おじさんバックパッカーの一人旅   

アジア最貧の国 バングラデシュ紀行 (1)

雑踏のチッタゴン、ダッカとベンガルデルタの船旅

2006年3月15日

      〜3月21日

 
   第1章 バングラデシュって旅行が可能なの?
 
 何を血迷ったかバングラデシュに行く気になった。インド亜大陸の東端に位置し、雨期には国土の1/3が水没するというアジア最貧の国である。さすがに、私の知人の中にもこの国に行ったという人はいない。地球上の全域をカバーしているバックパッカーご愛用のガイドブック・「地球の歩き方」でさえ、この国の案内書は発行されていない。日本で発行されている唯一のガイドブックは「旅行人ウルトラガイド」シリーズの「バングラデシュ」だが、このガイドブックをめくると、最初の項目が、何と!「バングラデシュは旅行できるのか?」である。先鋭的バックパッカーの友人を多くもつ娘に相談してみると、「無理無理。行ったとしても3日もすれば逃げ帰って来る」との答である。となれば、意地でも行かなければならない。

 腰を入れて調べてみると、イメージとは裏腹に、案外安全な国のようである。旅行者が接するあらゆる人間が、隙あらば騙してやろうと待ちかまえているインドやベトナムとは違い、貧しいながらもいたって友好的な人々が暮している様子である。しかし、ツーリスト産業がまったくない国であり、旅はそれなりの苦労がありそうである。しかも、外国人旅行者が非常に珍しい国ゆえ、行く先々で人々に囲まれ、まるで動物園の檻の中の動物のような状況になるとも記されている。

 情報を求めて、「バングラデシュ政府観光局」なるところに問い合せて見ると、局長さんから親切な回答をいただいた。おまけに、「不安ならば、チッタゴンの親戚を紹介してもよいし、チッタゴン市長に紹介状を書いてもよい」とまで言ってくれる。何たる親切。ただし、そこまで甘えるつもりはないが。ビザを得るため目黒のバングラデシュ大使館へ行く。探し当てた大使館はごみごみした住宅地の中の普通の民家。掲げられた国旗がなければそれとも分からない。国威などという見栄は微塵も感じられず、ほほ笑ましい。おまけに日本人に対してはビザは無料。大口経済援助国たる日本人は特別待遇らしい。これほど感謝の気持ちをストレートに表す国も珍しい。何やら、とてつもなく素晴らしい国のイメージが湧いてくる。

 
   第2章 バングラデシュという国

 バングラデシュとは「ベンガルの国」の意である。ポッダ川(ガンジス川)、ジョムナ川(ブラフマプトラ川)、メグナ川という、いずれもアジア有数の3本の大河によって形成された世界最大のベンガルデルタ地帯に位置する。このため雨期には各河川は氾濫し、ボンナと呼ばれる大規模な洪水が起る。この洪水は土地を肥やし、豊かな穀倉地帯を作り出すが、しばしば、度を越す洪水が破滅的被害をももたらす。バングラデシュはまさに水の国である。

 国土面積は14万4千平方キロメートルと日本の1/3強であるが、その人口は実に1億4千万人にも達する。極小国を除けば、世界一の人口密度を有する国である。この過剰人口と、20世紀に経験した過酷な歴史と、さらに世界一の汚職体質と言われる政治体制が、国の発展を妨げ、いまだアジア最貧国の地位に甘んじている。2005年度の一人当たりのGNPはわずか456ドル程度である。日本は、英国に次ぐ大口援助国として、建国以来この国の面倒を見続けてきたが、莫大な援助も、いささか笊で水を掬う観がある。

 この国が20世紀半ばに経験した過酷な歴史には、多分の同情を禁じえない。私は、高校の地理の時間に、この国を東パキスタンと習った。バングラデシュとして独立したのはわずか35年前の1971年のことである。1947年、旧英領インドが独立する際に生じたインド(ヒンズー教徒)・パキスタン(イスラム教徒)戦争において、イスラム教徒が大部分を占めるこの国は、西パキスタン(現在のパキスタン)と共にインドと戦い、パキスタンの一部として独立を勝ち得た。

 しかし、直線距離で1,800キロメートルも離れ、民族も言語も異なる東西二つのパキスタンが一つの国として統治されるのはやはり無理であった。政治力に勝る西パキスタンの支配が次第に強権的となり、東パキスタンの不満が高まる。そしてついに、ウルドゥ語公用語政策への反発をきっかけに独立闘争に突入する。1971年3月に開始された独立戦争は実に過酷であった。軍事力に勝るパキスタン軍は無差別殺戮で応じ、このため数百万人の犠牲者を生む。特に、知識人は徹底的に殺された。かつての敵国・インド軍の介入により、ようやく独立は勝ち得たものの、戦争の後遺症は今に引き継がれている。この国はわずか24年の間に、2度も独立戦争を戦わなければならなかったのである。しかもその相手は、旧宗主国ではなく、昨日までの同胞・インドとパキスタンであった。
 

   第3章 いざ! バングラデシュへ

 3月15日水曜日、エアーインディア(AI)306便で、先ずはバンコクを目指して成田を出発する。このAI便はサービスなどは期待できないが、料金も安く、夕方5時にはバンコクに着けるので、使い勝手がよい。翌16日はバングラデシュへの最終準備。旅行代理店へ行って、チッタゴン(Chittagong)までの往復1ヶ月オープンチケットを購入する。今回、バングラデシュには首都ダッカではなく、いわば裏口のチッタゴンから入出国する計画である。タイ国際航空(TG)の30日オープンチケットの価格は、ダッカ往復が約15,000バーツ(約45,000円)、チッタゴン往復が約9,000バーツ(約27,000円)と大きな格差がある。距離はたいして変わらないのに、なぜこれほどの差があるのか不思議だが、安いに越したことはない。それにしても9,000バーツは東京ーバンコク往復とほぼ同じ金額である。何と高いことか。後はスーパーでバングラデシュ旅行の必需品・蚊取り線香を買って準備完了。夜はいつもの通りI君と居酒屋で旅の前祝いである。

 3月17日、いよいよ旅立ちの日である。ただし、風邪気味で体調がどうもよくない。悪化しなければよいのだが。9時35分発のTG309便に乗るべく、7時過ぎにチェックインカウンターに行ったのだが、どうも通常の国際便と雰囲気が異なる。カウンターの前は、台車に乗りきれないほどの大量の荷物を抱え、ムスリム帽子に白いムスリム服の武骨な男どもが無秩序に陣取り、しかも、機内持ち込み品の重量制限について係員と喧々諤々、喧嘩腰のネゴシエーションである。国際空港に漂う優雅な雰囲気など微塵もない。

 TG 309便は定刻にバンコク国際空港を離陸した。意外にも満席である。機内の雰囲気は余りよくない。ビジネスマンや旅行者の姿など皆無で、ムスリム服や、ラフな格好の得体のしれない男どもが我が物顔に振る舞い、騒がしい。隣りの席の若い男も私の頭越しに大声で仲間と話をする。よほど文句を言ってやろうかと思ったが、多勢に無勢、絡まれても困る。
 
 飛行時間は実質2時間20分、時差が1時間あるので形式的には1時間20分でチッタゴン空港に着陸した。思いのほか立派な空港である。イミグレーション窓口は、バングラデシュ人用が二つ、外国人用とアライバルビザ用が各一つの計四つである。外国人用窓口には私を含め20人ほどが並んだ。見たところ日本人は私1人のようだ。ところがこの列がまったく進まない。それもそのはず、この列に並んでいる者は、いずれも国籍不明の怪しげな風体の人間ばかり。小1時間経ても、列は一向に進まない。韓国人が中心と思われるアライバルビザの列の方が進行が速い。そのうち、バングラデシュ人用の列が終わった。間髪を入れず列を離れて、そちらの窓口に駆け寄る。日本のパスポートを掲げて、「Japanese OK?」。女性の係官は笑って対応してくれた。わずか数10秒で入国印をペタリである。

 バッケージクレームに行くと、既に私のザックは回転ベルトから降ろされて、隅の方に置かれていた。しかし、税関の前で、思わず目を見張り、そして絶望的な気持ちに落ち込んだ。例によって「申告なし」と「申告あり」のカウンターがあるのだが、「申告なし」カウンターの前は、最後尾がどことも分からぬ長蛇の列。しかも、皆、台車に乗りきらないほどの膨大な荷物を抱えている。どうやら、乗客のほとんどが、バンコクからの「担ぎ屋」であったようだ。この1人1人の荷物を詳細に調べているので、列が進む様子もない。おそらく並んだら、4〜5時間待ちだろう。

 さてどうしたもんか。先ずは部屋の隅にある両替所に行ってバングラデシュの通貨「タカ(tk)」を入手する。200US$が13,800tkと交換された。1US$=115円で計算すると1tk=1.7円に当たる。ひと呼吸置いたところで、ザックを背負い、既に誰もいなくなった「申告あり」のカウンターへ行く。日本のパスポートをかざして、「I have nothing to declare」と言うと、係員は通れとのジェスチャー。しめしめうまくいった。どうやら、この国では噂通り日本人は特別待遇らしい。これで晴れてバングラデシュ入国である。

 
   第4章 バングラデシュの第一歩

 空港ビルの出口に向う。大勢の人が中をのぞき込んでいる。何やら異常な雰囲気である。外に出ると、むっとする暑さが押し寄せてきた。と同時に数人の男に囲まれる。口々に、「タクシー?」「アグラバッド?」と話し掛けてくる。空港で待ち受けているベイビーの運転手たちである。空港と市街地はだいぶ離れており、バスもないので、彼らの世話にならざるを得ない。ただし、タクシーといっても、セダン型のタクシーはない。バングラデシュで「ベイビー」とも「オートリキシャ」とも呼ばれる緑色のオート三輪車(タイやスリランカではトゥクトゥクと呼ばれる)である。「アグラバット」とは、1泊100US$以上もするチッタゴンの最高級ホテルである。外国人はこのホテルに泊まるものと決めて掛かっているようだ。もちろん私はこんな高級ホテルに泊まる気はさらさら無い。

 まずは、価格交渉である。「コト・タカ(How much?の意)」とベンガル語で問うと、「one thousand taka」と英語の答えが返ってきた。空港待機の運転手だけに、片言の英語はしゃべれるようだ。それにして1,000tkとはずいぶん吹っかけてきたものだ。事前に得ていた情報は250tkである。長い交渉の結果、500tk、300tkを経て、ようやく250tkの適正価格?となった。やれやれである。

 ベイビーは爆音を響かせて走り出した。海外旅行ではこの時が一番不安が大きい。まったく未知の外国で、得体のしれない運転手の車に乗せられているのである。しかも、言葉もろくに通じない。果たして、合意した金額でまともに指示した場所に行ってくれるのかどうか。事実、インドでは指示した場所に行くことは先ずない。怪しげな旅行代理店や土産物屋に連れ込まれるのである。ベトナムでは仲間の待つ場所に連れ込まれ、有り金むしり取られることもある。

 ベイビーは大きな川沿いの道を上流に進む。港町・チッタゴンの生命線であるコンノフリ川である。大きな貨物船が何隻も停泊している。チッタゴンの街はこの川の河口から数キロ上流に位置している。道は確り舗装されているが、時折ボロトラックが通る程度で閑散としている。道沿いには製鉄所やセメント工場が見られる。やがてベイビーは川沿いを離れ、街中に入った。途端にバングラデシュの地肌が現れる。道を埋め尽くすリキシャの群れ。爆音と排ガスを撒き散らかしながら無秩序に走り回るベイビー。連続的に警笛を鳴らし、リキシャやベイビーをけ散らしながら疾走するボロバス。そして道に溢れる人の群れ。典型的なインド的アジアの風景である。

 40分ほどで、目指すHotel Golden Innの看板が見えたときはほっとした。雑踏渦巻くチッタゴン駅前通りに面した安宿である。部屋代は「エアコンなし」が450tk(約750円)、「エアコンあり」は750tk(約1250円)とのことなので、「なし」をチョイスしたのだが、まるで牢獄のような狭い部屋で、トイレも現地スタイル。慌てて「あり」の部屋に変更してもらう。こちらはまぁまぁの広さで、トイレも洋式である。旧式のウインド型エアコンが騒音をまき散らしながらも冷風を送ってくれる。どうやら、バングラデシュの第1歩を無事に踏み出せたようである。

 
   第5章 チッタゴンの風景

 ホテルの食堂に飛び込み、遅い昼飯を掻き込む。従業員のオッサンが「日本人なら仏教徒か? 俺も仏教徒だ」と親しげに話し掛けて来る。ということは、このオッサンはベンガル人でなくチャクマ族だろう。チッタゴンの東、チッタゴン丘陵と呼ばれるインドとの国境付近には、チャクマ族などの仏教徒の少数民族が暮しており、イスラム教徒のベンガル人からの迫害に耐えている。

 すぐに街に飛びだす。外はカンカン照りである。未知の国の未知の街の探索、わくわくする瞬間である。ホテル前の通りはチッタゴン中央駅に続く大通り。中央分離帯もある広い道で、リキシャ、ベイビー、バスでごった返している。歩道はホームレス家族の生活の場。道端に敷いた一枚のボロ切れが、己の住居の印である。真っ裸の幼児が走り回り、ボロをまとった女が乳飲み子に乳を与えている。スラムにさえ住めない極貧の人々である。まさにアジア最貧の国の情景である。しかし、思いのほか人々の表情は明るい。子供たちの瞳も澄み、目に力が宿っている。

 道を100メートルも進むと、右側に、広場を伴った石造りの少々時代掛かった大きな建物が現れた。チッタゴン中央駅のはずである。明後日、列車でダッカに向うつもりでいるので、チケットを購入しておこう。行ってみると、建物全体が何やら廃虚のような雰囲気で、ホームに通じる通路の傍らに、チケット販売窓口が1つだけある。しかし、窓口では英語が通じず、「ここではない、向こうだ」と言うようなことをベンガル語でまくしたてられた。ホームに出て指さされたほうを眺めると、200メートルもある長大なプラットホームの先に真新しい立派な建物が見える。行ってみると、そこが中央駅の駅舎であった。後で知るのだが、最初の建物は旧駅舎で、ローカル列車の切符のみ販売しているようである。新駅舎は大きなホールを持つ立派な建物だが、英語表示がまったくなく、幾つもある窓口のどこへ行ったらよいのかさっぱり分からない。聞きまくる以外ない。幸い窓口では英語が通じた。何とかチケットを入手し、一息つく。発券はコンピューターシステムであった。

 駅前で1服していると、子供たちが好奇の目をもって集まってくる。外国人などめったに見る機会がないのだろう。いずれもボロをまとって裸足、駅周辺で暮す極貧の家族の一員である。一生懸命ベンガル語で何やら話し掛けてくる。どうせ「どこから来たの?」と聞いているのだろう。「ジャパニ(日本人)」とベンガル語で答えると、ますます近親の表情を示す。「バングラデシュの人々は『日本は世界一豊かな素晴らしい国』と思っている」と、どこかの本で読んだことがある。そのうち「チョビ、チョビ」と口々に言い出す。「チョビ」とはベンガル語で写真のことである。ようするに写真を撮って欲しいというのである。「ようし、並べ」と、カメラを構えると、今まで廻りで静観していた大人まで並びだす。バングラデシュの人々は本当に写真好きである。その後も、どこへ行っても「写真を撮ってくれ」とせがまれた。

 新駅舎の横の大きな交差点が、いわばチッタゴンの中心で、凄まじい雑踏が渦巻いている。露店が歩道はおろか車道にまでせり出し、超オンボロバスがひっきりなしに警笛を鳴らしながら、交差点の真ん中に駐車して客を集めている。その間をベイビーとリキシャが無秩序に走り回り、人もまた車の間を力づくで行き来する。歩道橋が設置されているのだが、利用する人は皆無、露店の荷物置き場と化している。道端には、物乞いが座り込んでいる。多くは不具者だ。両手両足のない物乞いが、器用に身体を回転させながら、大通りを横切っていくのには唖然とした。そしてまた、道端はゴミの山だ。その中を、大きな袋を担いだ半裸の幼い子供たちが、紙くずやら、捨てられた食べ物のカスを拾って歩く。そして、竹の棍棒を持った警察官が、うろつく少年の背中や違法駐車のバスの車体を容赦なくぶん殴る。

 不思議なことに、雑踏の中は男ばかりである。その服装について、面白いことを発見した。下は約80%の人が南アジア特有の巻きスカート(ルンギ)なのだが、上は全員が襟つきのシャツを着ている。どんな薄汚い格好の人でも襟つきシャツである。たまに見かける女性は、頭から足先まで身体を黒い布で覆い、わずかに目だけを覗かせている。この服装は、以降、どこへ行っても同じであった。

 宿へ帰る。宿の食堂で夕食をとるが、アルコール類は一切ない。さすが敬虔なイスラム教国である。部屋のテレビにNHKが映る。まさかバングラデシュで日本のテレビが見られるとは思わなかったが。と、喜んでいると突然停電。真っ暗である。こんなことだろうと、懐中電灯をチャンと用意してきた。懐電と蚊取り線香はバングラデシュ旅行の必需品である。しばらくたつと、宿の自家発電装置が唸りをあげて動き出し、明かりが灯った。宿の前が、ダッカ行き夜行バスの発着場になっていて、非常にうるさい。バングラデシュのバスは、走行中もクラクションを鳴らしっぱなしであるが、停車中も発車時間が迫ると、クラクションを鳴らし続ける。まさに騒音の極みである。

 
   第6章 チッタゴン探索

 3月18日(土)、朝起きるが、どうも調子が良くない。身体がだるく、咽が痛い。風邪の前兆である。今日は1日チッタゴン市内を探索するつもりでいる。先ずは、案内書に載っている「バヤジッドボスタミ聖者廟」に行ってみよう。案内書には「この国最古のモスクの一つ」とあるが、モスクと聖者廟は違うはずである。モスクは唯一の神アッラーに祈りを捧げる礼拝堂であり、聖者廟は聖者を祀る廟である。市内の北端に位置するようだが、チッタゴンの地図を持っていないので、どの辺りなのかさっぱり分からない。玄関先に立つセキュリティーのオッサンに行き方を相談すると、ベイビーを止め、価格交渉までしてくれた。50tkである。

 ホテルの北側は河岸段丘と思える高台となっていて、そこへ続く坂道周辺は、意外にも、鬱蒼と樹木が茂る異質の空間となっていた。この坂道に多くのリキシャが苦労している。しかし、高台に登りきると、再び雑踏の街並みが広がっている。約20分ほどで目指す聖者廟に到着した。大きな池に面しており、池には「クロスッポン」という巨大な亀が群れている。この亀は世界中でこの池にしかいないという超貴重種である。餌としてパンの切れ端を売っている。多くの信者が亀に餌を与え、かつ、緑色に濁った池の水で身を清めている。聖者廟の建物の中に入ることは諦めた。どうもイスラム寺院は異教徒にとって気後れする。

 次は民族博物館に行ってみることにする。ベイビーを捕まえたのだが、「民族博物館」をベンガル語で何というのかわからない。近くの「ホテル アクラバッド」を指示する。せっかくなので、このチッタゴン最高級のホテルでお茶でも飲んでいくことにする。入り口では金属探知器による厳重な検査を受けた。Tシャツにサンダル履きは場違いな感じであるが、かまわずロビーで悠然とコーヒーを飲む。ホテルの売店でバングラデシュとチッタゴンの地図を入手できた。これは大助かりである。民族博物館はホテルのすぐ近くであった。思いのほか立派な施設で、周辺の少数民族の生活の様子を展示している。土曜日の休日のせいか、若いカップルの姿が目立つ。

 いったんべイビーで宿へ帰る。値段交渉は全てベンガル語でせざるを得ない。いやでもベンガル語の数値は覚えてしまう。昼食後、船着き場(ガット)に行ってみることにする。今度もセキュリティーのオッサンがリキシャと値段交渉してくれた。わずか10tkである。リキシャとは自転車の後に二人乗り用の座席を付けた乗り物で、名前は日本語の人力車に由来する。インドやバングラデシュでは最もポピュラーな乗り物で、街中に溢れている。元締めからリキシャを借りれば、元手なしで誰でも商売できるので、国中の失業者は皆リキシャ・ワラ(力車人夫)になるとの話しすらある。事実、リキシャ・ワラの大多数はスラムの住人である。安くて便利な乗り物だが、炎天下汗まみれになってペタルを漕ぎ続けるリキシャ・ワラの後でふんぞりかえっているのは、あまり気持ちのよいものではない。

 バングラデシュ第2の都市チッタゴンは古来貿易によって栄えて来た港街である。現在も国の貿易の大半を一手に引き受けている。ただし、この街は外海であるベンガル湾には直接は面していない。港はコンノフリ川の河港である。

 15分ほどで、リキシャは1本の道路上で停まった。この辺りが港だという。とは言っても、船着き場はおろか川さえも見えない。一体どういうことなんだ。国家第一の港というから、小規模ながらも、クレーンが乱立し、コンテナーがあちこちに積み上がった横浜港や神戸港をイメージしていたが。降り立った道路は、超過積載のボロトラックや山のように荷物を積んだ大八車がひっきりなしに行きかっている。道の両側にはくすんだ倉庫が連なり、その間に廻船問屋や小さな食堂などが混ざる。確かに、危険の匂いすらする港付近の裏通りの雰囲気である。

 どうやら、連なる倉庫の裏側にコンノフリ川が流れているようである。倉庫の間の細い路地を川の方向へ進んでみると、すぐに川岸に達した。小さな桟橋があり、上半身裸の男たちが、腰まで水に浸かりながら、艀から人力による荷降ろし作業を行っている。川中には大きな貨物船が何隻も停泊している。見渡すと、川岸に沿って同じような小さな桟橋が幾つもあり、どの桟橋でも同様の荷降ろし、荷積が行われている。どうやら特定の大きな港湾施設があるのではなく、艀と人力により港は機能しているようである。桟橋の付近では子供たちが水遊びに興じている。

 しばらくすると、珍しい外国人の出現に、子供たちが集まってきた。それにつられて大人たちも集まってきた。口々に何か質問を浴びせるのだが、全てベンガル語、さっぱり分からない。「ジャパニ」というと、半分納得したようで、次はお決まりの「チョビ、チョビ」の連呼である。

 街の中心部まで歩いて戻る。道はリキシャが溢れ、ぶつからないように歩くのもひと苦労である。新駅舎近くの大きな交差点の東側に「ニューマーケット」と呼ばれる4階建てのビルがある。各階とも専門店並んでいて、雑貨から貴金属、電化製品まで、生鮮食料品を除くあらゆる商品が販売されている。これらの店を覗いて歩くかぎり、アジア最貧国のイメージはない。

 ニューマーケットの道路を挟んだ反対側はチッタゴン最大のバザールである。狭い入り組んだ路地が縦横に走り、いったん中に入ったら元の場所に戻ることは先ず不可能である。間口の極小さな店がぎっしりと並び、ありとあらゆるものが売られている。路地はすれ違うのもままならないほど狭く、おまけに陽の光も届かず昼でも薄暗い。1人で歩くのは少々危険の匂いのする場所である。しかし、古いチッタゴンの町の雰囲気を色濃く残している。ここを歩かずして、チッタゴンを見たことにはならない。

 バザールの表通りの道端には、生ゴミが山と野積みにされて、異臭を放っている。この異臭の山をカラスと犬と、そして半裸の子供たちが競うように漁っている。まさに目を覆いたくなる光景である。ここにアジア最貧の国の現実を見る。

 ステーション通りの北側の高台に旧裁判所がある。案内書に絶景であると書かれているので、地図を頼りに訪れてみた。しかし、廻りに樹木が茂り、わずかにコンノフリ川が見えるだけであった。街の中心部に戻ると、デモ隊が通りを埋め尽く、大声でシュプレヒコールを繰り返している。その周りを銃を持った警官が取り囲む。ただし緊張感はない。この国の政治は未だ熱い。ホテルに戻る。夜は相変わらず停電の繰り返しである。

 
第7章 列車で首都・ダッカへ

 3月19日日曜日。今日は列車で首都・ダッカに向う。バングラデシュは割合に鉄道網が発達した国である。いずれも英国植民地時代にインドの一部として敷設されたものである。しかし、致命的欠陥が二つある。一つ目は広軌(1,676m)と狭軌(1m)の2種類の軌道の混在である。当然、異なる軌道の間では列車は走行できない。広軌は西部に多く、狭軌は東部に多い。二つ目は、3つの大河によって、軌道が分断されていることである。鉄橋がほとんどないため、フェリーにより川を渡らざるを得ない。

 取得ずみのチケットは7時発インターシティ特急Subarna号のファーストクラスである。チッタゴンとダッカの間は狭軌であり、途中渡るメグナ川にも鉄橋が架かっているので問題ない。6時過ぎ、駅へ行くと既に列車はホームへ入っていた。駅の改札は行われていないので、ホームには自由に入れる。チケットによると私の席はKHA車両の25ー25なのだが、列車の表示は数字でさえもベンガル語なのでさっぱり分からない。駅員に聞くと座席まで案内してくれた。

 ディーゼル機関車に引かれた10数両連結の列車は定刻にチッタゴン駅を出発した。座席は中央の通路を挟んで両側2座席づつ。冷房完備でリクライニングも利く。なかなか快適である。座席は全て埋っていた。私の隣はビジネスマン風の男が座ったが特に会話はない。出発してすぐに車内検札があった。ひたすら窓の外を見続ける。

 どこまでも田圃と湿地帯が広がっている。場所によって稲の発育段階が違うのは2期作、3期作が行われているためだろう。牛とヤギが草を食んでいる。レンガ工場が所々に見られるだけで、他の工場は見られない。小さな街を幾つも通過するが列車はまったく止まらない。車内では係員が飲み物や昼食の注文を取って歩いている。車内アナウスはまったくない。もちろん車内は禁煙なので(特に表示はないが)デッキでタバコを吸う。やがて大きな川を渡った。メグナ川だろう。そろそろダッカが近いと思われるころ、列車は初めて停まった。英語の表示がないのでどことも分からないが、おそらくダッカ空港駅なのだろう。

 長い停車の後、再び列車は走り出した。すぐに、ダッカの街並みに入った。と同時に、線路に沿って巨大なスラムが現れた。どこまでもどこまでもスラムが続く。その軒先をかすめて列車は進む。12時50分、列車は終点・ダッカ中央駅のプラットホームに滑り込んだ。モダンな造りの実に堂々とした駅舎である。改札口で切符を回収していたが、記念にもらった。

 駅舎を出ると、真昼の太陽が強烈な熱放射を浴びせかける。しかし、意外にも誰も寄ってこない。普通なら、ベイビーの運転手やリキシャ・ワラがわっと取り囲むはずなのだが。仕方なく、駅前広場の一角にあるベイビーの溜まり場へ赴く。先ずは宿を確保しなければならない。ダッカの市域は非常に広く、安宿も各地に分散しているのだが、交通便利な市の中心地・モティジールに宿を取るつもりでいる。駅から2kmほどである。

 1人の運転手に「モティジールまで行きたい」と言うと、100tkとの答え。距離からして20〜30tkがいいところだが、頑として値引きに応じない。他の運転手も知らん顔である。全員グルになっているようだ。仕方がない。Hotel Pacificの名を告げる。すぐにモティジール地区に着いたのだが、途端にうろうろ。揚げ句の果てにHotel Purbani Internationalに着けて、「ここだ」とぬかす。冗談ではない。ここは1泊100ドルもする高級ホテルである。頼りないベイビーを捨て、自分で目指す宿を探す。まぁまぁのホテルで1泊1,035tk。少々高いが首都の中心地、仕方なかろう。

 
   第8章 ロケット・スチーマー

 遅い昼食を済ませて、すぐに近くのBIWTC(バングラデシュ内航水運公社)を訪ねる。ロケット・スチーマーと呼ばれる客船のチケットを得るためである。この船に乗って、南部の中心都市・クルナ(Khulna)へ行くことが、今回の旅における最大の楽しみである。バングラデシュは河川の国である。特に南部のデルタ地帯は、水路が縦横に走り、水上交通が非常に発達している。ダッカからも各地へ向けて大型客船が頻繁に出帆している。船の旅こそ、バングラデシュの旅にふさわしい。

 ロケット・スチーマーはバングラデシュの名物船である。1928年(昭和3年)建造の老船で、しかも外輪船、すなわちスクリューでなく、船の両側で水車を回転させて動く昔懐かしい船である。現在、世界で唯一の現役の外輪船と言われている。まさに動く文化財である。昔は、エンジンも、スチーマーの名前の通り蒸気機関であったが、さすがに、1985年にディーゼルエンジンに替えられた。従って、今では正確な意味で「スチーマー」ではないが、昔のままの名前で呼ばれ続けている。私としては、「この船に乗らずして、何ぞ、バングラデシュの旅ぞ」との気持ちである。

 BIWTCの看板を頼りに探し当てたビルは、薄汚れた古いビルで、しかも、停電のためなのか、電灯も点かず、内部は暗い。守衛に来意を告げると、2階の小さな一室に案内された。初老の人のよさそうな男が暇そうに机を前に座っている。「クルナまでのファストクラスのチケットが欲しい」旨伝えると、大きなノートを気だるそうにめくり、「数日間は空席はないがーーー」と曖昧に答えたまま、いろいろと話し掛けてくる。「困ったなぁ」と思いながら適当に相手をしていると、突然、「明日のチケットなら可能だ」と言い出すではないか。どうやらその時の気分で、チケットはどうにでもなるようである。料金は1,010tkであった。今日最大の課題を無事果たし、安心してひとまずホテルに引き上げる。

 
   第9章 首都・ダッカの風景

 ダッカの旧所名跡巡りは明日の楽しみとして、宿の周りをぶらりぶらりと歩いてみることにする。アジア最貧の国と言えども、さすが首都の中心部、銀行や大会社のオフィスビルが建ち並び、街並はきれいに整えられている。道も広く、多くの交差点は洒落たオブジェの建つロータリーとなっている。しかし、その道に溢れるリキシャの数は半端ではない。まさに道を埋め尽くしている。バングラデシュのリキシャの数はインドに勝ると言われている。さらに、チッタゴンで経験したことだが、バスの警笛がものすごい。この街は普通の神経では過ごせない。

 ベンガル人は、ミャンマー人やスリランカ人と同様、実に積極的な民族である。恥ずかしがるとか、物怖じするとかということはない。ダッカの街の中をぶらついていると、チッタゴン市内でも同様であったが、常に声がかかる。多くは、英語で「Country?」である。「ジャパニ」とベンガル語で答えると納得するのだが、次に必ず「Name?」と質問して来る。時にはいきなり「Name?」である。おそらく知っている英単語がこの程度のためだろうが、いきなり名前を聞かれても困惑する。ところが今日は日本語で「日本人ですか」と話し掛けられた。しかも2度にわたって。聞けば、2人とも日本に出稼ぎにいっていたとのこと。1人は横浜、もう1人は埼玉県の川越と言っていた。日本からバングラデシュへ行く者はNGOの関係者ぐらいだが、日本にはかなり多くのバングラデシュ人が出稼ぎに来ている。

 30〜40メートルもの幅広の1本の道が真っすぐ延びている。この道は車も人も通っていない。200メートルほど先の道の突き当たりに何かがある気配である。しかし、不思議なことに地図には何も記載されていない。道の入り口に数人の警察官が屯しているが、特に厳しく警備している気配でもない。一体何があるのだろう。興味本位で道を進みだしたら、警察官が慌てて駆け寄り、「通行禁止だ」と言う。理由を尋ねると「ムスリム・ハウス」との答え。よく分からない。後日、親しくなったMr.Hassanに聞いてみると、「大統領官邸」とのこと。納得である。ただし、なぜ地図に記載されていないのか、今もって不思議である。

 国立競技場の南側に国立モスクがある。行ってみると、白いイスラム服姿の男どもが、三々五々石段を登り詰めて入り口に吸い込まれていく。建物の中に入るのはびびる。外から眺めただけでホテルに引き上げた。

 
   第10章 ダッカ探索

 3月20日日曜日。今日はロケット・スチーマーでクルナに向うのだが、出帆は夕方の6時過ぎ。それまで丸1日ダッカの名所旧跡を巡るつもりである。朝、ひとまずチェックアウトして、荷物をホテルに預ける。ダッカの市域は相当広いので、歩いて廻ることは不可能である。交通手段として、リキシャを利用せざるを得ないのだが、ダッカのリキシャは場所を知らないことで有名である。即ち、リキシャ・ワラの大多数が、地方から流れ着いたスラム暮らしの失業者のなのである。また、この国では観光客など事実上存在しないから、旧所名跡も知らない。当然英語は通じない。ちょっと苦労しそうである。

 9時過ぎにホテルの玄関を出ると、屯していたリキシャ・ワラの1人が寄ってきて、英語で、「自分は英語が話せる。市内の名所旧跡も全て案内できる」と誘う。英語が話せるリキシャ・ワラとは珍しい。料金を聞くと、1日1,000tk、半日600tkとの答え。メチャ高い。相場の倍だろう。とは思ったが、ついつい乗り込んでしまった。

 先ず向ったのはブリゴンガ川近くのアシャン・モンディールである。雲霞のごとく道にあふれるリキシャに揉まれながら南西に向う。リキシャ間の距離はゼロに等しいので、追突はしょっちゅうである。このため、後部に追突防止用の鉄棒が取り付けられている。自動車も同様で、バンバーの後に同様の鉄棒が取り付けられている。今日も朝からカンカン照りである。しばらくしてリキシャはオールド・ダッカに入った。

 このオールド・ダッカと呼ばれる地区こそ、古きダッカの姿を今に伝える街である。車の通れない細い路地が迷路のごとく入り組み、人と荷車とリキシャが無秩序にひしめく。小さな商店が間口を連ね、古びた建物は個々の区別も判然とせず、下手な積み木細工のように折り重なっている。まさに中世の街並みそのものである。ダッカの街が築かれたのは17世紀初頭である。ムガール帝国のベンガル地方の都として発展し、17世紀後半にはラールバーグ・フォートも築かれる。オールド・ダッカの迷路のような街並みは、敵の侵入を防ぐためであったと言われる。

 やがて、オールド・ダッカの外れのアシャン・モンディールに到着した。別名ピンクパレスとも呼ばれ、1872年に建てられた外壁がピンク色の豪邸である。わずか2tkの入場料を払って中に入る。入り口で全ての荷物を預けさせられたのには困った。ウエストポーチには現金からパスポートまで全ての貴重品が詰まっている。博物館になっていて、当時の調度品が展示されている。

 次に向ったのは、「ボロ・カトラ」と「チョト・カトラ」である。今に残るダッカで最も古い建造物と言われ、17世紀中頃のムガール帝国時代の建物である。二つともオールド・ダッカのど真ん中にある。オールド・ダッカの迷路に少々迷いながらも何とか到着した。既に建物というより、その痕跡というほうが正しく、後から無秩序に建てられた建物の中に飲み込まれ、壁の一部が確認できる程度である。リキシャを降りて写真を撮っていると、子供たちが集まってきた。それにつられて大人たちも。10数人の人垣に囲まれ、まるでスーパースターの心境である。

 アルメニア教会に向う。行ってみると、門は閉ざされ鍵が掛かっている。しばらく中を覗き込んでいたら、若者が現れ、門を開けて中を丁寧に案内してくれた。アルメニア人かと聞いてみるとインド人との答えであった。この教会は1781年建立と言われ、ダッカの歴史の一部を形成している。トルコの侵略により国を追われたアルバニア人の約40家族がこの地に移り住み、このキリスト教会を建てたという。いまもその子孫により大切に守られている生きた教会である。境内には当時の人々の墓標が並んでいる。いくばくかのチップを渡そうとしたのだが、写真を撮っている間に若者は姿を消してしまった。

 続いて、スター・モスジットに行く。幾つかのドームを連ねた屋根を持ち、タイルで壁を飾った美しいモスクである。ここも入り口の門は閉ざされていたが、しばらくすると男が現れ中に入れてくれた。おまけに、普通は異教徒の入れない礼拝室まで案内してくれる。壁を飾るタイルは日本と英国から取り寄せたものだとのことで、富士山が描かれたタイルが何枚も張られている。ここで、姉妹だという中年の日本人女性に出会った。妹がダッカに駐在しているとのことであった。

 最後にダケッシュリ寺院へ行く。ダッカ最大のヒンズー教寺院である。寺院そのものはセーナ朝(11世紀後半〜12世紀末)に遡ると言われるが、現在の建物は18世紀以降のものである。なお、ダッカの名前はこのダケッシュリに由来するとの説がある。ここで、5〜6人の男女の日本人の若者に会った。NGOの関係者だとのことである。

 以上で今日のダッカ探索は終了である。まだまだ行きたいところはあるのだが、ダッカには再度戻って来る予定でいる。

 
   第11章 ショドル・ガット

 16時過ぎ、少々早いが、ロケット・スチーマーに乗船するべくリキシャでショドル・ガットに行く。ガットとは港の意である。ブリゴンガ川の河港であるショドル・ガットは、水の国バングラデシュのまさに表玄関である。港周辺は凄まじい雑踏の渦であった。リキシャとベイビーと人が渦を巻くがごとく行き来し、露店が道に溢れている。2tkの入場料を払い船着き場に入る。10数隻の大型客船が船体を接しながら接岸している。大きな荷物を抱えた乗船客や物売りが右往左往し、騒然とした雰囲気である。私の乗るべきロケット・スチーマーにどこにいるのだろう。さっぱり分からない。私も大きなザックを担いで右往左往である。そのうち、港を遊び場とする悪ガキどもが集まってきた。手振り身振りで彼らに聞いてみる。その結果、もうしばらくしたら入港してくるようだ。

 15分もすると、沖合に写真で見た通りのロケット・スチーマーが大きな船体をが現わした。接岸すると、3等船室の乗客が先を争って乗り込む。彼らは今晩の寝場所を確保しなければならないのだ。私は1等船室、慌てることはない。チケットを示すと、係員が船室まで案内してくれた。ベッドが二つあり、相部屋となる様子である。

 出帆までまだ2時間も余裕がある。荷物を置いて、船内を探検する。船は2階建てで、2階の中央部と1階が3等船室、部屋というより単なるスペースである。2階の後半部分が2等船室、そして2階の前半部分が1等船室となっている。1等船室部分は中央に広々としたラウンジがあり、これを取り囲むように10室ほどの個室が並んでいる。船首部分は1等船室専用の展望デッキになっている。3等船室は既に満員である。皆、持参の敷物を敷き、自分たちの居場所を確保するのに懸命である。

 船上から夕暮れを迎えた港を眺め続ける。川幅は数百メートルもあろうか。沖合には入港待ちの船が何隻も停泊し、その間を多くの小舟が行き交っている。今しも満員の乗客を乗せて大型船が汽笛とともに出帆していく。船着き場は相変わらず喧騒の中だ。物売りが船内に入ろうとして係員ともみ合っている。その隙に、別の物売りが侵入する。殴り合いの喧嘩が始まった。周りの人が慌てて止めに入る。いつまでも見飽きぬ光景だ。

 出帆時間が近づいた。船室に戻ってみると、相方が来ていた。40歳代のベンガル人である。流暢な英語をしゃべるが、それほどフレンドリーでもない。大方政府の役人だろう。でなければ、1等船室などに乗船できない。とっぷりと日の暮れた18時40分、数回汽笛を鳴らしてロケット・スチーマーは出帆した。クルナに着くのは明日の夜の10時、これから27時間の航行である。

 船首の展望デッキで椅子に座ってダッカの夜景を眺め続ける。船のサーチライトが行く手の川面を照らす。その中に、時折小舟が浮かび上がる。反対側から大きな客船がやって来た。乗客が降りる準備に忙しく動き回っている。身体に受ける夜風が心地よい。空を見上げるとオリオン座とシリウスが確認できる。しばらくすると、ボーイが食事の準備が出来たと呼びに来た。船内に戻ると、ラウンジのテーブルに、3〜4人分はあろうかという大盛りのライスとカレーを中心とした何品かのおかずが並んでいた。バングラデシュでは、ライスを注文すると必ず3人分ほどの分量が出てくる。食事が終わると、もはや寝る以外にやることはない。

 
   第12章 船旅

 3月21日月曜日。夜明けを待って船室を抜け、展望デッキに出てみる。まだ明けきらぬ薄明の中、船は満々と水を湛えた幅1キロもあろうかと思える水路を、軽くエンジンの音を響かせながら滑るように進んでいる。いったいここはどの辺りなのか、見当もつかない。昨夜はよく眠れなかった。同室の男が無神経に夜中に物音をたて、その度に目を覚ました。

 行く手遠くに集落が見えてきた。船着き場には1隻の大型客船が接岸している。ロケット・スチーマーも接岸する様子で、汽笛一声を発して速度を落とす。船着き場で多くの人々が動き回っているのが見える。やがて、船は接岸した。かなり多くの人が下船する。同時に何人もの物売りが乗り込んでくる。ただし、1等船室には入れない。ボーイに「ここはどこか」と聞いてみると「ボリシャル」との答え。南部の主要都市の一つである。船着き場の背後に街並みが広がっている気配だが、確とは確認できない。

 朝食を済ますと、もはややることはない。展望デッキに陣取り、ただただ、水と空と森の緑の織りなす、単純にして雄大な景色を見続ける。水路は、分かれ、合わさり、時には数キロに広がり、時には数百メートルに狭まりながら、どこまでも続く。水がどちらに流れているのかもさっぱり分からない。時折小さな集落が岸辺に見え、網打つ小舟が見られる。これがベンガルデルタの光景なのだ。

 展望デッキに飽きれば、3等船室に遊びに行く。床に敷かれたゴザや布、その上で横たわる人、車座になって食事をする家族、赤ん坊に乳を含ませる女。子供たちは仲間を作って船中を駆けずり回っている。行商人が、マイクで口上を滔々と述べ続けている。この場所もいつまで居ても見飽きない。私が侵入すると、人々は好意溢れる笑顔と好奇の眼差しを向ける。そして、あちこちから声がかかる。「どこから来た」「名前は」。街中と同じ質問が飛ぶ。子供たちは「チョビ、チョビ」と写真をねだる。売店の親父が「チャを飲んでいけ」と、世界一甘いと言われる紅茶を勧める。1杯わずか3tkである。

 船の中は立ち入り禁止の場所はどこもない。船の両側で回転を続けている水車のカバーの上にも乗れる。水の上に張り出したこの場所はなかなかスリルがある。そこから狭い鉄梯を登っていくと、操舵室がある。船長が笑顔で中に招き入れてくれた。船中の最高所、ここからの眺めもなかなかである。その背後は、円形に緩やかに傾斜した屋根である。滑り落ちる危険のあるこの場所にも、3等船室の混雑を嫌った何組かの乗客が居を定めている。1階に下る。ここはエンジンルームがあるため少々うるさい。その横で昼飯用に鶏を解体している。鳥肉としてではなく、生きた鶏を持ち込んでいるのだ。再び展望デッキに戻り、ボーイにコーヒーを持ってくるよう依頼する。1等船客だけに許された特権である。熱いコーヒーをすすりながら、移り行くベンガルデルタの光景を眺め続ける。

 私と同じく、この展望デッキを主たる居場所と定めている乗客が他に2人居た。自ずと3人で親しく話をするようになった。1人は27〜28歳のドイツ人の女性。女1人で、このイスラムの国を旅しているという強者である。今回の4週間にわたるバングラデシュの旅で私が出会った唯一の外国人旅行者であった。ドイツ人らしく、議論には乗ってくるが、プライベートのことは話したがらない。もう1人は41歳のベンガル人、Razibul Hassanさん。政府の役人で、奥さんと生後1年の女の子を連れている。仕事にかこつけた家族旅行らしい。昨年、研修で日本の沖縄に4ヶ月滞在したとのことで、特に私に親しみを感じたようである。2人とも流暢な英語をしゃべる。

 船はジャロカティー、ピロジプールと小さな港に寄って行く。その度に少しづつ乗客は減る。同室の男も、どこで降りたのか、いつの間にか居なくなった。終点のクルナまでこの船で行こうという者は少数派である。バスならばダッカから8〜9時間で行ける。やがて船は幅10キロ、否20キロはあるだろうか、まるで湖のような広大な水路に出た。そして今度は幅100メートルほどの狭い水路に入って行く。いつしか陽も傾きだしている。行く手に街並みが見えてきた。Hassanさんに聞くと「モングラ」との答え。最後の寄港地である。ここは港の水深が浅いと見え、艀による下船であった。陽が水面を真っ赤に染めて地平線に沈んでいく。

 陽がとっぷりとくれ、空には星が輝きだした。クルナは近そうである。真っ暗な闇の中、行く手に川を横切るように連なる灯が見える。近づくと、何と!  橋である。この船旅で初めて橋を見た。橋を潜ると、左手にクルナの街が現れた。ようやく長かった船旅も終焉を迎えたのだ。Hassanさんが寄ってきて、「クルナのホテルは決まっているのか」と心配顔で尋ねる。もちろんホテルは決まっていないし、特にあてもない。適当に見つけるつもりでいるが、時刻は既に22時近い。首尾よく見つけられるか、若干心配していることは事実である。彼はさらに続ける。「自分たちは知り合いが車で迎えに来ている。もしよければ、この車で適当なホテルまで送るがーーー」。好意に甘えることにした。

 9時50分、船はクルナの船着き場に接岸した。27時間の船旅の終了である。下船すると、大勢のリキシャ・ワラが客引きに集まってくる。ドイツの女の子は、Hassanさんの申し出を断ったとみえ、1人でリキシャに乗って街中へ消えていった。Hassan一家とともに迎えのワゴン車に乗って、街中へ入る。灯の数は少ないが、思ったより大きな街のようだ。着いたところは意外にも HOTEL  MILLENNIU、このホテルは1泊30ドルもする高級ホテルである。Hassanさんには1,000tk以下のホテルに連れて行って欲しい旨頼んでおいたのだがーーー。ところが何と、このホテルに930tk(約1550円)で泊まれるという。どうやら出迎えてくれた彼の知人の顔利きらしい。部屋も素晴らしく、今回のバングラデシュ旅行で泊まった最高のホテルであった。

 さらにHassanさんが、「明日の予定は?」と聞くので、「バゲルハットに行くつもりだ」と答えると、「自分たちも行くので、朝、車で迎えに来る」という。こうなれば抱っこにおんぶ、全て甘えることにした。

                                           バングラデシュ紀行(2)に続く       

 

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