退職後

 (new) life after retirement

 

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退職9年経過 -- (2014.12.30)
退職8年経過 -- (2013.9.23/2014.1.2)
退職7年経過 -- (2012.10.13)
退職6年経過 -- (2011.05.30)
退職5年経過 -- (2010.02. 3)
退職4年経過 -- (2009.03.28)
退職3年経過 -- (2008.07.04)
退職後2年経過 -- (2007.03.11)
退職1年半経過 -- (2006.11.10)
退職1年経過 -- (2006.03.15)
退職後9ヶ月 -- (2006.01.05)

 

 

 

 

 


退職9年経過

2014.12.30記載】

2014年もあと一日、誕生日も過ぎ72歳になった。退職8年経過と何が変わった。何も変りはしない・・・ 高齢者の免許更新講習にも行った。幸いなことにまだ認知検査はなく、肉体的な衰えが対象であり何とかクリアーする。

あたふたする間に月日は過ぎ去った。ホームページの更新も半年もサボってしまった。今年も年賀状を1枚もかけなかった。多くの方に失礼をしました。

その間、ヤマシャクヤクは咲き、ヤマボウシも咲いた、シロミノヤブムラサキの花も実も鑑賞した。史上最低の収穫であったがコシヒカリも何とか収穫できた。カブト虫は100匹程度の幼虫を(もらったのと朽木の中での発見)を投入し立派なものが30匹程度成虫になり、市販の餌をやり続け8月の中旬には全て自然界に放してやったがどうなったことか、今年もモリアオガエルは帰ってきて、3ヶ所に卵を産みつけ、例によっておたまじゃくしを保護し何百匹が自然界に帰っていったが、水質も酸素も問題ないと思うのに途中大量死するのは何故だろう。

ムラはどうだ。多くの人に助けられ、励まされ、まちづくりをはじめて4年が経過した。当時から比べても情熱はそう衰えていないと思うのに、歳のせいか効率は悪く物忘れも激しく物事がテキパキとはかどらなくなった。相変わらず就寝は朝方で、よく身体がつづくなぁ〜と自分なりに思う。

今、一つの壁にぶち当たる。やればやるほど人の心は離れていく。続く人材はいない。人を育てるのがリーダーの仕事と人はいうけれど、企業組織と地域のボランティアの中の世界とは根本的に異なる。100人いれば100通りの考え方があり、共通の目的があるわけでもなく、金銭でつながっているわけでもない。又、働き盛りの人が対象でなく、旬の過ぎた一家言をもつ人たちである。だったら、次々と時代をつないでいくリーダー輩出の土壌が必要となるのだろう。

この項続く

【2015.1.1記載】

眼からうろこがおちた。

まちづくりをやってきた。それには目標とする到達点がありそれが最近見えなくなってきていた。「誰もが安心安全に暮らしていけるまち・・・」がその姿であり、少子高齢化の中で達成するためにはマチの活性が必須であり、そのためには自助、共助、絆の復活そして、外部からの人たちが訪れマチとのコミュニケーションがすすみ、更に若い世代がこの地に住んでくれることである。

その手段として、山里であっても都心から1時間以内、10分間隔で発車する終着駅があり、その終着駅に降り立てば都心の喧騒から隔絶された里山が広がっており、たとえ小さな里であっても優秀な学童が通う小学校もちゃんと存続している。そしてその学童が安全に育っていくための地域一丸となったサポーターや監視カメラ群。

それが夢であり、それに一歩でも近づく・・・

 

それを夢見てこの4年間、地域のいいところを洗い出し、イベントをやり、更にその一環として防災システムの構築も進めてきた。

地域の人たちには、官に頼らずに自分たちで出来ることは自分たちでやり、たとえ高齢であってもそれは誰がそうさせた分けでもなく自然の摂理の中のことであり、社会的弱者と思ってはいけない。腰が痛い、足が痛い、物忘れをする、交通手段がないから買い物病院通いが不便・・・これ、すごくあたりまえのことであり、高齢になってもまだ若かりし時と同じでないと世の中が悪いという、これを捨てるべき・・・

こんな活動を認めてくれる人は少なく、人々は離れていく・・・だからといってあんな奴引き摺り下ろして変わってやるという人も現れてこない・・・

以上が昨日大晦日までの話しです。

 

パラダイムシフトが起きる!!

丁度、昨年1月退職8年経過で「パラダイムの魔力」という本を読み直し分かったような気がしていた、まさに気がしていただけであるということが今日分かった。

 

千年の歴史を誇るこのムラにここ数年でパラダイムシフトが起きる。そしてムラは一変する。それは縁もゆかりもない、見も知らずの人たち、大衆によって変えられていくであろう可能性が見える。

それは、思っていた、夢に見ていたと全く違う到達点となるだろう。

そのトリガーとなるのはこの4年間の活動にあり。何も変わらず、何も完成されていない活動に・・・

 

私を初めとしてムラの人たちは、自分が育ってきた中での経験則の中に生きている。一人一人育った環境も同一の人はいない、しかし少し大きな眼で見れば特定のムラで育った環境は概ね同じである。従い、その村に住む人たちはある程度の共通事項があり 習慣、風土、共同作業、絆などが出来上がっていた。

それが、時は流れ、少子高齢化という負の連鎖にムラも町もはまっていく中、今までのパラダイムで持ちこたえようとしている。ワークショップを何度も開きムラのよい点、悪い点を経験則から出来上がったパラダイムの中で考えてきた。

 

そこに異なったパラダイムを持った抗原が入ってくる。対しムラは抗体をつくり反応する。過剰反応がアレルギーであり、往々にしてムラはアレルギー体質である。

予期したことでないが、抗原が入って来易い環境をセッティングするのとアレルギー反応を弱めようとする活動がまちづくり活動だったことに気づく。抗原が入ってきて、まちづくり活動という細胞の中で増殖する。抗体が弱くまたは少数意見なら、抗原は多くのムラと無縁の賛同者を呼び込み抗原自体もそのなかに溶けていく。やがてムラに無縁と思われていた不特定多数の人たちが縁をもち、リピーターとなり広告塔となっていくうちに免疫が出来、その時はムラは変わっていく。それがパラダイムシフトである。

 

***********

アレルギー反応とは何か、この地にある文化(神社仏閣、歴史的文化財、山や川の自然などのハード及び風習、習慣、行事、共同作業などのソフト)はムラの自分たちのものであり、幾多の困難を多くの犠牲を払いながら支えてきた自負である。これらは千年も時代をつないできた。日本全国のムラの偽らざる心境である。

たとえば 、盆踊り・秋祭りや共同作業など従来は地域だけのものであり、外部に知らせることはなかった。しかし、それでは人手とか経費や観客の関係でうまくいかなくなった。このまま衰退するわけにはいかない、だったらどうする・・・ということが原点になって、まちづくりが行われるのである。

 

仏閣のお寺は宗派檀家、壇信徒に支えられという決定的事実があるが、神社はどうか?神社には氏子があり崇敬神社といわれるところには不特定多数の崇敬者がいる。歴史的文化財はどうか、道端にある個人の土地に設置された石仏は誰のものか?

これら文化的資産を考慮に入れなくて、農山村ツーリズムは成り立たない。

みんなのものといえば聞こえがいいが、支えるためには経済的基盤がなければならない。いくらきれいな棚田といっても、お金を出して見に来る人はいない、でも、人の導入を考えれば整備にはお金がかかる。

まちづくりは、合意形成が先か経済的基盤が先かという話になるが、経済的基盤が構築されれば合意形成はできる。経済的基盤は合意形成がなければできぬ。「どぅ〜せぇ〜と、言うねん」という壁にぶち当たる。***********

これらの解決には、突然起こるパラダイムシフトを待つしか手はないと思う。この4年間の結果での判断であり、今そのシフトが起ころうとしているように思え、それを育てる年になるだろう。

 


 

退職8年経過

2013.9.23記載】

なにやってんだ!!

今回も、こういいたい。70歳になった、昨年の生活と何も変わっていない。変える事が出来た、この4月に・・・

でも変えられなかった。それは人生を後悔しないために-----。

ただ変わったのは、肉体的な衰えと若干(本当は若干どころか・・・)の記憶力の衰えを自覚し始めたこと。

個人的には遣り残したことは多くない、欲を言えばきりが無い。しかし、社会に対してはまだまだ恩返しが足りないのだろう。神が生かしてくれてる限りは・・・・

退職8年を過ぎ、いまは地域と密着している自分が感じられる。睡眠時間を削り、命を削っていると思うことが最近増えた。しかし、人間の寿命と少しだけ過酷な生活とは関係が無いのも実感として感じられる。いろいろとやることがあればボケないというが、人間なにをしていてもボケるときはボケる。それは定められた運命である。適度なボケも無ければ怖くて彼岸にはいけぬ。

・・・・

話はバラバラだが、先日、合間を見て稲刈りをした。今年は稲穂と握手したことも無く、ただ水をがぶがぶと飲ませ適当に肥料と農薬を散布しただけ。でもそこそこにがんばって、ひょっとしたら大豊作と思われしや集中豪雨に台風18号、さすがにコシヒカリ、ベターと倒れる。しかし、さすがコシヒカリ、倒れても水に浸かっても成長を続ける。

ただ、問題は、鹿とすずめである。すずめは何百羽、彼か彼女か知らんが、数年前と比べて格段に賢くなっている。例の蚊取り線香時限爆弾装置は雨続きでは湿って鳴らず、食べたい放題に食べる。今に見てろ!と思う。

今の生活から脱却したら、焼き鳥にして全部食べてやる、と思っても鳥インフルエンザも怖いし、それよりも入れ歯では頭からかじるわけにもいかず、せめて手羽先をなめるくらいか。

環境は確実に変わってきている。子どもの頃、雪が降れば、庭木に丸々と肥えたすずめがやってきて、ざるや箕で、雪を掃いて地面を露出するだけで、陰に隠れて縄を引っ張りいくらも捕れた。しかし、秋のあのすずめの大群は何処へ行ったのか、冬にはすずめの姿を見ない。

鹿である、食べもしないのにたんぼを歩き回り、それも家族親戚一同を引き連れて稲を踏み歩く。電気柵も鹿ネットも張ってあるのに、どこから入るのか。ここにも環境変化が見られる。

人間だけでなく鹿も高齢化社会になっている。ただ、少子化でなく、多子化高齢社会である。夜間車で帰ってくると家の横の坂道に鹿がいる。逃げない 、別に人間は怖くないが少しは警戒心があるのか、こちらがアクションを起こすと逃げる。逃げる時に獣道化しているたんぼの土手を上るのだが、ピョンピョンといかない。スリップしながらオエオエとおぼつかない足取りで、後ろから押してやろうかと思うほどヨタヨタしている。お年寄りである。温暖化で寒さ苦手の鹿たちも冬を越し、山にある硬いものより里にあるやわらかいものをたらふく食べ、天敵はらず、鎖につながれた犬はペット化し鹿を敵とは思わず追い出そうともしない。我が家のはなチャンも、夜はぐっすりと眠っている。

 

そんなこんなで、何の変哲も無い片田舎、このままずぅ〜と平和な生活が続くと思っている人たちがいる限りは、睡眠不足が続く。

今、千年続いた集落の千年に一度の存続の危機が目前に迫る。世代継承がうまくいかなくなってきている。無縁社会の都会との決定的な違いは、世代継承にある。中間農山村で世代継承が出来なければ、いずれは消滅集落へと滑り落ちる。

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2014.1.2記載】

「門松や冥土の旅の一里塚・・・」の心境で新年を迎える。

昨年は精一杯やれることはやった。ただ、買った年賀状は一枚も書けなかった。初めてであるが、今は地域で生きている。長年お世話になった方には申し訳なく思うが許してもらおう。

昨年はいろいろな方にお会いすることが出来お話を聞かせてもらった。もちろんムラの再生に関してである。ムラの再生といっても現在何が起こっているわけでもなく、大きく困っていることもない。地域住民に聞こえたら怒られるだろう「ほっといて!と」。この再生という言葉、どうしてもマイナーな言葉である。

 

しかし、この延長上に未来はない、ただそれ一心で少しでも多くの人たちが気づき始めるまで活動を続けよう。

コミュニティーでの学校の有り方・神社仏閣・自治会・消防団・老人会・福祉問題・防災・・・

「こうあるべき」という今までの暗黙の了解、仕組み、習慣等に発想の転換が求められている時代に突入したと感じられる。何がどうしたということではないが、それらは漫然といろいろな局面で解決しにくい問題となって別々に出てきている。

 

少し話は戻るが、年末に漠然とテレビを見ていたら、番組名とか曲名は忘れたが、世界の端で生きている日本人を訪ねる番組があり、アラスカが出ていた。そのアラスカのポイントバレーに住んでいる女性が、日本人でアラスカの救世主といわれているフランク安田にあこがれてやってきた。そのフランク安田を物語にしたのが新田次郎の「アラスカ物語」ということが紹介されていた。

「アラスカ物語」は昔よんだことがある。是非もう一度読みたいと思い、昔の本棚かガラクタ置き場か分からないところで探していると懐かしきその本が見つかった。その横にあったのが「パラダイムの魔力」(ジョエル・バーカー著)という本で、なぜか引っかかるものがありこの2冊を抱えて寝室に入る。

 

パラダイムというのは一昔はやった言葉であり、会社から講習会などにもいった記憶がある。パラダイムとは説明しにくい言葉であるが、科学史家のトーマス・S・クーンが言い出したモデル、パターン、範例(規範となる例)という意味で、ある境界、線引きの中でルールに基づいて物事が進んでいる。だから、その枠を取り外しては考えられないとかを意味する。

この本の発行から見て10年前に読んでいる。丁度60歳定年を迎え更に2年延長して勤めようとしている時だ。読み始めると当時と理解度が異なる。もともと無い脳細胞も当時と比べ格段に衰えているはずなのに、すこぶる理解度が早い。これは驚くべきことである。

 

この2年間ぐらいは、このパラダイムにとらわれていたことが分かる。いろいろな局面で、それなりに経験し勉強し熱心になればなるほどこのパラダイムのとりこになっていく。ムラの歴史、ムラの人の考え方、ムラの環境、ムラの周囲・・・全てが分かってくる、分かったような気持ちになる。

 

多くの人に会って話したと書いたが、そのどれもが、「それは素晴らしい・・・でも、ここの環境では、ムラというものはこういうもの・・・、この地域では昔から・・・」が心の底にあり進展を阻む。そういうパラダイムの中で仕事をするから思ったとおり以上の結果は出せない。

いろいろ斬新な意見も聞く、それも従来のパラダイムの中で聞いているので、「でも・・・」が出てきて、結果を予想してしまう、見えてしまう。

 

すこぶる理解が早いと書いたのは、今何かが起ころうとしている。

ただ漠然と、今このムラの内外においてそれぞれの問題がばらばらでなく一つに収斂していくようすが不透明ガラスの向こうにみえる。

何かが起こる・・・これはパラダイムがシフトするという。

パラダイムシフトとは「ある時代・集団を支配する考え方が、非連続的・劇的に変化すること」「社会の規範や価値観が変わること」とネットで解説されていた。

 

妙見口駅を終着駅とするのせでん妙見線は大正2年(1913)に一の鳥居駅まで、大正12年(1923)に現在の吉川の妙見口駅まで能勢妙見参詣客輸送を営業目的とし開業した。昭和40年代(1965〜)に入って、大型ニュータウンの開発により乗降客を増加させた。それから30年近くは通勤客を運んだ。

最近までは「電車は人を運ぶもの」というパラダイムのもとに営業戦略が立てられ実施されてきたと思う。ところがこの2-3年をみると、ニュータウンも子育てが終わり子どもたちは都会へ、少子高齢化で乗降客は減少一方、これがパラダイムシフトの前兆であり、今やイベント列車、ハイカー、観光客呼び込み・・・等が頻繁に実施されている。「電車は移動する楽しみの空間」に概念が変わってくる。定住者を増やして人を箱に乗せて運ぶという枠組みから脱却して、過疎地であっても「移動するイベント会場」のようなものに変わってくるかもしれない。パラダイムシフトである。

それが読めれば、終着駅を持つ私たちムラは、どうあるべきか・・・先見性が要求される。

 

千年の歴史をもつ吉川八幡神社はどうか、神社は神聖なもの、神が宿るもの、厳かなもの、歴史上の慣習・・・そんなパラダイムに引っ張られて、老朽化していく神社、神仏から離れていく人たちを考えれば、運営していけるのか。パラダイムシフトが求められている。

こんなことがいっぱいあり、少子高齢化はそのことを教えてくれる。

 

退職後の話が脱線したが、そんなこんなの8年目であった。

いよいよ9年目に差しかかるぞという思いと、「冥土の旅の一里塚」「今日という日は人生のゴールへの初日」が頭に浮かび、こんなことほおっておいて、動けるうちにやりたいこともあるし、一つ一つ片付けていくには時間が足りないし、同時にやるしかないかと、思っている次第であります。

 

 

 

 

 


退職7年経過

 

2012.7.28記載】

なにやってんだ!!

もうすぐ70歳、なにやってんだって、感じ。この1年間寝るのはほとんど午前2時過ぎ(おきるのは遅いけど)、パソコンをしこしことたたく。朝刊が配達されるときが就寝。ホームページだって更新の時間がない。

「退職6年経過」でのポリシーを引きずって、さらに重くなる。後戻りしないために、宣言したけれど後悔はしないけど、ちょっとは悔いがある。この2年間、近所の山歩きトレッキングは封印、猫の額の稲作は何とか他 所より2週間遅れで田植えをし、手入れも出来ないまま、それでもけなげに健やかに育っている。が・・・昨年に比べて分ゲツが少ないように思う80パーセント程度か。これからどのくらいがんばってくれるかによるけど。

夏野菜も一応植えた。草と競争しながらも、食べきれないトマトやナスにゴーヤが水もやれない日照りの中、これも何とか。ただ、ジャガイモは掘る機会を逃しほとんどが土中で腐ってしまった。そんなことはたいしたことでないけど。

カブトムシは孵化寸前にファースト、セカンドハウスとも新調したが、なぜか今30匹程度、本来計算上では200−300匹のはず、それもあまり問題でない。モリアオガエルは生まれたところで卵を産むということが実証された。ただ、雨が降れば樹上の卵が解けて下の水溜りに落ちるという仕掛けが、どう見ても落下予定の水溜りから20cmは離れている。これでは孵化しても日乾しになるのは明らか、忙しいさなかでも、下にバケツを受ける。セーフ。

マムシは今年豊作。もう3匹抹殺してやった。

4年前、トレッキングで山中から野生のヒオオウギの種を採集して植えてあったものが今年ようやく花が咲いた。大量の高砂百合の種を3年前に撒いた。今年は10本程度は咲く見込み。ウバユリは保護に保護を重ねてあっちこっちに花開く。ヒヨドリジョウゴは種をまいてあっちこっちに移植した。秘密の場所からひそかに頂戴したヤマシャクヤクの清楚な姿は4つさいた。ただ、ピンクでないのが残念。4年前に購入したヤマボウシは今年も咲かない。山中にある秘密の場所のヤマボウシは今年も咲かなかった。2年連続して咲かない。

一応やるべきことはトレッキングを除いて睡眠時間を削ってやれている。

【2012.10.12記載】

10月になった。一応刈り取りも終わったが、まだ乾燥機の中に籾は入ったまま、もみすりが出来ていないし、田んぼは刈り取ったまま後始末も出来ていない、データーも解析していない。でも、白菜、大根など冬の鍋料理の必需品はそこそこに育っている。

カブトムシはそれでも50匹ぐらいは孵化しただろうか、餌だけは欠かさず与え、そして9月末全部天寿を全うした。なで、昨秋に確認した200匹以上のさなぎが50匹なのか、その謎は解けずじまい。モリアオガエルは一つの水槽である日突然全滅した。何故か、高温すぎたのか、酸素不足か、かわいそうなことをしてしまった。残りの一つの風呂桶水槽の彼、彼女たちに来年の夢をつなぐ。

 

退職7年目にして、想像もしていなかった生活が始まる。

自分でも過酷と思う。もっと、楽な人生があったはずでありそうして過ごすはずだった。

今、我が集落(ムラ)は平穏無事、大した災害もなく楽な人生を歩めめば歩める。どこで歯車が狂ってしまったのか。

・・・それは、老いても胸の中には何かに賭ける情熱が残っていたといえば、あまりにもカッコよすぎることだろうか、はたまた、生まれながらの反骨精神(本当は偏屈)がまだくすぶっていたというべきだろうか。どうもその辺が狂いの元凶である。どんな形であれFightがあるということは幸せなこととして前向きに捉えよう。

我がムラは平穏無事だろうか、村の小学生は両手あれば勘定できる少子化、高齢者は30%強、後継者はいても都会生活、いきおい放置田、遊休田畑の増加に伴い無差別菜園の環境破壊、野生動物を追っ払う気力もなくシカ、イノシシの天国化、隣接の大規模住宅地の団塊の世代現役引退に伴い町税収減による公共のサービス低下、結婚しない若者。

しかし、これらもじわじわと責めてきたため、次第に飼いならされてきたように、今、ムラは平穏無事。まだ動けるし自分のことだけだったら、無事天寿をまっとう・・・と、みんな思っている。そうだなあと思うときもある。みんなに、このまま行けば・・・と危機感を煽るつもりはさらさらないが、言葉は煽っている自分がある。

 

耳を澄ませば、伏流水のごとくあるいは眼を閉じれば蜃気楼のごとく何か未来(先)に大きな壁が立ちはだかっていないか(ここまでくれば、少し精神科のお世話になったほうが)・・・とは、言わないまでも、そこにある危機を取り払わねばならない。

このムラは千年の歴史を持ち、最近では(150―200年前)門前町として栄えた時期もあったし、終戦直後から数年間はムラの青年団の活気もあった。みんな生きるのに一生懸命で絆もありみんな前を向いていた。いつしか、ムラも豊になりハングリー精神と共にみんなで生きていくという心を失ってしまった。これは全国共通版である。

それに対抗して、村おこしが盛んで、その類のことをやろうとしてじたばたしているのが現況であり元凶である。

ムラ起こし、ムラの活性化として叫んでみても成功裏に終わっているのは、コンマ以下のパーセントの世界であって、ほとんどが失敗に終わるか何らかの形で活性化、活性化と叫び続けているに過ぎない。

 

しかし、一つの風が吹き、残り火が燃え出した以上、ある段階に載せるまでがんばるつもりである。出来るだけ早く済ませて、まだまだ知らない野の花や木々のつぶやき風のささやきを求めて、コンパスとGPSを道連れに付近の山をさまよいたい。命あらば・・・。

 

 


退職6年経過

 

2011.5.30

長い間、更新が止まった。開設してから始めてである。

昨年末以来、忙しく、ついに四月には更新どころではなかった。楽しみにしていた、冬のトレッキングもどこへもいけず、好きなこともすべて犠牲にした。

おそらく、人生で最後のどたばたになるだろう。

ホームページの表題「退職したぞ〜」と、決めたときの心境は企業、社会からの束縛が解け、全く自由に気ままに自分本位に生きていこう、という思いがあった。そこには、もっと違う世界があるはずだった。(以前にも書いたが、企業、社会が私にとって負担と感じたことがほとんどなかった。どちらかといえば、好きなことを勉強して、やりたかった仕事に就き、思う人生を歩んできた・・・にも関わらずである)

 

退職6年経過して思うに、違った世界などあろうはずがなく、朝起きれば目の前には山があり、見渡せば山に囲まれた小さな寒村があるだけで、住んでる人も何も変わらない、いつもの風景が存在するだけ。

しかし、劇的に変化したものがある。「心」である。

退職1−2年は、見るもの、聞くものが新鮮に心に響く。昨日見たタンポポの花と今日の花は違う。昨日は咲いていること自体が見えなかった。全ての事象がこうである。世の中を平面的に2次元の世界で見ていたものが、立体的に見え出したのかもしれない。

これは、自分の周囲が変化したのでなく、自分の「心」が変わったのである。「きれい、汚い」「良いこと、悪いこと」「楽しい、苦しい」・・・、これらは、自分の立つ位置、ものの見方によって変わるものであり、すなわち、「心」をどこにおいているかによって変化する。

 

だったら、今、退職後6年目はどうか、退職後の「心」を新しい「心」としよう。新しい「心」がずっと続くと、古い「心」は見えなくなる。すると、新しい「心」と古い「心」の比較はできなくなる。「わくわく、ドキドキ」する感情がなくなってくる。

私の方程式は、人間らしく生きるということは新しい「心」と古い「心」の差に比例するということである。

人間らしく生きる(若さを保つ) ∝ わくわく・ドキドキ率 

である。

 

今、多忙な時期に、一番必要な「もの」が見えない。「心」の置く位置が定かでなく常に変動している。あの、退職したときのような心境になれないからだろう。すなわち、今のことを、如何にして成功に導くかの損得勘定が顔を出し「もの」の本質を見誤ってしまう。これも、凡夫であれば致し方ないだろう。

 

理屈はさておき、その多望の原因は何だ。地域に少しでも貢献しようとする気持ちです。気持ちといったのは、そういう意思はあっても、頭も身体もついてきてないという実情です。理屈はさておきといいましたが、気持ちとは「心」です。

環境の変化で「心」を変えることはできます。ところが「頭」と「身体」は経年劣化していても部品交換もできません。しかし、老兵は消え去るのみ・・・では、高齢化社会にあって許されるべきものではありません。たとえ老兵であっても、3回聞けば、何とか理解はできます。だからボランティアなのです。

 

私たちが、現役といわれた時代、社会や地域には所得税や企業税で(ちょっとだけで、えらそうなことはいえませんが)という立場で貢献してきました。もちろん、ボランティアとかそれらを専門的に行ってこられた方は別ですが。

しかし、それらに貢献できたのも、誰かが地域のことをやり私たちを支えてくれていたからできたのです。

私たちは、これからは社会に対して負担をかけていきます。特に若い世代に対してはそうです。だから、順番が回ってきただけのことであって、ガタガタ言うほどのものではありません。

 

今、いろいろなことをやる中で、その底流にある共通したものは「絆」です。私が住んでいる、こんな小村でさえ「絆」は失われつつあるような気がします。「絆」は、現代人にとって、うっとしい、わずらわしい半面を持っています。「絆」があるから、悩み苦しむ場合も多々あります。

 

では、何故「絆」をベースにおくのでしょう。それは「少子高齢化社会」への対応です。先の東北大震災においても、「絆」がどれほど、その救助、復興に有効であるかが、新聞にも報道されています。

私たちのムラも、右を向いても左を見ても高齢者ばかりになってきました。このままでは、いずれ「限界集落」に突入です。そんな時、人間が人間らしく生きていくためには、昔のような「絆」を取り戻していく、「絆」の再構築が必要と強く思っています。

 

「絆」が構築されるためには長い年月を要します。又、言葉だけでもできません。そういう「コミュニケーションの場」というものが必要です。昔のように冠婚葬祭で人が一同に会するとか、農作業を共同だった時代には戻れません。ただ、希望があるのは、「過去はそうだった、でも、時代変化により薄れてしまった」というだけで、枯渇してしまっているわけではありません。これをうまく再稼動させることに微力でも努力することが私の生き方です。

 

長くって2−3年こういう環境に身をおき、今までに蓄えてきた知識、経験を生かして乗り切る覚悟です。ここで、もうひと踏ん張りできるか否かが、本当の老後の生き方を変えると思います。

退職8年目のページが楽しみになってきました。

 

退職5年経過

2010.2.3

@退職4年経過では、若い人には希望が、夢があるが、現役引退者には希望も夢もあろうはずもなく・・・と書いた。今もその考え方は変わっていない。だからといって、意欲がないわけでなく、常に前向きで物事に固執することなく、今日、明日あさってとゴールまで進めばよいわけである。

下り勾配には違いがないが、それがリニアーに下るかというとそうではないだろう。(突然のアクシデントは別にして)。 司令塔の脳細胞は下りのスロープであっても、体力気力面で個人差もあるが例えば70、75、80歳と階段状にガクンガクンと降りていくことになるだろう。

 

来年は、コシヒカリに替えてミルキークインを植えてやろう。栽培方法はコシと変わらないそうであるがどんな味かするか楽しみである。昨秋、そう思い今年ミルキーの種を入手した。昨春捜し求め続けた、マンサクの花、セツブンソウ、カタクリの花、マンサクを除いてこの集落にあるかどうかも定かでないが今年も、捜し求めてトレッキングを続けるぞ・・・、イノシシやシカに荒されてたまるか、そのためには

冬季に間伐材で杭を作るぞ、野菜の支柱には竹の伐採も必要だ・・・、との思いが行動で示せるかが、些細で低次元かも知れないが、判断基準になってくる。

これらは思いつきでなく、過去の実績評価のうえに成り立つ計画であり、連続性のあるものである。その間に、地域に何か役立つことができればよい。これらが流れているうちはリニアーな下りである。この繰り返しに、何かが抜けても何かが加われば・・・、数年間続くことを願いながら。

                               ~~~~~~~~~~~~~~~Aへ

 

 

 

 

 

A

このホームページの表題もそろそろ変えなくてはと思っている。もう退職後でもなければ、退職当時の開放感、自分で自由に使える時間の感激も、それが常態化すれば、有難さも薄れようというものである。

 

団塊の世代がリタイアする。この周辺も散歩をする人が急増してきた。サラリーマンをリタイヤした人たちである。次のステップまでの間を人はみな散歩に精を出すのであろうか。その散歩も、ただ一心に歩くだけでわき目も触れない。今までの、サラリーマン時代のアカを取り落とそうとしているか、はたまた今までの不規則な生活からの脱却か 。

企業にはノルマもあったし、敵もいるが仲間もいる、上司も部下もいたし、報酬も得ていた。これからは違う。敵もいないが仲間もいない、ノルマがない代わりに報酬もない、ガミガミ言う上司がいないが言うことを聞いてくれた部下はもういない。

ただ会社のことだけを考え、子どもを育てたのは奥さんだ。その子どもも独立し、奥さんを通じて子どもの情報を得るのが精一杯。今まで、家族とどれほど夕食をとれることがあっただろうか・・・。奥さんは奥さんでそんな状況の中 で、自分の為すべきこと、楽しみ方や生き方を見つけそれらを共有できる仲間もつくってきた。

隣にどんな人が住んでいるのか数十年いて知らなかった、知ろうともしなかった、知る必要もなかった。そんな人たち同士が散歩しているというか、ただ時間を消費するだけに歩いている。

                                    ~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

Bへ

B

日本の高度成長社会を築いたのは、そんな彼等だ。だが、気がつけばリタイヤ後、まだまだ生産意欲があるのにその生かす場がなく、放り出されてしまった。そういう人たちが大部分であろう。

でも、心配は要らない。熾烈な競争社会を生き抜いてきた彼らだ。1−2年先にはきっと自分のこれからなすべき事を見つけるだろう。

 

あっ、そうそう他人のことより自分のことが先決だ。

 

リタイヤ後やってみたいことの内、1つだけできないものがあった。読書(読み直し)である。晴耕雨読が目標だった。時間はいくらでもあるので、読みたい本は徹夜したってかまわない。明日はどこへも行かず誰も待ってはいない。高価な新書を読もうというのでなく、文学性の高い本でもない。青春時代を支えてくれた石浜洋次郎、武者小路実篤、大仏次郎、小林多喜二、志賀直哉、島崎藤村から漱石・・・。通勤電車の中での松本清張でも笹沢佐保シリーズ・・・。

いわゆる大衆小説といわれるもの当時のミステリーなど、又青春時代の本でもよい。

 

ところが、読んでもその中に入っていけない、想像力が働かない広がらない、感性がない。したがって感動がないただ、活字を追う事になり必然的に目が疲れる。

ところが、いまTVや映画となっている不毛地帯、沈まぬ太陽、点の記剱岳などは、理解できるし物語の中に入っていける。

これはどういうことか、ノンフィクションか、それに近いものは読めても、純文学とか青春物は読めないということである。これは老化現象そのものでないかと思う。

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C

退職5年目になると、これからやれることの可能性というか、能力というか生き方などが読めるようになる。少なくともこれから先、それに備えるということはできないが何が起こるかということは想像できる。

社会人となって20年もすれば少なくとも退職するまでの自分は読めるのと同じである。退職後5年もすればそれから先が読めるということである。

 

何が一番怖いか、突然死はいつやってくるか分らないので怖くない。やはり、認知症が一番怖いし、家族にも大きな負担をかけることとなる。認知症にならないために、という高齢者向けの講座は大流行である。しかし、それを実践していたらならないかといったらそうとも限らない。ならない努力はするが、やはりその人に持って生まれた運、不運であろう。

認知症と加齢からくるものとの、これまた見分けが難しい。専門医に見てもらえば分るであろうが、これまた怖くてそんなことできない。 択一式の簡易な問題をインターネットですれば、加齢は合格し、認知の予備軍間違いなしである。

でも、あの世へ行く直前までバッチリと頭がさえていても、これまた恐怖である。1週間前ぐらいから徐々に記憶が薄れ、気がついたら極楽浄土だったと、都合のよいことを考えている次第である。

(おわり)

 

 


 

退職4年経過

2009.3.28

Time and tide stay [tarry, wait] for no man

1942年生まれ、時は矢のごとく過ぎ去る。

いよいよ、「退職3年経過」で書いた「忘れ去られる」時代に突入せんとしている。これからが正念場である。

しかし、退職後理想としていた生活はまだしていない。これからその楽しみはあるわけである。

まず、整理をしておこう。

40数年やっかいになった会社のことは思い出すこともなくすっぱりと忘却の彼方である。夢にも見ない、見る夢は学校の単位が足らん、どうして卒業しようと悩んでる。

少ないながら、年金は満額ある(ごくごく少ない年金生活者が確定申告したら、数万円もこの通帳からどうぞ引いてくださいと自分で申告せなあかんとは・・・)。地域にも少しは貢献している(本人はそのつもり)まだもう少しはできる。趣味も3つや4つは持っている。各種アルコールは一応365日適度に飲んでいる。タバコは20数年前からスッパリ止めている。健康上も問題がなさそう(腰が痛いとか首が回らんとか、こけたらなかなか直らないとか、入れ歯をつくらなあかんとか、 記憶力はさらに低下したとか一応人並みの、年相応の生きている証上の問題はちゃんと抱えているが)。周囲を見渡せば「春夏秋冬」季節の顔を見せてくれる。

「すばらしきかな人生」とまでは行かないが、贅沢を言わねば現状は言うことなし。

 

あと、20年は生きるとして、(先日、元同僚の集まりで20年生きるとして・・・としゃべっていたら、お前20年も生きようとしてんのか・・・といわれたが・・・) さし当たっての10年間の生き方を考えよう。

10年たつと70歳半ば、周囲を見渡せばまだまだ元気な人はいる。ここでも、趣味だけでは生きられぬ。やはり人間は、誰かが見ている、見られている、批判を受けている、うわさされている・・・が気にならなくなれば老いる。要は孤立すれば老いる。

そうならないためには、批判されようが、無視されようが人の前にいることが肝心である。

 

先日、いい話を聞いた。是非紹介したい。神戸防災未来館でのこと。震災の語り部さんが語ってくれたことと、私の考え方をごちゃ混ぜにして話す。

これはそろそろ定年を迎える、迎えた人たちに対する話であるが人生には運、不運はある。すべてが平等というわけでない。努力しても報われないときもあれば何もしなくても報われるときもある。

震災当日か二日目か、体育館に避難所が開設される。入れるのは早い者勝ちである。語り部の人は、会社のことも気になり避難所に来たときは満員で寒空の屋外露天だった。あれだけの大地震、昼夜を問わず余震がある。余震のたびに、体育館から人は飛び出してくる。老若問わず全員である。人は、天井のあるところで地震にあうと怖いらしい。一晩に5回も6回も飛び出してきては入る繰り返しだったそうである。語り部は、もともと露天それらの騒ぎを一部始終見ていた。

避難所の中も困ったときはお互い避難者同士、仲良く助け合っていた。しかし、それも長く続かず2〜3日もすると物資が届くようになって空気は一変したそうである。また、避難所の中でも本当に困っている人、帰る家はあるのに物資目当ての人が入り混じっている。そのうち仮設住宅の抽選があり、当然あたる人、外れる人が隣どうしで出てくる。そのの人たちの関係はギスギスしたものになっていった。

それらを見ていて感じられたことは、人間って、一番頼りにならないものを頼りにしていた。行政とか、人間お互いの助け合いなど・・・。

あれから14年、最近保存食とか水などすべて捨てた。いつ起こるかわからない地震に備えて10数年も、保存食を取替え備えるのにもう疲れた。そんなものがあったとしてもほとんど役に立たないことも知っている。

ただ、必要なものはある。それは「バール」と『向こう三軒両隣」の関係である。

バールは救助活動に欠かせないし、どの家に誰が住んでいたかがわかれば、救助活動は格段に進む。誰もいない家を掘り起こす必要がないからである。

人生こんなこともあると、日ごろからの心の持ち方で、もうここらでこの世とお別れしても、これも人生と、思って心安らかに生きることが大切。・・・と、言っておられた。

語り部は戦争と大水害と大震災の三度の生死を経験され達観されたのであろうが、凡夫はそうはいかないが、言われてみればそのとおりだと思った。ちなみに地震が一番恐怖だったといっておられた。戦争は、空襲警報があって予告があり、心のそなえはできる。地震にはそれがなく突然やってくるからである。やはり、地震・雷・火事・親父は当たっていたようだ。

 

若い人には希望が、夢があるが、現役引退者には希望も夢もあろうはずもなく、ただ平穏無事に、人になるべく迷惑をかけず、意欲を持って定められた道を人生のゴールまで歩むしかない。・・・と、思う昨今です。

 

------おわり------

 

退職3年経過

 

2008.7.4

昨日、「町」よりラブレターが届く。早速封を切ると、中味は「生活機能評価チェックリストアンケート」とある。

「4月からの医療保険制度が改正となり・・・介護保険制度の改正で・・・介護予防・・・」とあり、要は高齢化度のチェックリストであり65歳以上に送った。と、書いてある。この項目の中で、認知症を見るらしい項目をまともに採点するとまさに認知症寸前か予備軍である。このアンケートよりさらに詳しいチェックをされると、と考えると恐怖である。

 

65歳を過ぎると、自分では若いと思っていても、又年齢など気にしていなくても、周囲から「貴方は高齢者に近づきましたよ」という趣旨のチラシがあっちこっちから舞い込んできて、自覚させられ精神的に年をとってしまう。

「老いは年齢にあらず、心の持ち方だ」というような意味のことを言ったのは誰だった。そう思って生きているのに、いやな世の中になってきた。

 

機会があり、卒園式から小、中学校の卒業式/入学式に、又老人クラブの会にも臨席した。園児のパワーにも感嘆するが、老人クラブのエネルギーも質は異なるが引けをとらない。

 

話を退職後に戻そう。半年、1年、1年半、2年とそれぞれ心の葛藤、変化はあったけれど少なくとも今までは自由を満喫し定年万歳であった。

退職1年目は、会社から離れることを覚える期間であり、2、3年目は地域とのかかわり方を覚えていく段階でありまだそこそこには、体力も精神力も、蓄えた技術力も残っている。地域に貢献することは可能であり工夫もし目的も出来る、その需要もないことはない。その勢いで、退職後4−5年は持つ。問題はその先である。

体力は衰える。地域もあまり期待はしてくれない。次第に忘れ去られる。

 

この1−2年がその過渡期と思っている。だから、今が大切である。ただ漫然と送っていると第二の定年を迎えることになる。人生の定年は1回でよい。次に迷うと後の人生はまさに老後となってしまう。

今、非常に忙しい。現役時代の忙しさとは内容と質が異なる。現役時代は、今から考えると1種類の急がしさ、要は1つの職業分野の、専門職としての忙しさである。同時に多くの職業に就く人はいない。ところが、現役引退後の忙しさは自分の趣味も含めて多くの分野が重なり合って、1つのことにじっくりと取り組めない。今まで生きてきた経験と勘と偏見とでこなしていっているようなものだ。

そんな中でも、欲深くまだ20年近くは将来があると考えれば、今いかに忙しくとも自分のやりたいことの基礎はつくっておかなければならない。

 

今年の正月からトレッキングの面白さを味わった。トレッキングといってもその辺の勝手知ったる山の散歩であるが、散歩ではいかにも老人くさいので、トレッキングと呼ぶことにしている。それでも危険とスリルがいっぱいである。コンパスと地形図を頼りに山を歩く。全て土地勘のあるところ、低いところ、低いところへと歩けばいつかは、見知っている川か道路に出るし、高いほうへ高いほうへと登っていけば、必ず知っている構築物が 視界に入る。理屈はそうだ。ところが面白いのは、一歩沢に踏み込めばどちらを見ても山、山、山、それも針葉樹林の中であれば薄暗い、ものの30分も歩けば里に出られると理屈で分かっていても、恐怖感はある。 適度の緊張感とスリルが味わえるわけだ。度か過ぎると人に迷惑をかけ新聞沙汰にもなりかねない。その緊張感をやわらげてくれるのが、山に咲く花、木になる実である。この数ヶ月で何種類の花の名前を知ったであろうか(直ぐに忘れるけれど・・・)その花・実を絵にすることも楽しいことであるし、ネットで名前も調べるのも興味がある。ただ、直ぐに忘れるのがちょっと苦しいところであるが・・・だからカメラは手放せない。

その為には、足腰を鍛えておかねばならないが、悲しいかな、少し同じ姿勢でいると「ヨッコラショ」と声を出さねば次の動作に移れないし、朝起きるときは、関節が「こことここについてますよ」とはっきり分かるぐらい動きがぎこちない。65歳を境にして特にそう思う。

 

もう一つ、年をとるということは、誰からも報酬をもらってないということは、倹約すればそこそこには生きていけるということは、病気以外はあまり怖いものはなくなる。総理大臣、大学教授、お寺の住職、弁護士、警察のえらいさん・・・若いときには尊敬もしたし、畏怖も感じたし、近寄りがたいものでもあった。ところが、この歳になってくると尊敬は変わらないが、言うこと、していることは似たり寄ったりで、大差ない。ただ、身なりも違えばベンツと軽トラの違いもあることはあるが、裸になればそう変わらない。田んぼの稲刈りのノウハウなどは総理大臣より詳しい。もしも、アルマーニの作業服を着て、ベンツの軽トラに乗って、金メッキのクワを担いで百姓をしてたら、・・・そう思うと世の中面白い。生きる勇気もわいてこようというものである。

 

人は一人では生きて行けない。しかし、いつかはひとりとなる。○△同好会、○△クラブ・・・などに参加して同じ趣味を持つ人と楽しく生きていくに越したことはない。しかし、人が集まり、団体で行動するということは、先ず自我を殺すことから始まる。適当な落としどころで妥協することから始まる。それは現役時代の延長であり、その線上にいるうちはよい。自我を殺すのが下手で、自説を曲げないのが老人である。

 

喧嘩せずにやっていけているのは、自説を曲げて妥協しているわけでなく、人の言うことは聞かず、又聞いても自分に都合の良いように解釈しているに過ぎない。

だから、変人といわれようが、協調性にかけるといわれようが、一人で楽しめることを見つけ出すことはこれからの人生にとって絶対に必要なことだと思っている。

 


退職後2年経過(2007.3.11)


「光陰矢の如し」まさにそれに尽きる2年である。
退職後半年間は、開放感からこんな素晴らしい生活があったのかと自由を満喫し、そして、少し落ち着いてくる1年後は、開放感ばかりに浸っていたのでは飽きる。新聞をにぎわす経済活動などからの疎外感を味わう。
次にやってくる1年半後は、環境にもなれ少しだが、2年の経験も経てその延長線上の老い先も想像が出来、そして無理をしなければ経済的にも何とか生きていける自身もついてくる。少し落ち着き自分を見つけ出す機会で、人に迷惑をなるべくかけないで、生きていく道を見つけ出そうとする。

そして、2年後、もう完全に過去のサラリーマン時代の思いはなくなる。もはや定年後ではない新たな人生である。ただ、少しささやかであっても私たちにとっては高額な買い物をするとき、又必要になったとき、以前だったらボーナスで処理できたのになぁ〜という思いはある。そして、行動範囲がだんだん狭くなり、特に田舎に住んでいる身なれば、都心へ出かけることも少なくなり季節の変わり目など、どんな服装で電車に乗ったりしてよいか判断に迷う。そしてだんだんと地域密着型になったりする。

これは鈍感になったのかというとそうではない。先日も、3月にしては5月ごろの陽気だとテレビも言っていたし、実際の体感温度も暖かかったので、シャツとブレザーで外出をする。車内のサラリーマン諸君はオーバーにマフラーをつけて暑苦しい格好をしている〔ファッションといえばそれまでだが〕。融通性のないことだ。身に覚えがある。12月が迫って、寒いのに左右を見ても誰もオーバーを着ていない。誰かが着たら着ようと思うが、相手も同じだ。春は春で衣替えにならなければ、冬服は脱げない。赤信号でも全員で渡れば・・というヤツである。しかし、これが日本のサラリーマンの規律を保っている。一旦企業から離れるとよく分かる。地域で何かの集まりがあったり、共同作業などがあると、元サラリーマンは実に結論に導く過程が合理的である。知らない人同士でも、そこには何らかの規律が直ぐに形成され、上手く行く。ところが、退職後長くなったり又組織に属さなかったりする人たちと一緒のときは、その規律が出来にくく、みんな思い思いのことを言ったりして終始がつかなくなることもある。結論の良し悪しを言っているのでなくサラリーマンを20−30年もやっているとうまく飼いならされたのかも知れない。

その、飼いならされて一緒に赤信号を渡っていたサラリーマンが、仲間から離れ赤信号はひとりで渡ることが出来、しょっちゅう顔を合わすかみさんとの付き合い方もなんとなく分かってくるのがこの2年間である。そして、道で会う散歩の人たちと話をしても、迷っているのは退職後2年以内の人が多い。それを過ぎると、ハローワークにも行った、ボランティアらしきものもした。好きだった囲碁将棋も好きなときに好きな相手を見つけてやった。それぞれを経験して、自分のできること、自分の道を見つけている。まだ少し先と思いたいが、その延長線上に老いが見えるはずである。

退職後に遭遇する問題が、三食共にするかみさんとの問題である。「定年オヤジのしつけ方」(小川有里著)等という、失礼な本が売れている。詳細は未読で知らないが新聞紙評のあらましでは、身につまされる諸氏も多く誰でも心当たりがあると思うが、これが、ひとりで赤信号を渡る問題である。今年から続々と団塊の諸氏がこの問題と直面していくことになる。川柳などで、定年オヤジは産業廃棄物などにたとえられていることもある。

しかし、最近、これらと全く異なる意見を聞き感動したことがある。「今までは、家族一緒に食事をしたことなどめったになく、定年になって、毎日顔をあわせ食事をともにし、共通の話題が出来、初めて本当の夫婦らしい生活ができるようになった。これは素晴らしいことですよ」・・と、私に向って言うのである。私は、「うーん、いい生活をしているなぁ」・・と、言いながらも、「それはいつもでも続くか?・・」と、もう一つの素直でない心が言うのであります。この問題は、着かず、離れずが一番です。

テレビでは、今、土曜ドラマ「ハゲタカ」をやっています。こんな格好のいいサラリーマンもそうは居ませんが、彼らの苦悩、正義、人情、現実と、理想の葛藤。大なり小なり自分を捨てて企業活動、ひいては家族のために、日本国のために団塊の諸氏はやってきたのです。それが、いよいよ自分の時間が思うように使えるときになって「しつけ」なんかされてたまるかって言いいたいところであります。

やりたいことが見つからない人もいるだろうが、やりたくってもできない事情もある。
本当にやりたいことはボランティアでなんかでない。海外で住んでみたい人、パリの街角で絵を描いてみたい人、日本中の温泉めぐりをしたい人、大学へ入り直して勉強したい人、人それぞれであっても先立つものの話もある。子育ては終わった、ローンは払った、リニューアルはした、後は老後が不安である。


本当は、退職後1年半に書いたように50歳代でそれらの準備をし、リタイヤしたときは軌道に乗っているのが理想である。ところが、ほとんどのサラリーマンは50歳を過ぎると地位も含めて自分がゴールにたどり着いた姿が分かっているのに、又、個人的には子育ての仕上げ時期でもあり立ち止まろうものならリストラの嵐が待っている。準備する期間もなく、いきなりゴールにたどり着きその日を境にして生活環境が一変するのである。少し考える時間を与えてほしい。それがブラブラする2年間であるかもしれない。

 


 

退職1年半経過(2006.11.10)

 

退職後第2の人生(人によっては第3、第4があるかも知れませんが・・)が1サイクル半経過した。サイクルというのはおかしいかも知れないが1月 、人によっては4月を起算日として1年の思いをはせる。毎年違う人生を歩むこともあるだろうが大抵の人は同じような生活の繰り返しだと思う。環境が激変しない限り。

 

今後の人生が何年残されているかは定かでないけれど、うまくいって手足が思うがままにとは言わないけれどそこそこに動き、歳相応のボケ程度の限界は欲張って80歳と仮定しよう。するとまだ生まれてから成人するまでに近い歳月がある。退職人にとっては若輩者である。しかし、いつまでも退職人でもあるまい。退職後1−2年もすれば退職人卒業である。40年の会社人の感慨にふけるとか、あの時あの場面を思い出すとか、はたまた日経新聞を読みあさるとか・・そんなことではいつまでも退職後の人生になってしまう。

@生まれてから社会に出るまでの期間(≒20年)

A社会に出て何らかの生産活動に従事し生計を支える期間(≒40年)

B生産活動では生計を支えられずそれらが従になるか、なくなる期間(年金生活)(≒20年)

C何らかの生産活動にも従事できず、家族の重荷になる期間(年金生活)(≒?年)

と、すれば今B段階の初期といえる。生計は年金と退職金でささやかに支えるとして、たとえ持ち出しの方が多くとも自給の炭水化物の一部は生産している。年金でベースを確保している限り生産活動は生きるための精神的肉体的手段であって目的でない。

その、年金が社会福祉庁のずさんなシステムにより危うくなってきた。全く腹立たしいが自分だけでなくみんなで渡るので何とかなるだろうと楽観的に考えよう。Bを何とか伸ばしてCは少なく、できればポックリ型で 逝きたいが・・。

すると、これから先の生き方が重要である。毎日散歩やジムに通って体力をつけてゴールを目指すのか(身体をいたわる 年代に酷使してどうする とも思う)、はたまた趣味三昧で生き延びるのか・・・・ (いくら好きだからといって毎日では飽きるとも思う)。人は目的を持って毎日を過ごせとかいうけれど、目標達成、成果主義はもうゴメン。すると、人は何のために生きているのだろう・・と、凡夫であっても哲学者になったりする。

 

「受け難き人身を受け・・」という仏教の言葉があります。この意味はネットで検索してください。又、自分がこの世に生まれるためには父・母が必要です。その父・母にもそれぞれ父・母がいます。それを10代さかのぼれば、30代さかのぼれば・・何人になるでしょう。これもネットで調べてみては・・キット びっくりすると思いますよ。検索語は「両親から生まれる確率」でもよいでしょう。

 

こんな難しいことを考えているとノイローゼになったりする。そんなことより人に迷惑をかけずにその日が過ごせたら・・ところが人は他人や自然界に迷惑をかけなければ生きていけない動物 ときている。息をしているだけで迷惑をかけている。死んでしまっても何回忌とやらで迷惑をかけている。ならば少しでも人の役に立ちチャラにしたいところである。人の役に立つとは現役世代が言うことであって人に優しく、人に不快感を与えない程度でよいだろう。

 

最近特に散歩の人が多くなった。あっちからもこっちからもひとりで、夫婦で1日に同じ顔を数度見かけたりもする。ただ歩くために歩いている人、にこやかに挨拶する人、一言二言世間話をする人、何が気に入らんのか怖い顔して歩いている人、仲間だけでしゃべりながら歩いている人 (オバサンに限る)。人それぞれであるが・・。

人の心まではわからないが、やはり挨拶するとか、少し話をするとかの人に出会ったときは心が和み、仲間同士でしゃべりながら歩いている人の場合、なんやあの人と、気がたったりする。観察していて興味があるのは、怖い顔して歩いている人である。風采や思い込みでしゃべってはいけないけれど、こういう人はキット会社でも偉い人だったんだろうと思う。仕事人間で会社のためには寝食を忘れるぐらい働いた人だろうと推察してる。小泉さんがチルドレンに言っているが、会社に使い捨てにされたのかもしれない。いや、そんなことないかな退職金をガッポリもらっていたりして・・。要は自分の生きがいをなくしたのだろう。立ち直りには数年かかるだろう。

 

これから団塊の諸君が続々現役を引退する。その人たちに言いたい。少なくとも退職前1年間は適度にサボって会社人間から離れる準備をしたほうがいい。厄介者になろう。会社はもう直ぐ退職する人間に期待もしていないし重要な仕事も与え ない。その証拠に役職も数年前に解かれただろう、昇給も止まったかもしれない。自分の食い扶持は自分で稼げとも言うけれど、その分は今までに充分してきたはずである。退職後20年は自分で生きていかなければならない。もう同僚とも毎日顔を合わすわけでなく、1杯やりながら愚痴ることも出来ない。離れていくのが人の世である。家で愚痴っていたら熟年離婚間違いなしである。

心晴ればれと暮らし病にならないことが健康保険の上昇も防ぎ大いに世間に役立っていることになる。その準備を明日からしよう。

 

 


 

 

退職1年経過(2006.3.15)」

 

「量的緩和解除」なんて、経済知識のないものには全く分かりません。いろいろ調べてもまだ理解できないのです。分かっているのはなぜか今回年金が減っているのです。世間では景気がよくなってきた、ミニバブルだ、某自動車はベア満額回答、電化製品などは高額なものから売れてゆく・・・

 

これらの事象は現役 の人のみが享受できるものであって、当然といえばそれまでですが、退職者(リストラ・失業者含む)にとっては全く他人事で恩恵を受けることはありません。世の中景気がよくなれば、年金額も増えるのでしょうが、「風吹けば桶屋が儲かる」的で実現には乏しいようです。

『風吹けば→ほこりが舞い目にゴミが入る→失明にいたる→仕事としては門付けしかない→門付け(三味線を流して歩いてものを乞う)が増える→三味線の材料のネコが減る→と、ネズミが増える→桶をかじり、桶屋が儲かる・・という仕組み』

 

退職後、最初に感じることは誰にも束縛されず自由、開放感です。これは何事にも勝るすばらしいものです、9ヶ月経過で書きました。

その後に感じるのは生産活動に対する疎外感です。それはサラリーマン生活を懐かしむというのと少し違います。私とて何らかの形で生産はしています。米を作ったり野菜を作ったり、はたまた山へ行って木を切ったりと・・しかしそれは自産自消であって、 世の中の人々と一緒に歩いていない。

上手く表現できませんが、世の中って2つのグループで動いているのではないか・・1つは泣いたり笑ったり怒ったりしながら経済活動をし日本を回している人々。もう1つのグループは、私のように3面記事には口をはさめても、何か世の中から置いてきぼりを食ったように感じる人々。

これはおそらく私自身が組織に属し、組織とともに歩いてきたために感じることだとは思いますが・・、でも、組織に属さなくっても自営業でやってきた人が息子に譲って隠居したときにも感じる一抹のさびしさにも通じるものではないでしょうか。

 

私の場合、幸いにも夫婦健康でありさえすれば365日寝て暮らすことも、はたまた365日、野に出て仕事をする選択も自由で恵まれているとも思います。今後、退職後1年たどってきた道を大きくそれることなしに毎年繰り返していくと思われます。神様か仏様が与えてくれた人生の75%(少し欲張りですが)を通過中です。リセットまでは25%も残されています。

今年1年でどのように考え方、思いが変わるか分かりませんが、開放感の後に来るのが疎外感でした。


 

2006.1.5   退職後9ヶ月


あれもしたいこれもしたいと身体は衰えていくのも気がつかず気ばかりが先行した9ヶ月であったけれど、1日として今日は何をしようと考えることなくその日のすることがあったことはしんどいけれど充実した日々でもあった。
春から夏にかけては「米作り」が主体で、播種から育苗−田植え−草刈-・出穂-すずめに始まりイノシシ・シカとの戦い-収穫へと毎日田んぼと暮らしていた気がする。晩夏から初冬にかけては野菜の播種から収穫へと畑仕事に費やし、冬季はあばら家を埋める落ち葉との戦いに始まりシイタケ原木伐採、周辺の伸び放題の木々の伐採と貧乏暇なしを地でいく生活である。

今年は雨が少なかったので「晴耕」はできたが「雨読」はなかなか進まなかった。
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退職後、大きく変わったことは先ず胃の調子がすこぶる良くなった事と三面記事に詳しくなったことである。何せ、大事件が発生すればいつでも、いつまでもTVが見れる特権が与えられる。必然的にテレビタレントにも詳しくなる(顔を見ればわかるが名前は覚えられない)。ただし、生活は慎ましやかにひっそりと暮らさなければならないが・・・・・・
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それから、会社人間からの脱皮は物事の本質がよく見えるようになったことである。サラリーマン時代は世の中の事象を自分の会社というフィルターを通して見ていた。世の中の変化も自分の会社が、業界がどう影響を受けるかに関心があり、世の中の一員として確実に参加しているという実感があった。よりその実感を確かめるため他社との競争、それらをより効率的に実施するためのより権限の発揮できる上位職への欲望・・。実感とは何か、いかに多くの利潤を自分たちの企業が獲得するかである。毎月に決まった報酬が約束されているということはそういうことであると思う。
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ところが、その報酬がなくなり年金という糧に変わってくると、経営理念とか方針というタガがはずれ支配するものは誰もいない(本当は一人だけいる)社会での一定のルール、暗黙の了解さえ守れば何をしようが自分の責任と権限である。これほどの開放感はない。退職後こそが個人として思う存分生きることができる。・・・と言うと何かサラリーマン時代が非常に苦難だったと思われようがそれはそれで生きがいがあり結構言いたいこと、やりたいことをやっており苦痛と思ったことは余り記憶がない。幸運だったのは小学校4-5年生の時にやりたいと思ったことを退職まで40数年間もやり続けられたことである。
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誰でも成人するまでには自分のやりたいことの幾つかの「種」に何度か遭遇しているはずである。何かのきっかけでそれが心に残りそれが思い続けられるかにかかっている。又、それを学校の先生とか親とかがその種を植えるのを手伝ってやる。ただそれだけのことではないだろうか。多くの人はその種が育つのを手伝って しまう間違いを起こす。行きたくない塾に行かす、子供が自分の才能に違和感をもったときも親のエゴで初志貫徹を要求する。子供が幾つかの種を植えて育てているうちに本当にやりたいことを 時間がかかっても自分で見つけ出せる。レベルは違うかもしれないが宇宙飛行士の毛利さんも野口さんも子供のころからの夢を実現した。
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話は元に戻って、退職したとき多くの人生の先輩からとにかく1年目は生活環境・リズムが変わるので絶対ムリをするなという忠告があった。これを自ら証明する事故に遭遇した。例えば、真夏でも空調が効いた室内にいたものが炎天下で過ごすことになったら・・1年目は身体をならすことにあった。が、土壇場にきて失敗した。前文のごとく今年やってみたいことはほとんどやった。あと1つ「門松を作ろう」というときになって竹の伐採中に手の甲を打撲骨折してしまった。痛い。事故、怪我は完全に防ぐことはできないと思っている。在職中も仕事柄多くの事故例を見てきた。どれもが不注意でそのたびに是正処置をし本人は痛い目にあった上にそこいらから怒られ実に割に合わないことであるが、いくら是正処置をしても同様の事故を起こす可能性は少なくなっても誰にでもある。要はそのことを覚悟してから作業にかかることが肝要である。今回も3つの不適切な作業が重なった。事前に予測はできていた。普段であればそのうち2つ程度は対策を実施してから作業にかかっていたが、年末という気ぜわしい時期と時間で手を抜いた結果であった。「明日できることは今日やらない」主義でいく筈の何も急ぐ必要がない年金族が自分の立場を忘れていたのが真の原因であった。
そんなこんなで今年は「門松作りは」取りやめざるを得なかった(未練がましいこのことがまだ立場を理解できていないかも)。
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左手でキーボードを打つのは疲れる。と、言うことで来年がんばろう(いやいや、頑張ってはいけない無理をするから)
本年はご愛読ありがとうございました。2006年度もよろしく。