おじさんバックパッカーの一人旅
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2005年5月14日~22日 |
第1章 旅の序曲
バンコクから北へ向うのか、南に向うのか、その違いは大きい。北への旅はタイの歴史を辿る旅。アユタヤ、スコータイ、チェンマイ、チェンライーーー、さらに道は、タイ族揺籃の地・中国西双版納へと続いている。一方、南への旅は、細く長く伸びるマレー半島を辿る旅。その道は、進むに従いイスラムの香りが次第に濃くなる。いわば異文化と出会う旅である。 今まで私の旅は、いつも、北への道を辿っていた。タイ北部、カンボジア、ブータン、ラオ、ミャンマー、中国西双版納。いずれも敬けんな仏教徒の国、いわば心に安らぎを覚える国々である。今回初めて南、イスラムの国々に向う。やはり何となく緊張感を覚える。バンコクから、陸路、ひたすらマレー半島を南下して、ユーラシア大陸の果つる南端まで。さらにその先にはシンガポール島とインドネシアの島々が横たわっている。 インドネシアのジャワ島には、壮大なボロブドール仏教遺跡と、同じくその雄大さを誇るプランバナンのヒンズー教寺院遺跡群が、イスラム世界の中に孤立している。イスラム教、仏教、ヒンズー教。まさに東南アジアの辿ってきた歴史が幾重にも層となり、文化の多様性を描き出している。いったいそこで、私は何を見、何を感じるのだろうか。
第2章 旅立ち 考えたおおまかな計画は、「バンコクからひたすら陸路でマレー半島を南下してシンガポールに到る。そこからジャカルタに渡り、ジャワ島を陸路東へ東へと向かいボロブドール周辺まで行く。Uターンして、再び陸路をトコトコとバンコクへ戻る」。いたって非能率的かつ平凡なものである。日程として45日を用意した。これだけの日数があれば、かなり道草が食えるはずである。 5月14日(土)。ゴールデンウィーク明けで空席の目立つインディアン航空AI309便は1時間遅れで夕闇迫るバンコク国際空港に着陸した。ねっとりとした暑さが身体に絡みつく。懐かしい感触だ。荷物をホテルに放り込み、そのまま行き付けの飲み屋に直行する。旧知のI君と半年ぶりに再会して、まずは旅立ちの前祝いである。 翌日は旅の準備。床屋に行ってさっぱりした後、スーパーで細々した備品を買いそろえる。さらに近くの旅行社でバンコクからハート・ヤイ(Hat
Yai)までの夜行寝台チケットを購入する。近ごろタイ国鉄のチケットは旅行代理店でも購入できるようになった。ついでにハート・ヤイ→KLのマレーシア鉄道のチケットも購入しようとしたが、3日も掛かるとの答えにあきれて諦めた。市内を歩き回るうちに、身体の中の空気がどんどんタイの空気に入れ替わってくる。もはや異国にいる違和感はない。忘れていたタイ語が自然と口からほとばしる。地下鉄車内で老人にさっと席を譲る若者の姿にこの国の精神の健全さを感じる。
第3章 チャイナタウンにて 5月16日(月)。いよいよ旅立ちの日である。手元のチケットはバンコク発14時45分、ハート・ヤイ着翌朝6時28分、特急35号の2等寝台である。料金は755バーツ、約2050円である。早めに始発駅であるホアランポーン(Hua Lamphong)駅に行き、荷物を預けて周辺のチャイナタウンをぶらつく。真昼の太陽がぎらぎらと照りつけさすがに暑い。 バンコクのチャイナタウンは以前にも何回か歩いたことがあり、勝手は知っている。漢字の看板が溢れ、金行が軒を並べるヤワラー通りをあてもなくぶらつく。実は、出発の前にまずこのチャイナタウンを歩いてみたかったのである。歩きながら私は東南アジア諸国において、国家統治の根幹問題であり続けている華僑問題を考えていた。 華僑とは、厳密な定義はさておき、中国本土から移住してきた華人及びその子孫である。彼らは出身地ごとに強固な共同体社会を形成し、婚姻、言語、教育、宗教、習慣等の社会生活において現地の社会に同化せず、出身地の社会生活を強固に守り通している。いわば一つの国の中に別の国を形成しているのである。しかも、東南アジア諸国の経済的実権はほとんど彼らに握られていると言われている。このため、各国において、歴史的にも、あるいは現在においても、しばしば華僑排斥運動が起り、大きな政治的、社会的不安要素となっている。各国ともこの華僑問題の解決に現在でも頭を悩まし続けている。 ところが、非常に不思議なことに、タイにおいては歴史的にも、現実にも、この華僑問題が存在しない。タイにおける華人の人口比率は10.5%である。マレーシア29.9%、インドネシア4%、フィリピン1.3%、ミャンマー3.5%、ベトナム1.2%、カンボジア3.6%、ラオス3.9%、シンガポール77.7%、ブルネイ17.8%(数字はいずれも1991年統計)と比べても決して少ない数字ではない。 また、タイの経済的実権が華僑資本に握られていることも他の東南アジア諸国と同じである。それどころか、タイにおいては政界のトップすら華僑である(タクシン首相は中国系である)。それにも関わらず、タイにおいては華僑が意識されることはない。 その理由は明確である。タイにおける華僑は自ら華僑であることを止めてしまった。華僑の最大の誇りは「現地に同化せず」であると言われている。ところが、タイの華僑は自ら進んで華人であることをやめタイ国民になってしまった。タイ国王に対する信頼と尊敬の念はタイ族も華人も変わりがない。タイの華僑はいまや単なる中国系タイ国民なのである。なぜタイだけこのような現象が起ったのか。タイの社会が、すべての異質のものを異質とせずに同化してしまう不思議な力を持っているといわざるを得ない。このことは、タイにしばらく暮してみれば分かる。いつの間にか、外国に暮しているという感覚はなくなってしまう。
第4章 夜行列車でハート・ヤイへ
約1時間半走ってナコン・パトム(Nakhon Pathom)で最初の停車、窓外に世界1高い仏塔・プラ・パトム・チェディ(120メートル)の姿を求めたが、見ることはできなかった。タイの列車は列車内すべて禁煙である。私にとってこれは大変な苦痛となる。ただし、デッキでこっそり吸うことは大目に見られている ? 列車は夕闇の迫るころラチャブリ(Rachaburi)で2度目の停車。いよいよここから先はマレー半島である。列車が停車するたびに、弁当、菓子、果物などの物売りが殺到する。中には列車の中にまで侵入してくる者もいる。それとは別に、列車の係員がメニューをもって、食堂車からの出前の注文を取って歩く。すっかり夜の帳が下りたころホア・ヒン(Hua Hin)に到着。王室の別荘のあるリゾート地として知られるところである。 ようやくベッドメーキングが始まった。今回下段が取れず私のベッドは上段である。ここは窓がないため、カーテンを閉めるとまさに独房となる。隣のベッドのヘッドホーンステレオの音漏れが少々うるさい。まんじりともしないうちに夜が明けた。デッキに出てみると、窓外にはバンコク平原とは違う景色が広がっていた。連続するゴムの樹の林、草を食む牛の群れ。「南部に来たのだなぁ」との思いが強い。7時半、列車は約1時間遅れで終点ハート・ヤイ駅に到着した。
第5章 南部タイの大都市・ハジャイ
まずはどこかホテルを見つけなければならないが、まだ早朝、慌てることはない。石段に座り込んで1服しているうちに人波は引いた。暇になった運チャンの何人かが寄ってくる。そのうちの1人を捕まえて「どこか安いホテルへ連れていけ」とトゥクトゥクに乗り込む。10分ほどでToey運河に面した中級ホテルに到着した。バスタブまであるまともなホテルだが、料金は650バーツ、地方都市はやはり安い。地図を片手にすぐに街に飛びだした。 ハジャイはマレーシアとの国境貿易で急速に発展した新興商業都市で、見るべき歴史的遺跡は何もない。さすがに暑い。まずは腹ごしらえと付近の簡易食堂に飛び込んだのだが、メニューもないし言葉も通じない。さて、どうしたものかと一瞬思ったら、おばさんが手を引張って、いくつかのおかずの詰まった鍋のところに連れていった。この中から選べということらしい。 街中を歩く。タイ南部はイスラム文化圏に属する。したがってハジャイはイスラムの香りの強い街と思っていたが、意外や意外、スカーフをかぶった女性などほとんど見かけないし、モスクも見当たらない。それどころか街には漢字が氾濫し、あちこちに中国寺院が見られる。街全体がまるで中華街である。しかし、街中には屋台が溢れ、その猥雑さはまさにタイである。街の真ん中を蛇行しながら流れるToey運河の岸辺には洒落た遊歩道が設けられているが、コンクリートで固められた運河は黒く濁った水が淀み、そのアンバランスがおかしい。街の中心部はデパートや大きなショッピングセンターがひしめき街は活気に満ちている。 ぶらりぶらりと駅まで歩く。明日、マレーシアに向う列車のチケットを入手しなければならない。タイ国鉄南線とマレー鉄道西海岸線は繋がっており、マレー鉄道が国境を越えてこのハジャイまで乗り入れている。このため、直通列車はないものの、バンコクからシンガポールまで国際列車の旅をすることができる。今回の旅では是非とも「列車で国境を越える」経験をしたいと思っている。ただし、マレー鉄道は運行する列車が非常に少なく、ハジャイからクアラルンプール(Kuala Lumpur)まで行く列車は、夜行列車1本だけである。果たしてチケットが取れるだろうか。ダメならバスに切り替えざるを得ないが。 チケット予約窓口は駅舎の2階にあった。行ってみると、マレー鉄道のチケットはここでは扱っておらず、1階の当日券売り場へ行けと流暢な英語で指示された。プラットホームへ通じる1階切符売り場入り口は警察官が厳重に警備しており、入場者を1人1人チェックしている。バンコク・ホアランポーン駅でも見られない厳めしい光景である。タイ南部では最近イスラム過激派の活動が活発化しており、テロが頻発している。日本外務省はこのハジャイに対しても「渡航の是非を検討して下さい」の警告を発している。ここより南の地域には「渡航の延期をお薦めします」が発令されている。窓口で無事に明日の2等夜行寝台のチケットが入手できた。チケットは手書きのもので、マレー鉄道とコンピューターは繋がっていないようである。これで明日の足が確保できた。ひとまず安堵である。 いったんホテルに戻り、他に行くところもないので、バイタクに乗ってワット・ハート・ヤイ・ナイに向う。この寺が案内書に載っているハジャイで唯一の「見どころ」である。とはいっても、何か由緒のある寺というわけでもなく、ただ大きな寝仏があることが特徴らしい。案内書にはハジャイで唯一の仏教寺院とある。ガードを潜って鉄道線路の西側に出る。ハジャイの街は線路の東側だけかと思っていたが、西側にも賑やかな街並みが広がっていた。
第6章 列車で国境を越え、マレーシアの首都・クアラルンプールへ 5月18日水曜日。今日は夜行列車で国境を越え、マレーシアの首都・クアラルンプールを目指す。列車の発車時刻は14時50分である。早めに駅に行って、駅構内や周辺をぶらつく。高く昇った太陽からの凄まじい熱放射の中、駅構内は気だるさが支配している。駅員も、売店のおばちゃんも、客待ちのトゥクトゥクの運転手も、居眠りをしたり、雑談したり、所在なげに過ごしている。ときおり、満員の乗客を乗せてローカル列車が到着する。このときだけ、駅とその周辺は生き返る。吐きだされる乗客の群れに向って殺到するトゥクトゥクやバイタクの運転手たち、大声で客を引く売店のおばちゃんたち、このときばかりと立ち働く駅員たち。そしてその一瞬の喧騒がすむと、駅は再び気だるさの中に埋没する。
定刻14時50分、クアラルンプール行き国際特急EL7号は南に向って走り出した。車内はガラガラで寝台車には数人の乗客しか乗っていない。通路を挟んだ反対側の上段・下段には若いアベックが乗りあわせていた。もっとも、2人はひと晩中下段ベットで一緒に過ごしていたが。女性はネッカチーフをかぶったムスリムである。女性に「マレー人ですか」と聞いてみたら、「タイ人です」との答えが返ってきた。 マレー鉄道は、揺れは少々大きいもののなかなか快適である。寝台車の構造はほぼタイ国鉄と同じで、当然冷房完備である。ただし、1両にふたつあるトイレが、男女別々になっていた。さすがイスラムの国である。タイの国鉄もトイレはふたつ付いているがいずれも男女共用である。私にとって1番ありがたかったのは、デッキが喫煙所として公認されていることである。灰皿が有り、そこには折り畳み式のイスまで用意されている。もう一つ気がついたことは、車内放送がマレー語と英語で確りなされることである。しかも、両語とも車掌が生で行う。日本の新幹線も英語の放送はあるが、テープである。タイ国鉄は車内放送そのものがないので、途中下車するときはいつも困ってしまう。
再びベッドに寝ころび車窓を見続ける。景色が変わり。見渡すかぎり田植えの終わったばかりの青々とした田圃が広がっている。そしてその中に奇怪な姿の岩山がぽつりぽつりとそそり立っている。アラウ(Arau)を過ぎ、夕暮れどきにアロー・スター(Alor Setar)に到着した。タイと違い、列車が止まっても物売りの姿は見られない。また車内販売もない。持参のカオニャオと鶏の空揚げをかじりながら、暮れゆく車窓を見続ける。 10時近くに、列車はバタワース(Butteworth)の大きな駅に到着した。ペナン島の対岸に位置する街である。ここで列車は不思議な動きをする。いったんホームに入った後、バックして別のホームへ入り直す。長い停車の後、今までとは前後逆に走り出した。このことのために、最初から機関車が前後に連結されていたのだろうか。列車は真っ暗な闇の中をひたすら走り続ける。
第7章 マレーシアの首都・クアラルンプール 5月19日木曜日。朝7時過ぎ、列車は30分程度の遅れで、終点・クアラルンプール中央駅に滑り込んだ。新たな未知の街に到着するときの不安と好奇心の入り混じったこのゾクゾクする気持ちは、1人旅でしか味わえない。さすが首都の中央駅、立体的な大きな駅である。しかも実にモダンで垢抜けしている。洒落た店が並び、エスカレーターがあちこちに設置されている。30~40年前の上野駅のようなバンコク・ホアランポーン駅とは大違いである。行き交う人々も、皆、確りした服装で、東南アジア的猥雑さはみじんもない。サンダル履き、Tシャツ姿で、大きなザックを背負った私なぞ、まるで浮浪者である。ちょうど朝の通勤ラッシュなのだろうが、人込みができるほどの混雑もしていない。嬉しいことに、すべての案内板に日本語が表記されている。マレー語、中国語、英語、日本語の4ヶ国語である。さすが「Look East」の国である。行き交う女性の半分ほどはムスリムスタイルである。ネッカチーフで頭を覆い、身体全体を覆うゆったりした服を身に付けている。イスラム教を国教とする国の首都にやってきたとの思いが強まる。
クアラルンプール(一般的にKLと称されている)は都市交通が実によく整備されている。スターLRT、プトラLRT、KLモノレール、KTMコミューター等の軌道交通が市内及び近郊を網の目のように結んでいる。KL中央駅はこれらの軌道交通のハブ・ステーションでもある。KTMコミューターに乗って1駅、KL駅で降りると、そこがもうThe Heritage Station Hotel Kuala Lumpurであった。受付のおばさんが歯切れのよい英語で1泊朝食付き80RM(約2400円)と説明する。案内の通り、実にレトロで情緒あるホテルである。何しろエレベーターのドアも手動なのだから。 いささか寝不足ではあるが、すぐにカメラと案内書だけをもって街に飛びだす。まず目指したのは独立広場(ムルデカ・スクエア)である。KTMコミューター、プトラLRTと乗り継いで、マスジット・ジャメ(Masjid Jamek)駅で降りる。いずれもきれいな電車である。これらの電車に乗るのは初めてだが、乗り方は別に難しくはない。チケットは自動販売機でも窓口でも買える。車窓から眺めるKLの風景はまさに洗練された超近代都市である。いくつもの超高層ビルが建ち並び、その間を高速道路が曲線を描きながら走っている。行く手には世界1の高さを誇るペトロナス・ツイン・タワー(Petronas Twin Tower)も見える。 独立広場周辺はKL発祥の地ともいえる地域で、マレーシアの歴史を語る建物が多く残されている。駅を出て、道端で案内書を広げていたら、早速しかるべき人間がお出ましになった。「日本の方ですか。どこへ行きますか」。中年の女性がいかにもフレンドリーに擦り寄ってくる。この手の輩に引っ掛かるほど旅の素人でもない。
独立広場に向う。またも若い女が「日本の方ですか」と片言の日本語で話しかけてくる。広大な広場の中央に世界1の高さ(100メートル)を誇る国旗掲揚塔があり、巨大な国旗がはためいている。1957年8月31日、この広場においてマラヤ連邦の独立が高らかに宣言された。マレーシア(マラヤ)は流血の惨事なく独立を達成した数少ない国のひとつである。広場の周辺にはスルタン・アブドゥル・サマド・ビル(旧連邦事務局ビル)など英国植民地時代の建物が見られる。
第8章 マレーシアの苦闘と発展
次ぎに控えていたのは民族問題である。マレー民族の国家とはいえ、マレー人の人口比率はようやく50%程度、華人比率は30%を越えている。しかも、その華人が経済的実権を握り、マレー人は農村の貧しい暮らしを余儀なくされていた。この問題を解決するために、世界に例を見ない思い切った政策を採る。まず、華人の人口比率の圧倒的に高いシンガポールをマレーシア連邦から追い出すのである。世界の歴史を見ても、他国を侵略することは常であるが、自国の一部を切り離して追い出すという例は知らない。 次に、国内においてマレー人を優遇するブミプトラ政策を導入し、この国家がマレー民族の国であることを明確にする。いわば民族差別・分離政策であり、ひとつ間違えれば、国際非難を浴びる危険な政策である。何しろ、憲法においてマレー人の定義を「マレーシアに住みマレー語を母語とし、イスラム教徒であって、マレーの慣習法に従い生活する者」と決めてしまうのであるから、世界の民主主義的常識からはかなりかけ離れた政策といわざるを得ない。これらの政策により民族問題をひとまず沈静化させる。 そしていよいよ国造りである。マレー半島のマレー人は歴史を見ても「国」を作った経験がない。そもそも国家としての歴史がないのである。しかも国土の中に、国中の国を作っている華人、インド系の異民族を多く抱えている。どのようにひとつの国を作るのか大問題である。 マレーシアにとって幸運であったのは、初代首相・ラーマン、第4代首相マハティールという傑出した政治家を持ったことだろう。特にマハティールは1981年から2003年まで20年以上首相の座につきながらもその政権は腐敗することもなく、マレーシアの国造りに邁進する。いわば今のマレーシアはマハティールが渾身の力をもって造りあげた国と言ってもよい。日本からの投資を積極的に受け入れ、強力に工業化を図ることにより高い経済成長率を維持しながらも、自動車産業に見られるように国内産業を強力に保護する。国民に対しては「Look East」と指針を明示し、それこそ箸の上げ下げまでも指導していく。教育に力を入れ、日本に多くの留学生を派遣し、国内においては英語教育に力を入れる。 独立から今年で48年、今見るマレーシアは発展著しいASEAN諸国の中にあって、タイと並ぶ優等生である。目の前に広がる超高層ビル群ときれいな街並み、溢れる真新しいし自動車と整備された高速道路網、どこでも通じる英語、治安もよい。この国は壮大な国造りの実験に勝利したと言ってよい。ただし、この勝利は現時点においてのものである。すべての矛盾が根本的に解決されているわけではない。強力な政策により、微妙なバランスの上でかろうじて安定を保っているに過ぎない。いったんバランスを失えば、すべてが崩壊してしまう危険性をはらんでいるとも言える。タイの社会のような根本的な安定性はないといわざるを得まい。
第9章 マレーシアのチャイナタウンと華人の歴史 チャイナタウンまで歩いてみることにする。真昼の太陽が真上から照りつけ暑さは相当なものである。クラン川を渡り、セントラル・マーケットを覗き、20分ほど歩くとチャイナタウンに到着した。チャイナタウンのイメージ通り、通りはどこも人波で溢れ、多くの露店が狭い道を埋めている。しかし、どこかタイのチャイナタウンとは異なる。ごちゃごちゃしているようで何となく秩序があり、タイのような猥雑さが感じられない。どことなく管理が行き届いた感じがする。道もきれいに整備されており、穴ぼこだらけのタイの歩道とは多いに異なる。 マレーシアの華人の多くは19世紀後半、錫採掘及びゴム栽培のための肉体労働者として福建省、広東省から移り住んだ人々の子孫である。移住の波は第二次世界大戦まで続き、1940年には英領マラヤにおいて、マレー人の人口を越えるまでに増える。彼らは現地に同化することなく自分たちだけの共同社会を形成し、次第に経済的実権を握るようになる。英国も植民地支配の道具として、この華人社会に特権的地位を認め、マレー植民地支配の一翼をになわせる。いわばこの時代は (英国→華人)→マレー人 という重層的社会が形成されていたといえる。 このため、1941年から始まる日本軍のマレー侵攻に際しては華人は英植民地軍と協力して日本軍と戦う。このことは日本軍の侵攻をむしろ喜んだマレー人と大きく異なる。そしてこの日本軍侵攻はマレー人のナショナリズムに火をつけた。戦後、英国はそれまで協力してきた華人を見捨て、英領マラヤに対し「マレー人の国家として」の独立を認める。これによって、華人とマレー人との立場は逆転する。不満の華人の一部はマレー共産党のゲリラとなってマレー国家に戦いを挑む。また、マレー人にとっても、自分たちが主人公になったにも関わらず、経済的実権を相変わらず華人が握り続けていることに不満が増大する。 この双方の不満は1969年5月13日、首都・KLにおいて両民族が衝突し、双方多数の犠牲者が出るという流血の惨事となって火を噴く。国家存亡の危機であった。この危機を回避するため政府が導入した政策がブミプトラ政策である。即ち各民族を一体化するのではなく、インド系も含めた3民族を明確に分離し、マレー人に特権的地位を認める一方、各々の民族に一定の権利を付与する政策である。各民族がこの政策を受け入れたことにより、ようやくマレーシアの国造りが始まるのである。
第10章 イスラムの国 地図を眺めると、チャイナタウンからホテルのあるKL鉄道駅まで歩いていけそうな距離である。と思い、歩き出したのだが、大変な行程であった。横断歩道とてない自動車専用道路を幾つも横切り、また高架の道路の上に出てしまい、下りるのに四苦八苦したり。ともかくいったんホテルに帰り着いた。
仕方がないので、隣にあるIslamic Arts Museum Malaysia(マレーシア・イスラム芸術博物館)に行ってみる。大きな立派な建物で、凛とした空気に包まれている。ムスリムの正装をした何人かが出入りしているだけで、異教徒は何となく気後れがして入りにくい雰囲気である。勇を奮って受付に行き「ムスリムではないが入場は可能か」と問う。「どうぞ」とのムスリムスタイルの女性の笑顔に安心する。 ここは素晴らしい博物館であった。広々とした空間に、イスラムの音楽が静かに流れ、各々の展示物からはイスラムの心が伝わってくる。世界各国のモスクの精巧な模型が展示されている。まだ見たことのないサマルカンドやイスタンブールのモスク、メッカやメジナのモスク。古いコーランや剣。サラディンの華やかな文化を伝える財宝の数々。そして圧巻はThe Road to Madinaと名付けられた1本の道、Mekka(メッカ)からMadina(メディナ)に到る巡礼の道である。この道をゆっくり歩くと、自ら巡礼となってMadinaを目指す気持ちになってくる。この素晴らしい博物館を訪れ、少しはイスラムの心が理解できたような気持ちになった。 改めて国立モスクに行く。今度は中に入れた。Tシャツ姿の私は何も言われなかったが、女性は頭の先から足首まですっぽり覆うムスリムの服装を要求される。見学者には入り口で服を貸してくれる。「国立」と名がつくだけに形式にうるさいようだ。もっとも、タイの国立仏教寺院・ワット・プラケオもノースリーブや半ズボン、ミニスカートは入場を拒否される。階段を登っていくと、大理石を敷き占めた廊下状の空間に出る。周りには身を清めるための池が設けられている。その奥に、絨毯を敷き占めただけの広大な礼拝室がある。ムスリム以外ここには入れない。 夜、このKLで働いている知り合いのKさんと落ち合い、その友人Fさんも含め3人で1杯やりながら日本食を満喫した。異国の地に来ても知り合いがいることは心強い。イスラムの国では酒は飲めないのではと思っていたが、その後も含め、どこの食堂でもビールは自由に飲むことができた。もっとも、ムスリムの人たちが飲む姿を見ることはなかったが。会食の後、Kさんと2人で、酔いざましに独立広場に行った。驚いたことに、広場には恋人と肩を寄せ合うムスリム姿の女性がたくさん見られた。イスラム教は女性に対する規制がことさら強いと思っていたが、「恋はすべてに勝る」は万国共通のようである。
第11章 マラッカへ 5月20日金曜日。KLには帰路にもう1度寄ることにして、次の目的地・マラッカ(Malacca)を目指す。バンコクからここまでは列車を乗り継いで来たが、マラッカは鉄道が通じていないのでバスで行かざるを得ない。ホテルからKLの長距離バスターミナルであるプドゥラヤ・バスステーションまでタクシーで向う。KLのタクシーは一応メーター制である。2~3RMで行くと思ったが、大回りされた感じで5RM(約150円)取られた。バスターミナル周辺は人込みでごった返していた。車を降りると、2~3人の男が、「○○方面」「△△方面」と通行人に呼びかけている。てっきりチケット売り場の係員と思い、案内された事務所でマラッカ行きバスの予約券を購入した。料金は18RM(約540円)だというので、少々高いとは思ったが支払った。 バスは横3列座席の高級車、しかもガラガラである。ところが、予約券に基づき、車掌から受け取ったチケットには料金7.9RMと記載されている。念のため案内書で確認してみると8RMとある。瞬間「やられたぁ」と思った。あの男達はダフ屋だったのだ。まぁ10RM(300円)の被害ですんだ。以後の教訓としよう。 バスはマレーシア自慢の高速道路をひた走る。片側2車線の実に快適な道路である。周りは低い丘陵地帯で油椰子の林がどこまでも続く。ときおりゴムの樹の林が混じる。耕地は一切見当たらない。人家もめったに現れない。マレーシアの人口の希薄さが印象づけられる。マレーシアの人口は約2500万人、約6500万人の人口を擁するタイとの決定的な違いがある。 途中15分ほどのトイレ休憩をし、約2時間半ほど走ってバスはマラッカのバスターミナルに着いた。大きな真新しいターミナルである。ただし、市街地からはかなり離れている。市内までローカルバスもあるのだろうが、よくわからない。タクシーを奮発する。この街のホテルも事前に目星をつけてある。チャイナタウンのババ・ハウス(The Baba House)である。同姓のよしみ、素通りするわけにはいかない。 マラッカには2泊する予定である。行ってみると、今晩はOKだが、明日の晩は満室だという。この時期、満室とは少々奇異だが、明日は別の宿を探せばよい。1泊朝食付きで55RM。昔の典型的なババ・ニョニャの豪商の家をホテルに改造した建物で、なかなか味がある。奥行きが非常に深く、廊下や部屋が複雑に配置されている。家の中に井戸や中庭まである。ベッドに寝ころんだら、天井にメッカの方向を示す矢印が描かれていた。やはりイスラムの国である。 ババとは華人の男性と現地マレーの女性の間に生まれた男子を言う。女子はニョニャである。このため、馬場という私の名前を聞くと皆、ニヤリとする。マラッカの地は古来、西欧と中国を結ぶ海上交通の要衝として栄えた。このため、明の時代より、多くの中国商人がこの地に移り住んだ。彼らは現地のマレー女性を娶り、子孫を残した。このことによって中国文化とマレー文化の融合した独特の文化が生まれた。この文化をババ・ニョニャ文化と呼び、今なおマラッカの地を中心に色濃く残されている。
第12章 マレー半島とマラッカの歴史 東南アジア各国には8世紀から13世紀にかけての建設された壮大な遺跡が残されている。ミャンマーにはバガン寺院群遺跡が、タイにはスコータイ遺跡とアユタヤ遺跡が、カンボジアにはアンコール遺跡群が、ラオにはワット・プー遺跡が、ヴェトナムにはチャンパ遺跡群が、インドネシアにはボロブドール仏教遺跡とプランバナンのヒンズー教遺跡群が。いずれも一時代を画した強力な王朝が建設した遺跡である。しかるに、マレーシアだけは何もない。マレー半島にある世界遺産は自然公園であるグヌン・ムル国立公園ただ一つである。このことがマレー半島の歴史を的確に物語っている。 古来、マレー半島は深いジャングルに覆われ、人口も希薄で、ジャワやスマトラに成立した王朝の辺境の地に過ぎなかった。マレー半島がひとつの地域として自主性を得るのは英国の植民地となってからである。英国はこの地で錫の採掘とゴムのプランテーション栽培を大規模に行った。このことにより、人口も急増し、経済的基盤も強化され、マレー民族の居住する広大な地域の中のひとつの核地域としての地位を獲得する。さらに、短期間であったとはいえ、日本軍のこの地の占領はマレー人のナショナリズムを覚醒した。このふたつの要素が、マレーシアというマレー半島を核としたマレー人の国家を成立させた根源であると言える。 このようなマレー半島の中にあって、マラッカだけは半島全体とは別の歴史を刻んできた。マラッカ海峡に面するこの都市は、古来、東西海上貿易の中継拠点として繁栄し続けてきた。西暦1400年頃には、マラッカを拠点としてマラッカ王朝が建国される。この王朝はこの半島に成立した史上唯一の王朝である。ただし、この王朝とて、その繁栄の源は海上にあり、マレー半島全体に根を張った王朝とは言い難い。この繁栄するマラッカを目指し世界中から人々が集まり、それにともない、いいろいろな文化が伝わり、そして融合した。また、このマラッカの戦略的地位とそこから生み出される膨大な富を手に入れるべく、古来、多くの勢力がこの都市を目指した。 1511年、マラッカを占拠したポルトガルもマラッカの富を目指してやってきた外来勢力である。続いて1641年にはオランダがポルトガルを駆逐してこの地を占拠する。さらに1824年には英国がマレー半島全体を占拠するが、英国の占領は単にマラッカを目指したものでなく、錫とゴムという資源を求めてマレー半島全体を目的としたものであった。したがって、この時代以降、マラッカの歴史はマレー半島の歴史の中に埋没する。
第13章 マラッカの街 宿に荷物を置くと、すぐに街に飛びだした。この街はまさに中国人の街である。ただし、いわゆるチャイナタウン的な猥雑さや華やかさはない。歴史を秘めた落ち着いた中国的街並みが見事なまでに続いている。車がようやく通れるほどの狭い道の両側には、ショップハウスと呼ばれる2階建ての長屋が整然と並んでいる。ショップハウスは1階が商店、2階が住居となる間口の狭い、そして奥行きの深い住宅である。窓はすべてよろい戸つき、軒下は通路となって日差しや雨を防げるようになっている。この通路を5フィート通路と呼ぶらしい。商店に掲げられている看板は漢字、行き交う人々の顔つきは明らかに華人である。「海南鶏飯」の看板を掲げている食堂が多い。そんな簡易食堂の一つに入り、昼食とする。いくつかの小さなお握りと、湯がいた鶏肉がでてきた。ポピュラーなマレーシアのメニューらしく、その後どこへ行ってもこの料理にお目にかかった。
スタダイスの前はちょっとした広場となり、観光客で賑わっている。日本人の団体が幾組も見られる。そして、トライショーと呼ばれる自転車の前に客席を着けた乗り物(インドネシアではペチャと呼ばれる)の運転手が盛んに観光客を誘っている。スタダイスの並びに、これも赤い漆喰で固められたキリスト教会がある。オランダ時代の1735年に建てられたムラカ・キリスト教会(Christ
Church Melaka)である。遊歩道を辿り丘に登る。 丘の頂に座り込み、ぼんやりと海を眺める。マラッカ海峡である。昔は、この丘の麓まで海であったとのことだが、今ではかなり遠くまで退いている。それでも立ち並ぶ建物の背後に海が見える。海峡の向こう側・スマトラの島影は見えないが、水平線には行き来する巨大なタンカーの姿が幾つも見られる。マラッカには海が似あうと思った。この海の向こうから、古来、世界中の、人が、物が、文化がこの街にやって来た。それらがすべて融合し、今、目の前に広がるこの街がある。 丘を反対側に下る。中腹にオランダ人の墓地がある。4~5個の大きな石棺がひっそりと横たわっている。彼らはいかなる思いでこの異国の地で眠り続けているのだろう。丘を下りきると、小さな砦跡がある。石を積み上げたトーチカの前に2門の大砲が据え付けられている。サンチャゴ砦(Porta De Santiago)である。1511年、オランダとの戦いに備えてポルトガルが建設した。
宿に戻り、隣りの小さな食堂に行く。夕食に何を食べていいか分からない。おばさんの勧めでナシ・ルマッ(Nasi
Lemak)という料理にトライする。ココナツミルクでたいたご飯に、卵焼き、小魚、ナッツなどがいっしょに盛られている。このおばさん、顔つきからしてインド系であるが、歯切れのよい英語を話す。一体何ヶ国語しゃべれるのかと聞いてみると、「マレー語、英語、タミル語、それに中国語を少し」との答えが返ってきた。さすが多民族国家の住人である。この程度しゃべれなければ、社会生活が全うできないのだろう。街を行き交う人々の顔も、中国系、インド系、マレー系といろいろである。
第14章 マラッカの2日目 5月21日土曜日。朝、荷物をまとめてチェックアウトしようとすると、「キャンセルがでたのでもう1泊OKだ」という。他の宿を探すつもりでいたが、外は雨が降っている。この宿にもう1泊することにする。傘をさして街中の見どころを幾つか廻る。 同じ道の並びにはカンポン・クリン・モスク(Kampong Kling's Mosque)がある。18世紀後半の創建である。こちらは礼拝時間でないと見え、参拝者の姿はなかった。上がり込んで、礼拝室の絨毯の上に1人座す。係の人は何も言わない。異教徒はなぜ礼拝室に入ったらいけないのだ。それほど狭量な宗教でもあるまい。アラビアの地で興ったイスラム教は遥かな東南アジアの地まで普及した。そして今なお、欧米諸国の示す嫌悪感を尻目に、この宗教はじわりじわりと世界に広がっている。 モスクの隣がスリ・ポヤタ・ヴィナガ・ムーティ(Sri Poyyatha Vinayagar Moothi)寺院である。19世紀初めに創建されたヒンズー教寺院である。こちらは内部で鐘や笛の音が響き、人の動きが激しい。中にはちょっとは入れない雰囲気である。三つの異なる宗教の寺院が、平然と並んでいる。これこそがマラッカの歴史そのものなのかも知れない。さらにカンポン・フル・モスク(Kampong Hulu's Mosque)を覗いた後、街中をぶらつく。驚いたことに、周辺にある安ホテルはいずれも満室となっている。 雨も上がったので、再びセント・ポール教会の建つ丘に行ってみる。昨日と異なり大勢の観光客で混雑している。小中学生の団体を含め、次から次と見学者が押し寄せている。聞いてみると、いずれもシンガポールからである。今日は土曜日、このマラッカはシンガポールから遊びに来るのにちょうどよい距離にある。ホテルが満室である理由が理解できた。 スタダイスの前の広場に黄色い衣を着た仏教僧が1人托鉢に立っている。思わずはっとする光景である。マレーシアは仏教の匂いのまったくしない国である。このマラッカにも首都・KLにも仏教寺院はない。いわばその異教徒の国の真っただ中に、突然仏教僧が現れ、悠然と托鉢を行っている。一体これは何なんだ。思わず財布の中の小銭を喜捨する。私の手首には、ハジャイの老僧に巻いてもらった、黄色い糸が未だ巻かれている。この糸が巻かれているかぎり、私も仏教徒の端くれだろう。別に教義の真髄を理解しているわけではないが。
第15章 ユーラシア大陸最南端の都市・ジョホール・バルへ 5月22日日曜日。今日はジョホール・バル(Johor Bahru)に向う。いよいよマレー半島縦断の旅も最終局面である。「J.B」の愛称で呼ばれるジョホール・バルはマレー半島最南端、即ちユーラシア大陸最南端の都市である。KLに次ぎ、マレーシア第2の人口を擁する大都市である。 1997年11月16日、この都市の夜空に日本人サポーターの歓喜の雄叫びが響き渡った。サッカー日本代表がイランを破り、初めてワールドカップへの切符を手にしたのはこのジョホール・バルにおいてであった。延長後半14分、野人・岡野のシュートが相手ゴールにを突き刺さった瞬間は今でも忘れられない。 朝、8時過ぎ、タクシーでマラッカ郊外のバスターミナルへ行く。幾つものバス会社の窓口が並んでいるが、J.Bへのチケットは簡単に入手できた。バスは横3列座席の高級車、しかも6割ほどの乗車率であった。途中15分のトイレ休憩を挟み、バスは高速道路を南に南にとひた走る。窓外の景色は2日前とまったく変わらない。どこまでもどこまでも油椰子のプランテーションが続く。この油椰子の実から採れる油脂はパーム油と呼ばれ、マーガリンなどの食用加工油脂原料やフライ油、石鹸や界面活性剤などの原料に使われる。マレーシアはこのパーム油世界生産量の約50%を担っている。 やがてバスは高速道路を下り、マラッカを出発してから約3時間半、J.B郊外のバスターミナルに到着した。大きなターミナルで人々で混雑している。多くの都市において、バスステーションは都心からかなり離れた郊外にあり、かなり不便である。勝手が分からないのでタクシーで都心に向う。ジョホール・バル鉄道駅周辺が街の中心地である。いくつかの高層ビルが建ち並び、その谷間を雑踏がうめている。案内書によると、このJ.Bはマレーシアで最も治安が悪い都市で、特に鉄道駅周辺は注意とある。降り立った中心部は、得体のしれない人間がうろうろし、案内の通り、何か怖い感じである。 駅前の安宿に入る。かなりひどい宿で、壁やエレベーターは落書きだらけ、廊下には煙草の吸い殻が散乱している。部屋の中はゴキブリが走り廻っている。まぁ、1泊だから我慢しよう。
J.Bにはたいした見どころはないが、中心部から3キロほど西にあるアブ・バカール・モスク(Abu Bakar Mosque)に行ってみることにする。1892年にスルタン、アブ・バカールによって建てられたモスクである。海岸沿いの道をとぼとぼと歩きだす。左側は海、右側は公園風の広場となっている。車の往来は多いが人影は薄い。 しばらく進むと、制服を着た男が寄ってきて、並んで歩きながら、「どこから来た」「どこへ行く」などとしきりに英語で話しかける。かなりの胡散臭さを感じ、ちょうど右手にベンチがあったので、「オレはここで休んでいくから、先に行ってくれ」と、私は立ち止まった。男は少し先に進んだ後、立ち止まって私の様子を窺っている。周りに人影もなく何となく嫌な感じである。私はベンチに座り、灰皿があったので煙草に火をつけた。途端に男が小走りでやってきて、「ここは禁煙だ。お前は違法行為をしたのだからオレと一緒に来い。オレはこういう者だ」とすごみながら何やら身分証明書を見せる。ちらっと見ると○○セキュリティーと書かれている。これはちとヤバイ。「No!」と一言叫んで。一目散に逃げた。しばらく男は追いかけてきたが、途中で諦めた。危ない所であった。やはりこの街は怖い。
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