい
いでぇ 痛い
ほんとげぇ 本当ですか
だめだんべぇ ダメでしょう
じゃんじゃんやれぇ もっともっとやりなさい
あめぇべ 甘いでしょう
いっぺぇやんねげぇ (酒を)一杯やりましょう
ふったがったげぇ 火が点きましたか
ぎっちょげぇ (おもに)左利きですか
しらばっくれて 知らないふりをして
ふんがいした (石ころに乗って足首を)ねじりました
つっぱえたんけぇ (川などに)落ちたんですか
そだっきもてきたぞ 枯れたよく燃える木をもてきました(山に落ちている枯れ木)
もそいな (このアメ食べるのに)時間がかかります
黒なずみだぁ (脚の膝が)何かにぶっつけて充血しています
すっかいべや (この食べ物)酸っぱいです (食べ物が悪くなったときにつかいます)
かつけっぺぇ (悪意を持って誰々に)責任を負わせること
いも掘りやっぺぇ 自然薯取りやりましょう (サツマイモ、ジャガイモ堀りではない)
もろっ被りだっぺぇ (水などを)まともに被りましたね
ほきてきたなぁ (地面から草花の芽が)出てきましたね
ぶっちめたんけぇ (手足を)誤ってぶつけたり叩いたり挟んだりして痛めたんですか
あんまりおっちめんなぁ あまりぎっしりと詰めないでください
よっぴてぃ起きてたんげぇ 一晩中起きてたんですか
ひっぺがすなぁ 剥がさないでください
何くっちゃべってんだ 何を話しているんですか
ごせやける子供だなぁ どうしようもない子供ですね
おしゃんこらして  (特に子供が)お座りしてんですね
よっこよりしてたけぇ  どこか寄り道してたんですか
しこってんなぁ  おしゃれしてかっこつけていますね
でれすけなんだから  馬鹿なんだから(少々間抜けという意味が含む)
ひっくりげっちょだっぺ  (着ている服が)裏表反対です 
なんでこんなひでなしやったんだ  なんでこんなバカなことやったんですか 
その5
コンパクトカメラ        先頭へ   目次へ
 「誰でもできる超簡単お手軽カメラ」ですね。使い捨てカメラとも言われております。原理は簡単で、フィルムを巻き単にシャッター押すだけでOKで、後は現像屋さんにすべてお任せという代物です。これがまたバカ受けし超人気商品になりました。原理はピンホールカメラです。世界最初のカメラもこれでした。このカメラの特徴は焦点がありませんので、写真を撮ると全体が少々ピンボケになります。しかし、記念撮影程度であればグーでありまして立派なものです。ストロボまでつけましたので夜でも撮影可能となりました。このカメラはピンホールであると言いましたが、完璧なピンホールではなくて小さなプラスチックレンズが使われております。使い捨てですから高価な部品は使われておりません。
 これに味をしめたのか、カメラ業界だけではなく電子機器メーカーが目を付けてディジタルカメラというものを世に送り出しました。すなわち、アナログ画像をCCDやCMOSと呼ばれるものでディジタル映像化するカメラのことです。コンパクトカメラにこのシステムを導入したところ、超格安で扱いも簡単、さらには、PCで自由に加工できるのでこれもバカ受け超人気商品になりました。ついには、高級なディジタル一眼レフカメラも出現し、従来のカメラは衰退の一途を辿ってしまいました。さらにさらに、携帯電話にまで装着してしまい、今やディジタルカメラ時代です。
 私はどちらかと言うとコンパクトカメラ派です。従来のアナログ一眼レフカメラを持っていますが、もうカビが生えて使い物になりません。コンパクトカメラはお手軽ですが、画質は良くありません。最大の原因はレンズです。良いレンズを使えば光も多く取り込めてクリアーな画像を得ることができます。しかし、手軽に持ち運べて簡単に撮れるこのカメラには高級カメラには無い良さを持っています。このコンパクトカメラを使った写真家がいることも事実で、使い方次第でどうにでもなるようです。コンパクトカメラの特性を使いきることは難しいかもしれませんがチャレンジするのもひとつの趣味かもしれませんね。
 下記の写真は私のコンパクトカメラで撮ったものです。PENTAX Optio P70では、最高画質で1枚につき約4MBですので、8GBのマイクロSDを使っているので約2000枚弱撮ることができます。
黄昏
(栃木県大田原市御亭山)


撮影日
 2010年1月1日

カメラ
 
PENTAX Optio P70

 正月は富士山を見る絶好機です。東京都心の大気汚染がなくなりスモックが邪魔しません。昔はどこからでも富士山は見えたんでしょうね。
急ぎにて失礼仕り候
(福岡県太宰府天満宮)

 
2008年3月

 OLYMPUS DIGITAL CAMERA


 太宰府天満宮はいつもお客様でいっぱいです。たまたまこの時はお客様が途切れた瞬間で、社殿を撮ろうとしたら、巫女さんがこちらを見て足を止めていました。気を使っていたんですね。どうぞお渡りくださいと言って渡ってもらう瞬間の一枚です。私のため急ぎ足で渡りました。
左    寒風
 (さくら市)


 2009年11月9日

   紫陽花
 (さくら市)

 2009年7月

 
PENTAX Optio P70

 冬の散歩コースです。寒さをこらえて歩きますが、ある程度歩くまでは凍えますね。その後は汗も出て適当な温かさになります。寒さの中の街灯です。フラッシュは使っていません。
 さくら市喜連川早乙女の桜並木は老木で、桜と菜の花の競演を見ることができます。しかし、意外に初夏の紫陽花の美しさを見落とす人が多いようです。
左   朱影
 (栃木県矢板市八方ヶ原)

 2009年6月5日

   赤提灯
(佐賀県佐賀市)

 2008年3月

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 矢板市八方ヶ原に無線の移動運用に行ったとき、霧の中にヤシオツツジの群生が浮き上がっていました。初めての経験でした。普通は天気の良い日に移動運用しますからね。
 佐賀市のとある居酒屋の提灯です。破れ提灯でした。酒が飲みたい時なのに、こんな提灯に気を取られるなんて。よほどインパクトが強かったんでしょうね。
精彩
(栃木県矢板市八方ヶ原)

2009年10月31日

 
PENTAX Optio P70
 無線の移動運用の帰り道の一枚です。移動運用がしたいがため、気は先に行ってました。運用がお終わって落ち着いて景色を見ながら下山していたので、この鮮やかなモミジの紅葉に気づき撮りました。モミジの赤、ナナカマドの赤、満天星の赤、うるしの赤は特別な赤で、紅葉には欠かせませんね
灯り
(さくら市)

 
2010年1月15日

 
PENTAX Optio P70
 コンパクトカメラでフラッシュなしでどれだけ撮れるか試した一枚です。昔のフィルムは、ストロボや高感度フィルムでないと夜景を撮れませんでしたが、ディジタル画像化の技術が進歩してこのような街灯を撮ることができます。それも、露出を気にせず、一瞬のシャッター切りです。
残雪
(山梨県富士吉田市)

2009年4月

 
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 富士山五合目付近からの一枚です。この写真のバックは灰色で何もありません。すなわち、富士山の背景の雲が完璧に光をシャットアウトしてしまっているのです。珍しいですね。この時の富士山は紫色が映えていました。これも初めての経験でした

波彩
(和歌山県那智勝浦町)

 2010年8月21日

 
PENTAX Optio P70

 島のホテルから対岸のホテル群を撮りました。キラキラと輝く波の情景を捕えようとしましたが、ビデオカメラでないとだめですね。写真は一瞬ですので、止まってしまいます。それを念頭に入れて撮らないといけませんね。
左   立夏
 
(栃木県高根沢町)
 2009年5月

右   
桜月
 (熊本県熊本市)

 2008年3月

 PENTAX Optio P70

 田植えの真っ最中ですね。苗の立ち方でいつ植えたかわかります。この田んぼは植えたばっかりですね。
 熊本城の天守閣です。熊本城は黒を基調としたした城なので、桜が映えますね。どちらかというと、場外からとった方がグットです。
波彩U
(指宿市)

 2011年6月6日

 
PENTAX Optio P70 

 
 ホテルのベランダから夕陽の反射光を撮った一枚です。手前が砂地で奥が打ち寄せる波です。黄金色に輝く波で、周りまで黄金色に染まりました。

(さくら市)

 2011年4月17日

 
PENTAX Optio P70 

 
 散歩道での光景です。4月に入ると、田んぼに水が入ります。この田んぼは早々と代かきしたのか綺麗な水面でした。風もなかったので一枚撮りました。
 フェリー
(鹿児島県与論町)

2011年7月24日

PENTAX Optio P70
 
 とにかく綺麗な海でした。遠くにフェリーと漁船が見えますが、これ程の綺麗な砂浜と海水は、本土では見られない光景ですよね。熱帯魚も見られますよ。
火祭り
(青森県青森市) 


 2011年8月5日

 
PENTAX Optio P70 

 
 ねぶた祭りはワイドスクリーンで撮れるコンパクトカメラでないと上手く撮れないような気がします。何か手を変えて撮る方法を考えねばなりませんね。コンピュータでワイドスクリーン風に加工もできますので、この手を使ってもいいですかね。少々画質が落ちますが。
左   緑風
 
(宮崎県高千穂町)
 2011年6月8日

右   
菊花
(さくら市)
 2013年8月15日

 PENTAX Optio P70 

   
 左の写真は高千穂町でもっとも有名な場所ですね。6月でしたので、水面まで緑色でした。高千穂の昔話を知っていると結構面白いですね。
 花火の写真撮りは最難関ですね。シャッター開放がありませんので、シャッターを押すタイミングが全てです。まず写れば良いでしょう。何枚撮ったか忘れるくらい撮りましたがほとんど失敗でした。
光彩
(滋賀県大津市)

 撮影日不詳

 
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 京都の天橋立見学の帰り大津市のホテルのベランダからの一枚です。この時、何かでイベントが行われていました。琵琶湖沖の噴水が結構きれいでした。
貴婦人
(岩手県宮古市) 

 2007年8月4日

 
OLYMPUS DIGITAL CAMERA 

 
 遊覧船での一枚です。ここのカモメ達はは、餌目的に遊覧船に付きまといます。どうしたことか、一匹のカモメがデッキの手すりに留まりました。人が近づいても逃げようとしませんでした。
金環日食
(さくら市)

 
 金環食が始まるというので、不燃ごみの中から割れたガラスを拾ってきて、ロウソクで煤をつけ、フィルターを作りました。結構よく撮れるものですね。私が生きてる間にこのような金環食は二度とないそうですので貴重な一枚になりました。
光の回廊
(石川県珠洲市) 

 2012年5月27日

 PENTAX Optio P70

 能登半島の北側ですので、夕陽しか見られません。太陽が落ち始めですのでまだ上の方で、光が強すぎるので反射光だけを撮りました。逆光は難しいですね。
朝焼け
(茨城県つくば市) 

 2012年11月11日

 
PENTAX Optio P70

 
 筑波山の中腹からの一枚です。朝焼けがきれいですと天気が悪くなるといわれていますが、この日は太陽が見えませんでしたね。夕日は逆に天気が良くなるそうです。
海彩
(青森県中泊町)

2013年4月30日 

PENTAX Optio P70

 
 青森県中泊町は分割された町で、北側の中泊町の竜泊ラインで撮った一枚です。手前が山で奥は海です。しかし、雲が低いので水平線が見えません。この時、雲の間から光が差してきたのです。黄金色が海です。珍しい光景です。
木陰
(兵庫県淡路市)

2013年9月20日

PENTAX Optio P70

 
 神戸・淡路・鳴門道の淡路サービスエリアからの一枚です。明石海峡大橋と神戸市街が一望できます。

(さくら市)

 2013年11月21日

PENTAX Optio P70

 
 栃木県道の駅8番きつれがわのシンボル欅です。11月中旬ですので、少々枯葉が残っています。国道293号線を走ると結構目立ちます。周りには何もないからです。
田舎の日没
(さくら市)

2015年5月7日

PENTAX Optio P70

 
 田舎は空気が澄んでいるのか、夕陽が結構焼けて見えます。
夜の海峡
(北九州市門司区)

2015年11月20日

PENTAX Optio P70 
 
 九州無線移動運用の帰り道のサービスエリアから撮った一枚です。対岸が目の前です
左 散光
(さくら市)

2011年9月20日

PENTAX Optio P70

右 金色
(さくら市)

2018年12月5日

PENTAX Optio P70

 夕陽直前の太陽の光です。雲のおかげできれいに光が散っていくのが分かります。
 散歩道です。周りが暗くなり、街灯が川面に映り金色に輝いていました。
田舎の夕暮れ
(さくら市)

2018年12月5日

PENTAX Optio P70

 田舎の夕暮れです。周りは山に囲まれています。どこかでこ〜〜〜んと狐が鳴きそうです。
早春の安達太良山
(福島県本宮市)

2010年4月4日

PENTAX Optio P70

 早春賦
 
 春は名のみの 風の寒さや
  谷の鶯 歌は思えど
  時にあらずと 声も立てず
  時にあらずと 声もたてず
富士山と本栖湖
(山梨県身延町)

2019年11月16日

Canon SX720HS
 
 山梨県都留市の道の駅から山梨県南部町の道の駅に行く途中の光景です。本栖湖は鳴沢村と身延町に2分されていますが、このポイントは身延町側に入ったところです。
その6
旅日記        先頭へ   目次へ
与論島
 与論島は、鹿児島県大島郡与論町で、島全体で一つの町で、人口約5,000人くらいです。目の前が沖縄本島で、沖縄の島々より本島に近いのです。与論町の人から見ると、沖縄の那覇市は都会だそうで、そちらに遊びに行くそうです。与論町の放送は、沖縄と鹿児島の放送が入り乱れています。どちらもOKです。ところで、沖縄の人も結構与論島に遊びに来るそうです。
 沖縄の人も遊びに来る与論島とはどういう島なのか? 沖縄と近いだけが理由ではなさそうです。私が泊まった宿の従業員は制服がない。全員バラバラでした。表情は柔和な感じで、宿の人だけではなく、いろいろ会った島民も同様でした。セカセカしていないのです。島はどうにか食べる分くらいの穀物類や魚介類はありそうですが、本土から野菜類などを仕入れているので、結構豊富でした。この島の産業はというと、大きな工場なんかはありませんから、無いと言ったらいいのかな? 実は、近海の海を利用した産業なのです。俗にいう観光業です。サンゴ礁に囲まれた島で、浜辺の砂の白さと海のあおと空の青がすごく綺麗なのです。熱帯魚も豊富です。ですから、都会から、スキューバダイビングの若者や、浅い浜辺でサンゴ礁と熱帯魚と遊ぶ家族連れが多いのです。シュノーケル一つで子供も大人も満足します。浜辺の林には、握りこぶし大のヤドカリがいっぱいかっ歩しているのです。さらに周辺の島々と違って、毒蛇のハブが生息していないので安心なのです。平気で林の中を移動できます。
 とにかく、セカセカしないでのんびりやりましょう。航空運賃が高いだけですから、長く滞在しでも費用はあまりかかりません。場合によっては航空運賃が安いときがあるのでうまく利用しましょう。サンゴ礁の海は格別です。さあ、与論島のガイドブックを調べましょう。
 
 東北の祭り
 東北では四大または五大祭りという夏祭りが催されています。これらの祭で最初に見学したのが盛岡の「さんさ踊り」で、胸で抱えた無数の中太鼓が打ち鳴らされ、また、多くの踊り子で埋め尽くされます。私が今まで見た祭のイメージが一変されました。迫力が違います。数は力なりでした。次に、秋田の「竿燈祭り」です。テレビなどで見ていたので、イメージ的には理解していました。やはり、竿燈入場は静かなのもので、幼児用の竿燈から大人用の竿燈までしゃなりしゃなりと歩きます。行進用の囃子も落ち着いたもので、馴染みやすいものでした。道路が皆竿燈で埋め尽くされるといざ開始。大太鼓の打ち手が二名で、一名はリズムとりでもう一名は腰の入った乱れ打ち手で、多くの笛で主旋律、鉦が味付け。ド迫力の囃子方でした。特に、美人の太鼓打ち手には魅了されました。男顔負けの迫力あるパフォーマンスで、テレビで出てくるような痩せ男なんぞ、くそくらえである。これじゃ、50kgもある竿燈を操る男衆も負けられません。青森の「ねぶた祭り」はド迫力では天下一でしょう。複数の大太鼓と無数の鉦と笛で囃し立てるのです。フルボリュームアップマイク使用の笛の音ですから、複数の大太鼓と無数の鉦にも負けないで響き渡ります。静かに移動するねぶたも、囃子方のド迫力で生き生きと浮かび上がります。ねぶたが輝きを増すのです。次に仙台の「七夕祭り」です。今までの祭とは違って静かなものですが、共通点があります。それは迫力です。馬鹿でかい飾りが隙間なしに飾り立てられているのです。使われている竹も万単位という数なので推して知るべし。
 これらの祭りから、東北の人々は「静と動」を持ち合わせたダイナミックな感情の持ち主であるということが分かります。年中ノンベンダラリンとしている我々には魅力がないかもしれない。静かな時は静かだが、爆発するときは爆発するぞという東北の人々は、本当の意味で楽しみを知る人々の集合体であると思うのです。
 
 中華人民共和国編
 
40代の半ば頃、中国旅行で北京、西安、敦煌などを旅してきました。そのときの印象として強く残るのは敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)、西安周辺の黄土高原、砂漠などなどです。
 莫高窟の見学がこの旅行の最大の目的で、小学生の頃、学校の図書館で冒険家ヘディンの「さまよえる湖ロプノール」の謎解きや、「楼蘭の王女」のミイラの微笑みなどに大いに興味をもち、それがきっかけで莫高窟の壁画をどうしても観てみたいという願望に駆られるようになりました。高校時代も勉強はできなくても漢文に興味を持ち、さらには、日本史の方が成績が良いのに、世界史をわざわざ受験科目にしたり、大学に進学しても、莫高窟やキジル千仏洞の写真ばっかり眺めていました。ついにこの歳になって実現できたわけです。とにかく大いに感激し、見学時間が本当に短く感じられました。
 つぎに、陽関の址を見学しました。小さなバスに揺られて移動中、オアシスで小休止しその周辺の村を散策しました。いろいろな古来から続くオアシスの記述と現実を照らし合わせても、延々とその生活が守られている事実を知り、驚きと感動を覚えました。ついに、漢詩に登場する陽関の址に立ったところ、360度砂漠でありました。こんなところに要塞があったなんて。さらには、玉門関(ぎょくもんかん)が続くことを考えると、中国のスケールの大きさ、すなわち、国土だけではなく、人心の大きさに驚くばかりでした。
 さて、日本ではいつも春になって黄砂(こうさ)で覆われますが、西安近郊はこの黄土(こうど)でおおわれ、その厚さが約30mと言われています。この黄土高原は、古来より覇権争いの中心で、肥沃な土地であり、周辺と比べると農作物の豊富なところでした。古い都長安(西安)はこの黄土高原の中心に位置する大都市であったのです。紀元前1千年頃から紀元後1千年頃までの約二千年の間都として栄えたわけですが、長安という名で唐の時代一番栄えたといわれています。
 北京は型どおり、紫禁城や天安門などを見学しましたが、北京で一番印象深かったのは、高楼から観た北京の旧市街で、狭い路地が迷路のように走り、中国独特の赤茶けた瓦の屋根が連なる光景でした。どうも私の性格で、このような生活感が滲み出ている光景に目が奪われます。車も通れない狭い路地でありますから、そこで生活する多くの人達の生活を推し量ることができると思います。日本では、一般的にどこの家でも車を横付けすることができる道路に面しているはずです。いかに、旧態依然の生活をしているか。別の言い方をすれば、頑なに古いものを守っていると言えるでしょう。もし、区画整理が行われ町が整備されると車社会の到来が予想されます。中国社会の激変が始まるかもしれませんね。
 万里の長城も行って観ましたが、外敵から守る城壁といっても、とてつもなく長い建造物です。この建造物にはレンガが用いられています。このレンガを作るのに適当な土と燃料が必要です。現地調達現地生産ですから、周辺の山々の木々はすべて伐採されてしまいました。見通しも良くなり一石二鳥だったかもしれません。しかし、今に至っては不毛の大地となり砂漠化が進むことになりました。今あわてて砂漠化を食い止めようとしているようですが、一度壊した自然は二度と戻らないのです。日本に舞い散る黄砂はこの影響によるものも含んでいるのです。そのことを考えて万里の長城に登るべきではないでしょうか。
 その他として、ビールは香りが強かった。信じられなーいっていう感じでした。さらには、砂漠のど真ん中で蜃気楼を見ながら立ち小便。これも夢でした。女性の同伴者もいたわけですが、お断りして、これも夢なんで見ない振りしてくださいとお願いして用をたしました。気持ち良かった。さらにさらに、莫高窟のトイレは男女共通オープン方式で、女性用は日本橋跨町(にほんばしまたがりちょう)でした。気の毒でしたので、男性陣が済んでから用たしてもらいました。はっきり申しますと、この時の中国の奥地は日本の30年〜40年前と同じ雰囲気でした。西安ですら、中心街の一角を離れると真っ暗で明かりが全くありませんでした。
 
 大韓民国編 
 釜山から慶州経由してソウル(首爾)までのバスの旅でした。
 今回の最大の目的は、百済と倭国の連合軍が、唐と新羅連合軍に敗れて百済が滅亡した生き証人である百済の首都扶余(ぷよ)の五重塔を観ることでした。現地に行き、五重塔の唐軍師の落書きを見て感動いたしました。内容は詳しくわかりませんが、百済をやっつけたぞと書かれているのだそうです。そして、敗れた百済の人々の一部が現在の滋賀県に定住したのです。この旅行で、白馬江(川の名前です)の落花岩(断崖絶壁でした)の話が一番印象的でした。敗戦濃厚でお城が焼け、敵の人質になることを避けるために女官達が断崖絶壁から身を投じた悲しい話でした。女官の衣装がまるで花のように見えたので、木から散る花に例えて名前が付けられたと言われています。
 その他はどうでもいいと思いますが、少し印象に残ったことを書いてみます。焼き肉が出るわ出るわ。でも、日本で食べてるのと同じだぞ。ちょっと高台に上りソウル市見学となったのだが、近くに大統領府があるというので軍人がうようよといるわいるわ。北朝鮮の工作員が装備してこの近くまで潜入した直後でもあったので厳重であったのだろう。このとき北朝鮮との国境はソウル市から近いところにあることに再度気が付きました。地図では確認していましたが改めて実感。臨戦態勢の国でした。

 沖縄本島編
 沖縄旅行はあまり期待しないで行きました。通常の旅行気分でした。
 那覇空港に着いたときから、山の中育ちの私にとっては何もないという印象でした。当然、田圃がなければ雰囲気が出ない。まわりは低い灌木とサトウキビ畑で、田園風景には程遠い感じでした。私は、山や田圃の風景を見ながら、バスや列車旅行が好きなので、変化のない地形は出汁の入っていない味噌汁みたいなものに感じます。敢えて、印象を受けたものと言えば、万年水不足という話でした。沖縄本島南部は川らしい川がありません。雨水が溜まらないようです。なぜかというと、先ほど言った大きな木々の森林がないからです。本島の北側のヤンバルの森しかないのです。ヤンバルの森には沼があり沖縄本島の水瓶になっているのです。結局川がないのは森林がないことが原因であるとともに、地質が石灰岩質でもあるので、地下に水が溜りにくい構造になっていると思われます。いつも台風などで大雨が降る土地柄なのに意外でした。昔は、雨水を溜めて生活用水とした話を聞きました。たしかに、食糧自給率が低く、生活が苦しい話を聞くと大変なところだときずかされました。唯一の楽しみは酒でした。特に古酒(クースー)で、高価でしたが結構旨かった。以前に、喜界島の黒糖酒を購入し飲んだ時も旨かった。先ほど言ったように、沖縄では米なんぞ不足しているものですから、すべてタイなどからの輸入米を使って古酒や一般的な泡盛を作っているのです。
 結論として、もう一度行こうと思わない沖縄本島であるということです。行くならもっと南の宮古島などだよと言われています。

 
 青森西部編
 
延々と夜行寝台列車に揺られてローカル列車に揺られてやってきました弘前に。青森の3月は雪の中。弘前といえば「ねぷた」が定番で、津軽藩ねぷた村で一通り見物した帰り際、目の前になんと「津軽錦」が。夢に見た津軽錦が泳いでいるではありませんか。そうそう、津軽錦は金魚のことです。津軽地方で改良された金魚で、独特な体型をした魚です。なかなか目にすることができない種類で、私の住んでいるあたりでは幻の金魚になります。この金魚がねぷた村で飼われていたのです。来てよかった。
 次の泊まりは不老不死温泉でした。何ら普通の温泉かと思いきや海岸に露天風呂がありました。男女の風呂は石塀で区切られていますが、入浴中の若い女性が男風呂に向かって写真を撮り始めたではないですか。若い男連中もピーススタイルで応対する始末でした。私もつられてハイピース。実は、この若い連中は会社の同僚であるとのことでした。さらには、この若い男達は、冷たい日本海にざぶんとスッポンポンで飛び込む始末で、男達だけではなく、女達もこれを見て、キャーピーキャーピーと囃したてる始末。負けました。
 なんだかんだで、最後は津軽三味線付き特急列車で帰路に着きました。最後は飛行機を利用しましたが、雪の中を、そして冷たい風が吹く中を、列車の曇り窓を拭きながら、海岸や、田畑の中を走るのもいいもんです。これだけで満足です。

 
余計なことですが、青森は西を津軽といい東を南部といいます。昔から仲が悪く、冗談抜きの犬猿の仲だったんだそうです。廃藩置県後、已むに已まれず合併したそうです。そこで生まれたのが現在の県庁所在地青森市で、青森市は喧嘩両成敗で真中に新しく造られた町なんです。なるほどなるほど。こんな話を聞くと楽しくなりますね。でもこれを歴史的にみると機械的で無味乾燥になります。では、成り立ちです。善知鳥村(うとうむら)・青森村・青森町・青森市と改称になり、江戸時代は弘前藩が統治しました。なぜ発展したかというと、善知鳥村が港として最も立地条件の良い所なので、藩が力を入れ青森村とし発展させ、弘前に次ぐ大きな町にしました。1871年(明治4年)廃藩置県で弘前県、1871年9月23日太政官布告により青森県となり、弘前町から立地条件の良い青森町へ県庁所在地を移しました。地元の人の話は面白いですね。史実とは多少ずれていますが、インパクトが強く忘れません。
 秋田男鹿半島編
 はるばる着ました過疎の町。うーん何もない。八郎潟も干拓で風情もなくつまらない光景でした。広い田圃は魅力ですかといわれても何も答えられません。いつも見慣れていますので。
 ホテルに到着しましたがなにもしないのはもったいない気がするが、これもどうしようもない。ところが我が家の山の神が、入道岬というところへホテルのバスが行くそうだという情報を得たので、ブラブラするより良いだろうということになり仕方なしに行くことになりました。ところが途中、運転手さんがグーなお方で、話が上手いこと上手いこと。これだけでも来た甲斐がありました。このときに、男鹿の過疎化の話を聞いたわけです。ところで、なぜ入道岬へ行くのかというと、日本海の夕陽を観るためです。何もないところですから、一つの策かもしれません。曇った日はどうしたらいいのだと、あらぬ考えをしてしまいました。夕陽が綺麗であったことは間違いありませんでした。結構大勢の人達がきていたとなると、これしか観るとこがないということか。海辺で生活している方々にとってはつまらないが、山の中育ちの我々には十分堪能できる岬でした。
 型通り観光用なまはげを観、周辺を散策して帰ってきたわけです。当然私のことですから、このまま帰ってきたわけではなく、途中私だけが別行動で無線の移動運用に出かけました。場所は寒風山です。この山は大きな木がありません。北側にある白神山地は世界遺産になるほどの森林地帯です。南側に位置するこの山には何もないのです。そして、低い潅木はみな東を向いているのです。相当強い季節風が吹くとみられます。なるほど、だから寒風山なんだ。ということになれば、こんなところに住めませんということになり、過疎になる。納得です。寒風山は独立峰なので見晴らしは抜群でした。皮肉にも強風のお陰です。

 北九州編
 北九州2度目の旅行で、今度はレンタカーで適当ブラブラ旅ということで、仲間3人の合わせて計4人。まあ、本当に適当な旅でした。
 まず、大宰府天満宮は型通り見学し、大宰府政庁址に行きました。私は2度目でしたが他の人達は初めてでした。ここに、専門家が1人おりまして、この成り立ちを説明してくれました。この施設は609年には筑紫太宰として存在し、大宝律令(701年)に確立したことになっています。正式には太宰(おほみこもち)とよびます。この施設が全国に存在しましたが、結局最後にこの筑紫太宰が残り、太宰といえばこの施設を指すようになりました。そして大宰府(だざいふ)と呼ばれるようになったのです。九州を統治するのが目的でしたが、中国や朝鮮と対峙するための要塞でもあったとされています。目の前が海ですので、運河(堀)を造って防御したり、背後の山には最後の砦大野城があり、当時としては万全な体制をとっていたといわれています。うーん勉強になりました。また、この隣に戒壇院があることはあまり知られていません。現在は観世音寺というお寺になっています。これは奈良時代では重要な場所で、仏教を広げるために設けられた施設で、僧侶の免許を与えるところなのです。中心が、奈良東大寺戒壇院で、現在の栃木県薬師寺の戒壇院の合計3箇所です。栃木県出身の我々にとっては意義深いところなのです。ここの説明役は門外漢の私で、専門家が補足説明してくれました。
 次に柳川でうな重を食べる予定でしたが、例の専門家から江田船山古墳を観ようと提案があり、皆賛成ということで行くことになりました。なぜ行くことになったがというと、古墳時代に、九州まで大和朝廷の支配が及んでいた証拠の刀剣が出土したからです。これは、当時蝦夷地である埼玉県行田市の古墳から出土した刀剣の文から、大和朝廷から送られたものであることが判明し、それと同じ刀剣が、この江田船山古墳から出土したからです。山の中の古墳でしたが歴史を感じました。
 またまた、提案がありました。私です。ここまで来たのなら熊本城を観ようということになりました。以前観たことがある人は1人でしたので決定してしまいました。行ってみてびっくりで、桜が満開で、黒塗りの熊本城が、桜とマッチして綺麗でした。全員感激いたしました。さらに、帰り道、偶然にも西南戦争の激戦地、田原坂の看板を見つけて予定変更し見学をしてしまいました。なぜ、ここが激戦地だったのかは説明用の看板を見て納得しました。すなわち、熊本を攻めるための政府軍の最新式アームストロング砲は、この道しか通れなかったのです。そのほかの道はすべて狭かったということになります。その当時は、馬に曳かせて移動したと考えられます。田原坂は道の広さは5m以内です。現在もあまり拡張工事をしていないので狭く感じました。

 
今度は、全員が希望した唐津焼を観に窯元に行きました。全員高価な焼き物を購入してしまいました。私もご飯茶碗を家の山の神分も含めて購入しましたが、私の息子は家でこの茶碗を使うのを見て、もったいないと言いたげな目つきで見ています。
 番外編ですが、魏志倭人伝の金印で有名な志賀島、吉野ヶ里遺跡や博多の中洲に行きました。金印は眉唾物としか思えませんね。吉野ヶ里は旅行前は大本命の観光スポットだと思っていましたが、古墳時代の江田船山古墳を観たためか、あまり感動はしなかったですね。中州のラーメンは全国に波及しているので、名物とんこつラーメンを食べたという感激もなしでした。酒の飲み過ぎだけが印象に残っています。
 
 北海道道央道南編
 はーるばる来たぜ函館〜〜。歌の文句ではありませんが来てしまいました。何はともあれイカ刺しを食べなければ函館に来た気分にならないということで食べてみたものの、特別な味はしなかった。バカうまというキャチフレーズは集客のための策としか考えられない。現在は輸送手段が格段に進歩したので、どこでも新鮮な魚介類を食べることができるようになりました。わざわざ高い金を払って北海道まで来なくても、北海道の味を堪能できる場所がいくらでも有るのです。札幌で食べたイクラ丼には参りました。あの甘っとろいイクラの味がご飯とマッチせず、不味いこと不味いこと。そのイクラがご飯が見えないくらい載せてあるのです。到底食べきれませんでした。味付けて食べやすく加工するわけですが、それでも食べきれなかったのです。私はイクラの軍艦巻き程度で十分です。小樽の寿司も食べたが高いだけで感激はしませんでした。小樽の無線仲間が笑っていました。私らは安い店に行きますとのことでした。値段相当の味ではないということですか。そのくらいの味の店はほかにあると言いたげでした。考えてみれば、家の近くの料理屋の特上寿司は2千いくらかでこれくらいの味は十分出している思いました。料理人とはどういう人を指すのだろうかといつも考えています。特にフランス料理のシェフが代名詞のようですが。たとえば、フランスのリンゴは到底日本人が食べられるものではないといわれています。しかし、このリンゴを材料として、絶品の料理を客に提供するのです。したがって、生ものをそのままか、あまり加工せず提供する人は、料理人というより、調理免許を持った調理師であると思うのです。調理師の中の絶品料理を創る人が料理人であろうと。だから、新鮮だけの料理では、どこで食べても同じで、新鮮味がないと思うのです。なんだかんだで食べ物には縁がないと思いきや、時計台の近くのラーメン屋は旨かった。友達全員グーのサインを出しました。私もグーでした。小さな店で、人の行列ができていたのですが、腹が減った我々も食べることにしたのです。全員この店の情報を事前に入手していたわけではありませんでした。シンプルで普通の味噌ラーメンのように見えましたが、何ともいえない旨さでした。
 函館の五稜郭は観る価値があります。とにかく、航空写真と実物を見ると良いでしょう。星型で敵が攻めてきてもどからでも狙い撃ちできる構造になっているわけだったんですが、歩兵隊が攻めることだけを想定した要塞であったようです。明治元年に大島圭介隊と土方歳三隊が五稜郭を占領したが、大砲という飛び道具の餌食になりあっさり政府軍に敗北したわけです。本来は五稜郭の内部には一切建物を建てず、戦うだけの設備を整えておくのが常とう手段でしたが、それに反して、役所の建造物がたてられていたといわれています。これと似た話がオランダにありました。オランダ軍はドイツ軍の侵攻を防ぐために、運河を利用して多くの要塞を造りました。戦車や歩兵がまた大砲の攻撃があっても完璧なはずでしたが、あっさり全滅してしまったのです。そうです、飛行機の爆撃を甘く見ていたのです。空からの攻撃には耐えられなかったのです。
 番外編ですが、札幌の居酒屋のホッケもジャガイモも旨くなかった。函館の夜景も天候が悪く2度ともダメ。道東と道北にも行きたいが、期待できないのかな。行ってみなければわからない。

 
 岩手盛岡編
 家の山の神がテレビの影響で岩手に行きたいということで、親戚をかき集めていきました。
 私が一番感激したのは浄土ヶ浜とその途中の山間部のバス旅行でした。昔は日本のチベットと呼ばれていたところです。延々と続く山々を通り抜けるわけですが、これを通り抜けると綺麗な浄土ヶ浜が観られるのです。山があって海がある。山と海が凌ぎ合っているのが強いインパクトを与えるのでしょう。盛岡といえばわんこそばで、これを100杯食べましたところ、お姉さんが大きな将棋駒のようなものを持ってきて、100杯食べた記念としてサインしてその駒をくれました。わんこそば日本一は400杯以上食べた人です。これは凄いと、番付表を見て感心してしまいました。
 それ以外は、奥さん方との付き合いで、テレビ番組で使われたの有名な場所巡りと、平泉の中尊寺を参拝して帰ってきました。そうそう、テレビで使われた有名な場所は、小岩井牧場の一本桜と、繋温泉の、とある旅館の撮影のために使われた女性風呂です。私は男性ですから、奥さん方が入ってきたわけです。私たちが泊まったホテルとは違いまして別です。商魂たくましい旅館ですね。当然有料です。下の写真2枚はこのとき観覧した盛岡市の「さんさ踊り」です。とにかく迫力があります。
 
 四国編
 四国は結構何回も旅行していますが、頭に浮かんでくるのは、鳴門の渦潮、宇高連絡線、栗林公園、鷲羽山、道後温泉、坊ちゃん列車、讃岐の金比羅宮、讃岐うどん、予土線、内子座、播磨屋橋などなど。この中で印象に残っているのが2つあり、讃岐うどんと予土線です。
 まず讃岐うどんですが、このうどん、四国のいたる所で食べました。でも、あまり印象に残っていないのです。残っているのは唯一つ、宇高連絡船の立ち食いうどんです。この連絡船は四国本州連絡橋が完成したため現在廃線となりました。ここのうどんはプラスチック丼に入れた、俗に言うぶっかけうどんで、シンプルなものでした。色がうすく、澄まし汁のような趣でしたが、食べてみると旨かったこと旨かったこと。腹が減っていたせいかも知れませんが、未だにこの印象が頭から抜けません。
 予土線ですが、これこそ、日本のスーパーローカル線です。観光用ではなく、れっきとした普通の営業路線です。愛媛(伊予)の北宇和島駅と高知(土佐)の若井駅を結ぶJR四国の鉄道路線で「しまんとグリーンライン」の愛称で呼ばれています。しまんとは四万十川を指し、絶景が続く路線ですのでこの名前が付きました。全線単線で、とにかく山の中を走ります。そして、超スローの速さです。途中トイレ休憩があるなど営業路線とは思えないユニークさです。駅名もユニークで「若い(若井駅)と言われ喜び、禿げ(半家駅)と言われて怒り出す。大正(土佐大正駅)昭和(土佐昭和駅)があって、なぜ(方言でなぁーせ)明治がない。」とごろあわせで語られています。また「出目駅」もあります。私が知りえる営業路線で最も楽しめた列車の旅でありました。お客も酒三昧で風景を観るだけではなかったようです。
 
 京都大原三千院と嵯峨野落柿舎編
 京都も何回も行き、有名な神社仏閣はすべて見学してしまったはずです。京都はいつ行っても飽きないですね。同じところを何回も行きましたが、行くたびに新しい発見をするんですね。なぜだろうか? 取りあえず、気に入っているところは数々あれど、三千院が最も私の好みに合っているような気がします。どうも、あの庭にあるようです。立ち木と苔とのバランスがよく、不自然さがない。寺全体も何かしら落ち着いた雰囲気で、他の寺では味わえないところがあるのです。もう理屈抜きの感覚的な表現しかできません。じっくりと味わってみるのも一考かと。「京都大原三千院、恋に疲れた女が一人〜〜。」
 番外編として、落柿舎(らくししゃ)を挙げておきます。嵯峨野にある松尾芭蕉の弟子向井去来の草庵です。柿の木が40本ほどあったのですが、ある時台風で柿がすべて落ちてしまったのでこの名前が付いたといわれています。現在の建物は井上重厚が再建したもので、場所と造りは当時のものとは異なります。小さな造りですが、観光客は畳に座ってのんびりと庭を眺めたり、読書している人もいます。あまりお客も来ないので、のんびり出来るということがメリットで、特に何もありません。昔の草庵には、松尾芭蕉や野沢凡兆などの俳人が訪ねてきたところです。この草庵は、現在の俳人の方々の聖地でもあるようで、時々句会が開かれているようです。住所は京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町2です。ナビで探してください
 アホウドリ
 北太平洋一帯に分布。
 全長最大1m 翼開張最大2.4m 体重最大7kg。
 食性は動物食で、魚類、甲殻類、軟体動物、動物の死骸など。
 絶滅危惧種U類
 
 阿呆鳥
 
狐谷周辺に生息、時々全国を無線で徘徊。
 身長177cm 体重79.5kgでメタボリックシンドローム。
 食性は雑食性で酒はあまり好まず。
 絶滅危惧種であるが本人に自覚なし