おじさんバックパッカーの一人旅   

上座部仏教の故郷 スリランカ紀行(2)

ミヒンタレー、ポロンナルワ、ダンブッラ、シーギリヤ

2005年11月30日

     〜12月4日

 
 
  第10章 仏教伝来の聖地・ミヒンタレー(Mihintale)

 ミヒンタレーはアヌラーダプラの東約15キロに位置する小さな村である。伝説によると、紀元前247年6月の満月の日、この村の丘の上で、その後のスリランカの運命を定めることになる歴史的な出会いがあった。この地に鹿狩りにやって来たデーワーナンピヤ・ティツサ王は1匹の鹿を追ってこの丘に登る。そこで出会ったのは、この地に仏教伝導のためにやって来たインドの仏教王・アショーカの息子・マヒンダ王子であった。山の神・デーウァが鹿に姿を変えてデーワーナンピヤ・ティツサ王をこの地に導いたのである。王はマヒンダ王子と問答し、瞬時に仏教に帰依した。臣下や住民もこれに続き、7日間で8,500人が仏教徒となった。以降、仏教は瞬く間にスリランカ全土に広がり、そして、スリランカから、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアと東南アジア一帯に広がっていった。

 11月30日水曜日。今日はこの聖地・ミヒンタレーへ One Day Trip する。バスはゲストハウスから2キロほどのニュー・バスターミナルから出ているのだが、「近くの時計台から乗ればよい」とアマラシンゲじいさんが教えてくれた。8時過ぎ、カメラと案内書だけをもって宿を出る。指示されたバス停に行くが、ひっきりなしに各方面へのバスが来るので、どれに乗ってよいのかさっぱり分からない。バスの行き先標示は全てシンハラ語だけである。困ったなぁと思っていたら、ミヒンタレーの大学で日本語を習っているという大学生が助けてくれた。バスは通勤通学客で混雑していたが、わずか30分ほどでミヒンタレーに着いた。降り立った観光客は私1人であった。まとわり付くトゥクトゥクの運チャンを振りきり丘に向う。兵士を満載した軍のトラックがやって来た。兵士が私に向って「ハロー」と笑顔で叫びながら手を振る。まったくもって、人懐こい国だ。

 朝日を浴びながら人影もない森の中の道を進むと、考古学博物館の前に出た。案内書に「是非立ち寄るように」と記載されているので行ってみた。入場料は無料で、見学者は私1人であった。2人の係員が付きっ切りで説明してくれる。もちろんチップが目当てである。博物館の前に広がる古代病院の跡まで案内してくれた。

 丘の麓に達した。長大な石段が丘に向って続いている。たむろしていた何人かの男が、「ガイドとして雇ってくれ」と、しつこくつきまとう。振りきって、階段をゆっくりと登る。何とも気持ちのよい登り道である。両側は白い大柄の花の咲くプルメリアの並木である。仏陀フラワーとも呼ばれるこの樹木は実にスリランカに多い。1人の男が、さも自然に近寄ってきて、あれやこれやと話し掛けながら歩みをともにする。こういう輩が一番危ない。後で、案内料とか言って因縁をつけ、金をせびるに決まっている。"No Thank You. Goodby"と強く言って追い払う。

 踊り場となった大きな広場に登り上げた。ここで中腹に点在する遺跡を訪問するために、山頂に続く石段と分かれ脇道に入る。途端に何人かの男が親しげに寄ってきて、「案内する」と、つきまとう。まったくこの国での1人旅は疲れる。ちょっとした高みにカンタカ・チェーティヤ(Kanthaka Cetiya)があった。紀元前60年頃建てられたという仏塔である。高さは12mほどだか、周囲は130mもある。さらに、昔の沐浴場の跡であるシンハ・ポクナ(Sinha Pokuna)とナーガ・ポクナ(Naga Pokuna)を経て、参道に戻る。

 幅を狭め、幾分傾斜を増した石段を登っていくと、山頂直下の広場に達する。ここに入場料徴収所がある。入場料は250RPなのだが、係の男が「外国人はUS$で払ってくれ」という。おかしいと思ったが、小額ドル紙幣がなかったので、20US$札を渡すと、何と! 500RPをお釣りによこす。「ふざけるな」と日本語で怒鳴り、あわてて20US$札を取り返す。まったくもって油断も隙もない。同じ仏教国でも、タイ、ラオス、ミャンマーのような安心感はこの国にはない。

 ここから先は聖地、履物を脱ぐが砂混じりの裸地で足の裏が痛い。広場の真ん中に形よい小型の真っ白な仏塔が建っている。アムバスタレー・ダーガバ(Ambasthale Pagoba)である。この地こそ、マヒンダ王子とデーワーナンピヤ・ティツサ王が出会った場所である。スリランカの聖地中の聖地である。しばし2千数百年の昔に思いをはせる。またまた、男が寄ってきて「案内する」という。"No Thank you"と追い払おうとすると、"I am a temple boy. Free,free"という。何が寺男だ。何が無料だ。だまされはしない。アムバスタレー・ダーガバの奥は僧院となっていて、黄色い衣を付けた青少年僧が修業に励んでいる。彼らも気軽に「ハロー」と声を掛けてくる。

 アムバスタレー・ダーガバからさらに一段登った丘の頂に巨大な白い仏塔が建っている。ゲストハウスから遥に見えたマハー・サーヤ・ダーガバ(Maha Seya Dagoba)である。登ってみるとまさに絶景である。眼下は緑の絨毯となって原生林がどこまでも続いている。僧がおり、中を案内してくれたので200RP寄進する。

 丘を下る。ぽつりぽつりとガイドを伴った外人観光客の姿も見える。バス停でバスを待つ。トゥクトゥクの運チャンが何人か寄ってきてアヌラーダプラまで500RPと盛んに誘う。断ると「たばこをくれないか」。「持ってない」というと、「ポケットの膨らみは何だ」とくる。まったく手に負えない。

 
   第11章 古都・ポロンナルワ(Polonnaruwa)へ

 12月1日木曜日。今日は古都・ポロンナルワに向う。朝7時半過ぎ、トゥクトゥクでニュー・バスターミナルへ行く。このバスターミナルも割合小さい。英語表示はまったくないが、トゥクトゥクの運チャンに教えてもらったプラットホームでバスを待つ。15分も待つと、同じプラットホームで待っていた人たちが慌ただしく動き出した。"?"。隣の人が、「ポロンナルワ行きのバスなら向こうだ」と、ターミナルの外に停まっているバスを指さす。慌ててザックを背負って駆け込む。どうやらバスは規定のプラットホームに入らず、ターミナルの外に停まったらしい。危ないところであった。バスは乗り込むのもままならないほどの超満員であった。それでも旧市街まで行くと何とか座れた。座席が2列+3列のオンボロバスである。

 郊外に出たと思ったら、男が車掌に何か声を掛け、バスは急停車。男は車外でタチション。それにつられて何人かの男がツレションに降りた。どうやら臨時のトイレ休憩らしい。さすが、田舎のバスは融通が利く。窓外の景色には特段の変化はない。森が続き、所々に小さな集落が現れる。耕地は少ない。東南アジア諸国で見られるような見渡すかぎりの田圃という景色は現れない。湖水が頻繁に現れる。いずれも人造湖のはずである。道は舗装されているが、簡易舗装だろう、車の振動はかなり大きい。やがて丘陵地帯に入り、道は上り下りを繰り返す。1時間半ほど走りハバラナと思える小さな街並みを過ぎたところのドライブインで、今度はまともなトイレ休憩。外国人は私1人だが、誰も気にする様子はない。

 バスは再び走りだした。ポロンナルワまで4時間と聞いていたので、まだまだと思っていたら、突然右手に大きな湖が見え、道脇に幾つかの遺跡が現れた。アレッと思ったら街並みに入り、"Tourist Police"の看板が目に飛び込んできた。ポロンナルワの旧市街だ。慌ててバスを降りる。ポロンナルワの街は新市街と旧市街に分かれていて4キロも離れている。バスターミナルは新市街にあるが、多くのゲストハウスは旧市街にある。途中下車する必要があるのだ。

 バスを降りると、例によって、トゥクトゥクの運チャン、それに「紹介屋」がしつこくつきまとう。アマラシンゲじいさんに紹介されたサムドラ・ゲストハウスに入る。おばさんが愛想よく迎えてくれた。ホットシャワー、朝食付きで850RPだという。満足する。
 

   第12章 密林に眠る遺跡・メディリーギリヤ(Medirigiriya)

 ポロンナルワの北約40キロのジャングルの中にメディリーギリヤという遺跡がある。案内書によると、遺跡は8世紀頃のもので、未だ整備されず、ジャングルの中に放置されているらしい。午後からこの遺跡に行ってみることにする。ただし、公共交通機関が通じていないため、車をチャーターせざるを得ない。ゲストハウスのおばさんに相談すると、往復1,500RPでトゥクトゥクをチャーターすると言う。少々高いと思ったが、ハゲタカのようなトゥクトゥクの運チャンと直接交渉するよりはと思い、ゲストハウスを信用した。

 午後1時、迎えに来たトゥクトゥクで出発する。片道約1時間のドライブである。このドライブは実に気持ちのよいものであった。田舎道だが、一応舗装がなされている。周りは「これぞスリランカの農村風景」が広がっている。スリランカ入国以来初めて見る田園風景である。大きく開けた田圃は、ちょうど田植えの時期である。数人が1列に並んで腰を屈めて苗を1本1本植えている。別の田圃では耕耘機を使って田興しが行われている。苗代には苗が青々と育っている。ひと昔前の日本の田園風景と同じである。田植え前の田圃には水牛の姿が多い。その周りには白鷺が群れている。

 水路には豊富な水が音をたてて流れ、女たちが洗濯や水浴びをしている。小さな集落を幾つか過ぎる。どの集落にも必ずトゥクトゥクが見られる。学校から、真っ白な制服の生徒たちが溢れ出てくる。時折、牛が道路を塞ぎ、鋭い警笛が鳴らされる。この風景こそがスリランカの原風景なのだろう。

 やがてトゥクトゥクは街道を外れ、森の中の地道を少し進んで止まった。目の前に、石の積み重なった遺跡が広がっている。遺跡は事前の情報とは違い、修復作業は行われていないものの、周りは確り整備されていて、「ジャングルの中に眠る」のイメージではない。見学者は他に誰もいないが、作業者がダーガバ(仏塔)の草を採り周辺を掃き清めていた。遺跡群の中をのんびりと歩く。説明書きは一切ないので何が何なのかはよく分からない。それでも柱の立ち並ぶ寺院跡や小さな仏塔跡が割合完全な形で残っている。仏像も破壊されることなく、本来の位置にそのまま鎮座している。沐浴場であったと思われる池もある。病院跡と思われる施設の跡もある。1匹の大きなカメレオンが遺跡の石の上で悠然と昼寝をしていた。

 宿の引き返し、周辺をぶらつく。相変わらず、「ハロー」「ハロー」「どこから来たのだ」とうるさいほど声が掛かる。街中には犬と牛と猿が溢れている。街と森の境があいまいなこの国では、猿は街中に普通にいる。猿が1匹現れたと大騒ぎする日本の街とは大違いである。トゥクトゥクの運チャンが、「メディリーギリアまで、ゲストハウスでトゥクトゥク代としていくら取られた」と聞いてきた。1,500RPと答えると、驚いた様子で、「おれたちに直接言えば500RPで行くのに」と言う。愕然とした。完全にゲストハウスにだまされた。今まで、ゲストハウスというものは旅行者の味方と思っていたが、こんなあくどいゲストハウスもあるのだ。

 夕食事時、食堂に行くと、中年の女性がいきなり日本語で「日本の方ですか」と話し掛けてきた。肌の色は幾分白いが、現地人と同じ服装をしているので、一瞬、スリランカ人か日本人か区別がつかなかった。聞けば、もう20年もスリランカでNGO活動をしている日本人とのことで、シンハラ語もぺらぺらであった。30歳ぐらいのシンハラ人の男性が同行しており、彼は大阪大学に留学していたとかで、日本語がぺらぺらであった。こんなところまで来て、日本語の会話が出来るとはうれしい。ビールを飲みながらしばし雑談する。スリランカの幼児教育支援活動をしているとのことであった。「ジャフナにはやはり行かないほうがいいですか」と聞くと、真顔になって、「止めて下さい。もしもの時、日本大使館に多大な迷惑がかかります。大津波で日本人が遭難したとき、大使館がどれだけ努力したことかーーー」と、諭された。ジャフナはスリランカ北端の街で、タミールゲリラ・LTTE(タミール・イーラム解放の虎)の拠点である。もし可能なら、タミール人の町にも行ってみたいと思っていたのだがーーー。

 
   第13章 ポロンナルワ遺跡

 12月2日金曜日。今日は1日掛かりで、ポロンナルワ遺跡を見学するつもりである。8時過ぎ、ゲストハウスで借りた自転車で出発する。ポロンナルワ遺跡地区は南北10キロにわたっており自転車がちょうどよい。

 ポロンナルワは11世紀から13世紀にかけてのシンハラ王朝の都であった。アヌラーダプラを都としたシンハラ王朝は度重なるタミール勢力の侵略に耐えかね、11世紀にアヌラーダプラの南東約75キロのポロンナルワに遷都する。そしてポロンナルワは200年余りの間、シンハラ王朝の都として、また、仏教世界の中心都市として多いに栄えた。東南アジア諸国からも多くの修行僧を迎えた。その栄華の跡は1982年、「古代都市ポロンナルワ」として世界遺産に登録された。

 パラークラマ・サムドラの岸辺を朝日を浴びながらペタルを漕ぐ。パラークラマ・サムドラとは街の西に広がる巨大な人造湖である。何しろ、向こう岸が遥かに霞んで見えるほどの巨大さで、とても人造湖とは思えない。この人造湖はポロンナルワ時代の12世紀に造られたものである。言い換えれば、この人造湖があったからこそ、ポロンナルワの繁栄があったといってよい。昨日、メディリーギリヤへ行く途中で見た、あの豊かな農村風景もこのパラークラマ・サムドラのお陰である。今なお、この湖はポロンナルワ周辺をスリランカ屈指の穀倉地帯となさしめ続けているのである。取水口からは轟音を轟かせて水が水路に流れ出ている。

 まず訪れたのは、街の南端にある二つの遺跡である。四つの小さな仏塔に囲まれた石積みが図書館跡・ポトグル・ヴィハーラ(Potgul Vihara)である。ここにヤシの葉に書かれた仏典が保管されていたという。早朝のためか、辺りに人影はなく、ヤギの群れが草を食んでいた。林の中を100mほど北へ進むと、白い岩に彫られた男の立像がある。スリランカのお札にも登場したことのあるお馴染の像である。ポロンナルワにもっとも繁栄をもたらしたパラークラマ・バーフ1世の像と言われている。

 再びペタルを漕いでパラークラマ・サムドラの岸辺を北上すると、ポロンナルワ博物館に行き当たる。ここで入域許可証のチェックを受ける。実によく整備された立派な博物館で、展示物も豊富であり見ごたえがある。街道を越えると、台地に突き当たる。この台地がルポロンナルワ保護区である。広大な史跡公園となっていて、林の中に沢山の遺跡が点在している。保護区に入る。ガイドを伴った何組もの外人観光客の姿が見られる。

 真っ先に、遺跡群の目玉の一つ・王宮跡へ行く。元々は7階建てであったとのことだが、既に屋根や各階の床はなく、厚さ3mもある巨大な壁の1部が立ち並んでいる。なかなかの迫力である。その周辺には閣議場跡や集会場の跡があり、坂を下った一段下には沐浴場の跡がある。この辺りが往時の政治の中心であったようである。同じゲストハウスに泊まりあわせている男1人女3人という妙な組み合わせのフランスの若者4人組も、私と同じコースを自転車で廻っている。

 林の中を少し北上すると、壊れかけた少々みすぼらしい小さな建物がある。13世紀のヒンズー教寺院・シヴァ・デーワーラヤNo.1(Siva Devalaya No.1)である。仏教王国の中心地にヒンズー教寺院とは奇妙であるが、南インドから迎えたヒンズー教徒の王妃のための寺であるという。常に、南インドのヒンズー教徒(タミール人)の攻勢に晒されていたシンハラ王朝は、何とかその圧力をかわそうと、時として南インドから王妃を迎えたのである。この建物はまさにシンハラ王朝の苦しい立場を象徴している。

 そのすぐ裏手の城壁で囲まれた一角がクワドラングル(Quadrangle)と呼ばれる場所である。ここは当時、国家守護寺院・仏歯寺があった所で仏教信仰の中心地であった。南西の隅に、ほぼ完全な形で残っている角張った重厚な建物がトゥーパーラーマ(Thuparama)である。当時の仏堂で、中には手のもげた立仏像が安置されていた。その斜め向かいにある円形の建物がワタダーゲ(Vatadage)である。7世紀建立の仏塔で、4方向に、立派なガードストーンとムーンストーンを備えた入り口がある。その入り口の奥には仏像がほぼ完全な形で鎮座している。

 ワタダーゲの前に建つ寺院跡が仏歯寺跡・ハタダーゲ(Hatadage)である。即ち国家守護寺院であり、シンハラ王朝の最重要寺院である。意外に小さい。既に屋根はないものの壁の1部は残っている。ムーンストーンで履物を脱ぐ。その両脇には1対のガードストーンが門を守っている。3段の石段を登り入り口を潜る。折れた柱に囲まれた通路の奥に三体の立像が安置されている。右の1体は頭がないが、他の2体はほぼ完全な形で残されている。跪いてそっと手を合わす。寺院の中は私1人だ。高く昇った南国の太陽に直射され、辺りは白く輝いている。

 クワドラングル内には、その他、菩提樹跡(Bodhi Tree Shrine)、王が僧の読経を聞いた場所と言われるラター・マンダパヤ(Lata Mandapaya)、涅槃仏のあったという仏陀像跡、巨大な石碑・ガルポタ(Gal-Potha)、集会場跡などが見られる。北東の隅に7階建ての塔が見られる。説明書によると、「この塔はタイのワット・クークットにそっくりであり、タイから来た建築技師が建てたものと思われる」と、ある。見上げていたら、壁に遊行仏の浮き彫りがあるのを見つけた。遊行仏(Walking Buddha)はタイ・スコータイ王朝を特徴づける仏像である。間違いない。この塔は明らかにタイ様式である。何やら嬉しくなってきた。当時の仏教の中心地であったこの地へ、タイからも多くの修行僧や仏教関係者がやってきたのだろう。

 クワドラングルの前の茶店でひと休み。フランス人の4人連れもやって来て隣に座った。3人の女性は中々の美人だ。北上するメインロードからはずれ、細道を東に進むと、鏡もちの様な形の古びた仏塔がある。12世紀にパラークラマ・バーフ王妃によって建てられたパバル・ヴィハーラ(Pabalu Vihara)である。さらに小道を進むとほぼ完全な形で残っている建物に突き当たる。ヒンズー教寺院・シヴァ・デーワーラヤNo.2(Siva Devalaya No.2)である。11世紀にポロンナルワを占領した南インドのチョーラ王朝が建立したと言われている。この建物もポロンナルワの歴史を語っている。

 メインロードに戻って北上する。樹林の中の静かな道だが、両側には絶えることなく小さな小間取りの建物跡が続く。商店の跡との標示がある。この辺りが庶民の街の中心であったのだろう。左側に巨大な仏塔が現れた。ポロンナルワ最大の仏塔・ランコトゥ・ヴィハーラ(Rankot Vihara)である。参道入り口に小学校4〜5年ほどの少年がぽつんと立っている。近づくと、絵葉書を買って欲しいという。「学校へ行かないのか」と声を掛けると、「今日は日曜日で学校は休み」との答え。確か今日は金曜日のはずだ。貧しさのため、学校へは行ってないのだろう。日本のコインが欲しいというので、10円玉と5円玉を渡す。たくましく生きて欲しいものだ。ランコトゥ・ヴィハーラはアヌラーダプラのルワンウェリ・サーヤ大塔をモデルにして12世紀に建造された水泡型仏塔で、高さは55mもある。履物を脱ぎ、塔を一周する。焼けた石畳が足裏を強く刺激する。

 チケットチェックポイントを越え、さらに北上する。道の左側には、案内書にもない遺跡が点々と現れる。大きな広場に到着した。小屋掛けされた数軒の露店と土産物屋がある。自転車を停め、広場の南側に建つ、大きな仏塔・キリ・ヴィハーラ(Kiri Vihara)に向う。キリとはシンハラ語でミルクを意味する。名前の由来となった仏塔を覆う白い漆喰が未だはっきりと残っている。その南側の巨大な建物がランカティラカ(Lankatilaka)である。13世紀に建てられた高さ17.5m、奥行き52m、幅18mもある仏堂である。中には頭を失った巨大な立仏像が納められていた。

 自転車に戻ると、何と後輪がパンクしている。これは困った。どうしよう。近くに修理屋があるわけがないし。対策は後回しにして、今度は広場の北側に広がる遺跡に向う。ここにポロンナルワ遺跡最大の傑作と言われる岩壁に浮き彫りされた3体の石像がある。ガル・ヴィハーラ(Gal Vihara)である。1番右には涅槃仏が横たわっている。まさに涅槃に入ろうとしている仏陀の姿である。その左に、腕組みをし、悲しそうな顔をした石像が立つ。高さが7mもある。仏陀の涅槃を悲しむ1番弟子・アーナンダの姿と言われている。その表情からは深い深い悲しみが伝わってくる。まさに傑作の名に恥じない。1番左は高さ4.6mの仏陀の座像である。石像の前は、多くの外人観光客が詰めかけ、この遺跡がポロンナルワ遺跡でもっとも人気があることを示している。石像前には、「石像をバックに写真を撮らないで下さい」との立て札が立てられている。仏陀に尻を向けることは、仏教徒の宗教的感情を著しく害する。

 広場に戻る。さてどうしたものか。パンクした自転車を前に思案する。ここからさらに2キロほど北のティワンカ・ピリマゲ寺院も是非行ってみたい。ただし、往復1時間の歩きとなる。既に12時を過ぎたが、未だ昼飯も食べていない。覚悟を決めて炎天下の道を歩き出す。もはや人影もなく、スリランカハイイロオナガ猿の群れが樹上で騒ぎ立てている。街中に多くいるカニクイ猿に似た猿とは別種である。オートバイで通りかかった18〜19歳の少年が、「乗って行け。ただし、200RPくれ」と言う。まったくこの国の人々は抜け目がない。無償の親切などという行為は存在しない。後部座席にまたがる。 

 途中、蓮池と呼ばれる蓮の花の形をした昔の沐浴場跡を見て、遺跡群最北に位置するティワンカ・ピリマゲ寺院(Tivanka Image House)に到着した。寺院は建物全体に足場が組まれ、修復作業の真っ最中であった。この寺院の見どころは内部に描かれた壁画である。中は薄暗く、お目当ての壁画もよく見えない。フラッシュを焚いたら係員が跳んできて怒られた。「フラッシュ撮影禁止」の表示がなされているのに気がつかなかった。外に出ると、草むらに体長1,5mもあるインド・リク・オオトカゲがのそりのそりと這っていた。オートバイで元の自転車のところに戻る。少年は「途中蓮池に寄ったから300RPくれ」と、臆面もなく言い出す。ふざけるな。"NO"といって睨みつけると、すごすごと去った。この国の人は、何でも臆面もなく要求する。ただし、断られると、案外あっさりと諦める。脅迫するという感じはない。

 以上で、ポロンナルワ遺跡は完全に見終わった。そして何かすがすがしい気持ちとなった。アヌラーダプラの遺跡も同様であったが、このポロンナルワの仏教遺跡には、破壊の跡がまったくないのである。アヌラーダプラもポロンナルワも最後はヒンズー教徒のタミール勢力に占領された。それにも関わらず、仏像も仏塔もまったく破壊されることなく現在に残っている。仏像という仏像の頭部がすべて切り取られ、徹底的に破壊されたタイ・アユタヤの遺跡。同じく伽藍に並ぶ仏像の頭部が全て破壊されたラオス・ビエンチャンのワット・ホー・パケオ、アンコールの仏教寺院も仏像は全て削り取られていた。この小さな島では、紀元前3世紀から現在に至るまで、仏教徒のシンハラ人とヒンズー教徒のタミール人は血で血を洗う闘争を繰り返してきた。しかし、宗教戦争はなかったのだ。なにかほっとする。

 栄華を誇ったポロンナルワの都も13世紀に終焉を迎える。ここポロンナルワに都を移したものの、やはり、度重なるタミール勢力の攻勢に耐えきれなくなったのである。以降、シンハラ王朝は都を南へ南へと移しながらタミール勢力の攻勢に耐えることになる。
 この時代を年表風に記載すると次のようになる。
  
1017年 タミール系のチョーラ王朝が、ランカー島の大半を支配。
シンハラ王朝は、アヌラーダプラからポロンナルワに遷都。
1070年 シンハラ王のウィジャヤバーフ1世が、チョーラ王朝をランカー島から追放。
1215年〜55年 タミール系のカリンガ朝が、ポロンナルワを支配。
1232年〜36年 シンハラ王のウィジャヤバーフ3世が、ダンバデニヤに遷都。
1255年 シンハラ王朝が、ポロンナルワを完全放棄。首都は、これ以降、
ヤーパフワ、クルネーガラ、ガンポラ、コッーテと変遷。

 遺跡保護区の外に出て、自転車を押しながら街道をポロンナルワの街に向う。地図を見ると4キロはありそうである。真昼の南国の太陽は容赦なく熱線を浴びせる。牛と猿が車の往来の激しい街道で平気で遊んでいる。約1時間掛かってようやく宿に辿り着いた。やれやれである。

 一息入れた後、再び街に出る。まずセイロン銀行へ行って両替、郵便局へ行って葉書の投函。インターネットはあったが、日本語環境はなく、しかも電話線のため使い物にならなかった。無事にスリランカにいることを家に知らせなければならない。この小さな街では、あっという間に私の存在が知れ渡ったと見えて、どこを歩いても、「ジャパン」「ジャパン」と呼びかけてくる。馬鹿にされているようでいい気持ちはしない。

 宿のおばさんが「日本に働きに行きたいのだが、どうだろう」と真顔で相談を持ちかけてきた。どこかで読んだ本に、「スリランカの人々は日本が世界でもっとも豊かな国と思っている」との記載があったことを思いだした。「外国人が働くのは難しい国ですよ。だいいち、Work Permitが取得できないでしょ」と答えておいたがーーー。
 

第14章 ダンブッラ(Dambulla)の石窟寺院

 12月3日土曜日。今日はポロンナルワの西南西約40キロの街・ダンブッラに向う。朝8時、トゥクトゥクで新市街のバスターミナルへ行く。ちょうどダンブッラ行きのインターシティーバスが客の呼び込みをしているところであった。ただし、客が中々集まらず発車まで30分ほど待たされた。途中のハバラナまではアヌラーダプラへの道を引き返すことになる。ハバナで南に折れ、キャンディロードと呼ばれる快適な道を進む。インターシティーバスなのでトイレ休憩はない。わずか1時間15分で大きな街並みに入った。車掌がここがダンブッラだから降りるようにという。バスはキャンディまで行くようである。

 賑やかな街並みの中に降り立った。ダンブッラの街は新市街と旧市街にわかれており、ここは新市街である。ゲストハウスは2キロほど離れた旧市街にある。トゥクトゥクの運チャンが声を掛けてくるが、方向もはっきりしているので旧市街まで歩いてみることにする。キャンディロードを南にたどる。今日もいい天気である。真新しいバスターミナル、続いて野菜の卸売り市場が現れ、街並みは終わる。この先は旧市街になるのだが、街並みはなく街道沿いにぽつりぽつりと家が建っているだけである。ポロンナルワのゲストハウスで紹介されたHealey Tourist Innというゲストハウスを目指す。郵便局の斜向かいだと聞いてきた。やがて右側に郵便局が現れた。「さてどこかな」ときょろきょろしていたら、すかさず男が寄ってきた。「紹介屋」である。振りきって、目指すゲストハウスに入る。わずか4部屋きりないという家族経営の小さなゲストハウスで、40代の夫婦が暖かく迎えてくれた。ホットシャワーはないが我慢しよう。

 この街には、世界遺産のダンブッラ石窟寺院がある。昼食後、早速出かける。宿からキャンディロードを数分南に歩くと、岩山を背にした、大きな金色の大仏の鎮座する寺院に達する。ここが、石窟寺院への登り口である。ここから背後の岩山の頂に向って、長い長い石段を登ることになる。石段には物乞いが点々と座り込んでいる。他の都市の物乞いも同様なのだが、近づくと「ハロー」といって、目の前に手を差し出す。小銭を手に乗せてやっても、当然というような顔をして感謝の表情はまったくない。何か厚かましく、ずうずうしい。バンコク市内にも物乞いは多いが、呼びかけてくることはないし、手など絶対に差し出さない。前に置かれた紙コップにコインを入れてやれば、手を合わせて感謝の気持ちを表す。石段は急というほどでもないが、何しろ長い。猿がたくさん群れている。石窟寺院は標高180mとのことである。休み休み登る。30分も頑張ると、ようやく入り口に到着した。眼下には大きく展望が開けている。

 裸足になって境内に入る。係員が私に向って、マレーシアから来たのかと聞く。マレーシア人と見られたのは初めてだが、連日の炎天下の行動で、既に顔は真っ黒である。日本人には見えなかったのだろう。オーバーハングした岩壁に開いた天然の岩窟が寺院である。岩窟は全部で五つある。この岩窟寺院が開かれたのは紀元前1世紀である。紀元前104年、タミール軍により首都アヌラーダプラを追われたシンハラ王朝の王・ワラガム・バーフは、この岩山に隠れ住み、臥薪嘗胆の日々を送った。そして、紀元前88年、反攻に転じた王はタミール軍を打ち破り、アヌラーダプラに凱旋する。その後、王は感謝の意を込めて、ここに寺院を建立したという。以降、各時代の王たちが寺院の拡張、補修に勤しんだ。

 第1岩窟・デーワ・ラージャ・ヴィハーラ(Dava Raja Vihara 偉大な神の神殿)に入る。最古の岩窟寺院である。薄暗い裸電球の光の中に、長さ14mの巨大な涅槃仏が横たわっている。だいぶ色は褪めているが、全身金色である。壁には1面に極彩色の壁画が描かれている。続いて、第2岩窟・マハー・ラージャ・ヴィハーラ(Maha Raja Vihara 偉大な王の神殿)に入る。もっとも大きな岩窟で、幅52m、奥行き23m、高さ7mある。この岩窟には約60体もの仏像が安置されていて壮観である。また、天井を埋め尽くす壁画はこの石窟寺院最大の見どころである。ちょうどガイドを伴った白人の夫婦連れがやって来たので、有名な「シンハラ人とタミール人の戦い」の絵を確認することが出来た。洞窟奥に天井から水が滴り落ちている場所がある。この水は聖水とされ、金網で囲われている。第3岩窟・マハー・アルト・ヴィハーラ(Maha Alut Vihara 新しい偉大な神殿)は18世紀に建立されたものである。全長9mの涅槃仏と57体の仏像が安置されている。第4岩窟・パッツィーマ・ヴィハーラ(Pachima Vihara 西の神殿)の右奥に真新しい仏像がある。かつてドイツの女性が、この仏像に腰掛け記念撮影をするというとんでもない行為をした。このため仏像が汚されたとして、塗り直されたのである。第5岩窟・デワナ・アルト・ヴィハーラ(Devana Alut Vihara )は1915年に建立されたもっとも新しい岩窟である。

 境内を出、岩に腰掛けて眼下に広がる景色に見とれる。まさに緑の絨毯である。この島は、いまだ原生林に包まれた野生動物の天国である。宿の情報ノートには、ポロンナルワからダンブッラへバスで来る途中、野性の象の群れに出会ったとの記載も見られた。遥か遠くに、明日行く予定のシーギリアの岩峰も見える。ひとまず宿に帰る。

 バンコクの空港で1カートン買ってきたのだが、ついにタバコが切れてしまった。近くの雑貨屋で、買おうとしたら、奥から「ばら売り」のタバコを持ってきた。箱単位では売らないという。しかも、1本10RPもする。日本並の価格である。入国以来気がついていたのだが、この国にはタバコ屋がない。店先で一度もタバコを見かけなかった。街でも喫煙している人をほとんど見かけない。タバコの吸い殻も落ちていない。高価なため吸えないのだろう。さて困った。宿の雑用をしているジーさんにチップを渡して、「どこかで1箱買ってきてくれ」と頼む。最初は10本しか買えなかったと帰ってきたが、再度出かけていって1箱買ってきた。明日からタバコの入手に苦労しそうである。

 夕刻、米国人の三人娘がやって来た。ヤンキー娘はビールをラッパ飲みして賑やかである。

 
   第15章 狂気の王とシーギリヤ・ロックの物語

 今日はシーギリヤ・ロック(Sigiriya Rock)にOne Day Trip する。シーギリヤ・ロックはダンブッラの北東約20キロのジャングルの中にそそり立つ標高377mの岩峰で、今やスリランカ観光最大の目玉である。この岩峰は四方を垂直の岩壁で囲まれ、登ることなど到底不可能と思える巨大な岩の塊である。ところが、この峭峻な山頂に宮殿を築いた狂気の王がいた。さらに、19世紀にいたって、この切り立つ岩壁からは色鮮やかな壁画が発見されたのである。スリランカの至宝・シーギリヤ・レディである。シーギリヤ・ロックは1982年、「古代都市シーギリヤ」として世界遺産に登録された。

 シーギリヤ・ロックにまつわる物語はまさに劇画である。人間の弱さ、醜さ、愚かしさ、そして不可能を可能とならしめてしまう執念。これら全てが凝縮されいてる。以下はその物語である。
 
 アヌラーダプラに君臨したシンハラ王朝の王・ダートセーナ(在位452−470)はシンハラ族の英雄である。彼は約30年間に及ぶタミール族の支配を打ち破り、さらに、全国に数多くの農耕用貯水池を建設した。ダンブッラからアヌラーダプラに通ずる道沿いにある「カワベバ貯水池」は彼の作った最大の貯水池であり、現在でも水を満々と蓄えている。ダートセーナ王には3人の子供があった。長男キャッサパ(母親は平民)、次男モガラーナ(母は王族)、そして従兄弟であり軍司令官であったミガーラに嫁いだ長女。

 キャッサパは常々、母の身分の違いのため、王位継承を弟のモガラーナに奪われるのではないかと懐疑の念を抱いていた。ミガーラもまた、自己の保身のために、モガラーナが王位を継承することを恐れていた。ミガーラは策略を巡らせ、「ダートセーナ王がモガラーナを王位に就けるために王の財宝を密に隠した」という噂を流した。焦ったキャッサパは王を幽閉し、隠した財宝のありかを詰問した。ダートセーナ王はカワベバ貯水池を指して、「これが私の財産のすべてだ」と答えた。このためキャッサバは王を殺し、王権を奪取した。身の危険を感じた弟モガラーナはインドに逃れた。

 父王を殺したという自責の念と、弟の復習への恐怖により精神に異常をきたしたキャッサバは、アヌラーダプラの都を捨て、何と! シーギリヤ・ロックの頂に宮殿を築いたのである。

 やがて8年の時を経、弟モガラーナは強力な援軍を従えインドからシギリヤに攻め上ってきた。さしもの難攻不落に思えたシーギリヤ城も陥落し、キャッサパは咽を掻き切って自害する。王位に就いたモガラーナは再びアヌラダプーラに都を戻した。

 英国植民地支配下の1875年、ジャングルの中に忘れ去られていたシーギリヤ・ロックは再び目覚めた。この岩壁を望遠鏡で眺めていた英国人が、岩壁に描かれた色鮮やかな壁画を発見したのだ。いまや、シーギリヤ・レディとして全世界に知れ渡った壁画である。狂気の王・キャッサバとこのシーギリヤ・レディとの間にいかなる関係があるのかは今もって謎である。

 
   第16章 シーギリヤ・ロックへ

 12月4日日曜日。朝8時、歩いてバスターミナルへ向う。約15分ほどで辿り着いた真新しいバスターミナルは、閑散としていて、まだ本格的に使われていない様子である。隅の方に数台のマイクロバスが停まっているだけで、区割りされた店舗も1〜2割程度しか入店していない。しかも、英語表示もなく、勝手がさっぱりわからない。開いていた商店で聞くと、「そのうちにバスはここへ来る」と、一つのプラットホームを指さすが、そこでは、日曜日のためか若者たちがカードゲームに夢中になっている。待つ以外なさそうである。しかし、30分待っても、バスはおろかバスを待つ人も現れない。不安になって、別の人に聞いてみたのだが、同じ答えであった。1時間近く待って、ようやくシーギリヤ行きの小型バスがやって来た。乗ったのはわずか3〜4人である。

 バスはすぐに発車した。しかし、新市街中心地の道端で長時間の停車となる。その間に、次から次と乗客が押し寄せ、バスは身動きも出来ないほどの超満員となった。ここが実質的にバスターミナルとなっているようで、人々でごった返し、次々と各地から来たバスが停車する。バスは。しばらくキャンディロードを北上した後、シーギリヤに続く細道に入る。さらに乗客は増え、極限のすし詰め状態となる。そんな中、赤ん坊を抱いたり、幼い子を連れた母親が乗ってくる。一瞬心配するが、当然のごとく、さっと席が譲られる。

 感心していたら、今度は黄色い衣を付けた2人連れの僧が乗り込んできた。20代の若者である。見ていると、人込みを掻き分け運転席の後の最良の席に行き、座っていたおばさんの肩を叩いて席を代わらせた。何という傲慢さ! この国の仏教の程度が知れる思いであった。同じことを、後日、列車の中でも目撃した。おそらく、僧は優先的に座る権利を社会習慣として与えられているのだろう。しかし、この権利を行使するか否かは、時と場合を考えた個々の僧の意思である。スリランカ仏教の現状にいささかの幻滅を感じた。この国には、もはや皆僧制度も托鉢の習慣さえない。東南アジア諸国に比べ、僧と民衆の溝が大きいように感じられる。

 ダンブッラから約1時間も走ると、道端に数軒の土産物屋が現れ、窓外に切り立つ岩山が見えてきた。バスを降りたのは私1人であった。そもそも外国人が乗るようなバスではない。店でミネラルウォーターを1本購入して、東側より森の中の小道を岩峰に向う。それにしても凄まじい岩峰だ。切り立つ数百メートルの絶壁は垂直というよりオーバーハングである。山頂に到るルートがあるとはとても思えない。数分歩くとチケットチェックポイントとなっている城門に突き当たる。ただし、ここは裏口、帰路はここへ下ってくるつもりである。シーギリヤ・ロックが城壁と環濠で確り囲まれていることを初めて知る。単なる岩峰上の砦てはなく、確りした防御施設を備えた城であったようである。

 環濠に沿って南側の城門に廻る。途端にたむろしていた数人の男が声を掛けてくる。ガイドとして雇って欲しいという。断ると「タバコを持ってないか」である。城門の前に考古学博物館がある。無料とのことなので入ってみたが、見るべきものはなかった。濠を渡り、城門をくぐって城内に入る。男がつきまとってきて勝手に説明を始める。追い払うのにひと苦労する。岩峰に向ってまっすぐな道が延びている。その両側には王の沐浴場があり、その先には「水の庭園」が広がっている。噴水設備まである垢抜けした庭園である。復習を恐れ、防御を固める狂気の王のイメージとはほど遠い。意外な感じがした。

 次第に傾斜が現れ、石段を喘ぎ喘ぎ登っていくと岩壁の基部に達する。さて、ここからどうするんだ。ビルの非常階段のように、金網で囲まれた円形の鉄製螺旋階段が2本、上空に続いている。登りと下りである。鉄柱の周りをぐるぐる回りながら、螺旋階段を登る。息も切れるが目も回る。この螺旋階段は1938年に、英国によって設置されたもので、それまでは竹の梯子があったそうである。ただし、この螺旋階段といえどの、老朽化が進み、あちこちに錆が浮いている。いつ足場が崩れるかとの思いで相当怖い。

 狭い岩棚のようなところに登り上げた。数人がやっとたたずめるほどの広さである。ふと顔をあげると、目の前の岩壁にシーギリヤ・レディが微笑んでいた。ついに憧れの美女に出会えたのだ。しばし壁に向きあう。美女はいずれも半裸である。かつては500人もの美女が描かれていたとのことだが、現在確認できるのはわずかに18人、1,500年もの年月が多くの美女を消し去った。これらの美女が誰なのか、何のためにこの壁画が画かれたのか、今もって謎である。たたし、この壁画がスリランカの至宝であることだけは確かである。

 壁画の前には「フラッシュ撮影禁止」の告示がなされ、カメラを向けると壁の前に立ちはだかっている係員が、告示を指さして注意を促す。ただし、辺りは薄暗く、フラッシュなしの撮影はかなり苦しい。先着者が立ち去り、一瞬壁画の前は私1人となった。その時である。係員が小声で、「フラッシュOK」といってニヤリと笑う。素早く数枚の写真を撮る。ニヤリの意味は先刻承知である。50RPを握らすと少々不満げに受け取った。

 螺旋階段をいったん降り、ミラー・ウォール(Mirror Wall)と呼ばれる壁と岩肌の間の狭い通路を進む。このミラー・ウォールはかつてはピカピカに磨かれ、鏡のようであったとのことだが、今は薄汚れた単なる白い壁に過ぎない。そこを抜けると、岩壁に無理やりボルトで括り付けられた狭い鉄製の階段を登っていく。ここも相当怖い。登り上げると平坦な広場に出る。だれしもが、ヤレヤレと一息入れる場所である。猿がたくさん遊んでいる。今日は日曜日のためか、外人観光客よりも地元の人の方が多い。子供連れや、カップルが続々と登ってくる。多くが裸足であるのが面白い。スリランカの人々は通常、ゴム草履履きなので、この岩壁の道は裸足の方が安全なのだろう。

 最後の登攀に掛かる。広場から垂直の数十メートルの壁が立ち塞がっている。この岩壁への取り付き点に、以前は巨大なライオンが彫り込まれていて、ライオンの口の中に入っていくようになっていたとのことだが、現在はライオンの足だけが残されている。岩壁に鉄製の怪しげな梯子がボルトで無理やりに岩肌に括り付けられている。手摺りはあるものの、岩壁からせり出した空中を歩くことになり、相当怖い。一歩一歩足下を確かめながら、山頂を目指す。おそらく、日本ではこれほど危険なルートは許可されないだろう。この危険な道を幼稚園児ぐらいの子供や赤ん坊を背負った女性が登ってくる。しばしの緊張の後、ついに山頂に登り上げた。山頂は幾つかの段差を持つ平坦地で、宮殿跡のレンガの基礎積があちこちに見られる。また、プールほどの貯水池もある。凄まじい岩肌を登ってきたのに、山頂にこれほどの人工物があると、何か変な気がする。それにしても、今から1,500年も昔、登ることさえ不可能と思えるこの大絶壁の岩山にどうやって建築資材を運び上げたのだろう。想像もつかない。

 眼下には360度の大展望が広がっている。どこまでも続く緑の密林。その中にぽつりぽつりと岩山が見える。小さな街並みは、完全に密林の中に飲み込まれている。降り注ぐ南国の太陽の光は強烈だが、頬に受ける微風は心地よい。遺跡の上に腰掛け、無限の展望を見続ける。ふと、このとき、「狂気の王キャッサバ」の気持ちが理解できたような気がした。彼は狂気によってこの岩山に城を築いたのではなかろう。巻き込まれた激動の運命に嫌気がさし、何もかも捨てて、ただこの絶界の岩山の上から俗なる下界を眺めていたかったのだろう。天国にいちばん近いこの場所から。

 山を下る。1人バスを待っていると、トゥクトゥクの運チャンがよってきてダンブッラまで500RPでどうかと誘う。続いてバイタクの運チャンが300RPと誘う。断ると、「今日は日曜日なのでバスは休みだ」と脅す。「嘘をつくやつは大嫌いだ。スリランカ人は外国からのゲストを騙すのか」と怒ったふりをすると、「冗談。冗談」と慌てて謝る。ずうずうしく、抜け目のない民族だが、悪人ではない。しばらく待つと、今度は大型のボロバスがやって来た。隣のじいさんが分かりにくい英語でしきりに話し掛けてくる。ダンブッラの新市街で降り、ぶらりぶらりと旧市街の宿に向う。途中の路地で大規模な青空マーケットが開かれていた。肉、魚、野菜、果物、穀物、何でもある。豊富な種類のスパイスを売る店が多いのが、いかにもスリランカらしい。あちらこちらから「ハロー、ハロー、どこから来た」と声が絶え間なく掛かる。もう慣れっこだがーーー。タバコをバラで10本買って、宿に帰る。おばさんが、「往復とも本当にバスに乗ったの」と半ばあきれ、半ば感心したような顔をした。小さな宿なので、家族の一員のように接してくれる。宿の玄関脇には小さな祭壇が有り、仏像と灯明が備えられている。同様の祭壇は、ポロンナルワの宿にもあった。

 明日はバスで古都・キャンディに向う。
                                
                                             スリランカ紀行(3)に続く

 

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