おじさんバックパッカーの一人旅   

マレー半島縦断とジャワ島の旅(2)

繁栄する小国から、もがき続ける大国へ

2005年5月23日

    〜29日


 
   第16章 シンガポールへ

 5月23日月曜日。今日はシンガポール(Singapore)を目指す。距離的にはジョホール・バル(J.B)からわずか1キロほど先の街だが、その間に国境という目に見えない関門がある。マレー半島とシンガポール島はジョホール水道で隔てられているが、今ではコーズウェイと呼ばれる橋で結ばれている。正確にいうと、コーズウェイは橋ではなく陸橋であるらしい。即ち、シンガポール島はマレー半島と陸続きになってしまったようである。コーズウェイには、立派な自動車道路とともに鉄道も敷設されている。

 朝8時、ザックを担いで宿をでる。何を血迷ったか、シンガポールまで歩いて行く気になっている。昨夜案内書を見ていたら、コーズウェイには歩道もあると書かれていた。ところが歩道入り口が分からない。あっちで聞き、こっちで聞き、散々うろうろした揚げ句、シンガポールからは歩いてJ.Bへ行けるが、その逆はできないことが分かった。やはりバスで行かざるを得ないようだ。

 鉄道駅横のマレーシアのイミグレーションに行く。マレーシア・パスポート、シンガポール・パスポートの窓口は多くの人で混雑しているが、その他パスポートの窓口は誰もいない。若い審査官が、「こっちこっち」と私を手招きする。彼は、私の手続きをしながら、何と軍歌「暁に祈る」をハミングし始めた。皮肉のつもりなのか、歓迎の意思表示なのかーーー。「その歌は昔の日本軍の歌だから、Noだ」というと、にこにこしている。手続きを終え、バスに乗る。シンガポールへ向うバスは次々とやって来るので待つほどのこともない。

 バスはコーズウェイを渡っていく。「今、国境を越えている」と思うと、軽い興奮を覚える。橋を渡り終え、バスを降りてシンガポールのイミグレーションに行く。マレーシアのイミグレーションとは比べ物にならないほど立派な建物である。何事もなく入国は許可された。いつも国境を越えるたびに思うのだが、日本のパスポートの威力は絶大である。日本のパスポートを持つかぎり、まず無条件で入国は許可される。まさに、日本という国の国際信用力のたまものである。

 再びバスに乗り、中心部に向う。シンガポール訪問は6度目であるが、うち5度は仕事、1度はパック旅行であったため、それほど土地勘はない。どこかで途中下車して、地下鉄にでも乗り換えたほうが効率的なのだろうが、バスが何処を走っているのかもよく分からない。終点のクィーン・ストリート・バスターミナルまで行くつもりである。

 シンガポールに入った途端に、景色も雰囲気もがらりと変わった。人工的な美しさを評価基準とするなら、この都市は世界で最も美しい都市だろう。まさに公園都市である。渋滞することのない、ゆったりした道路。至る所に配置された緑豊かな公園。美しい街並み。未来都市のような超高層ビル群。行き交う人々の服装は確りしており、しゃべられる言葉は英語である。まさに非の打ち所のない理想都市である。東南アジア的猥雑さは微塵もない。赤道直下のこの熱帯の地に、なんという都市をつくりあげたのだと、ほとほと感心してしまう。ゆえに、私はこの街になじまない。物価も高く、特に見たいところもない。インドネシアに向うための通過地点として、やむを得ずやって来た。したがって、1晩でこの都市を去るつもりでいる。

 乗客は途中で次々と降り、バスは3人ほどの乗客を乗せて、小さな、閑散としたバスターミナルに着いた。冷房完備のバスから降りると、さすが赤道直下、肌を焼く熱線が頭上から振りかかる。「さてどうしよう」。ベンチに座り案内書を開く。どこかホテルを見つけなければならないが、あてはない。シンガポールのホテルはどこも宿泊料が高く、バックパッカーには極めて居心地の悪い都市である。それでも、チャイナタウン辺りに行けば1泊5000円程度のホテルがありそうである。

 その時ハッと気がついた。シンガポール・ドル(S$)をまったく持っていないのである。国境で両替するのを忘れている。これでは、歩く以外、移動もできない。地図を眺めると、近くの地下鉄ブギス駅付近が繁華街になっている。そこまで行けば両替商かATMがありそうである。腰を上げるが、どっちが南でどっちが北なのかさっぱり分からない。周りを見渡し、何とか方向を特定する。

 ようやく両替商を見つけ、地下鉄に乗ってチャイナタウンに向う。1泊50S$(約3250円)の宿を見つけほっとする。部屋は狭いが清潔で、J.Bの宿とは雲泥の差である。まずやらなければならないことは、ジャカルタまでの航空券の手配である。できれば明日の便を確保したい。早速街に飛びだし、何軒かの旅行代理店を訪ねたのだが、不思議なことに、皆、閉店である。今日は5月23日の月曜日、おかしいなぁと思い、ホテルに帰り尋ねてみると、昨日の日曜日が祝日であったため、今日の月曜日は振替休日とのこと。これには参った。シンガポールに2泊しなければならないとはーーー。
 

   第17章 シンガポールの華人

 午後からはすることもない。この街には特に行ってみたいようなところもないし、オーチャード通りをぶらつく柄でもない。とはいっても、宿で寝ているわけにも行かない。あてもなく街に出る。犬も歩けば棒に当たるであろう。

 周囲は見事なまでにショップハウスの家並みが続いている。この景観は一見の価値がある。まさに歴史的文化財である。チャイナタウンの名称から、ごみごみした繁華街を想像したのだが、現実はショップハウスの落ち着いた街並みであった。そもそも、華人の国・シンガポールに、なぜチャイナタウンがあるのだと思っていたが、ようやくその理由を理解した。

 シンガポールは人口の80%が華人である。即ち、華僑・華人の国である。移民が国の主人公となってしまった珍しい国である。しかし、シンガポールの華人はもはや華人でも華僑でもない。この意味では、タイの華人・華僑と同様である。以前、シンガポールの飲み屋で、ホステスに対して『Are you a Chines or Malay ? 』と愚にも付かない質問をしたことがある。ところが、彼女からは『No ! I am a Singaporean 』との毅然とした答えが返ってきた。今でも強く印象に残っている。華人が華人であることをやめ、インド人がインド人であることをやめ、マレー人がマレー人であることをやめ、皆、シンガポール人になることによりこの国は成立し、発展した。

 1例を挙げるなら、各々の民族が運営していた華語校、タミール語校、マレー語校のいずれの学校も、政府が強制したわけでもないのに、1980年代に姿を消してしまうのである。すべての子供たちが英語校に通いだすのである。今なお各国で、国中の国を造り、強固に自分たちのコミュニティーを守り通している華人が、シンガポールにおいては自ら進んで華人であることをやめるという劇的な現象が起ったのである。したがって、もはやこの国では、民族問題は存在しない。とはいっても、各民族は先祖から伝わる伝統や文化をすべて捨て去ってしまったわけではない。シンガポール人としての範囲内において、今なお大事に守り続けている。このことは、チャイナタウンに点在する中国寺院、モスク、ヒンズー教寺院のにぎわいをみれば理解できる。

 シンガポールでは許可された場所以外では屋台の出店は禁止されている。その許可された一角が地下鉄チャイナタウン駅前にある。夜になると、屋台(というより野外食堂と呼ぶほうがふさわしいが)が、道一杯に開店し、人々で多いに賑わう。今晩の夕食はここでとることにする。ビールを飲みながら、中華料理ともマレー料理ともつかない料理をほお張る。昼間はSingaporeanになり切っていた人々も、ここでは先祖返りをしたような賑やかさで、各々の料理にかぶりついている。
 

   第18章 シンガポールの歴史を思う

 5月24日火曜日。朝、真っ先に旅行代理店に行く。早くこの街を脱出しないと資金がもたない。何しろマイルドセブンが1箱11S$(約715円)もするのであるから、ヘビースモーカーにとっては地獄である。何が何でも明日はジャカルタへ行くつもりである。ガルーダ航空、シンガポール航空、タイ航空の便があるが、1番安いタイ航空のジャカルタ往復の1ヶ月オープンチケットを280S$(約18,200円)でを購入する。

 さて、今日1日どうするか。あてもなく街をぶらつく以外なさそうである。シンガポール最古のヒンズー教寺院であるスリ・マリアマン(Sri Mariamman)寺院、同じく、シンガポール最古の中国寺院であるシアン・ホッケン(Thian Hock Keng)寺院などを見学しながら、足は自然とシンガポール川の方向に向いた。今日も朝からカンカン照りである。この街は、高層ビルのひしめく街中にあっても、至る所に木陰と小さな公園がある。時々ベンチで休みながら歩き続ける。40分も歩くと、シンガポール川の辺に出た。周辺はホテルや高層ビルが建ち並んでいる。その一角に、「ラッフルズ上陸記念の地」があり、ラッフルズの銅像が建てられている。川岸の木陰に座り、シンガポールの歴史に思いを馳せる。

 1819年、インドから中国に至る海上交通の中継港を探していた英国東インド会社の書記・ラッフルズが、この地に上陸したときからシンガポールの歴史は始まった。それまでは寂しい漁村であったらしい。彼はこの地を無税の自由港とし、シンガポール繁栄の基礎を築く。その後、自由港の魅力に引かれ中国やインドから多くの商人が集まり、シンガポールは瞬く間に東南アジア随一の貿易港に成長する。さらに、後背地のマレー半島が錫の採掘とゴムの栽培により発展するに連れ、それらの集散地としての役割も果たすようになり、それに連れて、中国、インドからの移民はますます増える。しかし、各々の民族は各々のコミュニティーを造り、母国の言語、宗教、生活習慣を守り通したので、シンガポールはさながら小さなモザイク国家となってしまう。

 1955年、英国から自治権を与えられ、1963年には、マレーと合併し、マレーシア連邦の建国に参加する。しかし、わずか2年で、マレーシアから追い出され、まさに孤立無縁の状態となる。このときが、シンガポールの国家としての最大の危機であった。外からは、隣りの大国・インドネシアが領有権を主張して武力併合の構えを見せ、内にあっては、失業者の群れと各民族の対立を抱えていた。この危機の中、シンガポールにとって幸運であったのは、リー・クアンユーという傑出した指導者を持ったことだろう。彼は強い指導力により、この危機を乗り越える。このときから、奇跡とまでいわれたシンガポールの大発展が始まるのである。

 地下鉄に乗って、リトルインディアと呼ばれる地域に向う。名前の通り、インド系の人々が多く住む地域である。彼らもまた、中国系の人々と力を合わせ、シンガポールの発展を支えてきた。今や完全なSingaporeanである。駅を降りると、何やら懐かしい街並みが広がっていた。雑然とした、東南アジアの下町の匂いがぷんぷん漂う街である。「あぁ シンガポールにもこのような街がまだ残っていたのか」。何やら嬉しくなってしまった。
 

   第19章 インドネシアの首都・ジャカルタへ

 5月25日水曜日。朝起きると雨が降っている。今日はいよいよインドネシアのジャカルタ(Jakarta)へ向う。フライトの出発時刻は15:40、それまでどうやって時間を潰すか悩む。この街には、もはや行きたいところもない。お昼前、地下鉄に乗って空港に向う。チャンギ国際空港は何度か利用しているので、勝手は知っている。しかも、空港の案内板にはすべて日本語標示がなされている。空港内をぶらぶらしながら時間を潰す。昨日、炎天下を歩きすぎたためか、どうも身体が重く、食欲もない。

 TG413便は定刻通り、ジャカルタに向って飛び立った。座席は7〜8割埋っている。インドネシアは初めてであり、何となく不安がある。しかし、笑顔絶やさぬ機内乗務員と接すると不安も氷解してくる。やはり、タイは微笑みの国である。久しぶりに聞くタイ語の機内放送も耳に心地よい。「やっぱのタイ航空はいいなぁ」と1人悦に入る。考えてみると、マレーシアは笑顔の少ない国であった。ジャカルタまで1時間45分の飛行である。

 配られたA/Dカードに記入しようとしていたら、突然、空席二つ隔てた横の座席に座っていた若い女が、「私が記入してあげるからパスポートをよこしなさい」と英語で声高に話しかけてきた。あまりにも突飛な申し出だったので、一瞬ぽかんとする。単なる親切心なのか、それとも何かたくらみがあるのか。いずれにせよ、A/Dカードぐらい自分で記入できるし、命の次ぎに大事なパスポートを他人に渡すわけにはいかない。答えは「No Thank You」である。 

 ジャカルタ着16時25分。シンガポールから西に移動したにも関わらず、時差は逆にマイナス1時間。ジャカルタの時差はタイと同一である。時計の針を1時間遅らせる。まずはArrival Visaの申請である。インドネシアは2004年2月より日本人に対しVisaの取得を義務づけた。言うなれば、外貨が欲しいために入国税を徴収し始めたということである。1ヶ月滞在で25US$、決して安い金額ではない。インドネシアも落ちぶれたものである。現在、日本人にVisa取得を義務づけている東南アジアの国は、カンボジア、ラオ、ミャンマー、ヴェトナム。それにインドネシアが加わった。いずれも貧しい後進国である。申請窓口には10人ほどが並んだ。私以外は皆、欧米人であった。

 次に入国審査、カウンターの前は長蛇の列となっている。続いて税関検査。X線検査だけなのだが、ここも長蛇の列である。見ていると、ものすごく要領が悪い。片隅に灰皿があったので、1服していたら、何と! 、空港の係員が次々と寄ってきて、「1本くれないか」。まったく、なんという国なんだ。賄賂を要求されなかっただけましなのかも知れないが。

 ビザ取得、及び入国審査の際に、いずれも帰りの航空券の提示を求められた。その意味ではかなり厳しい。ようやく入国手続を済ませ、両替所でインドネシア・ルピー(RP)を取得して外に出る。既に日が暮れて真っ暗、おまけに雨がざぁざぁ降っている。これは困った。エアポートバスにでも乗って都心まで行き、どこか安宿を探すつもりでいたが。こんな状況の中で、未知の街をうろつくことはできそうもない。ホテル予約カウンターに行き、案内書に記載されているいくつかの安宿の予約可否を聞いてみたが、「中高級ホテルきり予約できない」との答え。傍らに男がいて、私が挙げたいくつかの安宿を知っているから案内するという。タクシーの運転手らしい。都心まで高速代込みで、100,000RP(約1400円)で行くという。案内書には高速代別で70,000〜100,000RPとあるから、まぁまぁの値段なのだろう。彼に頼むことにする。周りは人込みでごった返している。それにしても、ルピーの単位の大きいのには多いにまごつく。US$に対して二桁も大きい円に対し、さらに二桁も大きいのだから。

 運転手は「車を回すから○△で待っていろ」というのだか、初めての空港、○△が分からない。すると運転手は若い男を連れてきて、「彼に案内させる」という。待つほどに車はやってきたのだが、何と、ワゴン車の白タクである。白タクとは思わなかった。これはちょっとヤバイ。とはいっても、今更逃げ出すわけにもいかない。若い男が荷物を積み込みながら「料金100,000RPを払ってくれ」というので彼に100,000RP渡す。車に乗り込むと、今度は運転手が同じことをいう。「今、若い男に支払った」と言った瞬間、運転手が血相を変えて、去っていった若い男を追いかけた。しばらくして、100,000RPを取り返して戻ってきた。私は、2人は仲間だと思っていたのだが、若い男はその辺にいたプータロウであったらしい。危ないところであった。

 雨のためなのか、高速道路は激しく渋滞していた。やがて車は高速道路を降り、市内に入った様子なのだが、雨に煙る車外は灯も少なく、ネオンなどまったく見えない。とても大都会とは思えない。しかも、相変わらず大渋滞が続いている。だんだん不安が募ってきた。乗っているのは白タクである。どこかに連れ込まれ、金を脅し取られたとて抵抗できそうもない。無事に着いてくれと、神に祈る気持ちとなる。やがて車は大通を離れ、場末のような細い道に入っていく。不安が極限に達した。その時、車が停まり、運転手が「着いた」という。みると、目的のホテルの看板が見える。おもわず、ふぅぅと息を吐きだす。助かった!  空港を出発してから2時間である。ホテルは朝食付きで1泊150,000RP(約2100円)、まぁまぁの値段である。
 

   第20章 独立広場

 5月26日木曜日。朝食をすますと、すぐに街に飛びだした。目の前に未知の街が広がっている。最も興奮を覚える瞬間である。私の今いるところはジャカルタの安宿街として有名なジャラン・シャクサである。ジャカルタの中心地の近くに位置しているが、細い裏寂れた1本の道の両側に、ゲストハウスや簡易食堂、旅行代理店などが並んでいるだけである。バンコクの安宿街・カオサンのような賑わいはない。

 まずは、ジャカルタのど真ん中に位置する独立広場(Merdeka Square)を目指す。歩いて15分ほどである。今日も朝からカンカン照りである。車の往来の激しい大通りを2本横切り、広場に達する。1辺700メートルほどの四角形の実に広大な広場で、木々や芝生で公園風に整備されている。その広場の真ん中に独立記念塔(モスナ)が高々と聳え立っている。137メートルあるという。台座部分は博物館になっており、頂上は展望台になっている。広場は閑散としていたが、すぐに土産物売りの男が寄ってきて、しつこくつきまとう。モスナへの入り口が分からず、うろうろする。広場の北端に入り口が有り、地下道となって広場を横切り、モスナに通じていた。まずは博物館に入る。インドネシアの歴史が写真パネルで展示されている。ここの展示品の目玉は、スカルノ初代大統領手書きの「独立宣言」である。しかも、係員が操作すると、宣言を読み上げるスカルノの肉声を聞くことができる。ちょうど見学に訪れていた小学生たちとともに、独立宣言を読み上げるスカルノの力強い肉声を聞く。まさに、インドネシア史、いや、20世紀の世界史を飾った歴史的瞬間である。一種の感動を覚える。余談であるが、この独立宣言に記載された日付は「05.8.17」となっている。05年とは、皇紀2005年のことである。インドネシアの独立宣言は日本軍の全面協力のもとに発せられたのである。

 1945年8月17日、スカルノは世界に向って高らかにインドネシアの独立を宣言した。しかし、この宣言は、以降4年にわたって続く、激しい独立戦争の始まりを意味した。人々は武器をとり、再植民地化を目指し武力侵攻してきたオランダに対し、泥沼の戦いを挑む。この戦いに勝利し、真の独立を成し遂げたのは、1949年のことである。インドネシアの独立は流血の中から生まれたのである。

 エレベーターで展望台に昇る。さすが2億3千万の人口を擁する国の首都、モヤで霞んだ視界の彼方まで街並みが続いている。その中に、いくつもの超高層ビルが天に向って伸びている。眼下の景色は、昨夜感じた、灯もなく寂しい街との印象とは大違いである。北方を眺めると、遠くに海が見える。ジャカルタ湾である。現在のジャカルタが、港町・バタビアの発展した姿であることに改めて気がついた。明日行ってみよう。

 独立広場を出て、周辺のいくつかの見どころを巡る。周辺の道路は、さすが首都の中心部だけに、4〜6車線もある立派な道路であり、しかも一方通行が多い。この大通りを、乗用車やオートバイが、群れをなして、疾風のごとく走り廻っている。道路に歩道はあるのだが、横断歩道はまったくない。道路が渡れないのである。特に交差点では絶望的な状況に追い込まれる。たとえ信号があっても、左折右折は赤信号でもOKらしく、車が途切れない。もはや命がけで、車の渦の中に身を投げ出さざるを得ず、心身ともにへとへととなる。

 2本の尖塔を持つカテドラル・カトリック教会(Gereja Cathedral)を見た後、イスティクラル・モスク(Mesjid Istiqlal)へ行く。1961年から実に17年掛けて完成したという、東南アジア最大のモスクである。異教徒はこのモスクは入ることができない。モスク入り口には番人がいて入場者をチェックしていた。私が近づくと、「モスクへ入るのか? 」と問う。どうやら、私が信者なのか、観光客なのか判断に迷ったらしい。「ムスリムでないが、入ってもいいのか? 」と笑いながら答えると、慌てて手を振った。

 ジャカルタの中央駅のひとつ・ガンビル(Gambir)駅に行く。翌々日、列車でバンドンへ移動するつもりなので、チケットを入手する必要がある。しかし、英語表記がまったくなく、窓口も幾つもあり、どうしていいのかさっぱり分からない。案内書にも、「インドネシア語が多少とも分からないと、チケットを購入するのは困難。近くの旅行代理店で買うべし」とある。早々に諦め、宿近くに幾つかある旅行代理店に行ってみるが、いずれも鉄道のチケットは扱っていない。さぁ、困った。やはり駅へ行って自力で得る以外なさそうである。

 覚悟を決めて、再びガンビル駅へ行く。構内をきょろきょろしながら歩くと、何人かの男が擦り寄って来る。「チケットならあるよ」。「どこまでいくんだい」。いずれも、ダフ屋や偽チケット売りの類いである。「No Thank You」と断り続けるが、駅員には英語も通じず、ほとほと困り果てる。人々の行動を注意深く観察すると、ひとつの窓口で、申し込み用紙とおぼしき紙を提出してチケットを得ている。おそらくここが予約窓口だろうと見当をつけた。しかし、片隅に置かれている予約申し込み用紙とおぼしき紙は、すべてインドネシア語。読めるわけがないが、諦めるわけにも行かない。案内書にあるインドネシア語ー日本語の対比表を見ながら、記入を試みる。「Nama」ーーー名前らしい。「Alamat」ーーー対比表にないが前後の関係より住所らしい。「Nama KA」ーーー列車名らしいが、バンドン行き列車の時刻表が分からないので記入できない。「Dari」はFrom、「KE」はTo と思われる。しかし後が分からない。

 やっぱり無理か。その時、天の助けが現れた。よほど見かねたのだろう。構内を警備している警察官の1人が寄ってきて、記入方法を教えてくれたのである。ただし、彼も英語はほとんど話せない。片言の英単語とジェスチャー。双方必死になれば通じるものだ。列車のタイムテーブルも片隅に張られていた。こうして無事にバンドンまでのチケットが手に入った。このチケットはまさに宝物に思えた。

 1日中ジャカルタの街を歩き回り、いくつかのことに気がついた。まずひとつは、「この国は本当にイスラム教の国なの」である。建前としては、人口2億3千万のうち87%がイスラム教徒であり、世界最大のイスラム教国家のはずである。しかし、街で見かける女性のうち、ネッカチーフで髪を覆っている女性はほんの少数。身体全体を覆い隠す服を身に着けている者など、まず目にすることができない。マレーシアに比べ、その信仰心はだいぶ薄いように見受けられる。

 次に、外国人にとって、気の抜けない、緊張を強いられる街であるということである。街を歩くと、得体のしれない人間が、日本語や英語で次々と話しかけてきて、緊張を強いられる。また接する人々も何か事務的で、親しみは感じられない。タイやラオス、あるいはミャンマーのように人心穏やかな国とは思えない。
 

   第21章 バタビアの面影を求めて

 5月27日金曜日。昨日でジャカルタ中心部の見学をほぼ終えたので、今日はコタ(Kota)地区に行ってみるつもりでいる。コタ地区とは、オランダがインドネシア植民地支配の拠点とした旧バタビアである。現在のジャカルタは、この港町・バタビアが発展拡大してできた都市である。

 ジャカルタの北の端・コタ地区と南の端の新興繁華街・ブロックMとを結び、トランス・ジャカルタと呼ばれるバスが走っている。このバスは専用車線を持っているので、ジャカルタ名物の渋滞には一切巻き込まれない。しかも、昼間は3分間隔で走っている。地下鉄や高架鉄道のないジャカルタでは最も便利な交通手段である。カメラと案内書だけをもってこのバスに乗り込む。

 到着した終点・コタ駅前は、凄まじい雑踏であった。古びたビルが雑然と並び、道路はそれこそびっしりと車で埋め尽くされている。この道の横断は、まさに命がけである。1人では絶対に横断できない。5人〜10人が徒党を組んで車の前に飛びだし、無理やり車を停めるのである。今まで、いろいろな国で車と歩行者の戦いを見てきたが、これほど過酷な戦いの場所を知らない。

 ともかく、コタ駅前の雑踏を突破して、道を北へ辿る。すぐに真っ黒な水が滞留する運河の辺に出た。運河沿いの道を北上する。人影はなく、怖いほど静かな道である。左側は運河、右側には、廃虚となった建物も含め、薄汚れた白壁の洋館が続く。時代が百年、即ちバタビアの時代に戻ったような景観である。これこそ、私が期待していた景色だ。うっとりしながら道を進む。毀れかけた跳ね橋が現れた。続いて見張り塔が現れる。いずれも、バタビア時代の遺物である。ミニバスとソンテウの集合場所を過ぎると、道は運河を離れ、ごちゃごちゃした庶民の街に入る。小さなモスクに、大勢の人が出入りしている。やがて人家が絶え、寂しい道となる。ときおり、地道の道を大型トラックが土煙を挙げて通り過ぎる。少々危険な雰囲気を感じながらも、なおも北上を続ける。船のザイルや錨などを扱う商店が現れる。道は再び運河沿いとなった。

 水門を越えると、ついにスンダ・クラパ港に達した。見よ!  運河に沿って、無数の機帆船が係留され、盛んに荷物の積み下ろしが行われている。ピニシと呼ばれる木造船である。あぁ この風景こそ、私が探し求めていたものだ。この風景こそが、バタビア繁栄を今に伝える風景だ。防波堤に座り込み、眼前に広がる風景をうっとりと見つめる。

 もと来た道を戻る。真昼の太陽が、南国の日差しを頭上に浴びせかける。コタ駅北の一角に石畳の広場がある。このファタヒラ広場がバタビアの中心地でる。広場は古風な洋館に囲まれている。いずれもバタビア時代の建物である。南側のひときわ大きな建物は1627年、市庁舎として建てられたもので、現在はジャカルタ歴史博物館となっている。広場の東は、旧バタビアの裁判所、現在は絵画・陶磁器博物館となっている。広場のベンチに腰掛け、バタビアの昔を思う。
 
 16世紀、ジャワ島西部にはバンテン(ジャカルタの100キロほど西の港町)を首都とするイスラム国家・バンテン王国が栄えていた。バンテンにオランダが初めて姿を現したのは1596年のことであった。1603年、オランダは既に根を張っていたポルトガルを追い出し、バルテンに商館を設ける。続いて1611年には当時ジャヤカルタと呼ばれていたバタビアにも商館を設ける。東インドでの交易権を巡ってオランダと覇を競っていた英国も同様にバンテン、ジャヤカルタに商館を設ける。オランダと英国の対立は次第に激化し、1618年にはバンテンにおいて、オランダは英国の商館を焼き打ちにする。これに対し英国は、バンテン王国と組み、ジャヤカルタのオランダ商館を攻撃するが、失敗。このことにより、ジャヤカルタに対するオランダの支配権が確立する。オランダはジャヤカルタをバタビアと改称し、以降インドネシア植民地支配の拠点とする。「ジャガタラお春」が1639年の鎖国令により日本を追放され、ジャカルタにやって来たのもこの頃である。

 その後オランダは、バンテン王国の内乱、中部ジャワの強国・新マタラム王国の内乱などに巧みに介入し、次第にジャワ島全土への支配権を強める。そして、1777年には、ついにジャワ島全体の支配権を握り植民地支配を完成させるのである。このオランダの植民地支配を打ち破ったのは1942年の日本軍のジャワ侵攻である。日本は、オランダをジャワから追放すると同時に、牢獄に捕らえられていたスカルノ、ハッタらの民族主義者を解放する。さらに、公用語をオランダ語からインドネシア語に変え、バタビアもジャカルタと改称する。これらの処置により、インドネシアの人々のナショナリズムは一気に燃え上がる。日本軍はわずか3年で敗退するが、民族意識に目覚めた民衆は武器を取り、再侵攻してきたオランダ軍に戦いを挑む。1945年の独立宣言、そして、激烈な独立戦争を経て、1949年、インドネシアは独立を勝ち取るのである。そして、この独立戦争には、武装解除された日本軍から秘密裏に多くの武器弾薬が供給されたといわれる。そして、故郷へ帰ることを諦めた多くの日本兵が、インドネシアの民衆とともに参戦した。その数は約1000人とも2000人とも言われている。インドネシアは現在においても、対日感情の最もよい国の一つである。
 

   第22章 ジャカルタのチャイナタウンにて

 コタ駅の南側一帯が、クロドッ地区と呼ばれるジャカルタのチャイナタウンである。古びた中小ビルが、雑踏の中に続いている。しかし、ここでは、他国のチャイナタウンのように、漢字の看板は見られない。知らずに通り過ぎれば、チャイナタウンであることに気がつかないであろう。このことが、インドネシアにおける華僑の立場を示している。インドネシアは、未だに華僑問題解決の出口を見いだせないでいる国である。

 オランダ植民地支配のもと、繁栄し続けるバタビアを目指し、多くの華僑が大陸からやって来た。彼らは現地に同化することを拒否し、独自のコミュニティーを築きながら、次第に経済的実権を握っていった。オランダもまた、華僑をインドネシア支配の道具として積極的に利用した。このため、インドネシア人の反感は、オランダよりもむしろ、搾取の前面に立つ華僑に向けられていった。

 1949年、インドネシア独立により、華僑の立場は逆転する。保護者・オランダは去り、彼らが見下し、搾取を続けてきたインドネシア人が政治的実権を握ったのである。ただし、主権を握ったインドネシア人も華僑の扱いについて悩み苦しむ。経済的実権は相変わらず華僑の手にあった。政府の政策は、「華僑同化政策」と「華僑追放政策」の間で揺れ動く。同化を拒否し、また経済的実権を固守する華僑に対し、民衆の反感は強まり、反華僑暴動が頻発する。特に、1965年に起った共産党によるクーデター事件・「9月30日事件」に際しては、多くの華僑が虐殺される。また、1998年、スハルト独裁政権を崩壊させた騒乱の際も、多くの華僑が焼き打ちに遭い、多数の犠牲者を出した。政治的に不安定な状況が生じる度に、民衆の反華僑感情が爆発するのである。そして、この華僑問題は今もって解決していない。インドネシアにおける国家統治の最大障害として今なおあり続けている。

 私の旅は、バンコクのチャイナタウンから始まった。そして、KLのチャイナタウン、シンガポールのチャイナタウンと巡り、今、ジャカルタのチャイナタウンにいる。もがき苦しみ、必死に華僑問題の解決に取り組んできた各国の様子をこの目で見てきた。

 タイは、その民族的特質を遺憾なく発揮し、いつの間にか華僑を飲み込み、すべてをタイ国民にしてしまった。マレーシアは、マレー人優位の前提のもとに、華僑を華人として認知し、法律的に一定の権利を付与することにより秩序を造りだした。シンガポールは、華僑が国の主人公になってしまうという、歴史の皮肉の中で、華僑自らが華僑・華人であることをやめ、シンガポール人になるという脱皮を経て、ひとつの国家を建設することに成功した。そう見てくると、インドネシアの国家建設の失敗は、華僑問題解決の失敗が大きな要因になっているといわざるを得ない。
  
  ※ この文章を書いている最中の7月9日付け朝日新聞に、次のような記事が載っていた。
    
    『 タイのタクシン首相が今月初め、中国公式訪問中に、家族
     とともに客家(ハッカ)人の故郷として知られる母方の原籍地、
     広東省梅州の農村を訪れ、自らのルーツをたどった。
      タクシン首相は華人の家系で、タイに移住して4代目。丘達新
     という中国語の名前もある。母はタイ生まれだが、第2次大戦中
     には、兄弟らとこの村に帰り、2年間暮したこともある。
      一族の墓に参り、「先祖がどんなところで暮していたのか、
     子供に見せたかったんだ」と感無量だった。
      一方、故郷に錦を飾ったVIPの訪問に地元は沸き立ち、獅子舞
     や爆竹で熱烈歓迎した。築200年の旧居も残っており、親族も健
     在。首相は片言の客家語を使ってあいさつ、老人には伝統の赤い
     袋に入れた「お小遣い」を振る舞った。』
 
 日本において、首相が中国出身で、中国名まで持ち、中国に凱旋するなどということが許されるだろうか。そう考えると、タイがいかに完璧に華僑問題を克服したかが分かる。
    

   第23章 バンドンへの列車の旅

 5月28日土曜日。今日はバンドン(Bandung)に向う。苦労して入手した列車のチケットは、ガンビル駅発8:20、バンドン着11:16、特急Parahyangan号のビジネスクラスである。料金は45,000RP、約630円である。早めにガンビル駅に行く。駅では、タイやマレーシア、あるいはミャンマーの鉄道と異なり、改札が行われている。ホームのベンチに座り、出入りする列車を眺める。驚いたことに、日本の電車がたくさん走っている。見慣れたシルバーシートがあり、弱冷房車の標示がある。日本の中古車が大量にインドネシアで活躍しているのである。

 インドネシアの鉄道はエクセクティフ(Eksekutif)、ビジネス(Bisnis)、エコノミー(Ekonomi)の三つのクラスに分かれている。うち、エクセクティフとビジネスが指定席である。やってきた列車はディーゼル機関車に引かれたエクセクティフ4両、ビジネス4両の8両編成である。ビジネスクラスの指定された席に乗り込む。冷房はなく、天井で扇風機が回っている。2人掛のシートはビニール張りで、リクライニングはない。1番目に付くことは、窓ガラスの半分近くが、石が当たったと思われる傷で、大きなヒビが入っていることである。

 定刻8:20分に列車は発車した。私の横の席は空席である。車窓を眺め続ける。どこの国でも、大都会の線路脇にはスラムが広がっている。次の駅で、ムスリム姿の若い女性が隣の席に座った。30分も走ると、ようやく郊外に出た。景色が一変する。広々とした田圃がどこまでも広がっている。ただし、熱帯の2期作、3期作の国、田圃の状況はばらばらである。田植えをしたばかりの田、青々と稲の茂る田、黄色く色づき刈り取りを待つばかりの田。家々はすべてオレンジ色の瓦屋根とレンガを漆喰で固めた白い壁である。南国の強い日差しに実によく映える。現れる集落には、必ずタマネギのような屋根を持つモスクがある。

 やがて列車は小さな駅で停まった。単線のための列車のすれ違いのようである。途端に物売りが殺到する。それと同時に、子供たちが窓に群がり、「カネ」をねだるのである。ミャンマーにも同じような光景があった。嫌な光景である。断ると、列車に向って石を投げる。多くの窓ガラスにヒビが入っている理由がわかった。

 ただいち面に田圃の広がる景色がどこまでも続く。「瑞穂の国」の名称はインドネシアの方がふさわしい。田圃をぼんやり見つめていて、ひとつのことに気がついた。家畜の姿がまったく見られないのである。イスラムの国・インドネシアに豚がいないことは理解できる。しかし、これだけ広大な田圃があるにも関わらず牛馬の姿がまったくない。もちろん、耕耘機の姿もない。どうやら、この広大な田圃は、人力で耕されている気配である。わずかにヤギの姿だけ見られた。以降も、注意深く観察したのだが、農村において牛馬の姿はまったく見られなかった。また、都会においても、犬の姿がまったくない。むしろ猫の姿が多い。他の東南アジアの国々と比べ、何か不思議な感じがした。
  ※帰国してから分かったことだが、ムスリムは犬を悪魔の使いとして敬遠するとのことである。

 やがて平地が尽き、列車は山間に入っていく。トンネルがあった。いままで、タイ、マレーシア、ミャンマーでずいぶん鉄道に乗ったが、トンネルは初めてである。列車はカーブを繰り返しながら次第に高度を上げる。バンドンは標高700メートルの高地にある。やがて街並みが現れ、列車は定刻通りバンドン駅に滑り込んだ。

 出口での改札は行われていない。人波に押されて駅舎の外に出る。その途端に、大勢のタクシーの運チャンに取り囲まれる。まだ昼前、慌てることはない。石段に腰を下ろし、まずは1服である。しばらくすると人波は引いた。暇になった運チャンの何人かが、私を取り囲む。彼らに「どこか安くてよいホテルはないか」と問い掛ける。1人が「○○ホテルがいい」と言うと、その背後で、もう1人が眉に唾をつける仕草をしながら目で私に合図する。あっちだ、こっちだとの話しになり結論は出ないが、だいたいの状況は分かった。私は腰を上げる。「タクシーに乗っていけ」と一応は勧めたが、私が「ジャラン・ジャラン」というと、それ以上の無理強いはしなかった。「ジャラン・ジャラン」と言う言葉は私が最初に覚えたインドネシア語である。「散歩」とか「徒歩」を意味する。

 この街は何となく、ジャカルタに比べ人心穏やかな感じがする。バンドンはスンダ人の中心都市である。スンダ人もマレー系民族ではあるが、ジャワ人とは人種を異にする。約2200万人の人口を擁し、約6000万人のジャワ人に次ぐインドネシアの主要民族である。礼儀正しい穏やかな民族として知られ、またこの地は美人の産地とも言われている。
 

   第24章 歴史を飾った街・バンドン

 適当なホテルを見つけ、荷物を置くと、すぐに街に飛びだした。行く先は決まっている。アジア・アフリカ会議博物館である。この博物館を訪れたくて、わざわざバンドンにやって来たのだ。1955年4月、この街に20世紀の世界史を飾ったアジア・アフリカの巨人たちが続々と集まった。スカルノ、ナセル、周恩来、ネール、ーーー。日本を含む29ヶ国、いずれも新興の意気に燃える独立まもない国々であった。日本以外はすべてその国の首脳が出席した。そして、この会議で、世界に向って高らかに発せられた平和10原則(バンドン10原則)は、その後の世界史の流れに大きな影響を与えた。おそらく20世紀最大の国際会議であったろう。今年4月、このバンドンでアジア・アフリカ会議50周年の記念会議が開かれた。日本からは小泉首相が出席した。しかし、50年前のあの熱気に満ちた会議とはほど遠いものであった。当時の出席者で今生き残っているのはカンボジアのシアヌーク前国王だけである。

 目指す会議場に到着した。平屋建ての割合質素な建物である。現在は、アジア・アフリカ会議博物館として、公開されている。しかし、何たる不幸!  建物の入り口の戸は堅く閉ざされているではないか。今日は土曜日、休館日となっていた。がっかりして入り口の石段に座り込む。明日の日曜日も休館である。縁がなかったと諦めざるを得ないのか。街中をあてもなく彷徨う。人口200万人を超える都市ではあるが、高層ビルもなく、街の中心部は平凡である。しかし、最初に感じたように、この街の人々は実にフレンドリーである。目が合えば必ず気持ちのよい微笑みが返ってくる。 

 バンドンの歴史において、もうひとつ忘れてならないのは、愛国歌「ハロー・ハロー・バンドン」である。インドネシアの第2の国歌として、人々に親しまれている。国際競技で劣勢に立ったとき、応援席からこの歌声がわき上がると、インドネシアの選手は見違えるように生き返ると言われる。

 1945年、独立宣言はしたものの、インドネシア軍には武器も弾薬も食料もなかった。あるのは燃え盛る愛国心だけであった。近代的武器を携え、再侵略してきた英蘭連合軍に各地で苦戦を強いられる。1946年、バンドンに対する英蘭軍の一斉攻撃が始まった。インドネシア軍はバンドンの街に火を放ち、いつの日か必ずバンドンに戻ることを誓いながら山岳地帯へと撤退するのである。このとき唄われた歌が「ハロー・ハロー・バンドン」である。スカルノが、アジア・アフリカ会議の開催場所としてバンドンを選んだのも、この故事とは無縁ではない。

 ふと気がついて、駅に行く。明後日、列車でジョグジャカルタへ行くつもりである。チケットを取得しておく必要がある。予約申込書はガンビル駅と同じであった。もう迷うことはない。顔見知りのタクシーの運チャンが心配そうにのぞき込んだが、すらすらと記入して窓口へ。あっさりチケットは手に入った。

 ホテルの食堂で夕食をとる。他に客はおらず、係の女の子がつきっきりで給仕をしてくれる。ニコニコした愛嬌のある子だ。歳を聞くと23だという。「ムスリムか」と聞くとYesと答えた。「それにしてはネッカチーフで髪を隠していないではないか」と問うと、「そんな格好悪いことーーー」と、思わぬ答えが返ってきた。どうもインドネシアのムスリムは信仰心が薄いようだ。
 

   第25章 タンクバン・プラフ火山

 5月29日日曜日。朝、目を覚ますと激しい雨音が聞こえた。今日は特に予定もない。再び惰眠を貪り、9時過ぎに起きる。雨も止んだようだ。ふと、タンクバン・プラフ火山(Tangkuban Perahu)に行ってみようかという気になった。バンドンの北に聳える標高2076メートルの活火山である。山頂まで車で行くことができる。バンドンの街はこの火山の裾野にある。ジャワ島は世界有数の火山の島である。2〜3千メートル級の活火山が幾つも聳えている。思い出にひとつぐらい登っておくのも悪くない。視界さえよければ、市内からこの山を仰ぐことができるのだが、昨日も今日も夏霞みに遮られ、まったく姿を見ることができない。

 駅まで行って車をチャーターする。200,000RP(約2800円)だという。高いが仕方がない。1人旅はこういうときに高く付く。車はスズキの四輪駆動車である。市の中心部を抜けると、並木の美しい街並みが広がっていた。さすがインドネシア有数の文化都市である。バンドンの街は北から南に緩やかに傾斜している。したがって、北へ進むに従い市街地を眼下に見るようになる。

 ときおりヘアピンカーブをまじえ、車はグイグイ坂を登っていく。レデン(Ledeng)の小さな街並みを抜け、やがてレンバン(Lembang)の街並みに入る。馬車がたくさん走っている。街並みを抜けると人家もまばらになり、鬱蒼とした松林が現れる。入山料徴収のチェックポイントを過ぎると、道は本格的な登りに転じる。やがて、火山特有の赤茶けた景色となり、バンドンを出発してから約1時間、車はあっさり山頂の駐車場に着いた。目の前には大きな火口が口を開け、底からは白煙が立ち上っている。付近には土産物屋が建ち並んでいる。火口を1周できる登山道が設けられており、約1時間の行程とのことだが、溶岩のゴロゴロした道はサンダル履きではちょっと無理である。岩道を1峰まで登ってみる。残念ながら雲が多く、下界を展望することはできない。小1時間雄大な景色を楽しんだ後、バンドンに戻る。明日はいよいよジョグジャカルタへ向かう。
 
 (マレー半島縦断とジャワ島の旅(3)へ続く)

 

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