おじさんバックパッカーの一人旅   

マレー半島縦断とジャワ島の旅(3)

二つの古都と二つの遺跡、そしてブンガワンソロ

2005年5月30日

    〜6月6日

  
 

  第26章 ジョグジャカルタへの列車の旅

 5月30日月曜日。今日はジャワ島中部の古都・ジョグジャカルタ(Yogyakarta)を目指す。7時間の列車の旅である。定刻7:00、特急Argo-Wilis号はバンドン駅を出発した。今回は奮発してエクセクティフ・クラスの座席である。冷房完備、座席もリクライニングが利く。概ね、日本の特急列車の普通座席と同じである。いい具合に隣りは空席で、二人分の座席を占有できた。

 車両に禁煙の表示は特にないが、座席に灰皿もない。先日乗ったビジネス・クラスでは、窓が開け放されていることもあり、何人かは座席で喫煙していた。しかし、冷房車であるエクセクティフ・クラスでは、さすがに座席で喫煙する人はおらず、デッキに出て吸っている。車両には前後にトイレがあり、男女共用の洋式便座である。車内放送は一切ない。このエクセクティフ・クラスの車窓も、半分近くが投石でヒビが入っている。しばらくすると、何と、紅茶のサービスがあった。さすがエクセクティフ・クラスである。

 ぼんやりと車窓を見続ける。ただ、ただ、田圃が広がっている。平地はもちろん、山あいの谷間も田圃である。人類は、何百年、いや、何千年掛けて、このジャワ島の大地をすべて耕しつくし、田圃に変えてしまった。何という執念、そら恐ろしいほどの人間の営みである。ジャワ島で米作が始まるのは紀元前後と言われ、インドからもたらされた。

 昼時になると、何と、食事が配られた。これには驚く。いくらエクセクティフ・クラスといえども、インドネシアの鉄道で食事のサービスがあるとはーーー。買っておいたパンと水は無駄になった。後の座席のおばちゃんが、二人分の座席に寝っころがりながら、大声で唄を歌いだした。特急列車のエクセクティフ・クラスといえども、ローカル列車のエコノミー・クラスの雰囲気である。

 ほぼ定刻の14時、列車はジョグジャカルタの駅に滑り込んだ。また、新たな未知の街にやって来た。不安と期待が交差する。人込みとともにホームから出ると、いつもの通り、タクシーとペチャの運転手が殺到する。「さてどうしよう」。ザックを降ろし、辺りを見回していると、男が近寄ってきて、印刷物を示して何かしきりに訴える。よく聞いてみると、ゲストハウスの勧誘である。どうせ、どこか安宿を見つけなければならない。部屋を見てから決めることを条件に、勧誘に乗ってみることにする。車に乗せられ、着いたところは安宿街のプラウィロタマン地区。大きなゲストハウスで、朝食付き1泊125千RP(約1750円)。ここに決めた。ジョグジャカルタには2泊する予定である。

 
   第27章 ハイエナとハゲタカの徘徊する街・ジョグジャカルタ

 ジョグジャカルタは一般的には「ジョグジャ」と呼ばれている。王宮を抱える古都であり、また近くにボロブドゥール、プランバナンという有名な世界遺産があることからインドネシア最大の観光都市として知られている。言うなればインドネシアの京都である(実際にジョグジャカルタと京都は姉妹都市協定を結んでいる)。私は、古都にふさわしい街を期待してこの地にやって来た。すなわち、古風にして上品、かつ、文化の香り高い、情緒あふれる街である。今回の旅で1番期待の大きかった街である。しかし、その期待は瞬く間な裏切られた。実情はーーー。これほど下品で、恐怖に満ちた街とは誰が想像したであろう。インドネシア最悪の街であった。以下、如何に下品か、どれほど恐怖に満ちているか書き記す。

 ジョグジャの街にはタクシーは少なく、街中の移動は「ペチャ」と呼ばれる人力車に頼ることになる。自転車の前に二人乗りの座席を取り付けた乗り物で、マレーシアでは「トライショー」と呼ばれている。このペチャが街中溢れ返っている。辻辻には必ず数台のペチャが客待ちしている。このペチャの運転手の勧誘が尋常ではない。車から声を掛けるなどという生易しいものではない。車を離れ、どこまでもどこまでもつきまとうのである。時には、数百メートルにわたってつきまとう。断っても、怒鳴りつけても、速足で逃げても、方向を変えても、諦めない。恐怖を覚え、走って逃げたこともある。ジョグジャの街中を、彼らにつきまとわれずに50メートル歩くことは不可能である。

 また、価格交渉の末、ペチャに乗ったとしても、まともに目的地には行かない。土産物屋に連れ込まれるか、金を払う段になって再びゴネだす。その結果、恐怖心と、しつこさに負けて、+αの金を払わざるを得なくなる。また、お釣りは、絶対によこさない。1部の悪徳運転手だけの行為ではない。すべてのペチャがこのようである。

 ペチャの運転手とは別に、街中には至るところに、土産物売りが徘徊しており、ペチャの運転手に負けずに、しつこくつきまとう。また、得体のしれない輩が、いかにもフレンドリーに片言の日本語や英語で話しかけてくる。その人数が他の都市と比べて異常に多い。うっかり心を許そうものなら、身ぐるみ剥がれることは目に見えている。

 この街を歩くと、心身ともにくたくたになる。まさにハゲタカとハイエナの徘徊する街である。古都の風情など微塵も感じられない。
 

   第28章 ジョグジャカルタの街

 部屋に荷物を置くと、いつもの通りすぐに街に飛びだした。その瞬間から、ペチャ運転手につきまとわれた。最初は「No thank you, No thank you」と軽い気持ちで断っていたのだが、エヘラエヘラしながらどこまでもつきまとう彼らに異常を感じだす。1人を振りきっても、すぐに次がつきまとう。どうにもまともに歩けない。次第に怒りが、続いて恐怖心が湧いてくる。宿に逃げ帰った。夕食後、散歩に出ると、今度は「Girl, Girl」と、つきまとう。ちなみに値段を聞いてみると、「Four Hundred Thousand」との答えが返ってきた。

 5月31日火曜日。早朝4時、街中に響き渡るアザーンに眠りを破られた。「アッラーフ アクバル、アッラーフ アクバル(アッラーは偉大なり、アッラーは偉大なり)、ハイヤー アッラサラー(礼拝をしよう)、アッサラート ハイルン ミナン ナウム(礼拝は睡眠よりまさる)」。アザーンは旅心を著しく刺激する。今日は1日、ジョグジャ市内を見学する予定である。「しかし、大丈夫だろうか」。昨日の状況が頭に浮かび、何となく気が重い。

 まずは、王宮に行きたいが、歩いて行くには遠すぎる。ペチャを利用せざるを得ない。逆にペチャに乗ってしまえば、つきまとわれずにすむとも考えた。G.Hの前にたむろしているペチャと交渉する。20千RPだという。ずいぶん吹っかけてきた。事前に宿で確認したところ相場は7〜8千RPと聞いた。余りもめるのも嫌なので、10千RPで手を打つ。10千RP札を示して「これだぞ」と、くどいほど念を押して乗り込む。ところが、王宮に着くまでの20分間ほど、「お土産物屋に寄ろう。チップをくれ」とまるで毀れた録音テープのごとく言い続ける。その度に「No」と返事をせざるを得ない。黙っていると「Yes」と解釈される危険がある。ほとほと疲れた。

 ようやく王宮に着き、玄関前の前庭に入る。ここまではペチャの運転手も追いかけてこない。ホッとひと息ついたのも束の間、今度は得体のしれない輩が、いかにも親しげに、次々と話しかけてくる。差し当たり具体的な要求をしてくるわけではないので、「No thank you」とも言えず、処置に困る。早々に王宮に逃げ込む。

 ジョグジャの古都としての歴史はそれほど古くはない。1755年、ソロに都のあった新マタラム王国が内紛によりふたつに分裂し、ジョグジャカルタ王朝が成立したときに始まる。都としての歴史は高々250年に過ぎない。しかし、古都としてのイメージはソロよりジョグジャの方がはるかに強い。独立戦争の際、真っ先にスカルノのもとに馳せ参じたのはジョグジャの王家であった。このため、1946年から1949年までの独立戦争の期間、インドネシアの首都であった。一方、ソロの王家は日和見主義を通した。このため、人々の心はジョグジャ王家に流れた。そして、「ジョグジャガルタ王朝こそ、ジャワの正統王朝であり、ジョグジャこそインドネシアの古都である」とのイメージがいつしか出来上がった。

 受付で英語または日本語のガイドを雇うことを勧められたが断った。私は自分のペースで見学することを好む。王宮は平屋建てで、いわゆる「王宮」のイメージからはほど遠い。オープンエアーの広間がただ幾つも並んでいるだけで、「贅を尽くして」と言う印象はない。王宮の中には、腰に剣を差し、ジャワ伝統の服装をした人々がたくさんたむろしている。アブディダルムと呼ばれる王宮の従者である。王宮が王宮でなくなり、博物館となった今も、ボランティアとして王宮を護っている。このアブディダルムになることがジョグジャの人々の誇りである。

 何気なくひとつの建物を眺めていたら、そばにいた若い男が、「ここはKingの御殿、この裏にQueenの御殿があるよ」と、それとなく英語で話しかけてきた。王宮の中ということもあり、私の警戒心は薄れていた。何となく彼の後について行った。そこは見学コースの外らしく、入り口のドアは閉められていたが、彼はそれを押し開け、中を案内してくれた。「出口はこっち」と小さな門を出ると、そこはもう王宮の敷地外で、細い路地が入り組んだ住宅地であった。「オレの家はそこなんだ。ちょっと寄っていけよ」。男はさも自然に話しかける。ここにいたって、私の警戒心が警笛を鳴らした。案内書にはジョグジャカルタの安全情報として、「知りあった男と食事をして、睡眠薬を飲まされ、そのまま昏睡死した」との事例が載っている。私は、「いや、王宮に戻る。ここで別れよう」と言って、足早に立ち去ろうとするが、男は「王宮まで案内する」と言ってついてくる。隙を見て逃げた。危ないところであった。

 王宮の北側は何もない広大な広場になっている。王宮の儀式が行われた場所で、独立戦争の際には軍事教練が行われたという。同様の広場は王宮の南側にもある。この北側広場の北側にソノブドヨ博物館がある。ジョグジャを中心とする中部ジャワ地方の文化を広く紹介している。この博物館を見学した後、タマン・サリ(Taman Sari)に向う。水の宮殿と呼ばれる離宮である。博物館前にいたペチャが「5千RPでいいから乗っていけ」という。ずいぶん良心的なペチャもいるものだと喜んで乗ったが、到着すると、なんだかんだ言ってお釣りをよこさない。

 タマン・サリは真っ白な漆喰で固められた洋館風の建物で、真ん中に大きなプールがある。このプールで王宮に仕える女官達が水浴びをしたという。案内書には「王はその様子を周りの建物の隠し窓から眺め、今晩床をともにする相手を選んだ」と艶めかしいことが書かれている。白い壁と青い水が、差し込む強い日差しを反射し、目にまぶしい。

 歩いてG.Hに戻ることにする。かなり遠いが、ベチャに乗るとかえって疲れる。方向感覚を頼りに歩き出したのだが、思ってもみなかった桃源郷に迷い込んだ。ジョグジャガルタ市域のうち、王宮を中心とした1辺1.2キロほどの四角形の地域が城壁で囲まれている。おそらく、この城壁で囲まれた地域が初期の王城の範囲であったのだろう。もちろん現在は、街のすべての機能はこの城壁の外にある。この城壁の中の街に迷い込んだのである。細い路地が入り組み、マッチ箱を並べたような街並みが続いている。人影は薄く、まるで眠っているような街である。もちろん、ペチャもいない。辺りはジャスミンの香りが濃く漂っている。うっとりしながら、路地から路地へと歩き続ける。ジョグジャにおいて、ここだけが、まさに古都の風情を残す唯一の街であった。

 ジョグジャの伝統工芸として有名なのがバティック(ろうけつ染め)である。「ジャワ更紗」の名で、江戸時代より日本でも知られている。宿の近くのティルトディプラン通りには、この工房が集まっている。行ってみることにする。そろそろお土産も買わなければならない。通りに入ると、例によって1人のペチャの運転手がつきまとい、どうにも離れない。近くにあった工房に逃げ込む。再び路地にでる。今度は得体のしれぬ人間が、道路の反対側を私と平行にどこまでもついてくる。私が止まれば止まり、急げば急ぐ。言葉は発しない。相当怖い。またもや近くの工房に逃げ込む。工房では製品の販売とともに、工場見学もさせてくれる。製造工程はまさに女性達の手作業である。布に蝋で模様を手際よく描いていく。
 

   第29章 ボロブドゥールへ

 6月1日水曜日。朝起きると、手足に無数の赤い斑点。痒くはないが、南京虫の仕業である。まったくもって、このジョグジャではいいことがない。いよいよ今日はボロブドゥールへ向う。この旅のハイライトである。バンコクを出発する際、何が何でも、ボロブドゥールまでは行き着くと、堅く心に誓っておいた。ついにその時が来た。

 ボロブドゥールは、ジョグジャから車で1時間半ほどの距離にある。従って、観光客の多くは、ホテルの整ったジョグジャをベースとして、日帰りで訪れる。しかし私は、ボロブドゥールで2泊するつもりでいる。世界三大仏教遺跡と言われるボロブドゥール遺跡を、隅から隅まで、この目で確り見てくるつもりである。

 まずは、ジョグジャのバスターミナルまで行かなければならない。G.Hで確認すると、最近、かなり郊外に、新たなバスターミナルが建設されたとのことである。G.H前にたむろしているペチャと煩わしい値段交渉をする。25千RPの言い値を15千RPまで値切って、ともかく出発する。しかし、出発した途端に、「バティックの店に寄っていこう。銀細工の店に寄っていこう。ターミナルは遠いから15千ではいやだ」と言い続ける。こちらは「No No No」の連呼である。ターミナルは思った以上に遠かった。ついに、ペチャは途中で止まってしまった。15千では行かないとゴネだす。チップをはずむからとなだめすかして、何とかターミナルに到着した。真新しい大きなターミナルである。
 
 「ボロブドゥール、ボロブドゥール」と連呼しながら、バスを尋ね歩く。「向こうだ、もっと向こうだ」と教えられながら、ようやく目指すバスに辿り着いた。バスはすぐに出発した。もちろん、外国人は私1人である。小さなオンボロバスで、運転席を覗いたら、配線は剥き出しで、計器はどれひとつ動いていない。。このバスが時速100キロもの猛スピードでぶっ飛ばすのである。空中分解しないか心配になる。車掌に「ボロブドゥールまで」と言うと、「20千RP」と答える。思わず日本語で、「馬鹿野郎、舐めるな !」と、怒鳴りつける。すると、にやっと笑って「10千RP」と言い直す。まったくもって、公的交通機関でさえこのありさまである。いったいどういう国なんだ。案内書には「インドネシアはヴェトナムと並んで価格交渉の厳しい国。バス料金も価格交渉」とある。

 途中、ムンティラン(Muntilan)の街で10分ほどのトイレ休憩をし、ボロブドゥールの小さなバスターミナルに到着した。途端に、ペチャとバイタクの運チャンが押し寄せるが、「No thank you」である。実は、泊まるべきホテルは決めてある。周辺に幾つか安宿はあるのだが、マノハラ・ホテルという285千RP(約4000円)もする高級ホテルに泊まるつもりでいる。このホテルだけは、ボロブドゥール史跡公園の中にある。従って、ボロブドゥール遺跡に入場料を払わずに何回でも入れる。遺跡への入場料は1回10SU$もする。このホテルに泊まることが、結果として安くつく。

 15分ほど歩き、ホテルに行ってみると、広大な敷地の中にバンガローが点在する、実に立派なホテルであった。Tシャツにサンダル履き、ザックを担いだ無精ヒゲのオッサンが、予約も無しにのこのこ行くホテルではない。それでも、にこやかに迎えてくれた。部屋も完璧である。今夜は久しぶりにバスタブに浸かることができる。ベランダに出てみると、広々とした芝生の庭の向こうに、ボロブドゥール遺跡が見えるではないか。もう、飛び上がらんばかりに嬉しくなった。
 
 
   第30章 謎多き遺跡・ボロブドゥール

 ボロブドゥール遺跡は、イスラム世界の中にぽつんと取り残された巨大な仏教遺跡である。世界三大仏教遺跡の一つとされ、1991年には世界遺産に登録された。碑文等により、この遺跡は西暦780〜833年にかけてシャイレーンドラ王朝により建設されたと考えられている。しかし、9世紀後半のシャイレーンドラ王朝の滅亡とともに忘れ去られ、1814年に再発見されるまでの1,000年間、密林の中に眠り続けていた。今なお多くの謎を秘めた遺跡である。

 遺跡は高さ23センチの安山岩のブロックを100万個もピラミッド状に積み上げたの巨大な石造建築物である。基壇部分は1辺120メートルの正方形で、その上に5層の方形が積まれ、さらにその上に3層の円形が積まれている。最高部には巨大な仏塔が鎮座している。基部からの高さは35メートルある。5層の方形部分は回廊となり、その壁には1460面に及ぶ仏教説話に基づいた精巧な彫刻が施されている。また432体の仏像も安置されている。3層の円形部分には72個の小さな仏塔(ストゥーパ)が並び、この中にも仏像が安置されている。そして、この巨大な建造物の内部には空洞はない。

 この巨大な石造物がいったい何であるのか、未だ論争に決着がついていない。有力な説は、「仏塔」説と「霊廟」説である。仏塔であるなら仏舎利が埋められているはずだし、霊廟なら王の遺骨が埋められているはずである。いずれにせよ、このような建造物は世界に例がない。

 最大の謎は、この中部ジャワの地に、あまりにも突然に、これほどの仏教遺跡が現れることである。中部ジャワ地方は5世紀頃からヒンズー教の世界を形成していた。ところが、突如として8世紀中頃、仏教を国教とするシャイレーンドラ王朝が興る。そして瞬く間に、このボロブドゥール仏教遺跡を築き上げるのである。遺跡をみるかぎり、この王朝は高い建築技術と仏教に対する深い造詣を既に持っていたと考えられる。でなければ、これほどの建造物を造りえるものではない。ならば、突如現れるこの王朝の源は一体どこにあったのであろう。大きな謎である。

 
   第31章 ボロブドゥール遺跡にて

 カメラだけ持って、すぐに部屋を飛びだす。芝生の庭を横切り、小さな門を抜けると、そこはもう聳え立つ巨大な遺跡の正面である。つきまとう土産物売りを振り切り、階段を基壇まで登る。足下から頂上に向って、急な石段が一直線に伸びている。登り口には、一対の狛犬(タイではシンハー、ミャンマーではチンテと呼ばれる)が鎮座している。仏教国なら、当然、ここで履物を脱ぐのだろうが、そのような処置はとられていない。一気に急な石段を上り詰める。頂上に達した。バンコクを出発してから17日目、「我、ついにボロブドゥールに到達せり」。気分は一気に高揚する。

 頂上からの眺めは絶佳である。眼下には椰子の茂る密林が続き、遠くに山々が霞んでいる。ただし、夏霞が濃く、残念ながらムラビ火山の優雅な姿は見ることができない。頂上の一角に座り込む。周りには多くの見学者がいる。欧米人や日本人の姿も多く見られるが、大部分はインドネシアのムスリム達である。1000年の昔、繁栄を極めた仏教の国も、今はイスラムの国になってしまった。この遺跡もアフガニスタンにあったら爆破されてしまったろうに。事実、1985年には、イスラム教徒過激派により1部が爆破されるという事件も起っている。

 しばしの感傷にふけった後、各回廊の彫刻を眺めながら歩き廻る。精緻にして精巧な彫刻に、ほとほと感心する。アンコールワットの彫刻も素晴らしかったが、ここの彫刻はそれより500年も前のものである。いったいこの技術はどこから来たのだろう。歩きながらふと気がついた。「このボロブドゥールの遺跡は明らかに曼陀羅だ。仏塔でも霊廟でもない。この地に仏教の宇宙を立体的に描いたのだ」。歩き続けるうちにこの思いは確信に変わった。基壇まで下り、改めてボロブドゥール遺跡全体を眺める。「思ったより小さいなぁ」と感じた。アンコールワットやバガン寺院遺跡などと違い、単一の建造物のためだろうか。

 いったんホテルに戻る。すると、元気のよい日本人のオバチャン2人組みに出会った。シンガポール経由で今到着したところだという。バリ島からわざわざ呼び寄せたというガイドを伴っている。豪勢な旅行である。続いて、3人組の女の子に会う。「ジョグジャから車でやってきて、明日も車が迎えに来る手はず、すべて旅行社に手配を頼んである」と、こちらも豪勢である。私は路線バスに乗って、1人であっちへ行ったり、こっちへ行ったり。しかし、どっちの旅が楽しいかーーー。部屋に帰ってまずは洗濯である。

 夕方、再度遺跡に行く。このホテルに泊まっているかぎり、何度行ってもタダである。頂上に座り込み、この遺跡を建造したシャイレーンドラ王朝に思いを馳せた。不思議な王朝である。ジャワ島に現れた史上唯一の仏教国である。ヒンズーの海の中に突如現れた仏教国、いったいどこからやって来たのだろう。しかもこの王朝は、現れると同時にものすごい勢いで膨張を始める。現在のインドネシア共和国の領域をはるかに越え、マレー半島、インドシナ半島も支配下に収め、アフリカ大陸の東にあるマダガスカル島まで勢力を伸したらしい。東南アジア史上空前絶後の大国となるのである。しかも、建国からわずか100年で、あっという間に姿を消してしまう。不思議な国である。このボロブドゥール遺跡は、まさにシャイレーンドラ王朝の忘れ形見である。やはりこの遺跡は曼陀羅なのだろう。

 次第に足下のジャングルが暗さを増し、西の空が赤く染まりだす。残念ながら雲が多く、大地に沈む夕日は見えそうもない。係員が、「もう、クロウズだ」と、下ることを促している。
 

   第32章 ボロブドゥールの夜明け

 6月2日木曜日。夜明け前の4時、モーニングコールで起される。これからボロブドゥール遺跡に日の出を見に行こうというのである。マノハラ・ホテルがその立地のメリットを生かし、サンライズ・ツアーを企画している。遺跡公園の開門は6時、しかし、遺跡公園の中にあるマノハラ・ホテルの宿泊者は、それ以前に遺跡に行くことができる。4時30分、ホテルのフロントにツアー参加者20人ほどが集まった。何と、半分は日本人である。各々に懐中電灯が配られる。

 懐電の灯を頼りに遺跡を登る。晴れてはいるが、モヤが深いとみえ、数個の星がぼんやりと見えるだけである。頂上の一角に座り夜明を待つ。下界に明かりは見えず、わずかに、送電線の赤い灯が遠くにまたたいている。ふと気がつくと、微かに東の空が明るくなってきたようだ。やがて遠くの山の端が微かに浮かび上がる。星はいつとはなしに消えていった。夜明けは近い。

 東の空は明るくなったが、振り返ると、西の空は未だ夜の帳に包まれている。眼下は、ただただ、黒い闇にの中に沈んでいる。それでも、遺跡の頂上のあちこちに陣取る人々の姿が黒く見えるようになってきた。多くが、カップルだ。肩を寄せ合い、東の空を見つめている。

 時が加速を始めた。見る見るうちに空の色は黒から濃紺、紺、青と変わっていく。そして、暗闇の中から黒々とした密林が姿を現す。白い気体が、あちらこちら立ち上り、密林の上を薄く覆い始める。密林の中に点在する家々の朝餉を準備する煙だろう。瞬間、一筋の光が、空間を走る。ご来光だ。真っ赤な太陽が、地平線にたなびく雲の間から姿を現した。沸き上がる歓声と拍手が遺跡にこだまする。
 

   第33章 ボロブドゥール巡礼

 ボロブドゥール遺跡は、実は単独で存在するのではなく、関連する二つの遺跡を伴っている。ひとつはボロブドゥール遺跡から真東に1750メートルの所にあるパウォン寺院、もうひとつは、さらに真東1150メートルの所にあるムンドゥ寺院である。三つの遺跡は一直線上に並んでおり、昔は、これらを結ぶ参道が存在し、ムンドゥ寺院→パウォン寺院→ボロブドゥールという巡礼コースがあったと思われる。これら二つの寺院を訪ねてみることにする。

 ボロブドゥール遺跡からパウォン寺院遺跡に真っすぐ伸びる広い道を進む。おそらくこの道は昔の参道と重なるのであろう。今日も朝から猛烈な暑さである。20分も歩くと小さな集落に突き当たる。案内書の地図を確認していると、庭先にいたおばさんが、「Temple? 」と聞いて、入り組む道の先を指し示してくれた。インドネシアでは、一般庶民もこの程度の英語は話す。行ってみると、小さな石造りのお堂が、ぽつりと立っていた。近くの家の中から、土産物を抱えたおばさんが飛びだしてきた。お堂にはいくつかの彫刻が施されているが、内部には何も残されていない。

 次に、ムンドゥ寺院を目指す。この道は遠かった。現在、直線で結ぶ昔の巡礼路は残されておらず、大きく迂回しながら、車の通行の激しい道を行かざるを得ない。深い渓谷となった川を二つ渡り、40〜50分も歩くと、目指す寺院遺跡に到着した。大木の茂る広い境内に割合大きめの石造りのお堂が悠然と建っていた。ときおり観光客が訪れるのであろう、付近にはお土産物屋が幾つか軒を並べている。このお堂は見ごたえがある。壁は1面に精緻な浮き彫りで飾られ、内部には三体の仏像が残されている。中央が如来像、左右が観音像と文殊菩薩像とのことである。この仏像は、世界で最も美しい仏像のひとつとされ、シャイレーンドラ王朝の仏教文化の成熟度を示すものといわれている。やはりこの王朝は、この地に突然興った王朝とは思えない。入り口に控えていた係の人が、反射板を使って光を暗い堂内に導き、仏様の顔がよく見えるようにしてくれた。しばし、仏像に見入る。

 道を挟んだ遺跡の反対側に、まだ新しい仏教寺院があった。現在のインドネシアに仏教寺院があるとは思わなかった。本堂に上がり、金色に輝くご本尊に挨拶する。

 1000年の昔、ボロブドゥールを訪れる巡礼たちは、まずここムンドゥ寺院を参拝し、次ぎにパウォン寺院で最後の身支度を整え、そしてボロブドゥールへ向ったと言われる。帰路は、私も巡礼となってボロブドゥールを目指してみよう。来た道を引き返す、今日の日差しは半端でない。よくぞ熱中症にならないものだと自分自身感心する。パウォン寺院の横を通り、ボロブドゥール遺跡へと向う。しばらく進むと、前方に予期せぬ景色が現れた。道のはるか彼方の小高い丘の上に、ボロブドゥール遺跡が、降り注ぐ南国の太陽の光を浴びて、その全景を晒しているではないか。ハッとする光景である。巡礼たちも、この景色をこの場所で眺めたに違いない。そして、いやがうえにも、その宗教心は高まっただろう。

 そのままボロブドゥール遺跡に向う。基壇の下に立つ。今までは、ここから頂上まで一気に石段を登り詰めた。今回は、巡礼の作法をもって頂上に達しよう。まずは1段目の回廊を時計回りに3度廻る。最初は回廊内側上段の壁に彫られたレリーフを見ながらである。釈迦が生まれてから悟りを開くまでの場面が120枚の精緻な彫刻となって描かれている。2周り目は、内壁下段のレリーフを見ながらである。ここには釈迦の前世の物語が描かれている。そして、3週目は外壁のレリーフを見ながらである。2段目に上がる。同じくレリーフを見ながら時計回りに廻る。3段目を巡り、4段目を巡り終えて円段にでると、パット視界が大きく開ける。ようやく、中央に立つ大ストゥーパの基部に達した。辿ってきた巡礼の旅の終わりである。
 

   第34章 プランバナンへ

 6月3日金曜日。今日はプランバナン(Prambanan)へ向う。ここにはボロブドゥール遺跡と並び称されるヒンズー教の壮大な寺院遺跡がある。ジョグジャ行きのバスに乗る。来たときと同様、小型のオンボロバスであった。約1時間半でジョグジャのバスターミナルに着いた。ここで、ソロ行きのバスに乗り換える。いつもの通り、「ソロ、ソロ」と連呼して歩くうちにソロ行きのバスに辿り着いた。座席が横5列の、だいぶくたびれた中型バスである。バスはすぐに出発した。

 インドネシアの路線バスは実に面白い。まずは、ギター、あるいは他の楽器を抱えた若者がしょっちゅう乗り込んでくる。そして2曲ほど唄うと、投げ銭を集めて廻る。次は物売りである。菓子、本、文具、雑貨などを抱えた物売りがしょっちゅう乗り込んできて、有無を言わさず乗客全員に商品を配って歩く。そしてひと呼吸置いた後、再び客席を回る。乗客は、欲しければ金を払い、いらなければ商品を返せばよい。彼らは乗車賃タダのようである。また、新聞売りもちょくちょく乗ってくる。

 プランバナンはバスを途中下車しなければならない。一応、車掌には言ってあるが、バスはほぼ満員で、うまく降りられるか不安である。30分ほど乗ると、乗りあわせていたギター曳きが、「次の停留所だ」と教えてくれた。プランバナンは小さな村で宿泊環境は余りよくない。大部分の観光客は、ジョグジャまたはソロをベースにしてここを訪れる。私はこの村に2泊するつもりでいる。案内書によると、この村にも安宿が数軒ある。ボロブドゥールで立派なホテルに泊まったので、ここでは費用を節約しようと、1番安い宿へ行く。1泊朝食付きで45千RP(約630円)、何とも安い。ただし、冷房はなく、水シャワー。トイレも現地スタイルで、おまけに、ゴキブリが部屋中はいずり回っている。今晩はまた南京虫に悩まされそうである。それでも従業員は感じがよく、また、目の前が史跡公園で立地条件もよい。
 

   第35章 プランバナン史跡公園

 荷物を部屋に置くと、すぐに史跡公園に向った。入園料10US$を払い、公園内に入る。その瞬間、思わず立ちすくんだ。目の前に、いくつもの巨大な石の建造物が、まるで燃え上がる炎のように、天に向って突き上げているではないか。その巨大さ、その迫力、ーーー。しばし呆然と見とれる。これほど人を圧する遺跡に未だお目にかかったことがない。その迫力からすれば、ボロブドゥール遺跡など足下にも及ばない。アンコールワットも巨大であった。しかし、アンコールワットの巨大さは横方向への広がりであった。今目の前にするこのロロ・ジョングラン寺院は縦に、天に向ってそそり立つ巨大さである。これほどの建造物が9世紀に造られたとはーーー。

 ブランバナンは中部ジャワを象徴する火山・メラピ山(2914メートル)の南東の麓に位置する。同じく南西の麓に位置するボロブドゥールとは直線距離でわずか40キロの近さである。この地にいくつもの壮大な寺院遺跡があり、プランバナン寺院遺跡群として世界遺産に登録されている。寺院は、ヒンズー教寺院が中心であるが、いくつかの仏教寺院が含まれている。これら寺院遺跡群の中心となるのがロロ・ジョングラン寺院(Candi Lolo Jonggrang)である。現在、ロロ・ジョングラン寺院を中心とした一角が史跡公園として整備され、ボロブドゥール遺跡とともにジャワ島観光の目玉となっている。

 圧する迫力に抗して、ロロ・ジョングラン寺院に近づく。その中心にひときわ高く天を突き上げているのが主堂・シバ神殿である。高さは47メートルとのことだが、近づくと遠近感さえ失う。シバ神殿の左右にはプラフマ神殿、ヴィシュヌ神殿が主堂を護るかのごとくそそり立つ。いずれも高さ23メートルあるというる。これら三つの堂の前に、それぞれの神の乗り物となる神々を祀った三つの聖堂が並んでいる。シバ神には牡牛・ナンディー、プラフマ神には白馬・ハンサ、ヴシュヌ神には聖鳥・ガルーダ。これら大中小6つの聖堂を取り囲むように、224の小祠堂が、半ば崩壊したまま並んでいる。いずれの聖堂も、壁には1面に精緻な彫刻が施されている。

 まずはシバ神殿に詣でる。この聖堂は東西南北に4つの入り口を持つ。東の正面入り口を入るとシバ神が祀られた部屋に入る。4本の腕を持つシバ神はヒンズー教における最上位の神である。南の部屋には、アガスティア神、西には、象の頭を持つガネーシャ神、そして、北の部屋にはシバ神の妻であるドゥルガー神の官能的な像が祀られている。そして聖堂の壁はラーマーヤナ物語を題材とした精緻な彫刻で飾られている。
 

   第36章 サンジャヤ王国

 遺跡の石段に腰掛け、目の前にそそり立つ壮大なヒンズー教寺院を眺めながら、この神殿を築き上げたサンジャヤ王国(古マタラム王国)に思いをはせた。巨大な仏教遺跡・ボロブドゥール遺跡のほんの隣りに、これほど巨大なヒンズー教遺跡が、しかも、ほぼ同じ時代に建設されたとは、考えてみれば大変不思議である。

 中部ジャワでは5世紀頃からヒンズー教を国教とする幾つかの小国が興亡を繰り返していた。サンジャヤ王国もそんな小国の一つで、プランバナンの地に711年に建国されたと伝えられている。ところが、8世紀中頃、突如としてこの中部ジャワに強大な仏教王国が出現する。742年建国と伝えられ、ボロブドゥール遺跡を残したシャイレーンドラ王国である。その誕生の過程は未だ謎のままである。この王国はあっという間に膨張し、インドネシアばかりでなく、マレー半島からインドシナ半島まで支配下に収める東南アジア史上最大の超大国に発展する。

 この時代、サンジャヤ王国はシャイレーンドラ王国の支配下に入り、かつ、婚姻関係を通し、その有力な親藩として存在したらしい。当時、ヒンズー教と仏教は近い関係にあり、信ずる神の違いは、少なくとも王家の間では大した問題ではなかったようである。9世紀に入ると、さしものシャイレーンドラ王国の勢いに陰りが見え始める。ボロブドゥールの建設工事も833年以降は中止されてしまう。この状況の中、サンジャヤ王国との力関係も微妙に変化していったものと思われる。

 832年、シャイレーンドラ王国の王が死に、後継の王子がまだ幼児であったため、姉の王女が摂政となった。ところが、この王女の夫はサンジャヤ王国の王族出身であった。彼は次第にシャイレーンドラ王国の実権を奪い、かつ、サンジャヤ王国の国王の地位に就く。ここにシャイレーンドラ王国とサンジャヤ王国との力関係は逆転し、中部ジャワの覇者はサンジャヤ王国に変わるのである。サンジャヤ王国はその後、古マタラム王国へと発展する。ロロ・ジョングラン寺院が建設されたのは856年である。まさに、サンジャヤ王国がシャイレーンドラ王国から権力を奪った直後である。この建設には、自らの権威を誇る意味が込められていたのだろう。当然、ボロブドゥール建設の技術が惜しみなく使われたことであろう。

 中部ジャワの覇者となったサンジャヤ王国の繁栄も長くは続かなかった。10世紀の初め、メラピ火山の大爆発によりプランバナン一帯は溶岩と火山灰に覆い尽くされる。そして壮大なロロ・ジョングラン寺院も火山灰の中に忘れ去られるのである。この寺院が再発見されるのは1733年、オランダの探検家・ロンスによってである。
 

   第37章 仏教、ヒンズー教、イスラム教 

 ロロ・ジョングラン寺院を出て、史跡公園内を北に向う。今までの賑わいは嘘のように消え、人影はばったり絶えた。この先にもいくつかの寺院遺跡がある。公園内はよく整備されていて、所々に樹木が茂る広々とした草原が続いている。ルンブン寺院(Candi Lumbung)、ブブラ寺院(Candi Bubrah)の崩壊した小さな寺院遺跡を過ぎ、セウ寺院(Candi Sewu)に向う。草原ではヤギの群れが草を食んでいる。実にのんびりした風景である。

 1対のクペラの像が門を守るセウ寺院に到着した。クペラとは日本の寺院の仁王に相当する。門を守る神様である。ただし、その姿は相撲取りのように太り、ユーモアさえ感じられる。手には「ゴト」という鉾のような武器を持っている。セウ寺院はヒンズー教の匂いのする仏教寺院である。セウとは千を意味する。南北185メートル、東西165メートルの広大な境内に、240の小祠堂があり、中には仏像が安置されている。ただし、小祠堂のほとんどは未だ崩壊したままである。中央には高さ28.5メートルの中央祠堂が堂々と聳え立っている。ただし、かつて安置されていたと思われる仏像はなく、台座のみが残されていた。この寺院が建てられたのは8世紀後半から9世紀前半とされている。即ち、シャイレーンドラ王国が未だ健在の時代である。とはいえ、ヒンズー教王国であるサンジャヤ王国の領域にこれほどの仏教寺院が建てられたことも不思議である。

 ぶらりぶらりと、再びロロ・ジョングラン寺院に戻る。こちらは世界中から集まった観光客で賑わっている。地元の中学生や小学生の団体も多い。イスラム教徒が、自分たちの先祖が築き上げた壮大なヒンズー教寺院を見学している。「どんな気持ちなのだろう」などと、とりとめのないことを考えていたら、1人の女性が、「お願いがあるんですがーーー」と話しかけてきた。みると、後に女子中学生たちが控えている。ジョグジャの中学校の教師だと名乗る彼女の話しは次の通りであった。「学校での英語教育の一環として、『外国人と実際に英語で話してみる』という課題がある。ここは外国人が多いので、課題の授業を行うために、遺跡の見学をかねてやって来た。もし時間があるなら、生徒たちの相手をして欲しい」。一瞬ひるんだが、「私でよければーーー」との言葉が口から漏れてしまった。先生が合図すると、あっという間に20人ほどの女子中学生に囲まれた。

 インドネシアはイスラム教の国であるが、その規律はだいぶ緩いとみえ、ムスリムの服装をしている女性は少ない。それでも、女子中学生と女子高校生は、制服がムスリムの服装になっており、皆、頭から足先まですっぽり覆う服装をしている。顔だけのぞかせたこの服装が実にかわいい。まずは「How do you do」ときた。次ぎに「What is your name?」「 How old are you?」である。まぁ、中学生レベルの会話であるので、こちらも気楽である。通じないと、先生が一生懸命通訳する。小1時間彼女たちの相手をする。楽しいひと時であった。「インドネシアで英語の先生をした」。帰ってから自慢できそうである。
 

   第38章 プランバナン郊外の遺跡巡り

 6月4日土曜日。今日は宿のボロ自転車を借りて、プランバナン郊外の遺跡を巡るつもりである。まずは、街の南約3キロに聳えるボコの丘(Ratu Boko)に向う。自転車を麓に停め、丘を登る。入場料10US$も取られた。史跡公園と同じ料金。いくらなんでもこれは高すぎる。丘の上には広大な宮殿跡の遺跡が広がっている。城門の跡、宮殿の跡、沐浴場など。この遺跡は、9世紀前半の建造物と考えられているが、詳細はよく分からないらしい。いまだ充分に復元されておらず、至る所に崩壊した石塊が転がっている。不思議なことに、すべて基礎部分きり残っていない。どうやら、「神の家は石造り、人の家は木造り」という、東南アジアの原則がこの地でも適用されていたらしい。

 この丘の最大のセールスポイントは展望である。私もそれを楽しみにやって来た。高みに登って北を眺める。モヤで惚けた視界の先に緑豊かな平地が広がり、その中にロロ・ジョングラン寺院の尖塔がすっくと空に突き上げている。まさに絵になる光景である。ふと目を中空に移すと、微かに、微かに、メラビ火山が見えるではないか。嬉しくなってしまった。大きな大きな独立峰で、右肩が2段となった独特の山容をしている。史上何度も大噴火を繰り返した火山で、中部ジャワの歴史は、この火山に振り回されて来た。

 丘を下り、ジョグジャへ続く国道を西に向う。プランバナンの西郊外には、サリ寺院、カラサン寺院、サンビ・サリ寺院の3つの遺跡がある。今日も朝からカンカン照り、暑さは半端ではない。宿で遺跡に至るポンチ絵の地図をもらったのだが、縮尺も方向もかなりいい加減で、ちょっと役に立ちそうもない。まぁ、行けば分かるだろうと、かなりいい加減な気持ちでペタルを漕いでいる。どこかで、北(右)へ小道を入るのだがーーー。小1時間進んでみるが、さっぱり分からない。一番遠いサンビ・サリ寺院でも宿から7キロとなっているから来過ぎであろう。ちょっと絶望感を感じる。意地になって、北への小道を1本1本探りながら引き返す。幸運なことに、サリ寺院に行きあった。

 サリ寺院(Candi Sari)は3階建ての建物で、9世紀前半に建てられた仏教寺院と言われているが、中には何も残っていない。見た感じは寺院というより家屋である。このため、僧房であったのではとの説もある。1階、2階の外壁には天女を思わす見事な浮き彫りが彫られていた。

 続いてサンピ・サリ寺院を目指す。道はまったくわからない。あっちで尋ね、こっちで尋ね、10回以上も聞いたであろう。道はずいぶん遠かった。ようやく到着したときには、思わず心の中で万歳をした。サンビ・サリ寺院(Candi Sanbi Sari)寺院は9世紀建立と思われるヒンズー教寺院である。この寺院は、1966年、積もった火山灰の中から発掘された。農夫が畑を耕していて、遺跡の一部を見つけ、6メートルも掘り下げてみると、この寺院が現れたのである。おそらく、古マタラム王国を滅亡させた10世紀初めのメラピ火山の噴火により埋め尽くされたのであろう。寺院の内部にはリンガ(男根)が祀られていた。

 続いて、国道端にあったカラサン寺院(Candi Kalasan)を探り当てた。この寺院は、解説書によって、「仏教色の濃いヒンズー教寺院」、あるいは、「ヒンズー教の影響の濃い仏教寺院」となっている。要するに、仏教寺院とも、ヒンズー教寺院ともつかないのである。碑文によると、「西暦778年、ヒンズー教王国・サンジャヤ王国の国王と仏教王国・シャイレーンドラ王国の王女との婚姻を記念して、建立された」。まさに8世紀中頃から9世紀中頃にかけての、中部ジャワ地方の宗教的政治的特色を凝縮した寺院である。

 宿に戻る。さすがに疲れた。昼食後、今度は街の東にあるプラオサン寺院(Candi Plaosan)へ向う。自転車を走らせていくと、田圃の向こうに大きな寺院遺跡が見えてきた。二つの大きな祠堂がそそり立っている。10千RP(約140円)も入場料を取られ、中に入る。係員が付いてきて、祠堂の入り口の鍵を開け、中を案内してくれた。入場料の内かと思っていたら、最後に案内料だと言って20千RPも請求する。まったく、この国には「親切」などという無償の奉仕は存在しない。

 プラオサン寺院は9世紀の中頃建立された仏教寺院である。境内は広大で、ほぼセウ寺院と同じぐらいの規模がある。高さ22メートルの二つの大きな祠堂があり、南側の祠堂はかなり修復されていて、中に6体の観音像が鎮座していた。本尊は台座のみ残り、姿はない。北側の祠堂はかなり崩壊が進んでいるが、中に入ることはできた。二つの祠堂の周りは、まさに岩屑の山である。かなりの数の仏堂があったと思われるが、まったく修復はされていない。一角に数十体の仏像が集められていた。各仏堂に祀られていたものだとのこと。ところが、ほとんどの仏像に首がない。案内者の説明では、近世になって、イスラム教徒が切り取り、外国に売り払ってしまったとの話しである。この地では、8世紀から9世紀にかけて、仏教徒とヒンズー教徒が平和に共存していた。しかるに、宗教は時代が下がるに従い、狭量な邪教へと堕落していく。20世紀後半以降はその傾向が特に強い。現在でも、キリスト教徒とイスラム教徒が世界規模で殺戮しあっている。

 このプラオサン寺院も、カラサン寺院と同じく、シャイレーンドラ王国の王女とサンジャヤ王国の王子との婚姻を記念して建てられた寺院である。
 

   第39章 ラーマーヤナ舞踊

 宿の親父が、是非ともラーマーヤナ舞踊を見に行けと言う。これを見ずしては、プランバナンに来た甲斐がないと言う。ラーマーヤナ舞踊はインドネシアの伝統芸能として、ジョグジャやソロ等で上演されているが、プランバナン史跡公園隣接の野外劇場で演じられる舞踊は夙に有名である。大枚100千RP(約1400円)を払って見に行くことにする。

 開演は夜7時30分からなので、早めの夕食を済ませ、真っ暗な道を歩いて会場に向う。会場に到着し、思わず目を見張った。真っ暗な夜空に、ライトアップされたロロ・ジョングラン寺院が、まるで御伽の国のお城のごとく浮き上がっているではないか。それは、昼間見た、あの圧するような迫力とは異なり、優しく柔和な姿である。この御伽の城をバックに、これからインド古代神話の一大絵巻が演じられる。

 開演まで、まだしばしの時間があった。場内には、ジャワの伝統的衣服に身を包んだ若者が、場内整備員として多数立ち働いている。その中の1人を捕まえ、雑談する。「君はムスリムか」「Yes」「女房は何人いるんだ。ムスリムは4人までOKだろう」「1人だけさ。複数持ってるやつなんかいないよ」。小さな子供を連れた女性がやってきて、「あなた、何しているの」「あぁ、これがオレのたった1人の女房だ。この人、日本人だって」。「奥さんですか。ネッカチーフで、髪を覆わなくていいんですか。ムスリムの女性は、夫以外に顔を見せてはいけないとコーランに書いてあるのでは」。笑いながら、「そんな暑苦しい格好はーーー」。開演時間が迫ってきた。

 場内はほぼ満席である。皆、ジョグジャやソロからやって来たらしい。外国人も多いが、半分以上はインドネシア人である。照明に照らされながら優雅な舞踊劇が始まった。言葉はまったくわからないが、ラーマーヤナの筋書きはおおよそ知っているので、場面場面の意味は理解できる。猿王率いる猿の軍団が登場する。5〜6歳の小猿がおたおたしながら一生懸命演じている。途中で小猫が舞台に迷い込んだ。客席から笑い声が起こる。優雅な舞踊劇は、ガムランの響きをバックに、人々を陶酔の世界に引き込んでいく。背後にはロロ・ジョングラン寺院が暗黒の空にくっきりと浮かび上がっている。
 

   第40章 古都・ソロへ

 6月5日日曜日。今日は古都・ソロに向う。「バス停まで行かなくても、手を上げればバスはどこでも停まるよ」との宿の親父の助言に従い、宿の前でバスに乗る。中型のオンボロバスである。座席はほぼ満席であった。ソロまで1時間半の旅である。相変わらず、ギターを抱えた若者が次々と乗ってきては唄を歌い、物売りが商品を配って歩く。飽きることがない。豪華な長距離バスより、このようなローカルバスの方がはるかに楽しい。もちろん、外国人は私1人だが、乗客は気にする様子もない。いくつもの小さな街を過ぎる。その度に、乗客が入れ替わる。やがてバスは大きな街並みに入り、終点のソロ・バスターミナルに着いた。また、未知の街にやって来た。いったいどんな街だろう。

 いつもの通り、ペチャの運転手が集まってくる。しかし、ジョグジャで悩まされたしつこさはない。この街は希望が持てそうな予感がする。バスターミナルは街の北の外れにあるので、街までペチャを利用せざるを得ないが、時刻はまだ10時、慌てることはない。座り込んで、どこか安くていいホテルはないかと、運転手に相談する。プランバナンでは最低価格の宿であったので、少しはまともなホテルに泊まりたい。2、3候補が決まったので、部屋を見てから決めるということにし、言い値の10千RPを7千RPに値切ってペチャに乗り込む。途中、ジョグジャのペチャのように、土産物屋に行こうとも料金を上積みしてくれとも言わない。鉄道線路を横切り、王宮の脇を抜け、街の中心部のホテルに着いた。1泊朝食付きで130千RP(約1820円)、バスタブまである。ここに決めた。距離からして7千RPではかわいそうなので、10千RP渡すと、運転手は大喜びして、荷物をフロントまで運んでくれた。
 

   第41章 二つの王宮

 すぐに街に飛びだす。今日も朝からカンカン照りである。まずは、歩いて北の宮殿・マンクヌガラン王宮に行く。この街には、歴史的事情から王宮が二つある。王宮は高さ5メートルほどの漆喰の塀で周りをぐるりと囲まれている。南の広場を横切り、南門から入る。この王宮は1757年に建設された。現在は博物館として公開されているが、今も王家の末裔が住んでいるとのこと。受付で、ガイドを雇うことを求められる。雇わなくてもよいのだが、その場合見学範囲が制限されるとのこと。財宝宝石が多く展示されているので、その警備を兼ねるのであろう。日本語のガイドはいないとのことで、英語のガイドを頼む。「ガイド料はいくらか」と聞くと、「寸志で結構です」という。これが一番困る。相場がさっぱり分からない。ようやく20千RP以上と聞きだす。

 ガイドは上品な中年の女性であった。歯切れのよい英語をしゃべる。王宮内は、ジョグジャの王宮と同じような感じで、オープンスペースの大部屋が幾つも並んでいる。王室が集めた、各種の財宝が展示されている。陶器、書、各種装飾品、等々。指輪のところで、「インドネシア語で指輪はチンチンと言います」と、ガイドが笑いながら言う。続いて「これは黄金で作られたテイソウタイです。これが男性用、これが女性用」と、「貞操帯」だけ日本語で言う。私も男性用を見るのは初めてである。「どう使うのか分からないなぁ」と独り言を言ったが反応はなかった。実用品なのかそれとも単なる装飾品なのかは聞くのを忘れた。

 続いて南の王宮・カスナナン王宮に向う。国道を越え、繁華街を抜け、30分ほど歩くと、高い塀に囲まれた王宮に到着した。こちらの王宮の方が大きい。1745年の建造である。中庭を囲むように、ロの字型に大きな部屋が配置されている。塀際にある8角形の塔がひときわ目を引く。この塔の最上階で、王は年に1度、南海の女神と交接したとの伝説が残る。

 1745年、新マタラム王国の王・パク・ブウォノ2世は戦争で荒廃した王都・カルトロスを捨て、ソロに新しい都を築く。このとき建てられた王宮が南の王宮・カスナナン王宮である。さらにこのとき、ソロの名前をスラカルタと改称した。現在でもこの都市の正式名称は「スラカルタ」である。しかし、人々は未だにこの都市を「ソロ」と呼んでいる。以来、ソロは都であり続けた。

 1755年、王家内に内紛が起こり、、王家はスラカルタ王家とジョグジャカルタ王家に分裂する。この分裂は、王家の力を殺ぐためのオランダの陰謀であったといわれる。このとき以来、ソロとジョグジャの間には強烈なライバル意識が芽生えた。そしてその意識は今も続いている。ただし、1945年に始まる独立戦争までは、スラカルタ王家(ソロ)が本家で格上と見なされていた。しかし、独立戦争に対する両王家の対応の違いにより、インドネシア国民の心は、もはや回復しがたいほど、ジョグジャに傾いてしまった。ジョグジャカルタ王家が先陣を切って独立戦争に参戦したのに対し、スラカルタ王家は日和見を通したためである。以来、ジョグジャは「古都」として多いに発展し、ソロは1地方都市に落ちぶれるのである。今では、訪れる観光客の数にも大きな差が生じてしまった。

 1757年、スラカルタ王家はさらに二つに分裂してしまう。この時分離した王家がオランダの力を借りて新たに建てたのが北の宮殿・マンクヌガラン王宮である。この分裂もオランダの陰謀と言われている。
 

   第42章 ソロの街

 どこかで昼食をと思うのだが、この街には食堂が見当たらない。これには参った。二つの宮殿を見終えれば、この街には、特に「これという見どころ」はない。あてもなく街を歩き回る。未知の街を歩き回るのは大好きである。

 街の中心をスラメッ・リアディー通り(Jl. Slamet Riyadi)が東西に横切っている。片側3車線、その脇に並木で区切られた2輪車専用道路があり、さらに歩道がある。道路としては完璧である。信号も確りあり、横断も容易である。多くの銀行やホテルがこの通り沿いに並んでいる。面白いことに、この大通りを、まるで路面電車のごとく、南部のWonogiriへ通じるローカル鉄道が走っている。ときおり、オンボロの客車1両のみを連結した列車が、警笛を連続的に鳴らしながら自転車並みの速度で通過していく。もちろん踏み切りなどない。

 両替しようと、一軒の銀行に入ったのだが、手持ち100ドル札全て、「この番号の札はダメ」と言って拒否された。仕方がないので20ドル札を両替する。タイ、マレーシアの都市でも、何度か100ドル札の両替を拒否された。1万円札なら無条件で両替してくれるのだが。

 スラメッ・リアディー通りの一本南側の道路がソロの繁華街である。多くの車と人でごった返している。この道を東に進むと、金製品の店が集まっており、さらに進むとクレウェル市場に突き当たる。大きな建物で、薄暗い屋内には数百の小さな店が、狭い通路を挟んでぎっしりと詰まっている。しかも、ほぼすべての店がバティック(ろうけつ染め)の店である。屋内はすれ違うのもままならないほど混雑し、そのありさまは壮観である。

 さらにぶらりぶらりと歩く。面白いことを発見した。ソロの街は大きな通りによってほぼ碁盤の目のように区切られているのだが、大通りの間には小さな路地が何本もある。この路地が非常に特徴的である。路地の両側は、高い漆喰の塀か建物の漆喰の壁により、完全に封鎖されている。希に家屋への入り口があるが、頑丈な鉄とビラで守られている。従って、この路地に入った者は、通り抜ける以外に行き場所がない。しかも、路地の入り口にも、普段は開け放たれているが、頑丈な鉄扉が設けられている。これは、明らかに敵の侵入を防ぐための都市構造である。王都としてこの街が造られた際の基本構造であったのだろう。

 1日ソロの街を歩き廻った。そして、この街が好きになった。街のたたずまいにも、人々の心にも、優しさがにじみ出ている。そして何よりも、この街には気品がある。古都としての風情がある。ようやく探し求めた街に巡り合ったような気がする。あのジョグジャの下品さと比べ、何という違いかーーー。

 この街にもペチャが溢れている。しかし、しつこくつきまとう運転手はいない。声が掛かっても、「No thank you」の一言で終わる。いったん料金が決まれば、当然のごとく、その料金で行く。そして何よりも、街で声を掛けてくる得体のしれぬ輩がいない。夜道を歩いても、なぜか恐怖心は湧いてこない。「いい街だ! 」とつくづく思う。
 

   第43章 ブンガワンソロ

 夜、寝ながら考えた。この街を最後として、そろそろ帰路に転じようかと。さらに進むとなると、次の街はスラバヤになる。インドネシア第2の大都会である。そして、案内書によるとかなり治安が悪いらしい。どうも、ジョグジャのイメージと重なり、気持ちのよい都市のイメージが湧いてこない。ソロという素晴らしい都市がようやく見つかった。この思い出を抱いて、帰路に着くのがよさそうである。

 ソロに来るに当たって、密かな楽しみがあった。ブンガワンソロである。ソロと聞くと、あの郷愁を帯びたブンガワンソロのメロディーを思い出す。ジャワ民謡として、日本の小学唱歌にもなった歌である。ソロに来たからにはどうしてもブンガワンソロ(ソロ川)に出会ってみたい。地図を眺めると、この川は東郊外を流れており、市街地からはちょっと遠い。しかも、まったく観光対象にはなっていないとみえ、どの案内書にも載っていない。明日はどうにかして、この川に行ってみよう。

 6月6日月曜日。まず、朝一番で観光案内所に行ってみる。2人の若い女性が親切に対応してくれたが、「ブンガワンソロの歌を知っているか」というと首をかしげる。メロディーをハミングしてみたが、知らないという。いろいろなパンフレットはあったが、ブンガワンソロ(ソロ川)に関するものはなかった。「やはりホテルで車をチャーターしてもらうしかないかなぁ」とがっかりした。

 その前に、駅へ行き、明日のチケットを取得しておくことにする。ペチャに乗って駅に行く。チケットの取得は経験ずみであり、申込書記入の仕方もマスターしている。どの列車にしようかと、掲げられた時刻表を眺めていたら、取得方法がわからないと思ったのだろう、駅案内所の若い女性がわざわざ側に来て、いろいろ説明してくれる。これがI嬢との出会いであった。

 彼女にソロ川への行き方を相談してみる。しかし、なぜソロ川に行きたがるのか不思議そうな顔をする。「ブンガワンソロの歌を知っているか」と聞くと、「知っている」との答えが返ってきた。私が出だしをハミングすると、彼女が続けた。「この歌は日本でもよく知られている」と話すと、ようやく私の意図を理解してくれた。しかし、ペチャではちょっと遠すぎるし、タクシーはこの街にないし、市内バスは私がちょっと乗りこなせそうもない。駅前に待機とているペチャの運転手を呼んで相談してくれた。小1時間掛かるようだが、気のよさそうな運転手が「行く」と言ってくれた。

 ペチャに乗って出発する。今日も晴天である。南国の太陽が頭上より強烈な熱線を降り注ぐ。運転手がブンガワンソロを歌いだした。私がそれに合わせる。車の往来の激しい国道を、二人の中年のオッサンが歌うペチャが、のんびりと進んでいく。
 
    ブンガワンソロ 果てしなく
    遠き夢のせ 流れゆく
    この岸辺 愛をうたい
    白い雲に 涙ながす
    人はかわりゆき 遥かな思いで
    今日も流れゆき 海にそそぐ
    ブンガワンソロ はてしなく
    遠き夢をのせ 流れゆく
    ブンガワンソロ
 
 端からみたら何と奇妙な光景であろう。しかし、私にとっては、この旅での、最高のひと時であった。坂道では、運転手は降りてペチャを押す。それでもいやな顔もせず、ペタルを踏み続ける。

 40〜50分も進むと、ついに、ソロ川に架かる橋の上に達した。ペチャを降り、橋の上から川を眺める。川は深い渓谷となっている。ただし、水量は思いのほか少なく、また、川の水も濁っている。運転手が、「雨期にはもっと水量が多く、迫力があるのだがーーー」と申し訳なさそうに言う。それでも私は満足であった。ついにブンガワンソロに出会えたのだから。最高の思い出をもって、ジャワ島の旅を終えることができる。橋の欄干にもたれ、流れゆく川面を見つめ続けた。
 
  (マレー半島縦断とジャワ島の旅(4)に続く)

 

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