錦帯橋は木のアーチ橋として日本では三名橋の一つに数えられ、広く世界にも知られた日本の誇れる名橋である。が、しかし、この錦帯橋を木造りアーチ橋と一般に言われていることには違和感を覚えずにはいられない。日を追うごとにその疑問は深まり、書店、図書館、ネット検索等で調べてみたが、殆どが木造アーチ橋と位置付されている。ある日、ネットオークションで−名勝 錦帯橋のはなし−(1,000円で購入)が出品されていてさっそく手に入れてみた。A5サイズの本でありながら表裏一面の表紙には江戸時代に描かれた錦帯橋絵(和田石英作)が飾られ、奥付は本書が昭和54年10月発行の三版(非売品)であることが記載されている。本書は縦書き、江戸言葉で綴られていて、現在常用漢字にない漢字も多く見らるため、慣れない漢字に頭を抱えながらも読めば読むほど熱中してしまった。氏の−名勝 錦帯橋のはなし−品川 資氏(昭和27年当時、錦帯橋建設局長であった)の著書を氏が激務のかたわら寸暇を割いて吉川家 [旧藩主]、市立岩国徴古館所蔵の関係古文書 [御用所日記、橋廻記、算用書日記、岩邑若干集、岩邑年代記、巌邑志、細密録、巌国沿革史−玖珂郡誌等] を片っ端から読破し、やっとの思いで書き上げたこの貴重な著書が橋を愛する人たちの錦帯橋を知るよすがとなることを願って、下記錦帯橋創建にまつわるはなしに原文をpdfファイルにし随時掲載することにいたしました。読めば読むほどに「錦帯橋は木と石の合体橋である」の感を深めております。異論のある方、どうぞ忌憚のないご意見をお聞かせくださいませ(mukae@msj.biglobe.ne.jp)。

鍬初め式:延宝元年(1673)6月28日   渡り初め式:10月3日  吉川広嘉(きっかわひろよし)第3代岩国藩主にて創建さる石と木の五連アーチ橋


石のはなし
創建当時の規模
幅員:4.2 m  橋長:195.7 m  
第1橋径間:37.10 m 第2橋径間:34.96 m  第3橋径間:35.10 m  第4橋径間:35.61 m  第5橋径間:34.79 m
橋脚及び橋台:赤身を持った花崗岩の大割材。大部を山北又は砂走りと云い、山採石場(現在の岩国工業高校裏山に当たる)、一部を中津方面より採掘搬出せるほか、横山居館附近の貯石を利用した。岩国山の採石場は広家当時、居館築造の為開設されたものであり、居館付近の貯石はその築造の際の残材と推察される。又、基礎工事用の片岩質黒色割石は城山犬内迫より採掘運搬す。何分数百(3.75 kg)の大石を現場まで運搬するには相当多数の労力と工夫を要した模様で、延宝元年7月19日の御用所日記には「本日、居館附近の石引き、上上様(広嘉公及御側近を云う)御見物云々」とある。当時の石引が如何に大がかりであったかがうかがえる。−と、品川先生は語っておられる。

橋脚(台)
  1. 基礎構造
    脚の基礎は編木法と称す一種の枠を使用。この枠は生松丸太5ないし三米(メートル)の大木を橋脚の孤形に応じて組み合わせ橋脚の上下流両端には十文字算盤木を打つ込み、各材の交点には生松丸太の地杭を打ち込む。この基礎枠土台に石掛15乃至18(センチ)にして根石を据え込み前面は地杭を打ち石を捨てて固めるものであるが、此の据込方如何は石垣の法勾配に影響を生ずる為その仕法は慎重を要する。
  2. 上部構造
    石の据え込み確定すれば石を組み揃え次第にせいろうを組み、川上、川下に桁の頑丈な長木をいわえて、道を作り、上下に轆轤(ろくろ)を建て、石材を所要の箇所に取り上げ積み上げ作業を行う。
    の石垣の築造に当たっては築城仕法により組石の大なるものを安定よく按配し隙間に抹石を石垣法面より約3糎内に入れて張合よく詰込み堅固に築立て、その合端は漆喰を以て密着せしむ。この漆喰は赤土、石灰、土灰、胡麻油、酒を配合す。
    台上の両先端剣先(石垣の両端部)に位する笠石は特に大石を利用し洪水時の安定を図る。之が為各合端には一個の鉄製千切を嵌め込む、即ち笠石一個につき六個の千切を使用し酸化を防止するため鉛を以て之を被覆する。
    脚石台(駆体)内部には裏石垣を築造し胎内の空間に栗石を大小混合して詰込む。この裏石垣の法勾配は表の石垣より稍急(しょうきゅう−やや急)なるを仕法とす此の石台の中を栗石としたのは、洪水の際台水気なきときは自然に水押し強く、外水に連れ胎内に台底より次第に水揚がり総体の張合いを以て石垣あき間の漆喰に至る迄損することなしと云われる。
    体の桁を受ける隔石(五本の桁に応ずる為五個)は橋脚の天端より下ること約2.7 mを基底として長軸に沿い4.5 mの幅に埋込まれる。隔石は厚さ約45cmの花崗岩で両面に彫りつけられた縦溝(約2 m)に両橋の一乃至三番の桁尻を嵌めて5列の桁を刎出する支点となる。桁尻受の接触面は張石とし5列の桁の間には振袖石を詰込み楔とし橋体の動揺を防ぎ且上面平たい大石2乃至4枚を以て桁尻の押えとする外上部を赤土にて充分打ち堅め、尚その上層を漆喰にて堅め雨水の浸入を防止す。
    部の連絡歩道は橋脚上部両先端より退くこと2.7 m、高サ1.2 mに築き上げられた長方形石垣(長 5 m副4.2 m)にして上面は厚さ45 cmの漆喰を以て舗装せらる。此の連絡歩道は降雨の際は橋面よりの水を受け水取勾配を附した土間叩きに集め、両側に設けられた排水口より台石に落ち川に入り橋脚石台内に侵入し桁の腐食することを防止するよう留意さる。
    明は前後したが、此の橋脚の位置を決定するには両岸(横山より錦見に)に惣縄を引渡し所々に縄受けの杭を立て荒縄見合割合を以て土台取りの印木を立て、次いで台座取りを知る。
    橋脚は紡錘形状をなし、両端は軍艦の舳の如く、夫々洪水時に於ける流心の方向に向い、専ら水勢抵抗の軽減を計る。
    次に左右両岸の橋台は河岸より数間後退して石垣を以て築造せられ、両側土留石の路面内は花崗岩を以て乱張りとなし1/50の勾配を附し橋面よりの排水に備う。
    注1:橋脚は上部両端距離9.6 m、下部9.85 m、幅(根石幅7.1 m、台の高さ築初より7.3 m、石垣法勾配は標準として高さ1 mにつき基底より5.5 m迄は22 cm、その上部1.8米は10糎とす。
    注2:錦帯橋附近に於ける錦川の川幅は190乃至200米、河床勾配は約1/650、橋下敷石区間は約1/450である。
           錦帯橋より下流約3,000 m附近にて錦川は今津川となり、門前川を分派して三角州川下を作る。此の川分岐点に石造堰堤あり、
           洪水流量の60%は此の堰堤を溢流して門前川に流れ、平常は川下地区灌漑用取水堰堤たると共に洪水時の放水路となる。此の堰堤
           は元禄年間の設置に係わり、 吸江淵と共に河床維持上重要な役割を演ず。更に錦帯橋上流区域の部落蓼河原は洪水時の遊水地と
           して錦帯橋の間接防護となる。

錦帯橋創建にまつわるはなしclick here
 和田石英画

 

石のはなし
橋体(木橋)
 漸次掲載予定




  キジヤ台風にみまわれ崩壊した錦帯橋、そしてその直後の再建の模様 

昭和25年(1950)9月14−15日

昭和25年9月16日

昭和26年
下の写真右端が品川 貢氏
 昭和27年12月30日
2009年8月2日 2009年9月24日
2009年9月24日 2009年9月24日
2009年9月24日 2009年9月24日
top