上津久礼眼鏡橋 Kamitsukure meganebashi
 菊池郡菊陽町大字津久礼             2005.3.21

圃場に立つ眼鏡橋
架設:天保9年(1838) 石工:戸治村住人の治助 再建年:明治元年(1868) 長さ:16.20m スパン:7.00/5.65m 幅:2.80m 高さ:3.45/3.00m 拱矢:3.23/2.23m 
左右二連のアーチは大きさが異なる

榊晃弘「ローマ橋紀行」写真展(熊本県立美術館分館にて2005.3.15-21開催)鑑賞のための熊本石橋探訪最終日の朝、一路広島への帰途を残すのみとなっていたが、菊陽町辺りで上津久礼と書かれたバス停をみつけた。確かここに上津久礼眼鏡橋があるはずと、ここを通ったからには立ち寄らずに帰れるはずもない。
りあえず国道沿いのコンビニに飛び込む。まずは店員の中でも地元の主婦らしき方に上津久礼眼鏡橋の場所を訊ねる。「コンビニの横から旧道へ入る道があり、そこを下ってどこか民家のあるところで訊ねられるとよかですよ」とのご返事。これは訊ねられた方からしても初めての人に道案内するとなると、骨の折れることであるに違いない。何度かに分けて訊ね行くというのが案外早く目的地にたどり着く方法かもしれない。まずは民家のあるところを下りて行った。細い道を下りきったところは碁盤の目のように整然と区画された畑が広がっている。この畑地の手前の新道沿いにある保険屋の前にパーキングスペースを見つけ、しばし道行く人を待つことに。待つこと10分ばかりして、お隣の家からワンちゃんのお散歩らしく、ご主人様と思しき方が出て来られたところ、最後の道案内を請うて出る。その方は西方面にひときわ高い塔を指差し、「あそこに納骨堂がありますから、そこから400〜500m真っ直ぐ行ってT字路を右に行けば畑の中に見えてきますよ」と、地図を前にして生徒に説明するがごとく、理路整然とした言葉で教えてくださった。一見学校の先生をなさっておられる方のようにお見受けしたが、「石橋の写真を撮っているなら、本に出すとかなさっているのですか」と聞かれ、本は出していないけれど、ホームページに石橋の紹介をしている旨を話すと、機会があれば拝見しますといってくださった。
して、お礼の電話を差し上げたら「石橋のホームページ、見ましたよ。津久礼はまだなんですね!」とおっしゃられたこと、あの直後は1か月ばかりでアップする予定でいたが、いつの間にか5か月にもなろうとしている。あれから何度か我が稚拙HPを訪ねてくださっていたとするなら、曲がりなりにもなんとかアップにこぎ着けたことをもってお礼と感謝の言葉に代えさせていただければと願う次第であります。その節はありがとうございました!
津久礼集落は白川端にあったが、水害が絶えず加藤清正の時代に現在地に移住したと伝えられている。広々とした豊穣の地がどこまでも続いている。上津久礼眼鏡橋は移設前は津久礼井出川と瀬田下井出川の合流地点に大小二連のアーチ石橋となって架かっていたという。大アーチは川床の低い流れ込みの大津町津久礼井出川側に、また小アーチは瀬田下井出の落ち水を引いた井出川側に高低の差をつけて造られた珍しい石橋として全国にその名を知られていた。
成元年(1989)の県営圃場整備事業で両井出川が埋め立てられ、一時は解体撤去の危機にみまわれたが、地元の祖先の残した貴重な文化遺産を後世に残こそうと立ち上がった人々のおかげにより、川を畑に変えられはしたものの
周りを公園化し、現地保存された。アーチ両端にはステンレスの手摺が設けられ、石の階段を上って橋上を歩くことも出来る。
津久礼の大地にて畑から津久礼眼鏡橋を眺めるもよし、橋上から田園風景を楽しむもよし、地元民の愛情に支えられ、日々、農業にいそしむ人たち、訪れる人々を見守りながら静かに圃場の中に立ちつくす。現役を去りはしたが、上津久礼の大地に今も尚、往時の姿を見ることができるのはありがたいというしかない
  2005.8.13
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