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同時進行 少し前の稲作

〔昭和20(1945)-33年(1958)年代〕

INDEX

1. 牛のトレーニング

2. こっといを飼う

3 餌について

4. 株きり

5. 荒起こし

6. 馬鍬をかける

7. 種籾をつける

8. 谷上げ(畝たて)・代掻き

9. 苗とり

10. 田植

11. 草取り

12.肥料振り〜稲刈り 〜 16.乾燥へ

 

 

 

記憶をたどりながら、現在私がやっている稲作と小学-中学生の頃、実際に経験した百姓を同時進行で書けたらと思い試して見ます。

農機具の進歩によりその作業方法が変わったのであり、種をまいて、草取りをし、肥料をやって、刈取、脱穀、籾摺り、精米の工程はなんら変わるところはありません。


同時進行する前に少しのことを体験から少し書きます。

1. 牛のトレーニング

牛は農家の重要な動力源、即ちエンジンです。ほとんどの農家には牛を飼っており人間と等しいほどに貴重な存在です。昭和20年代初期にはほとんどの家は、「こんにちは」と玄関に入ると、家人より先に「モー」っと牛が顔を出します。そ‐、玄関の隣に牛小屋があったのです。常に牛の動向が分かるように隣の牛小屋を覗く窓がありました。その牛も、冬の間は炭焼きの原木の運搬に荷車を引く程度で暇をもてあましています。これから春になると田んぼを鋤(す)く重労働が待っています。

牛の身上は、粘りです。一時的に力を出しても、長続きしなければ役に立ちません。一時的に大きな力を出すと農機具は壊れ、又コントロールも上手くいきません。そのためにトレーニングをします。

その方法は、毎日毎日砂利道(舗装道路なんか無かった)を太い大きな丸太を引っ張らせます。そうです。よくスポーツ選手がグランドでタイヤを引っ張っているあれです。始めは、元気がよすぎて暴れたりはねたりしますが日が経つにしたがって、よだれをたらしながらゆっくりと決まった力で決まった速度で歩けるようになります。この時期、元気ありすぎ小屋から出し、鞍をつける時ここぞとばかり脱走し山の中に逃げ込む牛が必ずいます。すると隣近所から人が集まってきて、みんなが山中を探し回らなければなりません。

牛は黒い色で牝です。牡(こっとい牛と呼んでいた)は力が強いのですが粘りも無くコントロールも難しいのです。又、肉にしても固く質は落ちるそうです。その「こっとい」を飼う羽目になったことが一度あります。この話は後ほど・・

牛は馬喰(ばくろう:馬の売買をする人)から飼うのですが、牝に比べて牡は値段が比較にならないほど安かったと思います。当時、ばくろうは町から牛を追いながら歩いてきます。子牛を連れてきて、コントロールを如何に教え込んであるかなどを田んぼで田を鋤かせ実演して値を吊り上げます。農家は、子牛を育て立派な肉牛にして安い子牛と交換し利ざやを稼ぎます。

ところがです。牛だけでなく動物は人間の顔色、性格を直ぐ見抜きます。ばくろうが帰って、実際に新しい牛を使おうとするともう動きません。田んぼへ入ると、寝転んでしまうとか、鋤いてる途中でしんどくなるとバックするのです。このバックが非常に危険です。牛にとっては、後ろに農機具があるか又は荷車があるのです。直ぐ骨折するか、農機具をつぶしてしまいます。西部劇でよく馬が骨折すると直ぐに銃で射殺しています。もう、巨体のため治らないのです。だから、あぜとか溝を飛び越させるなどもってのほかです。

バックを矯正するのに、錐を持っていてバックしそうになると尻をちょっと突いてやります。バックしたらいたいことを覚えさせます。

2. こっといを飼う

こっとい(特牛)とは、牡牛のことです。この「こっとい」という言葉は少年のころ(私にも少年時代はありました)なんとなしに牡牛だと理解していましたが、今になって辞書を調べれば「ことい」が一応標準らしく「こってい」「こていうし」とか呼ばれて「強く大きな牡牛をいう」とあります。しかし、うちで飼うのは、黒い牡の子牛です。 価格が安いのが特徴で他にいいところはありません。飼う羽目になったのは飼っていた牝牛が牛舎にぶら下がっていた裸電球を舌でペロリと舐め、感電死をしたからです。はっきりとその光景を覚えていますが、ある朝、牛に朝食を与えるため牛舎を開けると、牛がひざまずいており口の中に電球が割れずに入っていました。もう充分に成牛でしたから生きていたら相当な価格だったはずです。でも、一応変死ですから二束三文でばくろうがそのへんの木で作ったような即席タンカーで運んでいたのを覚えています。

牛舎の中は藁を敷いて、大小垂れ流しですから足元は完全にアース状態で100vでも口に咥えると一発で感電し、万事休すです。当時のことですから、ヒューズが入っていても漏電ブレーカなどありません。

さぁ〜困ったのでしょう。本来なら牝牛の子供と交換し利ざやを稼ぐ計画が狂いました。新しい牝牛を購入する財力は無かったのでしょう。でも、動力源は必要です。新しくやってきたのは暴れるだけがとりえのこっといです。このこっといはそのままでは力は強いが粘りも無くコントロールも難しいので、去勢手術をしておとなしい牛にするのです。それでも牝牛の 根気、粘りには勝てません。

このような災難は2度目だったと思います。一度は、当時牛泥棒がはやっており、うちも被害にあいました。どんな牛でも手馴れた牛泥棒にかかると暴れもせずに連れ出されます。その当時の牛舎には扉が無く、筵(むしろ:藁で編んだシート)がぶら下げてあっただけと記憶しています。

こっといにもてこずり、そんなこんなでやっと村で最初にディーゼルエンジンの耕運機を購入したのです。中学生のとき牛で田をすいた経験があるので、中学校を卒業するか高校に進学した当時だったと思います。

3. 餌について

牛の餌やりは子供の仕事です。冬は楽です。屋根裏に格納してある秋に取り入れたいなわらを「押切(藁を切るギロチンのような農具)」で5センチぐらいに切って朝晩に与えます。初冬のころはいなわらも新鮮で青いところも残っており喜んで食べますが、2‐3月になると、藁も乾燥しきってかび臭くなり通常の状態では食べません。ここで食べないと春からの仕事に支障をきたすばかりか、充分に太らせ高い価格で売ることも出来ません。

そうなると、最初は切った藁に精米の後の糠(ぬか)を混ぜます。次の段階として、大きなヤカンで熱湯をかけそれに糠をまぶせると喜んで食べます。酪農では冬は干草などを食べさせますが、この辺では干草にするような牧草は無く、このような方法でやっていました。

春先になると、一斉にタンポポやアザミが芽を出します。それをつんで大釜でおしたし状態にしてスープとともに与え、タケノコの皮など大好物です。明日は田んぼをすくという前日には、パワーをつけるため麦なども与えます。風をひくと獣医がやってきて、自転車の空気入れのような太い注射をしたり、二人がかりで口をあけビールを飲ませたりします。今だったら、きっと発泡酒で間に合わすと思いますが・・。

夏になると、野山に大八車を牛に引かせ、ススキ、笹、クツワの葉・・などを刈りに出かけ、これで2‐3日の食料を確保できます。又、近くの田んぼの土手で草を刈ることももちろんします。

 

 

 

4. 株きり

株きり、それは秋の刈取後又は最初に田んぼを鋤く(荒起こしという)前に牛の負担を軽くするための作業です。牛で「からすき」で 鋤くとき、刈り取った後の株の根の抵抗が大きく又、掘り起こしても大きな塊となります。そこで「チョンナ」という軽くて軽い鍬を使い1株ずつ起こしていくのです(ひっくり返さず1振り1株を浮かす)。これを全株するとすれば、当時は1尺4方に手植えされているため1坪36株程度で1反なら10800株もあり、1発必中でも10800回チョンナを振り下ろすことになるわけです。根気は要りますが鍬も軽く刈取直ぐなら田んぼもやわらかくリズミカルに作業を進めれば重労働ではなかったように思います。この仕事は女性とか子供の仕事です。ただ、根気が要るので1株飛ばしとか、1列ごととかして手を抜いていました。このチョンナという鍬は今は使い道がありませんが、存在しています。

 

5. 荒起こし

株きりで説明したように、最初に田んぼを鋤くのを荒起こしといいます。これは牛で「からすき」を引っ張らせ土をひっくり返していきます。からすきの幅は12‐3cmで、土が連なっていますからせいぜい1回片道で20‐30cm程度しか施工能力がありません。したがって、何回も何回も往復するのですが、田んぼの形に合わせてカーブとか直進するためには高度な牛のコントロール技術が要求されます。牛は手綱で腹をたたけば反対へ、引けば引かれた方向に向きを変えます。手綱でたたく場合、「チョー」「チョー」と掛け声をかけていたように思います。この操作が下手ですと、牛はどう進んでよいのかわからず、ウロウロとし、人間は思うように牛が動かず、双方いらついてきて、もうめちゃめちゃになります。一度掘り返した後を直進するのは至難の業が要求されます。牛を止めるには、「ドードードー」とか言っていたように思います。掛け声よりも牛と一体になることにより牛は人間の雰囲気でコントロールできたように思います。

負荷がかかって重くなると、からすきを手前にひくと先が上がり浅く耕すことになり、牛は楽になります。ただ、田んぼの底は平らに耕すのが原則ですからその辺のバランスがコツということになります。

ここで、例のこっといは、しんどくなるとバックしたり帰ろうとしたり根性というか粘りが無く、挙句の果てには暴走したりして大切なからすきをつぶしたりと、ダメです。

この荒起こしは、刈取が済んで直ぐにやると、冬の間に地中に空気が入り、又土が凍ててばらばらになるメリットがありますが、時間の無いときは春までそのままの場合もあります。その土地、気候風土、百姓のポリシーによりマチマチでどれが正解というものがありません。みんな自分のやり方が正しいと思ってやっているか、隣がやっているので負けじとやるかです。

この当時は、できるだけ深く土を天地返しするようにやっていましたが、現在は逆にトラクターでやるにもかかわらず浅くを基本にやっています。ディーゼルエンジン耕運機を使い始めても、わざわざ耕運機にオプションでからすきをつけて耕していました。

 
 

6. 馬鍬(まぐわ)をかける

馬鍬、まぐわと詠みますが、それをなまってたのか「マンガ」といっていました。マンガをかけるというのはからすきで土を掘り起こすと、地中を鋤きですくっていくのですから、大きな塊の連続となって、ゴロゴロしています。これを細かく砕くことが必要です。その農具をマンガといいます。マンガも時代とともに変遷していますが、私らの少年時代では、絵のような鉄製の重いものでした。要するになぎなたのような刃がアングルかフラットバーに溶接されていて、それを牛で引っ張ることによりマンガの自重で土の塊が切断され繰り返すことにより細かくなっていきます。自重だけでは足らない場合は乗るようにして体重をかけ砕いていきます。牛も、からすきのことを考えるとこの作業のほうが抜群に楽チンです。からすきは、遊びや、惰性慣性が無く常時負荷がかかりますが、マンガはゴロ土を乗り越えるとき、ある程度慣性が働きます。

 

7. 種籾をつける/種を播く

種籾は、昨年度の籾の良いものをとっておきます。秋からの保存で一番重要なのはネズミにかじられないことです。 種籾が病気をもっていると苗は全滅するか大きな打撃を受けます。したがって当時は先ず塩水につけ(比重選:生卵が浮く状態)浮いているものは捨て、沈んでいる良いものを選択し、次にある一定の温度に(60度?)一定時間漬け雑菌を殺します。

そうしたものを流水に15−20日程度発芽がそろうように漬けておきます。流水は常に酸素を供給できるし、小川の水は冷たく、ゆっくりと籾は発芽の準備が出来るからです。当時は電熱とかスチームとかの発芽器などが無く自然に頼っていました。そうして、籾がたっぷりと水を吸い込んで中が透けて見えるぐらいになると水から上げ陰で乾燥させ、種まきに入ります。

種まきは、時期的にいって井出せき(共同作業:水路の掃除)は実施されていません。したがって、その状態でも水が引ける田んぼを選定し能代(のしろ・苗代)とします。

能代は、田植と同様に泥状にしてベッドを作りそのうえにバラバラと種を播きます。そして、カラスやスズメがつつかないようにも籾の上から軽く泥をかけ(コンクリートのこてで塗るように)鍬で抑えておきます。 泥をかけない場合もあったように記憶しています。

それでもからすのカー太郎は、つつきますので、竹ざおなどにぼろ布などをぶら下げたり案山子のような脅しを立てます。

8. 谷上げ(畝たて)・代掻き

代掻きには、荒代かきと植代かきがあり、その作業はディーゼルエンジンでやるか、牛でやるかの違いのほかはありません。荒代の前に「谷上げ(畝たて)」という作業があり、畝を作る作業ですが土を乾燥させたり(土が乾燥していると水を入れたときにバラバラと良く溶ける)、荒代のための水路としたりと理由はあります。これもエンジンか牛かの違いだけで現在もやっています。左のイラストは50年間小屋の天井につってあった牛で引っ張る畝たて器です。昨年ばらして木犀部分は燃やして金属部分は粗大ゴミとして処分したとこです。

現在版参照

9. 苗とり

 

苗とり、この作業は現在と大きく違います。能代、苗代で播種(手で植える・苗高30cm)するのと苗箱に播種(田植機で植える・苗高12-15cm)することによります。この苗とりは女性の役目です。苗代に屈み、(おばあさん連中はりんご箱のようなものに腰をかけていた)両手で稗をより分けながら苗をむしって(引っこ抜いて)いき、適当な量になると葉っぱ部分を持ちバサバサと水中で泥を落とし、藁で束にしていく。これは田植の当日早朝の仕事でした。

子供のころは、この中に入るとカエルや雑魚などがいて楽しみの一つであった。又、田植は近所のひとたちが手伝いに来てにぎやかでした。TOP


 

10 田植

いよいよ田植です。何が楽しいかって、田植はこどもにとって楽しいものでした。第一に学校が農繁休暇になります。子供といえども家事を手伝うために2-3日は学校が休みとなるのです。次に、「早乙女」と呼ばれていた手甲に脚絆(きゃはんと読む)をつけ手拭をあねさんかぶりにかぶった田植をする女性が(おばはんばっかりですが、白粉をぺたぺたと塗って)3‐4人やってきます。家のものは彼女達の昼食つくりなどで野良に出ません。当然いつもの食卓とは違い美味しいものが出てきます。何か、華やいだ雰囲気となるのです。

朝から苗とりがはじまります。次々といなわらで束ねられた苗の束が後ろに並んでいきます。おばはん連中はペチャクチャとしゃべりながら作業を進めていきます。おそらく嫁の悪口を言っているのでしょう。そのあいだ男は田んぼを 牛で長い板や、丸太を引っ張らせての均平作業、最後の仕上げは長い棒の柄に熊手のような(レイキ(rake))農具で凸凹をなくす作業に追われます。

ほぼ規定数の苗がとり終わるといよいよ田植です。田植は、1尺四方に植えるため当地では「田植枠」というものがあります。これには「1人枠」「2人枠」「3人枠」という風に何人のグループで植えるかにより、又狭いか、広い場所によりそれぞれ使い分けします。

子供の仕事はというと、能代(苗代、育苗したたんぼのこと)より運ばれてきた苗束を畦から均一に放り投げる。これにはコツがあり着地のとき根から落ちるようにする。慣れていないと葉先から着地して泥の中に埋まってしまう。又、植える人は枠のしるしのところに植え終われば枠を回転させながらバックをする。ちょうどその位置で振り向けば苗束がある状態がベストである。こどもでも慣れてくるとそのこつが分かる。そんなこんなで、1日で田植は終わる。

田んぼには「ヒル」というミミズに似た生き物がいる。足とか手に吸い付いて血をすう気持の悪いヤツである。当時は素足で田に入ったりしていたので「ヒル」に吸い付かれるという噂話をよく聞くが、実際にはそのような体験も無ければそのような人も知らない。今もいるが、素足で歩くこともないしたまにしか見かけない。TOP

 

 

11 草取り

米つくり百姓はつらい仕事ですが、その中でも一番つらい仕事に真夏の草取りがあります。当時は除草剤がありません。1番草、2番草(何番まであったかは覚えていませんが、・・)。

植えて間もなく(6月初旬)は、左の写真のような除草器を押します。これは、一歩一歩リズミカルに腰を入れてギュルル、ギュルルと一条ずつ縦を押し、後日横方向をおします。まだ土はやわらかく、水を一杯張った中を押していくと、歯のついた車が泥に埋まりながら回転することにより、草は根からひっくり返され、水面に浮き上がる理屈です。前章の田植のときに書いたように苗は縦、横とも1尺の間隔で規則正しく植わっていますので機械の幅もそれにあわしてあります。

次に、2番草です。これは7月さなか猛暑の中、土も少し固くなっているし、草も大きくなっており、このような器械では処理できません。人間の手に頼ることになります。熊手(左の写真)の登場です。この熊手で稲の周りの土をひっくり返し、草を泥の中に埋め込んでいきます。当然、腰をかがめ、稲も大きくなっているので、とがった稲の葉が顔をなぜ、目に刺さり、真夏の太陽は照りつけるは、素手のため虫は刺すは劣悪な環境での作業です。

現在でも、たまに左の写真の除草器を使用している人を見かけます。この器械が4台ほどあったのですが、保管に場所もとらないせいか、2台現存していました。

次には、収穫前に「稗ひき」があります。稲より先にあっちこっちから稗の穂が出てきます。それをそのままにすると、種が落ち大変なことになります。最初は根っこからひいて回りますが、大きくなれば鎌で刈りとっていきます。

当然現在は、除草剤を使用し又はエンジン付きの除草機の使用により、このようなしんどいことをする人もいません。

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12 肥料振り

---製作中---


13 稲刈り

9月後半から10月は収穫の季節です。稲刈りはのこぎり鎌で1株1株と刈っていきます。常に腰をかがめているので時々腰を伸ばしながら行いました。

刈り取った株は4−5株ごとに向きを変えX型に置いていきます。そのクロスしたところを昨年の藁を水に浸したものでしばります。はさに掛ける時に振り分けやすくするためです。はさは図のようなものや足場丸太のような長いものを支柱にして5段、6段にかけるやり方もあります。はさはこの地方では稲木と呼んでいました。この支柱にする稲木は、冬季に檜の間伐材を皮をむいて毎年追加していきます。保管状態がよければ50年ぐらいは使えます。横に通すのは竹が一般的でこれも冬季の旬のよいときに伐採し保管し枯れて軽くなったものを使用します。杉とか檜も使用しますが重いので敬遠されがちです。それと檜の場合は15−20年ものになりますが竹は自然に生え3年も経てば使用できます。

このはさで2週間程度天日乾燥し脱穀へと工程は進みます。

 


14 脱穀

脱穀する前に、山の中の田んぼの話をします。現在は、イノシシや鹿は開発に追われ、住処を道路で分断されるなど、行動範囲も狭くなり里に下りてきますが、昔は獣達は山に、里には家畜類と済み分けられていました。

平地が少ない山間部では、山の谷川が開いたわずかな平地にも田んぼが開墾され、当然猪達との共存になります。秋の稲穂が実ればイノシシは当然それを食べにやってきます。そこで、人間は考え、稲穂の籾の先から毛が生える品種を開発しそれらが植えられていました。こね穂をイノシシが食べると口の中に針のような毛が刺さりオエオエと逃げていくわけです。勿論いいことばかりでなく、人間にとっても収穫するとき、毛が背中の中など入り、痒くなったり、はしかく(ちくちくと痛痒いこと)又、脱穀後その毛を取り除く作業が追加されます。

名前は忘れましたが、絵のような道具で籾をたたいて、籾から毛を分離します。それを箕(み)で振るい籾と毛を分けます。

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脱穀に戻ります。

さで乾燥した稲は、大八車や、担い棒で肩に担ぎ自宅の庭に運びます。そこで、足踏み脱穀機で籾を払い落とします。足踏み脱穀機は足踏みぺタルを踏むことにより蒸気機関車の動輪を動かす要領で縦運動を回転運動に変え、歯車の組み合わせにより歯の付いたドラムが高速回転し稲をそれに接触させることにより 歯でそぎ落とす構造です。これにはコツがあり、ドラムの慣性を利用して負荷がかかる直前に力をいれます。また、昔のエンジンのように、始動時に逆回転することもあるので最初は車椅子のように手で正規の回転にまわしながら足を踏み始めます。

 


15 籾の選別

 

脱穀された籾は、わらくずやゴミが混じっていますので「とうみ」という道具で選別します。このとうみは絵のように上にあるホッパーから籾をいれファンのハンドルを手動出まわし風を送り軽いわらくずや、ほこりを拭く飛ばします。ファンの羽は板で出来ており脱穀のように慣性がなくしょっちゅうまわし続けるので大変疲れます。

 

 

 

 

 

 


 

 

16 乾燥

 

選別された籾は、むしろ(筵=わらで編んだ敷物)の上で天日により乾燥されます。太陽がさせば「かます」(藁むしろを二つ折りにして作った大型の袋)よりむしろに広げ夕方にはかますに戻す作業を数日行います。

 

 

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