おじさんバックパッカーの一人旅   

タイ民族揺籃の地 西双版納を目指す陸路の旅 (3)

北ラオを抜け、中国国境を越えて憧れの西双版納へ

2005年1月26日

 〜1月30日


 
   第25章  ムアン・シンの街

 荷物を部屋に置くと、すぐに街に出た。何はともあれキープを持たなければならない。ようやくバーツ圏を抜けたようだ。農業振興銀行との看板を見つけ、ともかく店に入った。机が2〜3並んでいる事務所のようなところだ。両替可能だというので、20US$を渡す。ところが、しばらく、裏返したり、透かしたり、触ったりした揚げ句、「この札は両替は出来ない。市場に行って両替しろ」と言いだす。何やら狐につままれたようだ。偽札であるわけがないのだが。仕方がないので市場に行く。すなわち闇両替である。両替屋はすぐに見つかった。店先に紙幣が積み上げられている。何も言わずに20US$を21万キープに替えてくれたのだが、渡された紙幣は2,000キープ札210枚、10センチ近い札束である。何やら大金持ちになったようでもあるが、納める場所もない。

 宿に帰り、待望のホットシャワーを浴び、洗濯をした後、Tさんを誘って街に出る。着いたときは大都会に思えたのだが、改めて見渡してみると、200メートルほどの薄い街並みが続くだけの小さな街である。ただし、Tさんは「ここは黒豚が歩いていないから都会よ」と言っている。確かに、犬と鶏は歩き回っているが豚はいない。街には白人のバックパッカーが目立ち、ゲストハウスも至る所にある。街並みの中ほどに大きな平屋建ての市場があり、中には小さな店がぎっしり詰まっている。裏手ではアカ族がお土産物を売っていた。かつて、この市場は世界最大の阿片マーケットであったという。また、数年前までは、この街に来れば、容易に阿片が入手できたともいう。今はその面影はないがーーー。

 ムアン・シンはラオ最北端の街である。北へ10キロも行けば、もう中国との国境である。歴史的に見れば、ルアンプラバンやビエンチャンを中心とするラオよりも、西双版納の勢力圏に含まれていたと言える。事実、19世紀末には、この街は独立王国であり、宮殿を中心に城壁で囲まれていたらしい。メインストリートから一歩北側に踏み込んでみると、道が、といっても今や畦道のような道ではあるが、きれいに碁盤の目になっている。これは昔の王都の名残だそうである。今現在においても、この街の電力は中国から供給を受けている。

 現在のムアン・シンは少数民族の宝庫として、旅行者の人気を集めている。しかし、周辺の少数民族の村も、押し寄せる旅行者に汚染され、最近は昔の素朴さを失ったと言われている。
 
 ラオに来たからには、代表的なラオ料理である「ラープ」を食べたい。ファイ・サーイの食堂にはなかったし、シェーンコックではそれどころではなかった。ゲストハウスで、「ラープとカオニャオを食べられる食堂はないか」と聞くと、すぐ前の食堂で可能だとの返事。Tさんを誘って勇んで出かける。この街は、旅行者が多いせいか、街の規模の割にはこぎれいな食堂が多い。ラープとカオニャオ、それにビア・ラオを注文し、なおもメニューを見つめていたTさんが「Vegeable Soup with Tofu」という料理に気がついた。「Tofuとは豆腐のことかしら、試しに頼んでみましょう」。出てきたスープはまさに豆腐そのものであった。ラオ北端の地で豆腐が食えるとはーーー。うれしくなった。考えてみれば、この北ラオも照葉樹林文化の地、豆腐があって当然である。

 トイレから戻ると、Tさんが隣のテーブルの若者と話をしている。「この人も日本人ですって」。「こんな小さな街で日本人が3人そろうとは奇遇だ。遠慮せずにこっちのテーブルにいらっしゃい」と私。「いやぁ、前から気がついていたんですが、ご夫婦かと思って。声を掛けるのを遠慮していたんです」と彼。「アカの他人よ。こんなに歳が違うのだから分かるでしよう」と彼女。「いえ、最近は歳の離れた夫婦も多いのでーー」と彼。私はただニヤニヤ。彼の話を聞いて驚いた。何と! 自転車でバンコクからやって来たという。「タイの道はよかったのですが、ラオの道は悪くて。1日60キロ進むのがやっとです」とケロリと言っている。シェーンコックにも行き、私たちが逃げ出したあのお化け屋敷のゲストハウスに泊まったという。「着いたのが遅かったので、選択の余地が無かったもんでーーー」。日本の若者にもすごいやつがいる。Tさんがこんなことを言った。「世界中どこへ行っても、欧米人のバックパッカーは8割方がアベック。しかし、日本人のバックパッカーは8割方単独行。ただし、スーツケースを持った日本人は8割方がアベック」。なるほど、言われてみればその通り、この街にも欧米人のアベックが溢れている。我々3人は皆単独行である。

 宿への帰り道、Tさんから提案があった。「もう1日この街に留まりましょう。ラオに入国以来、まったく休まずにここまでやって来てしまったし。1日ぐらいゆっくりしないと」。私も同感である。どうやら、西双版納まで行ける目処もついた。予備日もまだ使っていない。明日は、朝早く起きて朝市を見学し、その後、郊外をサイクリングすることを約して別れた。
 

  第26章  黄金の仏塔

 夜明け前の6時、Tさんと連れだって宿を出る。朝市は街から北へ1キロほど離れた場所で開かれる。「地球の歩き方」には、街の中心部にある市場で開かれるようなことが書かれているが、これは間違いである。外はまだ真っ暗で、月明かりだけが足下を照らす。寒さも厳しい。ただし、街はもう目覚めている。小型トラックやバイクに引かれたリアカーなどが荷物を満載して、続々と朝市の方向に向っていく。辿り着いた朝市は、まだ多くの店が準備中であった。来るのがちょっと早すぎたようだ。見守るうちに、続々と荷物が運び込まれ、小さな店が開かれていく。アカ族やヤオ族の姿も見られる。貧しい彼らはトラックなど持っていはずがない。あの山上の集落からどれほどの時間をかけて、ここへ辿り着いたのだろう。待つほどに、夜明けが近づく。しだいに、買い物カゴを提げた買手の姿が増す。いつしか、市場は雑踏と化していった。

 9時、レンタサイクル屋でママチャリを借りて出発する。街中心部の市場には、朝市を終えたアカ族のおばちゃんが続々と集まってくる。どうやら、朝市で野菜などの生産物を売り、その売り上げで日用品を買って帰るのだろう。
 まずは、"地球の歩き方"に「自転車でのお勧めはルアンナムター方向へ30分行ったところにある黄金の仏塔。テンタット村の先1キロを右側の未舗装道に入るとすぐ左側にある495段の階段を上る」と紹介されている仏塔に行ってみることにする。

 街を南北に貫くメインストリートを南に向う。街を出たところで、シェーンコックへ向う地道を右に分け、左にカーブしながらルアン・ナムターへの道を進む。ラオは、日本やタイと逆に、車は右側通行なので、どうも感じがつかめない。ただし、通る車もほとんどなく、ときおり、リアカーを引いた耕耘機と出会うだけである。日差しは暖かく、受ける微風が心地よい。道は確り舗装されており、ルンルン気分でペタルを踏む。右手にタイ・ダム(Tai Dam)族の集落が現れる。黒タイとも呼ばれるタイ族系の民族だが、女性が大きな髷を結うのが特色である。

 30分もペタルを踏むと、案内にあるテンタット村に入る。前方に小山が見える。おそらく、目指す黄金の仏塔はあの山頂あたりにあるのだろう。テンタット村を抜け、隣の村に入るとすぐに、山の麓についた。小山が道路の右側に聳え、広い地道が2本、右に別れている。ただし、案内にあるような山頂に向う階段は見当たらない。何の標示もなく、また仏塔も見えない。通りかかった二人の若い女性に尋ねてみたのだが、英語がまったく通じない。「ワット(寺)、ワット」と言ったら、これかとばかりに胸の前に手を合わせ参拝する仕草をする。「ダイ(Yes)、ダイ」である。「山腹を捲きながら登っていく道を進めばよい」という。言葉は通じなくても、人間どうし、何とか意思は通じる。

 状況は理解した。おそらく、山腹を捲く自動車道が新しくでき、案内にある階段の道は草むらの中に眠っているのだろう。Tさんを待たせて、偵察に行ってみると、山頂に向う草深い踏跡を見つけた。これに違いない。踏み込んだ踏跡は意外にしっかりしており、昔ずいぶん歩かれた様子が読み取れる。今や石が散らばっているだけだが、昔は石段であったことも分かる。このまったく崩れ去った石段を495段と数えられた時代は10年以上昔だろう。案内書はずいぶん昔の状況を記している。「地球の歩き方」もとんだ恥を晒したものである。上部に行くに従い傾斜は増すが、石段の保存状況はよくなる。20分も頑張ると、山頂に達した。広々とした芝生の広場の真ん中に、黄金の仏塔がすっくと建っていた。何の標示もなく、また、人がちょくちょく訪れる様子もない。「なぁんだ、これだけのことか。」と言う感じである。ただし、木々の間から眺める下界の景色は素晴らしい。青々とした稲田が大きく広がり、その中に点々と集落がみえる。ムアン・シンの街並みがはるか彼方に霞み、視界の周囲を山々が取り囲んでいる。北方に見える低い山並みは、中国との国境であろう。実に平和な、そして豊かな北ラオの風景である。
 

  第27章  中国国境

 ムアン・シンの街に戻り、今度はメインストリートを北に向う。この道を10キロほど進めば中国との国境にたっするはずである。付近には少数民族の村々があるという。通る車とてない田園の中の道を行く。陽が高く昇り、強烈な直射日光を浴びせ始めた。かなりのスタミナを要しそうである。前方に国境となる低い山並みが見える。その最低鞍部がおそらく、Borderであろう。だいぶ距離がありそうである。いくつかの小さな集落を過ぎる。幸い、しっかりした舗装がなされ、おまけに1キロごとに距離標示がある。緩やかではあるが、道は登りとなっているようで、ペタルは次第に重さを増す。Tさんがいつネを上げるか心配になる。そろそろ尻も痛くなってきた。道は強い日差しを浴びてきらきらと光りながら、視界の彼方まで通じている。その中をアカ族の男女がテクテクと歩いて行く。近づくと、乗せていってくれという。とはいわれても、もはや人を乗せるほどの余力はない。それにこの自転車には荷台もない。

 8キロほど進むと、地道が右に別れるれ、Adima G.Hの標示がある。案内書に載っている有名なゲストハウスである。少数民族の村はこの地道の奥にあるはずである。しかし、ここまで来たからには、どうしてもBorderまで行ってみたい。もう2〜3キロのはずである。ただし、道はここから傾斜を急激に増して国境の峠へと登っている。Tさんに「どうする」と聞けば、おそらく「Borderはあきらめましよう」と言うだろう。先手を打って、「よぉし、Borderまで行くぞ! 」と大きな独り言を言って、後も見ずにペタルを踏みだした。Tさんも何とかついてくる。傾斜はますます増す。ついに腰を浮かして漕がなければならなくなった。後ろを振り返ると、Tさんは自転車を降りて、押しながら登ってくる。あと1キロ、私も限界だ。自転車を放り出して道端に座り込む。

 気を取り直し、二人して自転車を押しながら坂道を上る。もはや人影もなく、通る車とてない。カーブを曲がると、ついに峠に達した。そしてそこがBorderであった。3軒ほどの茶店と、イミグレーションの小さな建物があり、その先で遮断機が道を塞いでいる。「来たぞー! 」と、思わず大声をあげる。Tさんもうれしそうだ。警備員もおらず、これから国境を越えるらしい何人かの少数民族の人々が、イミグレーション前にいるだけである。このラオのムアン・シンと中国の岔河を結ぶ国境は、外国人には開かれていない。越えられるのは、ラオと中国の人たちだけである。もし越境が可能ならば、このまま西双版納に入ることができるのだがーーー。2人して、国境を1メートルぐらい密出国して記念写真を撮りあう。サトウキビを満載した中国のトラックが、ときおり中国側へと国境を越えていく。
 

  第28章 少数民族の村

 茶店で一息入れたのち、道を戻る。帰りは楽である。ペタルをまったく踏む必要がない。あっという間にAdima G.H. 分岐に到着した。踏み込んだ地道はとてもママチャリで進めるような道ではなかった。すぐに川に出会うが、橋はなく、水流を強引に突破する。Adima G.H. を左手に見る。いくつかのコテージが並んでいる。少数民族の村巡りのトレッキング基地となるG.H.である。

 自転車を押しながら急坂を登りきると、アカ族の村に達した。村の入り口には鳥居に似た伝統的な門(Gate)が建てられている。悪霊の集落への侵入を防ぐ意味があるようだ。門には鉄砲の形をした木型が幾つかぶら下がり、また、「門を触らないように」との英文の警告が掲示されている。

 山の斜面に30戸程の高床式の粗末な家々が建ち並んでいる。集落内は人影が薄かった。しかし、家の中からは敵意に満ちた眼差しが我々に向けられている。見かけた人影に「サバイディ」と挨拶をしてみたが、返事はなかった。男が我々に犬をけしかけようとしている。女が現れ、粗末な土産品を売ろうとする。断ると、睨みつけたまま去った。2〜3人の子供が近寄ってきて、「マネー」と手を出す。断ると、もはや我々を無視した。満ち溢れる敵意の中で戸惑った。仕方なく、ポケットの中から数個の飴玉をだし、子供たちに配った。あっという間に子供たちが群がってきて、次々に手を出す。と同時に、家々から幼児を抱えた女まですっ飛んできた。いやな光景だ。飴玉が無くなると、潮が引くように人々は去った。もとの、敵意溢れる静寂があたりを包む。早々に去ることにした。

 谷一つ隔てた山の斜面に集落が見える。行ってみようと、細い山道を自転車を押し、時には担いで、何とか村に到着した。ヤオ族の村であった。女性のターバンのような黒い帽子が特徴である。ヤオ族の家は高床式ではない。しかし、その粗末さにおいてはアカ族の家と変わらない。大きな集落であった。山の斜面一杯に数百戸の家々が建ち並んでいる。村のメイン道路を進んでみる。しかし、この村でも、我々は歓迎されるべき存在でないことはすぐに理解できた。人々の我々に向けられる眼差しにそれは現れていた。挨拶をしても、こちらに顔は向けず、小声の答えが返ってくるだけである。すれ違う子供は、恐怖の目を向けながら遠く我々を避けて通る。この集落には、電気が通じている。雑貨屋もある。学校もあった。「シェーンコックより大きいですね」とTさんが言う。大きさは確かにその通りだが、貧しさにおいては、やはりラオ族の集落であるシェーンコックとは比べられない。

 村の入り口まで戻ると、2人の白人観光客が数人の笑顔の女たちに取り巻かれ、女たちの持つ粗末な土産品を買っている。我々も集落に入ってすぐに声を掛けられたが、断った。「そういうことか」。私は何やら嬉しくなってきた。彼らにとって、自分たちの縄張りに勝手に入り込んでくる観光客は喜ばしい存在ではない。自分たちの生活と伝統を乱す邪魔者である。当たり前のことである。ただし、土産物を買ってくれて、金を落として行くこと1点においてのみは歓迎すべき存在なのである。

 しかしながら、彼らが、よそ者(特に外人観光客)を嫌うのは、自分たちの伝統ある生活を守ろうとする強い意思をいまだ持ち続けている証拠である。観光商業主義に汚染されきってしまった場合は、観光客を積極的に受け入れるようになる。チェンマイ郊外のモン族の村がそうであった。いまだ、ラオの少数民族は自らを観光対象にするほどには成り下がっていないのだ。シェーンコック近くのアカ族の村は、この段階以前であった。いずれもたらすであろう、観光客の危険性についての認識がいまだされていなかった。それだけ純粋であったと言えよう。

 山を下る。私は朝から何も食べていない。Tさんも、とうに体力の限界を超えたと見えて口数がめっきり少なくなった。降り注ぐ強烈な日差しを浴びながらムアン・シンに戻る。

 夕食にビア・ラオを飲みながら、私はTさんに告げた。「明日の朝、1番のバスでルアン・ナムターへ向います」と。別れを告げる言葉である。Tさんも明日ルアン・ナムターへ向う。従って、その気になれば、もう一日行動を共にすることは可能であった。できることなら、私もそうしたかった。1人でいるより、2人でいるほうが何倍楽しいか分からない。しかも、日本語の通じる相手と。1人で旅をすることは孤独である。1人で食べる飯はうまくない。それでも旅人は1人を選ぶのだ。「日本人のバックパッカーは皆1人だ」とTさんも昨晩語っていた。「そうですか、私も昼前にはルアンナムターへ向います。向こうでまた会えるといいですね」。私の意思を察知して、Tさんが応じた。

  第29章  ルアン・ナムター(Luang Namtha)へ

 朝7時過ぎ、ザックを背負い、1人宿を出る。朝は本当に寒い。気温はおそらく5℃前後まで下がっているのだろう。今日からはまた1人だ。寒さがいっそう身にしみる。午前中のルアン・ナムター行きのバスは街から1キロほど離れた朝市の隣の広場から出る。1番のバスは8時発。昨夜、宿の親父に確認した。ルアン・ナムターは、ここムアン・シンから南東60キロほどの街である。バンコクを出発して以来、ひたすら北上を続けてきた。しかし今日は南に下がる。ボーテン(Boten)で中国国境を越えるためにはルアン・ナムターを経由せざるを得ないのである。

 広場には数台の車が止まっていた。既に1台のマイクロバスには乗客も乗り込んでいる。私の乗るべきバスだろう。トラックバスかと思っていたが、マイクロバスとはありがたい。寒さが全然違うはずだ。15,000キープ(約150円)で切符を買い、バスを確認して乗り込む。ザックは屋根に積み込まれた。15〜16人乗りだが座席は既に一杯、最後尾の最後の1席にようやく座った。さらに、補助椅子が3個ばかり持ち込まれ、乗員はそこまで。あぶれた人は次のバス、とはいっても2〜3時間後だろうが。定刻8時にバスは出発した。ルアン・ナムターまで約2時間の行程である。マイクロバスながら、車掌が乗りあわせている。外国人は私だけである。

 途中の黄金の仏塔までは、昨日、通った道である。集落ごとに乗客が待っている。車掌が乗れない旨告げるのだが、そう簡単には引き下がらない。この寒空の中を待っていたのだから。強引に乗ってくる。あっという間にバス内は折り重なるような状況になった。それでも皆、いやな顔もせずに耐えている。幸い、最後尾席の私は、この圧迫をまともに受けずにすんでいる。

 黄金の仏塔を過ぎると山道となった。超満員のバスはタイヤを軋ませながらヘアピンカーブを繰り返す。舗装道路であることが救いである。乗客の待つ集落を幾つか過ぎるが、もうどう頑張っても乗れない。こんな車内を車掌が切符販売と確認のために移動する。裸足になって座席の上、時には人の膝上を踏みつけながら。何と熱心なことか。どこまで行っても山の中である。ときおり小さな少数民族の集落が現れるだけ、景色はまったく変わらない。

 道は下りに転じた。そろそろルアン・ナムターかなと思うと、バスは再び山中に入っていく。やがて大きな川に沿うようになった。ター川だろう。今度こそ、ルアン・ナムターは近そうである。バスは山間を離れ、ようやく街並みに入った。道は広々とし、碁盤の目のようになっているが、街並みはずいぶん薄い。街の中心はどこだろうと思っているうちに、バスは大きな広場となったバスターミナルに到着した。ここが終点ルアン・ナムターだという。時刻は10時である。

 
  第30章  ルアン・ナムターの街

 今日中に。中国国境を越えるのはちょっと無理だ。したがって、まずは今晩の宿を探さなければならない。「地球の歩き方」記載の小さな市街図を頼りに、方向と現在位置を確認して、そろりそろりと街中に入る。面積だけは大きいが、街並みは薄く、臍となるような中心部がない。まったく捕らえ所のない街である。アカ族のおばちゃんが寄ってきて、粗末な土産物を差し出す。1日中街を歩き回り、一体、いくら売れるのだろう。かわいそうになるが、今は宿を探すのが先である。

 1軒のゲストハウスを訪ねるが、「満室だ」と、つっけんどうに断られた。感じが悪い。「頼まれたってこんなところに泊まってやるか」と反発してみたが、何で断られたのだろう。満室とも思えない。よほど人相が悪かったか。そろそろ無精ヒゲを剃った方がよさそうである。さて、どこへ行ったものか。ゲストハウスの数は多いのだが、街が大きいだけに、あちこちに散らばっていてる。「よぉし、1番立派なところへ行ってやれ」。

 訪ねたゲストハウスは、一瞬入るのを躊躇するほどの豪華な造りであった。まるで大豪邸のような本館と大きな池に面したコテージがある。ホットシャワーが常時使えるという本館に部屋を取る。料金は70,000キープ(700円)、他のゲストハウスの倍の値段である。所が、シャワーからお湯が出ない。1人留守番をしている女の子に苦情を言うと、「水道の水圧が低いためで、4時頃になれば使えるようになる」との答え。確かに水道の栓をひねっても水はちょろちょろしか出ない。この街は、電力が夕方からしか供給されないらしい。

 納得して、街に飛びだす、まず、バスターミナルへ行って、明日のボーテン(Botem)行きバスの出発時刻を確認する。南側が大きな食料市場になっていた。ありとあらゆる生鮮食料品が並んでいる。豆腐や味噌もある。米も10種類は並んでいる。ぶらぶら歩いていたら、屋台のおばさんが食べていけという。うどん一杯2,000キープ(20円)、何とも安い。北ラオへ入って以来、一つのことに気がついた。食事に箸が使われているのである。東南アジアでは普通、スプーンとフォークである。中国の影響なのだろうか。

 なおも街をぶらつく。大きいだけで、街並みに盛り上がりがまったくない。何ともつまらない街だ。この街はルアン・ナムター県の県都であり、中国貿易の中心となる都市である。また、ひと昔前までは、阿片取引の中心都市でもあった。それなりのにぎわいを期待したのだが。

 街の中心部に、破れ塀に囲まれ、荒れた大きな広場がある。立ち入る人もなく、廃虚の匂いが濃い。この広場の真ん中に、カイソーン元大統領の銅像が辺りを睥睨するがごとくに建っている。彼は、ラオス人民革命党の最高指導者としてラオの社会主義革命を指導した「英雄」である。おそらく、このは広場は、「革命広場」として、この街における社会主義革命の象徴であったのだろう。それが、現在、見事なまでにうち捨てられている。さらに、この広場の一角に、ルアン・ナムター博物館がある。行ってみると、入り口ドアは閉ざされ、受付も無人である。建物にも何か精気がなく、休館というより廃館と思われる。立ち去ろうとすると、女性がどこからか飛びだしてきて、「開館している」という。入場料5,000キープ払うと、鍵を開けてくれた。中は、数日間人が訪れた気配はない。内戦時代の展示が目立つ。おそらく、革命博物館であったのだろう。もはや、ラオに社会主義の匂いはない。

 不思議なことに、この街をいくら歩き回っても、仏教寺院がない。中国寺院はあったのだが。ここに来るまでは、ラオ族の集落であるかぎり、必ず仏教寺院があった。あとで知るのだが、この街の仏教徒(従ってラオ族)はわずか20%だという。まさにここは数10の少数民族が集まり暮す街なのである。まだ時間があるので、7キロほど南にある旧市街に行ってみようかと思い、貸し自転車屋に行く。所が、1日分の料金を取るという。冗談じゃない、もう午後も2時過ぎだ。交渉は決裂した。ルアン・ナムターは新旧二つの街を持っている。旧市街は今では寂れ何もないとのことだが、昔の雰囲気ぐらいは残っているかもしれないと思ったのだが。

 さらに、何もない街を歩き回り、4時過ぎにゲストハウスに戻る。ところがお湯が出ない。かっとなって、女の子を呼びつけ詰問する。「6時までに何とかしろ。でなければ部屋を替えろ」と捨てぜりふを残して、再び街に出る。インターネットカフェを1軒だけ見つけたのだが、店外まで長い行列ができている。夕食を済ませ、再びゲストハウスに帰るが、やはりお湯が出ない。怒りが爆発した。「部屋を替えろ」というと、「満室だ」という(その様子はないが)。「あなたが常時ホットシャワーOKというから、ここに泊まったのだ。ならば部屋代を値引け」とまで言ったが、女の子はオロオロするばかり。「バケツでお湯を届けるから勘弁してくれ」と、泣きそうに訴える。「I am very unhappy. This Gest House is ボー、ボー、ボー」と、いささか感情的な言葉まで吐いてしまった。「ボー」とはラオ語で否定形を現す言葉で、タイ語の「マイ」に相当する。女の子が重そうにお湯の入ったバケツを2階の私の部屋に届けてくれた。少々かわいそうになる。

 所が、翌朝になると、お湯がジャージャー出るではないか。ためしに、水道の栓をひねると、昨晩とはうって変わり、勢いよく水が出る。原因がはっきり分かった。やはり水圧がなく、設置されている瞬間湯沸器が作動しなかったのだ。根本原因はこの街のライフラインの貧弱さにあった。そうとも知らず、女の子を怒鳴りつけたことが恥ずかしくなった。

 
  第31章  国境の街・ボーテン(Boten)へ

 いよいよ今日は国境を越え、中国に入る。目指す西双版納の地だ。国境の町・ボーテン行きバスの出発時刻は8時。昨日バスターミナルで調べてある。7時過ぎ、ザックを背負い宿を出る。出かけに女の子に「サバイディ」と挨拶したのだが、小さな声の返事が返ってきただけだった。昨日のいきさつがまだ尾を引いているようだ。私の心も晴れない。

 バスターミナルへ行くと、大小さまざまなバスやトラックが停まっている。そして、ザックを担いだバックパッカーたち、大きな荷物を抱えたいろいろな民族の人たち。この街は、北ラオの交通の要衝である。中にビエンチャン行きの大型バスがいる。このバスはこれから26時間の超長距離を走る。私の乗るバスは、小型のトラックバスであった。発車5分前に、何と、Tさんが姿を現した。8時30分発のウドムサイ(Oudom Xay)行きに乗るという。昨日1日、どこかで会えるのではないかと密かに期待しながら街を歩き回っていたのだが。よかった。最後に会うことができて。そしてもう会うことはない。私は北へ、彼女は南に向う。互いに相手の住所もE-Mail Addressも知らない。

 小型トラックバスは定員10名、補助椅子を1つ持ち込んで11名の乗客を乗せて出発した。荷物は屋根に積み込まれている。中に、若い白人のアベックがいる。中国国境に向うバックパッカーは、私を含め、わずか3人ということだ。ルアン・ナムターの街には多くのバックパッカーが見られたのだが。市街地を出ると、道はガタガタの地道に変わった。激しい揺れが襲う。そして同時に、猛烈な寒さが襲い掛かってきた。荷台に吹き込む寒風は想像を絶していた。皆、上着のフードを深く降ろし、手首を袖口の中に引っ込め、身体を堅く丸め、ただただ寒風に耐えている。誰も口をきかない。私も身体を丸くし、目をつむり、「2時間の我慢だ」と呪文のごとく自分を励ましながら寒風に耐える。その上、すれ違う車はからは、猛烈な砂ぼこりを浴びせられる。車は、客席の悲惨さを無視するがごとく、ガタガタ道を猛烈なスピードでつっ走る。すべての車を追い抜いていく。ジグザグを切るほどではないが、雑木の茂る山道を、登ったり下ったりしながら突進する。道脇には、時々粗末な集落が現れる。しかし、外の景色を楽しむ余裕などまったくない。

 1時間も走ると、車が突然停止した。道路工事中でしばらく交通止めだという。「助かったぁ」。だれしも同じ思いである。これでひと息入れることができる。このルアン・ナムターから中国に通じる道路は、現在あちこちで大規模な工事が行われている。道幅を広げ、近道を新たに開削し。おそらく、1〜2年後には立派な舗装道路が完成するのだろう。

 30分ほどの停車で、再び車は動きだした。陽が昇り、寒さは幾分薄らいできたようだ。道は下りに転じる。T字路となったNa Teuyの小集落で小休止となった。ここが道路工事の基地となっていて、重機が集まり、作業者の飯場が建ち並んでいる。乗客が一部入れ替わり、1名増えた。このため、白人アベックの男性が座る席がなくなり、後部のアオリに危なっかしく腰掛けざるを得なくなった。そんなことはお構いなく、車は、はっきり下りとなった道を砂塵を巻き上げながらもうスピードで突っ走る。
 

  第32章  国境を越えて、中国・西双版納(シーサンバンナ)の地へ

 10時半、道路脇で車は停まった。ここが終点だという。道脇には数軒の食堂やら土産物屋が並び、人々でにぎわっている。道路の少し先は遮断機でとうせんぼされている。ここがボーテンの国境のようだ。ついにやって来た。車を降りると、高く昇った太陽が、南国の強い日差しを浴びせかける。朝方のあれほどの寒さがうそのようである。あわてて、Tシャツ1枚になる。

 さて、いよいよ国境を越えなければならない。緊張が走る。しかし、ここを越えれば、憧れの地・西双版納なのだ。目の前に銀行がある。ここから先は人民元の世界、両替しておく必要がありそうだ。しかし、銀行はCloseしていた。人民元を持たずに中国に入国して大丈夫だろうか。ちょっと心配になる。遮断機横の建物が、ラオのイミグレーションであった。出国カードとパスポートを提出すると、何も言わずに出国印を押してくれた。これで手続き完了。目の前に、中国側の国境・モーハン行きピックアップトラックが控えている。白人のアベックと初めて会話する。彼らは英国人であった。

 2キロ先が、中国側のBorderである。ピックアップトラックはわずか数分で到着した。料金は5,000キープ(約50円)、まだキープが通用した。車を降りると、目の前に五星紅旗がへんぽんと翻っている。あぁ、ついに中国までやって来たのだ。翻る国旗をしばし見つめる。すぐ横のイミグレーションに行く。入国手続きをしなければならない。2003年9月より、日本人は15日以内の入国にはビザが不要となった。大助かりである。入国カードとパスポートを窓口に提出すると、「15日以内の滞在許可であることを承知していますね」と念を押す。「Of Course」と答えると、「Kun Ming(昆明)まで行くのか」と聞く。「いや、Jing Hong(景洪)までだ」と答えるが、「帰路は再びこの国境を通過するつもりか」と、少々しつこい。

 無事手続を済ませ、その先の広場に進む。制服姿の兵士が立っており、足をそろえて最敬礼したうえで、「Passport Please」という。パスポートをチェックしてまた最敬礼した。悪い気持ちはしない。これですべて終了、晴れて中国入国である。それにしても、中国はずいぶん自由の国になったものである。こうして、ビザもなく、辺境の国境から外国人が自由に入国できる。国内も、チベットを除けば、何の規制も受けずに自由に旅行できる。「自由の国」を自負する米国よりもはるかに自由である。ところが、日本は中国に対して、個人旅行者に対する観光ビザの発行をしない。著しい不平等である。よく、中国は黙っているものだ。

 辺りは何軒もの店が並んでいる。ここがモーハンである。少々この国境の様子を探索したかったのだが、ひと息入れる間も与えられず、「こっちだ、こっちだ」とモンラー行きのワゴン車に引き込まれる。と、おばちゃんがやって来て「Exchange, Exchange」という。これは大助かりだ。残っていたキープと手持ちのUS$少々を人民元に替えてもらう。正確には闇両替だが、なかば公認されているようである。ただし、Rateは1元=0.133$、後日、中国銀行で両替したときは1元=0.122$であったから8%ほどRateは悪い。
 

 第33章  中国最初の街・モンラー(孟臘)へ  (注 "孟"は右に旁として"力"が付く)

 10人乗りのワゴン車は、山間の道をどんどん下っていく。さすが中国、道は確り舗装されていて快適である。しかし、すぐにここは中国だと思い知らされた。両隣の中国人が、この狭いワゴン車の中で悠然と煙草を吸いだしたのである。しかもその吸い殻は、床にポン。ちょっと信じられない光景である。窓から眺める景色は実に目に優しい。低い山々が連なり、開けた小さな平地は一面の田んぼ、植えられたばかりの苗が青々と広がっている。山裾には高床式の藁屋根の家々、のんびりした山村風景が続く。現れる道路標識や看板は漢字、ミミズののたくったようなタイやラオの文字を見慣れた目には新鮮である。あぁ、ここは中国なんだーーー。

 しばらくして、不思議なことに気がついた。山々の木々が、すべて葉を茶色に枯らした落葉広葉樹なのである。初めは、北へ上ったので、落葉広葉樹林になったのかと思ったが、山頂部は青々とした照葉樹である。何か変だ。このときは答えが見つからなかった。1時間半ほど走ると、大きな街に入った。モンラーの街だと思うが、こんな大都市なのだろうか。辺境の小さな街を想像していたのだが。

 街の中心部と思われるところでワゴン車は停まった。運転手がよく分からない英語で「チンホンへ行くなら、このまま直行する」というようなことを言って、乗客の意思を確認している。少々慌てる。私は今晩モンラーで泊まるつもりでいる。それに、チンホンとはいったいどこだろう。英国人のアベックに聞いてみると、「ここだ」と、持っていたロンリープラネット(最もポピュラーな英語のバックパッカー用ガイドブック)を見せてくれた。そこには「Jing Hong(景洪)」と漢字まで添えて書かれているではないか。なんだ、ジンホンのことか、しかし、チンホンなる呼び方は聞いたことがない。現在地がモンラーであることを確認して、1人バスを降る。

 さて困った。大都会の真ん中に1人放り出されてしまった。いったいここは、モンラーのどの辺りだろう。それに今晩の宿を探さなければならない。若者なら少しは英語が分かるだろうと、通りかかった何人かに話しかけてみたのだが、まったく通じない。さて、本気で困ったぞ。道端に座り込み、「地球の歩き方」に記載された小さな市街図と周りの景色を比べる。街路標示があり、メインストリートに交差する道を「青年路」と標示している。よし、現在位置が分かった。漢字が読めるので助かる。太陽の位置を見れば方向も分かる。

 地図をにらみながら、そろりそろりとメインストリートを南西に進む。県共産党委員会があり、つづいて農業銀行がある。地図通りだ。位置認識は間違いない。それにしても大きくにぎやかな街だ。しかし、あるはずの融興賓館も南彊賓館もない。小さな川を渡り、しばらく進むと、右側にバスターミナルがあった。地図とまったく場所が違う。地図ではもっとずっと先の左側にあるはずだ。南亜賓館もない。地図に記載されているホテルがすべてないのである。困った。地図によると、この先に、金橋大酒店があるはず、案内図に記載されている最後のホテルである。あったぁ!   道路の左側に「金橋大酒店」の大きな看板が掲げられている。迷わずホテルに飛び込む。外観はなかなか立派なホテルである。それにしても、「地球の歩き方」の不正確さはあきれるばかりである。その後の旅でその感をさらにつよめたが、少なくとも、雲南編は落第である。

 がらんとしたロビー奥のカウンターには娘さんが1人いた。「部屋はあるか」と英語で尋ねると、仏頂面のまま下を向いて顔を上げない。??? 何か変だ。と、英文の書かれた紙を取りだし、黙って、私の前に示す。紙を読んで了解した。そこには、部屋の種類と価格、宿泊条件などが記載されている。ようするに彼女は英語がまったく分からないのだ。「この部屋」と1泊60元(約900円)の部屋を指さすと、初めてにっこり笑った。宿帳には、全部漢字で記入してやった。彼女は興味深そうに眺めている。彼女から見ると、私は中国語がしゃべれないのに漢字が書ける不思議な存在なのだろう。傍らに置いた「地球の歩き方」に興味を示した。漢字が多いから半分ぐらい理解できるらしい。ようやく彼女と打ち解けた。

 部屋はそこそこ広く、タオル、石鹸、歯磨きとそろっている。バスタブまである。久しぶりに今晩入浴できそうである。ポットに入ったお湯とお茶のティーバックが備わっているのはいかにも中国らしい。ここはまさにゲストハウスではなくホテルである。中国には、いわゆるゲストハウスはない。しかし、試しに浴室の栓をひねってみたが、お湯は出ない。紙に「我房熱水不出」と書いて、フロントの娘さんに示す。「お湯は5時以降でないと出ない」との趣旨の答えが返ってきた。どうやら筆談だけが意思疎通の手段となりそうである。

 
  第34章  モンラーの街の景色

 すぐに外に飛びだす。既に2時過ぎだが、朝から何も食べていない。宿も決まり、猛烈に空腹を覚える。しかし、適当な食堂が見つからない。かなりローカルな「飯屋」と呼ぶべき小さな薄汚い店はあるのだが、入るには「ちょっと」である。しばらく歩いたが、どうしても見つからない、さて困った。エィヤァと、傍らの飯屋に飛び込んだ。こうなれば、腹に溜まれば何でもいい。おばさんがやってきて何か言うが、まったく分からない(当たり前だけど)。仕方がないので、飯を食べる仕草をする。やおら、おばさんが手をつかんで冷蔵庫の前に連れていく。中には数種類のおかずがあった。「どれか選べ」と言うことらしい。適当に指さす。さらに、おばさんが何か聞くが、すべてうなづく。料理の仕方か何か確認しているのだろう。やがて、豚の筋肉の煮物のようなものが、大盛りのご飯とともに運ばれてきた。うまくはなかったが、腹は一杯になった。

 次ぎに銀行を探す。国境のモーハンで少々両替したが、ホテルで100元のデポジットを取られたこともあり、手持ちの元は心細い。しかし、外貨を扱う中国銀行はこの街になく、もう一つの農業銀行も土曜日のためかクロウズしていた。困ったなぁ、と思っていると、若者が近寄ってきて「Money Exchange」と小声で言う。闇両替だ。Rateは1元=0,143$、ずいぶん悪いが仕方がない。

 街の中をあてもなく歩く。未知の街を歩き廻るのは実に楽しい。街並みは美しい。椰子の並木道が続き、中心部には洒落たショッピングセンターやブランド店が並んでいる。ごみごみした中国的なイメージはない。人口はおそらく20万は越えているだろう。タイのチェンマイよりもにぎやかである。街を歩き、まず目に付くのは、道端、店先、至る所で、トランプ、麻雀が盛んに行われていることである。金をやり取りしているところからして明らかに賭博である。日本はもちろん、東南アジア諸国では決してみられない光景である。この光景は、次ぎに訪問したジンホン(景洪)でも同じであった。真っ昼間からこれだけおおっぴらに賭博が行われているとは驚きである。中国の近代化も未だしの感が強い。

 街中に「住宿登記」の看板がいやに目立つ。この看板の掛かっているところの多くが「招待所」の看板も掲げていることから、「宿泊受付」の意味なのだろう。ただし、外国人は、この招待所には泊まれないはずである。街には、頻繁にワゴン車の市営バスが走っている。タクシーも多い。見慣れてきたトゥクトゥクやサイカーはない。その意味では街並みと同様、著しく近代化している。

 街で目立つのはオートバイ屋と薬屋である。ホンダ、ヤマハの看板があちこちに見られる。こんな辺境の地まで来て、日本製品に会えるとやはり嬉しい。その点、かつて日本の代表であった家電は、すべて中国製品、日本製品などまったく見られない。長虹ブランドが目立つ。「葯」の看板を掲げた薬屋も目立つ、さすが漢方薬の国である。

 歩き回るうち、面白いことに気がついた。街には一切英語表記は見られない。そのかわり、店の看板や役所に表札のほぼすべてに、漢字とともにミャンマー文字に似た文字が併記されているのである。あの団子を重ねたような文字である。不思議に思ったが、理由は「この街はミャンマー国境に近いからかなぁ」ぐらいしか思い浮かばない。この謎は、ジンホン(景洪)へ行ってから解けた。スーパーマーケットがあったので、入ってみようとしたら、何と、入り口ですべての手荷物を預けなければならない。女性のハンドバックまでもである。私は全財産入りのバックを抱えている。いくら何でも預けるわけにはいかない。

 ひとまずホテルへ帰り、7時前、夕食のため街へ出る。ようやく適当な食堂が見つかった。メニューは漢字だけだが、漢字を見れば、だいたいのことは分かる。中国に入国してまだ半日だが、英語の通じないことは想像を遥かに越えていた。欧米人は中国には行きたがらないと言われるが、よく理解できる。漢字を知る日本人は何とかなる。食事をしながらはたと気がついた。時計を1時間進めるのを忘れていた。ラオと中国では時差が1時間ある。陸路で国境を越えると、時差の観念がどうしても希薄になる。先ほどから、7時にしては、閉店する店も多く、どうも街の様子がおかしいといぶかっていたのだが。

 ホテルに帰るが、やっぱりお湯が出ない。再度、フロントに行くと、「しばらく水を出しっぱなしにしておけばそのうちお湯が出る」との答え。30分も出しっぱなしにしておいたら、お湯が出た。16日ぶりに、湯船に浸かり、極楽である。寝ようと思ったら、ベット脇にコンドームが二つ備え付けられているのに気がついた。そういえば、このホテルにはダンスホールが併設されていて、厚化粧の女性が出入していた。どうやらラブホテルとしても使われるようだ。私の旅も、沢木耕太郎の"深夜特急"の世界に近づいて来たかなと、1人苦笑してしまった。
 

  第35章  ワンティエンシュー(望天樹)の見学

 今日はワンディエンシューへOne Day Tripを試みる。ワンディエンシューはモンラーの街から北へ20キロほどの地点にある熱帯樹林である。特に、ワンディエンシュー(望天樹)と呼ばれる樹高70メートルにも達する樹木が多く茂り、その間を吊り橋で結び、空中回廊が作られている。昨日、ジンホンに直行せずに、モンラーに泊まった理由の一つは、このワンディエンシューへ行ってみたかったからである。

 カメラと案内書だけをもって、8時半頃にバスターミナルへ行く。「指南所」と書かれたカウンターの女性に、英語で「ワンディエンシューへ行きたい」旨伝えるが、予想通りまったく通じない。「望天樹」と紙に書くと、理解して、「あそこの窓口で切符を買え」というジェスチャー。窓口では、「ワンディエンシュー」と口頭で言うだけで、9時発の切符を買うことができた。発券はコンピューターシステムで、行く先、日時、座席番号等が印刷されている。もちろん全部漢字である。料金11元であった。改札口で切符を示すと、「あのバスだ」と10数人乗りのワゴン車を指さす。フロントガラスに「孟伴 (注 "孟"は旁として右に"力"が付く)」と行き先が掲げられている。途中下車となるので、運転手に切符を示して確認しておく。

 車は4人ほどの乗客を乗せ、数分遅れで発車した。ここでも車内で煙草をプカプカ吸っている。ところが、車はまともには目的地に向わなかった。あっちに寄って、数個の段ボール箱を積み込み、こっちに寄って、100キロはあると思われる機械を積み、その度に荷主と料金を巡って喧々諤々。正規のバスの運行とは思えず、どうやら、運転手がアルバイトをしている様子。30分ほど市内をうろうろした揚げ句、ようやくワンティエンシューへと走り出した。しばらくは、山あいの田園風景が続く。やがて、舗装がなくなり、ガタガタの山道となった。土ぼこりがものすごい。辺りは次第に鬱蒼とした原始林となっていく。約1時間も走ると、峠の頂きで車は止まり、運転手がここだと合図してくれた。

 立派な休憩舎がぽつんと立っているだけである。車が2〜3台駐車していて、子供をまじえた数人の観光客がにぎやかな声を上げている。見上げると、お目当ての空中回廊が道路を跨いでいる。早速、35元(約525円)の入場料を払い、空中回廊に上る。大木から大木へ吊り渡された幅50センチほどの空中の廊下である。地上からの高さは約30メートルはある。子供たちがキャーキャーいいながら渡っている。長さ400メートルほどの空中回廊をのんびりと渡る。樹高70メートルにも達する望天樹はこの雲南地方の森だけにある樹木で、学術的価値が高いと説明されている。

 空中回廊を降り、森の中の遊歩道を散歩する。解説板には、「この森には象、虎、野牛、熊、猿、鹿などの野生動物が棲み、運が良ければ出会えるかもしれない」などと書かれていたが、虎が現れたらどうする気なのだ。その心配がないから、遊歩道が設けられているのだろうが。鬱蒼とした熱帯雨林は、太陽の光が地表まで届かないため下草が少なく、思いのほかすっきりしている。

 2時間もぶらつくと、もう見るところもない。帰ることにする。他の観光客もすべて引き上げてしまっている。いつ来るとも知れないバスを待つ。同じくバスを待っている若い女性がいた。抱えている案内書をみるとハングル、韓国人のようである。片言の中国語が話せ、売店のおねぇさん相手に暇を潰している。「アンニョンハシムニカ」と、韓国語で話しかけてみたら、「こんにちわ」と、日本語の答えが返ってきた。ただし、知っている日本語はこの言葉だけ、英語もほんの片言。大学生で、1人で中国を旅しているという。

 1時間半ほど待つと、ようやくバス(ワゴン車)がやって来たが、超満員。二人で乗り込むのがやっとであった。驚いたことに、この超満員の車の中で、平然と煙草を吸っている。どういう国なんだ、中国という国は。終点のバスターミナル手前1キロほどのところで、バスは突然道端に止まった。何事かと思ったら、運転手が客席に乗り込んできて、料金の徴収を始めた。これがものすごい。乗客は何とか運賃をごまかそうとし、運転手は絶対ごまかされないぞと、双方喧嘩腰で喧々諤々。それを乗客一人一人とやるのである。見ていてあきれるやら、楽しいやら。運転手は紙幣の束をわしづかみにして、合意した金額を受け取ったり、文句を言われて返したり。おそらくこの金は、会社の金庫には入らないだろう。切符の発行もなく、運転手自身いくら集めたかも分かるわけがない。車を1キロ手前で止めたのは、終点まで行くと逃げられてしまうからだろう。中国の凄まじさを目の当たりにする思いであった。タイやラオでは考えられない風景である。私は行きと同じく11元渡したら、黙って1元返してよこした。

 2時過ぎ、モンラーのバスターミナルに帰り着いた。韓国の女の子は、このままジンホンに行くという。私はまた1人、あてもなくモンラーの街を彷徨う。
 

                  (4に続く)

 

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