おじさんバックパッカーの一人旅   

上座部仏教の故郷 スリランカ紀行(1)

ニゴンボ、クルネーガラ、アヌラーダプラ

2005年11月23日

    〜11月29日

 
   第1章 スリランカのイメージ

 スリランカに行ってみようと思った。国土面積65,607平方キロメートル(北海道の約80%)、人口1,930万人。インド亜大陸の先端、インド洋に浮かぶ小さな島国である。この国については、小中学校の頃、セイロンという国名とともに紅茶の名産地として習った。また、バンダラナイケ首相という世界で初めての女性宰相を輩出した国としても記憶にある。最近では多数民族で仏教徒のシンハラ人と少数民族でヒンズー教徒のタミール人との間の激しい内戦が新聞紙上をにぎわし、殺戮の島とさえ呼ばれた。そしてちょうど1年前、インド洋大津波がこの小さな島国を襲った。死者は数万人といわれている。

 スリランカについては、もうひとつ特別なイメージがある。上座部仏教の故郷としてのイメージである。現在タイ、ラオス、カンボジア、ミャンマー等東南アジア一帯で広く信仰されている上座部仏教は、13世紀以降このスリランカからもたらされた信仰である。もちろん、スリランカ自身、現在も、上座部仏教を国教とする仏教国である。

 そしてもうひとつ、日本人として決して忘れてはならない恩義がこの国にはある。戦時中日本軍は、英国海軍基地のあった首都コロンボや北東海岸のトリンコマリー港を爆撃した。このため、コロンボの病院やトリンコマリーの石油設備が被害を受けた。1951年9月に開催されたサンフランシスコ対日講和会議において、戦勝国側の一員として出席したスリランカ代表の財務大臣・J.R. ジャヤワルダナ(後に大統領に就任)の行った演説は、20世紀の歴史に残る名演説として今に語り継がれている。彼は『憎悪は憎悪によって止むことなく、慈愛によって止む』との仏典の1節を引用し、「敵意を棄て賠償を求めずに、日本を国際礼儀に沿って受け入れるべきだ」と他の戦勝国に説いた。

 この小さな島国に世界遺産が7ヶ所もある。どうもイメージが多岐に渡って焦点が定まらない。いったいどんな国なんだろう。
 

   第2章 スリランカ幻影
 
 (1) お釈迦様

 夕食の後、庭の片隅の椅子に腰掛けながら、アマラシンゲじいさんが語りだした。ここは古都・アヌラーダプラの街外れのゲストハウス、今晩の宿泊客は私1人だ。暗黒の空には溢れんばかりの星が輝いていた。時折、剥き出しの手足を蚊が襲った。その度にピシャリ、ピシャリと蚊を叩く手の音が響いた。「今から2,500年も昔のことだ。お釈迦様が3度もこのスリランカにやってこられたんだ。まったくもってありがたいことだ」。「へぇ、3度も来られたの。やっぱり歩いて来たのかなぁ」。私が茶々を入れる。「当時はな、インドとスリランカは陸続きだったのさ。だからお釈迦様は歩いて来なさった。しかし、陸続きをいいことに、その後、南インドのヒンズー教徒どもが、何度も何度もスリランカを襲ってきたんだ。怒ったお釈迦様は、スリランカをインドから切り離してしまわれたのさ」。「おじいさん、インドは嫌いかい」。私がまた茶々を入れる。「北インドの連中は好きだよ。我々シンハラ人と先祖がいっしょだからな。だけど南インドのタミールの連中は大嫌いさ。あいつらさえ居なければ、スリランカは平和なのだが」。じいさんの話はいつ終わるともなく続いた。
 

 (2) 北の虎

 古都・キャンディのゲストハウス、夕食後の一時である。アフリカのジンバブエからやって来た白人の若者を相手に、従業員であるタミール人の若者が甲高い声で吠えている。「知ってるかい。スリランカというのはひとつの国じゃないんだ。北と南、ふたつの国に分かれているんだ」。「北のジャフナ(スリランカ北端の都市)には虎がいる」。通りかかった私が茶々を入れる。「おぉ、ジャパニーズ、よく知ってるなぁ。北はおれたちの国だ。LTTE(タミール・イーラム解放の虎)の支配地域だ。南の連中なんかに負けはしない」。真っ黒な顔の若者は胸を張った。「また内戦をぼっぱじめるのか」。私が挑発する。「やりたかないが必至だな。そうなりゃ、オレも北へ帰るさ。オレの給料がいくらか知ってるかい。ひと月たった3000ルピーだ。おれたちタミール人は南のシンハラ人にこき使われている。おれたちの国を造る以外ないさ。虎(タミール人のシンボル)は強いぞ。ライオン(シンハラ人のシンボル)なんかに負けないぜ」。
 

 (3)内戦の足音

 南国の太陽が凄まじい熱線を降り注ぐ首都・コンボ。辻辻には土嚢で陣地が築かれ、銃を構え、背嚢を背負った戦闘服姿の無数の兵士が鋭い視線を街ゆく人々に送っている。まさに内戦勃発前夜である。そんな中を、ぶらりぶらりと私がノーテンキに歩いていく。「ハロー、暑い中警備大変だねぇ」。私が土嚢の中をのぞき込むようにして中の兵士に声を掛ける。取りつきようがないほど、厳しい表情をしていた兵士の顔が途端に崩れ、真っ黒な顔から白い歯がこぼれる。「おぉ、どこから来た」。「日本だ。戦争始まるのかい」。「日本は平和でいいなぁ。気をつけていけよ」。銃口は未だ地面を向いている。そのことがせめてもの救いであった。
 

 (4)スラムの少年

 標高1,000mを越える中部高原地帯のヌワラ・エリヤ。山肌は唯一面の茶畑である。日暮れまでにまだしばしの時間があった。私はゲストハウス裏の斜面をゆっくりと登っていった。見上げる斜面は次第に傾斜を増して一筋の尾根に登り上げていた。その斜面の上部には、板切れと布で覆われた何軒かの粗末な小屋が見えた。スラムと言ってもいいだろう。

 このスリランカが世界に誇る紅茶の一大産地には、植民地時代、茶園労働者として南インドから多くのタミール人が半ば奴隷として連れてこられた。現在も彼らの子孫は貧しい茶園労働者としてこの国の最下層を形成している。急斜面の上部に広がるスラムは彼らの住まいだ。

 眼下にどんどん広がる景色に見とれながら私はいつしかそのスラムの中に入っていった。こんなところまでやって来る外国人などいない。裸足の子供たちが、見知らぬ外国人にも臆することなく「ハロー」と元気のよい声を掛けてくる。屋外で夕食の準備をしていた女たちも「どこから来たの」と笑顔を向ける。向こうの畑の中から1人の少年が私に向って何か大声で叫んでいる。"Come here"。私が怒鳴り返す。少年は一目散に走り寄ってきた。「写真を撮ってよ」。少年が笑顔で甘える。よぉし、構えるカメラの前で少年は得意げにポーズをとった。「後で送ってやるよ。住所はどこだ」。「分からない」。少年は困惑したように答える。このスラムに住所などないのだろう。

 やがて少年は"Thank you,Good by"の言葉を残して斜面を駆け登っていった。20メートルほど先で、少年は再び振り返った。「どこから来たの」。少年が再び叫んだ。「日本」。私が怒鳴り返す。その時である。" I like Japan " ひときわ大きな声で少年が叫んだ。そして大きく手を振ると、もう振り返ることもなく集落の中へと駆け込んでいった。
 

 (5)津波

 ニゴンボの海岸にて。「津波はここまで来たんだよ」。海岸沿いの粗末な小屋に住む漁師が、自宅の天上近くを指さして私に訴える。「皆死んじゃったよ」。

 アンバランゴダからゴールへ続く海岸線。バスは浜辺に沿うた街道を進む。その道の両側は、累々と破壊の跡が続く。レンガと漆喰の建物が、壁の一部だけを残し、あるいは基礎だけを残して、見事なまでに瓦礫の山と化している。同じ光景がどこまでも続く。未だテント生活者の姿もみられる。しかし、その瓦礫の間に、力強い再建の槌音が響き渡っている。

 昨年の12月26日、スマトラ沖で発生した巨大地震により生じた海の異変は、数時間後に大津波となってスリランカに襲いかかった。死者数万人。その正確な数さえ未だ不明である
 

   第3章 いざ、スリランカへ

 旅立とうとした寸前、スリランカから気になるニュースがもたらされた。11月に行われた大統領選挙の結果、民族紛争に対して強硬派であるラジャパクサ氏が大統領に当選し、内戦再開の危機が強まったとの報道である。とは言っても、既にバンコクまでのチケットは手配ズミ。今更中止するわけにも行かない。

 バンコクからスリランカへのフライトスケジュールを調べて驚いた。スリランカ航空、キャセイ航空、タイ航空の3航空会社便が就航しているのだが、いずれの便もスリランカ到着が真夜中である。おまけに、コロンボには適当な安ホテルがない。真夜中に未知の都市に着いて、そこでホテルを探さなければならないとは、かなりしんどい。最悪、空港で夜を明かすことも覚悟せざるを得ないか。まぁ、「なるようになるさ」である。

 11月23日水曜日。エア・インディアで成田を出発。バックパッカーご愛用の安フライトである。夕刻バンコク着。ホテルに荷物を放り込んで、そのまま行きつけの飲み屋に直行。昔の同僚・I君と落ち合う。I君は、何が原因か知らないが、さっさと会社を辞めて、バンコクで独身生活を楽しんでいる。翌日は旅行社に行ってコロンボまでの航空券を手配。スリランカ航空(UL)の45日オープンチケットが12,500バーツで手に入った。意外と高い。11月からはハイシーズンで安売りチケットはないらしい。
 
 11月25日金曜日。いよいよスリランカに向う日が来た。朝からやることもないので、昼頃バスで空港に行ったが、長い長い待ち時間となってしまった。チェックインの際、"Re-confirm"が必要か否か質問したのだが、"Re-confirm"と言う言葉が通じない。最後は「スペルを紙に書いてくれ」といいだした。オレの英語の発音はそんなに悪いか。おまけにパスポートを1枚1枚めくって、過去の訪問国を念入りチェック。この航空会社、何となく感じが悪い。
 

   第4章 スリランカ入国

 UL889便はすっかり夜の帳の降りたバンコク国際空港を定刻19時30分に離陸した。座席はほぼ満席である。緑のサリー姿のスチワーデスは色黒美人であるが、サリーからはみ出す横腹のたるんだ肉が醜い。笑顔もなく、事務的に仕事の手順を踏んでいく。飛行機は真っ暗なベンガル湾を横切り、バンダラナイケ国際空港に定刻通り着陸した。未知の国にやって来たが、今晩のねぐらさえ決まっていない。おまけに、何と雨がざぁざぁ降っている。何となく気分は暗い。

 入国審査は簡単に済んだが、バッケージクレームでずいぶん待たされた。その間に両替。スリランカ・ルピー(以下RPと記す)に初めてお目にかかる。2万円が16,590RPと交換された。為替相場はほぼ100RP=1US$である。諸手続きがすみ、ロビーを出ると、通路両側に並んだ旅行代理店がしきりに声を掛けてくる。案内書ではここで宿の手配や市内までの車の手配をするべしとある。空港から首都コロンボ(Colombo)市内までは34キロもあり、しかも、スリランカにはタクシーはないらしい。バスはあるようだが、真夜中の雨の中、市内まで行ってもどうしようもない。1軒の店に入り、今晩の宿が取れるか聞いてみた。幾つか候補を上げるのだが、いずれも1泊50US$以上で、私の希望の20US$以下はない。どうやらベンチで一晩明かさなければならないか。到着早々気分はいたってブルーである。

 その時、「ニゴンボなら2,500RPで宿が取れる」と言い出した。ニゴンボ(Negombo)はコロンボの北35キロに位置する海岸沿いのリゾート地だが、この空港からはむしろニゴンボの方が近い。ベンチで寝るよりはましと思い、ニゴンボ宿泊を決意する。別途、車代が600RPだという。他の乗客たちは皆、ホテルから迎えの車が来ているらしい。日産のワゴン車に乗せられ、雨の夜道を走りだす。いったいどんなところに連れていかれるやら。クリスチャンだという運転手は愛想がいい。どこの国からの観光客が多いかと聞いてみると、1番ドイツ、2番日本、3番フランス、4番イタリア、5番UK、6番オーストラリアとの答えが返ってきた。

 30分ほどで着いたところは、ニゴンボのリゾートエリアの北の端、"Randiya Gest House"との標示がある。「地球の歩き方」の「ニゴンボ・ホテル・マップ」にも載っていないゲストハウスである。門は閉まっていたが、警笛を数回鳴らすと、奥から従業員が出てきて部屋に案内してくれた。時刻はちょうど真夜中の12時である。シャワーは水シャワー、天上からは蚊帳が吊られている。あとは何もない。それでもどうにかベッドで寝ることが出来る。やれやれである。
 

   第5章 ニゴンボの1日

 翌朝すぐに次の目的地に移動することも考えたが、夜中に着いたばかり。この国の勝手もよく分からない。今日1日、このニゴンボで過ごしてみることにする。8時前、まずは海岸に行ってみる。街道沿いの薄い家並みの裏はもう海であった。広大な砂浜の先に無限の海が広がっている。インド洋である。水平線の彼方にはアフリカ大陸が横たわっているはずである。波は思いのほか静かで、沖には四角い帆を張った漁船がたくさんみられる。海岸に引き上げられている何隻かの漁船から、これらの船がこの地方独特の双胴船(カタマラン)であることが分かる。主船体の横に小さな補助船体が取り付けられている。

 のんびりと、この海の広がりを眺めていたいところなのだが、現実はそれを許さない。次から次へと人が寄ってきて話し掛けるのである。何しろ私の姿を見れば遠くからでも跳んでくる。「どっから来たんだ」「何日滞在するのだ」「結婚しているのか」「子供は何人いる」「名前は何という」。皆同じことを愛想よく話しかけてくる。最初は戸惑いながらも友好的に対応していたのだが、そのうち邪魔臭くなってくる。散々話し掛けておいて、最後は「船に乗らないか、安くしておくよ」「煙草を持ってないか」である。皆、下心を持っている。それにしても、全員、流暢な英語をしゃべるのには驚いた。後日、スリランカ政府観光局で"Travel Lanka"というスリランカを紹介した小冊子をもらったが、その中に、"Communication is rarely a problem because English is widely spoken in all parts of the country"と記されてあった。

 また1人の男がやってきた。今度は津波の話を始めたのでつい引き込まれた。「津波の跡を見せるからちょっと家まで来てみないか」というので、海岸に建つあばら家に行ってみた。外壁には2m近くまで水に浸かった跡が見られた。ただし、ニゴンボは、津波の被害はそれほど大きくはなかったはずである。家から女が出て来た。「オレの女房だ。さあ家には入れ」と男は愛想がいい。これはちょっとヤバイか。家の中まで入り込んだら、多分なされるであろう要求を拒否できなくなる。ミャンマーならこんな時、躊躇なく家に上がり込んでお茶などご馳走になるのだが。この国はそれほど安らかではなさそうである。

 宿に引き上げると、今度はオーナーが跳んで来た。このゲストハウスは旅行代理店も併設しており、その事務所に引きずり込まれた。「さぁ、あなたの旅行日程を組むから希望を言え」「運転手付きの車を用意し、各地の宿も予約する」という。私はその気はさらさらない。気の向くままに、スリランカ各地を路線バスと列車で自由に廻るつもりでいる。そのことを言っても納得しない。「なぜだ、なぜだ」と問い詰めてくる。相当しつこい。案内書によると、スリランカでの個人旅行は、このように車をチャーターして各地を回るのが一般的なようである。昨夜の空港の旅行社でも、同じように、旅行日程を組むようしきりに勧められた。何やら険悪なムードでオーナーと別れた。ゲストハウスはガラガラで白人のアベックが泊まっているだけである。

 ニゴンボ探索に出発する。とはいっても、海岸に沿う街道の両側に、ホテルやゲストハウス、土産物屋や食堂などの薄い街並みがあるだけであるが。ぶらりぶらりと街道を南に向う。観光客の姿はほとんど見られず、どこも閑散としている。高く昇った太陽が南国の強い日差しを降りそそぐ。相変わらず次から次と話し掛けてくる。道路の向こう側や家の中からも大きな声で呼びかけてくる。いったいこの国はどういう国なんだ。道端にたむろするツクツクの運チャンは特に積極的だ。"No thank you"の一言二言では諦めない。もっとも、彼らは目的がはっきりしているからこちらも御しやすい。子供たちも積極的だ。そして、最後に"Money"と手を出す。「恥ずかしい」などという文化はこの国にはなさそうである。街には野良犬が実に多い。あちこちに寝そべっている。

 歩き廻って気がついた。仏教寺院がまったく見当たらないのである。この国は上座部仏教の故郷と思い意気込んでやってきたのだが。それどころか、目に付くのは立派なキリスト教会である。後で知るのだが、このニゴンボはキリスト教徒の街だとのことであった。海岸に出てみる。今日は土曜日で学校も会社も休みなのだろう。あちらこちらで若者がクリケットをしている。海で泳いでいる者はいない。所々で漁民が漁網の修理に勤しんでいる。また、今朝水揚げされた小魚を天日干しにしている。観光客目当てに徘徊する土産物売りが少々うるさい。

 海岸は見渡すかぎり広大な浜辺になっているのだが、1ヶ所だけ岩礁になっているところがある。行ってみると、岩場に沿ってまるで列をなすように真新しい糞がつづいている。最初は犬と思ったが、どうやら人糞である。思い出した。インドについての記載であるが、ある本に次のように書かれていた。「人々はトイレには行かない。朝、缶から1杯の水を携えて、海岸へ行って用を足す。このため海岸には列をなして排泄物が並ぶ。そして、やがて満ちてきた潮が全てを押し流す」。どうやらここもインドである。そう言えば人々の服装もインドである。女性はサリーか巻きスカート。男性も半数が巻きスカート姿である。

 お昼になったので道端の小さな食堂に入る。お客は誰もいない。「ランチはOKか」と聞くと、「OK」との返事はあったが注文も聞きに来ない。やがて、ものすごいボリュームのスリランカ・カリーが運ばれてきた。スリランカの人々の食事は朝昼晩3食ともカリーだという。「ランチ」と言えば、自ずとカリー、注文など聞く必要がなかったようである。しかし、これが恐ろしく辣い。ついに水をがぶ飲みしながら胃に流し込む事態になってしまった。スリランカ人はカリーを右手手掴みで食べるが、さすがに私にはスプーンとフォークを出してくれた。これから1ヶ月、食事には苦労しそうである。従業員は私の前に座り込んで、あれやこれやとフレンドリーに話し掛けてくる。そして最後に、「たばこを1本くれ」である。

 これに懲りて、夕食は別の食堂で、「何でもいいから辛くないのを何か作ってくれ」と頼んだ。すると、浜でとれた魚の煮物を作ってくれた。宿に帰り、シャワーを浴びようとしたら、出ない。トイレのハンドシャワーも毀れている。どうもまともな宿ではない。真夜中に行き場所のない旅行者を誘い込む安宿なのだろう。どうせ今晩1泊、文句を言っても始まらない。洗面器で頭から水をかぶってシャワー代わりとする。それにしても、この国の旅はストレスがたまりそうである。
 
 
   第6章 クルネーガラ(Kurunegala)へ

 11月27日日曜日。今日はバスでスリランカ内陸の都市クルネーガラに向う。宿からニゴンボのバスターミナルまでバスで行けば10RP程度だが、300RP奮発して宿で手配した車で向う。昨日、宿のオーナーの旅行手配の申し出を全て断ったが、「せめて、これぐらいは受けろ」と半ば車を強制された。10分ほどでターミナルへ着いた。

 大きなバスターミナルであったが、クルネーガラ行きバスはすぐにわかった。英語標示があり、隅の方にインターシティのマイクロバスが停まっていた。スリランカはバス路線が非常に発達していて、どんな辺鄙なところへでも必ず路線があるといわれている。また、大きな都市間には、路線バス(ノーマルバス)とは別にインターシティバスと呼ばれる直通バスが走っている。こちらは料金は高いが、冷房完備のマイクロバスである。車掌が大きな声で盛んに客の呼び込みを行っている。

 15分ほどでバスは発車した。料金は90RPである。道は舗装されているがかなりはげちょろで、快適な乗り心地とはいかない。人家と森が交互に現れる。幾つかの小さな街を過ぎるが、予想に反して仏教寺院は一向に現れない。タイやミャンマーならどこへ行っても仏教寺院が目に付くのだが。やがて、ぽつりぽつりと岩山が現れた。いずれも表面をつるつるに磨かれた1枚岩で、山というより巨大な1個の岩という感じである。約1時間半でちょっと大きめの街のバスターミナルの端にバスは停まった。ここが終点・クルネーガラだという。バスを降りると、南国の日差しが激しく降りかかる。街の背後には、この街の象徴・クルネーガラ・ロックが黒々と聳え立っている。

 クルネーガラはコロンボの北東約100キロに位置する商業都市で、かつて、48年間ではあるがシンハラ王朝の首都であったこともある。日本在住経験者が多く暮しており、「リトルジャパン」とも呼ばれるとのことである。クルネーガラ貯水池の辺のランタリヤ・ニュー・レストハウスというホテルに行くつもりなのだが、方向がさっぱり分からない。このホテルは、今朝、ニゴンボの運転手から推薦を受けた。1軒の店に飛び込み道を聞くと、ちょっと待てと言って、別の男が奥から出てきた。何と! この男、日本語がぺらぺらである。日本に出稼ぎに行っていたとのことである。

 10分ほどで、貯水池の辺の目指すホテルに着いた。レストランを併設した安リゾートホテルという趣である。1泊900RP、水シャワーだが、部屋も大きく、貯水池に面したベランダまである。満足な宿である。どうもこの価格がスリランカの相場のようで、ニゴンボのゲストハウスはめちゃくちゃぼられたようである。時刻は11時半、まずは食堂で昼食。「何でもいい」と言ったらスリランカ・カリーのフルコースが出てきた。お皿に山と盛られたご飯と7〜8種類のカリーである。その後どこへ行っても同じであったが、スリランカでの食事は、盛られてくる御飯の量が半端ではない。おそらく3〜4人前はあるだろう。半分食べるのが精いっぱいである。

 ホテルの裏山で数百人の労働者が立ち働き、大規模な土木工事が行われている。聞けば、この裏山とクルネーガラ・ロックの間に、スリランカ初となるロープウェイを架けるのだという。オーストラリアの技術援助で工事が進められている。ロビーに日本語を話す男がいた。京都大学を卒業し、妻は日本人で、日本の機械メーカーからこの工事現場に派遣されているとのこと。こんな小さな街で、今日は二人も日本語を話す人と出会った。さすが「リトルジャパン」である。同じくロビーで小さな女の子が飛び跳ねていた。目が合うと、「ハロー」と英語で話し掛けてくる。8歳だというが、こんな子供も流暢に英語をしゃべる。

 午後からはクルネーガラ・ロックへ登ってみることにする。案内書によると登り約1時間である。この岩山は表面がつるつるの1枚岩で出来た巨大な岩峰で、街の東側に黒々と聳え立っている。山頂には真っ白な巨大な仏像が見える。クルネーガラ貯水池の岸辺を進む。満々と水を湛えた大きな人造湖である。スリランカ内陸はいわば乾燥地帯で、街を開くにはまず水を確保することから始めなければならなかった。従って歴代の統治者は各地にいくつもの貯水湖を建設してきた。街を横切りいよいよ岩山への登りに入る。山頂まで一応車道が通じており、時折オートバイが追い越していく。相変わらず、すれ違う人々が「ハロー、ハロー」と話し掛けてきて煩わしい。登りは意外ときつく息が切れる。猿がいっぱいいる。

 ようやく山頂に立つ大仏に登り上げた。素晴らしい展望が眼下に開けている。見渡すかぎり緑の大地が広がり、その中にクルネーガラの小さな街並みと貯水池が包み込まれている。山頂には男女5〜6人の若者がいた。つかつかと私のところへやって来て「たばこ持ってませんか」。こちらももう免疫が出来ている。「持ってない」と追い返す。いつまでも甘い顔は出来ない。山を下る。途中で一服していると、後から来たワゴン車が止まり、「たばこ1本下さい」。スリランカ人には羞恥心というものはないらしい。

 街に下り、まずバスターミナルへ行ってみる。明日、このターミナルを利用するのでその下見である。ターミナルは街の半分近くを占めるのではないかと思われるほどの巨大であった。大小無数のバスが、まさに無秩序にひしめき、大勢の人々でごった返している。しかも英語標示はまったくない。案内所らしきところもない。これでは乗るべきバスを見つけるのは至難の業である。絶望的な気持ちになる。街中を歩き回ってみるが、ヒンズー教寺院は目に付くが、仏教寺院は見当たらない。スリランカは仏教国のはずなのだが。この街も野良犬だらけである。

 夕方、ホテルの周りの木々はカラスの大群に占領された。この鳥は世界中に分布している。夜、湖畔に出てみると無数の星が輝いていた。オリオン座は何とか特定できたが、後は分からない。明日はアヌラーダプラに向うつもりである。
 

   第7章 シンハラ王朝の最初の都・アヌラーダプラ(Anuradhapura)へ

 11月28日月曜日。8時、ザックを背負い宿を出る。あの絶望的なバスターミナルで、果たして無事にアヌラーダプラ行きのバスを見つけられるか。朝から気が重い。10分ほどでターミナルに着く。100台を越えるバスが無秩序にひしめき、まともに歩けないほどの群衆でごった返している。どこから手を付けてよいやらーーー。しばし呆然と立ち尽くす。気を取り直して、そばにいた人に「アヌラーダプラ行きのバスはどこですか」と聞いてみた。「これだ」。何と目の前のバスを指さすではないか。これは奇跡だ。嬉しくなってしまった。バスはオンボロの路線バス(ノーマルバス)。インターシティバスはないとのことであった。乗って待つほどに、乗客はどんどん増え、8時40分、超満員でバスは発車した。もちろん、外国人は私1人である。

 森と小さな集落が入り混じった景色がどこまでも続く。時折小さな街を過ぎる。乗客が乗ったり降りたり、別段変わった光景もない。途中トイレ休憩らしき停車もあったが、超満員のため誰も席を立てない。やがて大きな街並みに入り、11時40分、アヌラーダプラのオールドバスターミナルに到着した。小さなバスターミナルである。途中、街の中心にある時計台を窓外に確認していたので、降りた瞬間から方向感覚はばっちりである。

 まずはどこか宿を探さなければならない。特にあてはないが、旧市街と新市街の境目辺りに幾つかのゲストハウスが固まっている。炎天下、ザックを背負って歩き出す。道端にたむろするトゥクトゥクが盛んに声を掛けるが無視である。近くまで行き、さてどこにしようかと改めて案内書を開いていたら、自転車に乗った男がやってきて、ゲストハウスに案内するという。少々胡散臭さを感じたが、ゲストハウスの勧誘かとも思いついていった。男は1軒のゲストハウスに入っていったが、何やら言われて出てきた。「満室なので次へ行こう」という。はたと気がついた。この男、ゲストハウスの勧誘などではない。いわゆる「紹介屋」である。客をゲストハウスに連れていって、紹介料として小銭をせしめることを生業としている。この時刻、ゲストハウスが満室のわけがない。紹介料を断られたのだろう。しつこくつきまとう男を振りきり、「Lake View」というゲストハウスに入る。ホットシャワー付きで800RPである。ベランダからは灌漑用人造湖・ヌワラウェアが見える。「腹が減った」というと、サンドイッチとポットいっぱいのスリランカ・ティーを部屋まで持ってきてくれた。満足できる宿である。

 アヌラーダプラの街は旧市街、新市街、そして遺跡の広がる遺跡地区の三つに分かれている。遺跡見学は明日の楽しみとして、まずは新旧両市街の見学に出発する。街域はかなり大きく、両市街は連続していて、特に違いは感じられない。街の中でまず目に付くのは、野良犬と野良牛である。犬はまだしも交通量の激しい街中を悠然と牛が歩いている。夕方になると店先にうずくまっているところを見ると、明らかに野良である。ただし人々はまったく気にする様子はない。ここはまさにインドである。女子高校生が実にかわいい。スリランカでは小学生から高校生まで上下の制服が男女とも真ッ白である。真っ黒な肌にこの制服がよく似合う。しかも、心なしか北部の方が美人が多い。この後、順次南へ移動したが、それに連れて美人は減った。街は賑やかである。スーパーが1軒だけあった。デパートやコンビニはない。ファーストフード店も見当たらなかった。にわかに空がかき曇って激しい夕立が来た。慌てて軒先に避難する。雨はすぐに止んだ。街中は相変わらず「ハロー、ハロー」とうるさい。セイロン銀行で両替して宿へ帰る。

 宿の周りは、地上には野良犬が、木々にはリスが群れている。どうやら今夜の泊まり客は私1人のようである。シャワーを浴びようとしたらお湯が出ない。オーナーが懸命に修理し、部品を街まで買いに行ったが結局直らなかった。部屋をチェンジする。この宿は65歳のアマラシンゲじいさんが切り回している。いわば番頭みたいなものである。なんやかんや、相談に乗ってくれるし、私の夕食も彼が作ってくれた。敬けんな仏教徒で、巻きスカートを履き、家の外も内も裸足で歩き回っている。実に気持ちのよいじいさんである。夕食後、夕涼みをしながら、彼と多くのことを語り合った。冒頭の会話もその一つである。
 

   第8章 スリランカの歴史はこのアヌラーダプラから始まった。 

 スリランカの歴史は、ヨーロッパ諸国による植民地支配の時代を除けば、多数民族であるシンハラ人と南インドに拠点を持ち、スリランカにおいては少数民族であるタミール人の闘争の歴史である。そしてその闘争は現在も過激に続いている。このアヌラーダプラより北部は、いまやLTTEの支配地域である。

 シンハラ人は現在の北インドの主要民族と同様、アーリア系の民族といわれる。即ち中近東から欧州に連なる民族と同一系統の民族である。この民族は紀元前1,600年頃、西方からインドに侵略してきた民族である。一方、タミール人は新石器時代からインドに土着し、インダス文明を築いたドラビダ系の民族で、アーリア人によって南インドに追われた。
 
このアーリア系のシンハラ人が、なぜ、南インドのタミール人を飛び越え、さらに南のスリランカの多数民族となったのかは不思議である。シンハラ人の起源については次のような伝説がある。
  
  「紀元前2387年ごろ、インドでオスのライオンがベンガルの王女をさらい、
   双子の兄妹が生まれた。成長した息子は父であるライオンを殺して、妹と
   結婚してラーラ王国を建設した。王子の長男ウィジャヤは徒党を組んで国
   中を荒し回ったので、ついに船で追放されてしまった。ウィジャヤがスリ
   ランカに来て美しいクウェーニ(夜叉)と結婚してシンハラ王国を建設した。
   この一族は『ライオンを殺した者(SINHALA)』と呼ばれた」
     ーーインディカさんのHPより引用
            (http://www.intl.chubu.ac.jp/komori/indika/)
      
 紀元前500年頃、アフラーダプラを都として、最初のシンハラ王朝が建国された。いわばスリランカの歴史の始まりである。この王朝は非常に高度な文明を持っていたといわれる。今なお利用されている潅漑用水や上下水道は当時造られたものである。紀元前3世紀には北インドから仏教がもたらされ、アヌラーダプラは仏教王国の都として多いに栄えた。しかし、その繁栄とともに、南インドからのタミール勢力の侵略が激しさを増す。今に続くシンハラ人とタミール人の戦いの始まりである。年表として記載すれば次のようになる。
 
前210年〜前161年 タミール勢力が、アヌラーダプラを征服。
前161年〜前137年 シンハラ王ドゥッタガーマニーがタミール勢力を追放し、
王位を奪還。全島を初めて統一し、支配体制を確立。
前103年〜前89年 タミール勢力が、アヌラーダプラを征服。
前89 シンハラ王のワッタガマニが、タミール勢力を追放し、
王位を奪還。以後、同様の展開が続く。
429年〜455年 タミール勢力がアヌラーダプラを征服。
455年 シンハラ王のダートゥセーナが、タミール勢力を追放し、
王位を奪還。
769年 シンハラ王のアーガボーディ4世が、アヌラーダプラから
ポロンナルワに政府を移す。タミール勢力による度重なる
侵略から逃れるため。
993年 タミール系のチョーラ王朝軍が、アヌラーダプラを征服。
1017年 チョーラ王朝が、島内の大半を支配。
シンハラ王朝は、アヌラーダプラからポロンナルワに遷都。

 こうして、11世紀、アヌラーダプラの栄光は約1400年の歴史を閉じた。しかし、現在、残された巨大なダーガバ(仏塔)や芸術性豊かな多くの彫刻により、当時の栄華の跡を忍ぶことが出来る。アヌラーダプラは1982年、「アヌラーダプラの宗教都市」として世界遺産に登録された。
 

   第9章 アヌラーダプラ遺跡群の見学

 11月29日火曜日。ゲストハウスでボロ自転車を借り、アヌラーダプラ遺跡群の見学に出発する。今日も暑くなりそうである。市街地を横切り、マルワツ川を渡ると遺跡地区である。森の中に遺跡が点在している。まずは考古学博物館へ。ここでスリランカの主な遺跡全てに有効な周遊入場券を40US$で購入する。ずいぶん高いが、遺跡保存のための活動資金と考えればやむを得ない。ついでに、博物館を見学する。頼みもしないのに、係員がつきっきりで説明してくれる。もちろん単なる親切ではない。確りとチップを要求する。その後、各地でいくつもの博物館に行ったが、全て同じであった。この国の人々はは本当に抜け目がない。

 最初に遺跡地区最南部にあるイスルムニヤ寺院(Isurumuniya Vihara)に行く。紀元前3世紀、初めて仏教がインドから伝えられた際に、最初に出家した500人の僧が住んだ場所といわれ、アヌラーダプラでもっとも古い寺院である。門前で履物を脱ぎ、砂地の境内に入る。10mほどの大きな岩の積み重なりがあり、岩窟のような形で本堂がある。本堂の中には極彩色の涅槃仏が横たわっている。おりしも、真っ白な衣装に身を包んだ数人の巡礼が声高に経を唱えている。ここは今だ現役の寺である。本堂背後の岩の上に登ってみると、広がる緑の森の中に幾つものダーガバが見られ、聖都・アヌラーダプラの雰囲気が強く感じられる。

 この寺の最大の見どころはその宝物殿にある「恋人の像(The Lovers)」と「王族の像(The Royal Family)」である。どちらも1メートル四方ほどの石版に浮き彫りされた彫像で、5世紀の作品といわれている。この「恋人の像」にはロマンチックな恋の物語が付随している。そこに彫られている男女は紀元前2世紀にこの地を統治していたドゥッタガーマニー王の王子・サーリヤとその恋人・マーラといわれている。二人は熱烈に愛し合ったが、マーラのカーストが低く、二人の結婚を周囲は認めなかった。しかし、王子は王子の地位を捨てることを覚悟し、ついにサーヤと結婚したといわれる。

 自転車を北に走らす。紀元前1世紀建立との説明書きがあるダッキナ・ダーガバの横を抜けて進むとスリー・マハー菩提樹(Sri Maha Bobhi Tree)に突き当たる。この菩提樹こそ、キャンディの仏歯寺に祀られる仏歯とともに、スリランカの至宝であり、シンハラ人の心の支えである。なぜならば、この菩提樹は、釈迦がその下で悟りを開いたといわれるインド・プッダガヤの菩提樹の分け木なのである。紀元前3世紀にインドのアショーカ王の王女・サンガミッタによって、この分け木がこの地にもたらされた。ブッダガヤの元々の菩提樹は既に枯れてしまっているので、このアヌラーダプラの菩提樹こそ、お釈迦様を直接知る最後の聖樹といえる。聖地中の聖地だけに警備も厳重である。履物を脱ぎ、厳重な手荷物検査を経て境内に入る。一段高くなった場所に、この聖樹は大きく枝を広げていた。その枝には樹齢2300年とは思えない若々しさで、青葉がたくさん茂っている。聖樹の周りには多くの参拝者が座り込み、熱心な祈りを捧げている。側に祈祷所のようなところがあり、好奇心で行ってみると、僧侶が呪文を唱えながら白い紐を手首に巻いてくれた。門の前に棚が設けられており、多くの参拝者が小さな皿に入ったヤシ油の灯明を捧げている。私もそれに倣ってみた。「いくらか」と聞くと、「心付け」との答え。100RP渡すと、「10US$または1000RPよこせ」とにわかに強面の態度となる。「No!」と大声で叫んで、振り返りもせず立ち去るが、後で何か大声で叫んでいた。不愉快な出来事であった。

 遺跡地区の西に広がる大きな人造湖・パサワックラマ・ウェワの岸を抜け、ルワンウェリ・サーヤ・ダーガバ(Ruwanwell Seya Dagoba)を目指す。濁った湖では人々が盛んに水浴びをしている。このダーガバは紀元前2世紀にドゥッタガーマニー王により建設された真っ白な大きな水泡型で、アヌラーダプラを代表する仏塔である。現在の高さは55mだが、建立時には実に110mもあったという。基壇には見事な象の彫刻が並んでいる。さらに北へ自転車を走らすと、森の中に白い小型のダーガバが現れる。トゥーパーラーマ・ダーガバ(Thuparama Dagoba)である。釣鐘型で高さは19mと小ぶりである。紀元前3世紀に建てられたアヌラーダプラ最古の仏塔である。

 深い森の中の道を進む。猿がいっぱいいる。15分も行くと遺跡群の北端に達する。かつての王宮跡・ラトゥナ・プラサーダ(Ratna Prasada)がある。今は基礎石だけしか残っていないが、ここに8〜9世紀のものといわれる見事なガードストーンがある。ガードストーンとは、悪霊の侵入を防ぐために仏塔や寺院の入り口に立てられた石柱である。この石柱に素晴らしい彫刻が施されている。その隣が王妃の宮殿・マハセーナ宮殿(Mahasena's Palace)である。ここの入り口階段下には素晴らしい浮き彫りを施されたムーンストーンがある。ムーンストーンとは寺院や宮殿の入り口にある半円形の清めの石で、その昔はここで足を洗って入ったが、今は履物を脱ぐ場所である。浮き彫りには意味があり、一番外側の炎の輪は人間世界に渦巻く欲望を、その内側の四種類の動物の輪は生命の力を表すもので、象が誕生、馬が老齢、ライオンは病を、牛は死を象徴し、輪廻を意味する。さらに内側の花の輪は愛を、その内側の花をくわえた鳥は純潔を象徴するものして表されている。最後に中心の蓮の花は天国を意味していて、人は死後ここへ辿り着く。

 二つの宮殿跡のすぐ奥に、度肝を抜かれるような古色蒼然たる巨大な水泡型ダーガバがある。アバヤギリ大塔(Abhayagiri Dagoba)である。レンガ積の地肌が現れ、その地肌を雑草雑木が覆っている。廃虚の匂いがぷんぷんする仏塔である。しかも、とてつもなく大きい。現在の高さは75mで、アヌラーダプラで一番の高さを誇る。紀元前1世紀の建立当時は110mもあったとされる。このダーガバはかつてスリランカにもあった大乗仏教の総本山であった。しかし、12世紀に、時の王・パラークラマ・バーフ1世により、スリランカ仏教界は上座部仏教に統一された。

 昼時となったが、この遺跡地区には茶店程度しかなく、食堂は見当たらない。どうやら昼飯抜きになりそうである。また、自転車で廻っている者など私以外には皆無である。時折出会う観光客は皆ガイドを伴い車で廻っている。スリランカに着いたときから感じているのだが、バックパッカーを見かけない。

 さらに、猿の群生する森の中を少し進むと、数軒の茶店があり、その奥に1体の仏像が静かに鎮座している。サマディ仏像(Samadhi Buddha Statue)である。4世紀の作品で、スリランカでもっとも美しい仏像といわれている。さらに300mほど東に進むと、水を湛えたプールがある。古の僧たちの沐浴場・クッタム・ポクナ(Kuttam Pokuna)である。

 分かりにくい道を南に引き返す。人家の点在する一般道路である。もはや方向感覚だけでペタルを漕いでいる。過たず、ジェータヴァナ仏塔(Jatavana Ramaya)に行きあった。3世紀のマハーセーナー王により建立された仏塔で、アバヤギリ大塔によく似ている。現在の高さは70mだが、これは一番上の傘蓋が破損してしまっているからで、原型は122mもあったという。現在大規模な修復作業中であった。周囲は芝生と樹木の広場となっていて、猿と犬がたくさん遊んでいる。

 以上で、古都アヌラーダプラの主な遺跡の見学は終わりである。遺跡の多くは日本でいえば縄文時代末期から弥生時代のものである。よくぞこれほど残っていたとの思いとともに、今から2000年以上も昔に、こんな南国の小さな島に、これほどの文明が栄えていたことに驚きを感じた。時刻は既に2時過ぎである。街でパンを買ってゲストハウスに帰る。以降の旅も含め気がついたことだが、スリランカには実にパン屋が多い。タイにはほとんどないのだがーーー。

 ゲストハウスのベランダから東北を眺めると、目の前の人造湖・ヌワラ・ヴェワのはるか彼方、山並みの上に真っ白な仏塔が小さく小さく見える。アマラシンゲじいさんに聞くと、ミヒンタレーのマハー・サーヤ大塔だとのこと。明日行く予定のところである。嬉しくなった。「日本人が来ている」と言うので、食堂に行ってみると50歳前後の2人の男性がビールを飲んでいた。いきなり、「日本の方ですね。バコクからの飛行機でいっしょでしたね」と話し掛けられたのにはびっくりした。聞けば、日本からスリランカへの技術者派遣のNGO活動をしており、仕事でアヌラーダプラへ来たとのことである。「日本人などめったに乗らない飛行機に、日本人らしき人を見かけたので覚えていた」と笑っていた。                                             
                                              スリランカ紀行(2)に続く

 

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