おじさんバックパッカーの一人旅   

アジア最貧の国 バングラデシュ紀行 (2)

壮大な仏教遺跡に、「仏法の国・ベンガル」の昔日を思う

2006年3月22日

      〜3月27日

 
   第13章 世界遺産・バゲルハットのモスジット群
 
 3月22日水曜日。朝起きるが、風邪気味の体調は未だ好転せず、身体がだるい。今日はクルナの南東約30キロの小さな街・バゲルハット(Bagerhat)へ one day tripする計画である。この街の郊外に10個ほどのモスジット(モスク)が点在しており、「バゲルハットの歴史的モスク都市」として世界遺産に指定されている。いずれも、15世紀に建造されたものである。

 当初、1人でフェリーとバスを乗り継いで行くつもりでいたが、昨日、Hassanさんが車で案内してくれるということになった。10時半から11時の間に迎えに来るとの約束であったが、現れたのは12時近かった。Hassan一家3人とその知人の一家4人、それに私と運転手、総勢9人でともかくも出発した。知人1家は40歳代の夫婦と17〜18歳の娘、それに10歳の息子である。ひょんなことから、こうしてバングラデシュの2家族と小旅行することになった。だから一人旅は面白い。

 クルナの街を抜けてしばらく走ると、ルプシャ川を立派な真新しい橋で渡る。昨日、船から眺めた橋である。Hassanさんが「日本の援助で建設された橋だ」と教えてくれた。帰ってから調べてみると、この橋は「カーン・ジャハン・アリ橋」といい、2005年5月に開通したばかりである。橋の長さは1,400メートル、前後の取り付け道路を含めると約10キロメートルとなる。建設費は全部で約100億円、うち80億円を日本が援助した。

 バングラデシュは大小の河川により国土が細分断され、しかも、大河には橋がほとんど掛けられていない。このことが、如何に多大な損失を国家経済に与えているかは容易に理解できる。橋の建設は極めて有効な経済援助である。しかし、橋を渡りながら考えた。橋を渡っている車はほとんどない。渡っているのは、リキシャと天秤棒を担いだ行商人と農産物を背負った裸足の農民である。その使われ方からして、この橋はあまりにも立派すぎる。どうせ100億円使うなら25億円の橋を4つ建設するほうが遥かに有益ではないだろうか。この橋には日本の見栄を感じる。

 橋を渡り終わると、周辺に小さな池が多数見られるようになる。エビの養殖場だとのことである。エビはバングラデシュの日本への最大の輸出品目である。街道から露店の並ぶ参道を少し入ると、分厚い塀に囲まれたマジャル・カン・ジャハン・アリに行き当たった。このモスジット群を建設したカン・ジャハンの廟である。彼は聖者としてこの廟に祀られている。この聖者廟は現在でも参拝者の列が絶えない。

 15世紀の初頭、この辺りは人間の住めるような土地ではなかった。鬱蒼としたジャングルに覆われ、ベンガル虎やクロコダイル(ワニ)等の猛獣毒蛇が跋扈し、熱帯性疫病が蔓延していた。また、洪水は日常茶飯、塩害も激しく、飲み水にも事欠いた。このような過酷な、かつ人間社会から隔絶された土地に、いかなる理由があったのか、カン・ジャハンを頭目とするイスラムの小集団が入植して土地を切り開き、小さなイスラムの共同体を打立てた。伝説によれば、当時、360個ものモスジットが建設されたという。その内の約10のモスジットが600年を経た現在も残されている。

 車は、聖者廟の裏手に回り込んで停まった。目の前に大きな池が広がっている。タクル池である。クロコダイルがいるとのことだが、何人かが沐浴している。私としては、すぐに聖者廟の内部を見学したいのだが、同行者たちは、「ふん、こんなもんか」と、外から眺めただけで、すぐに昼食の相談を始める。結局、再び車に乗せられて、バゲルハットの街に向うことになった。街の中心部の奥まった場所の食堂に2家族と私の8人で陣取る。食事は当然のごとくベンガル・カレーである。これまでは、スプーンとフォークで食べていたのだが、今回はバングラデシュの作法に従い、手掴みで食べざるを得ない雰囲気である。バングラデシュの人々の食べ方は豪快である。ご飯とカレーを右手の掌全体を使ってこねるように混ぜ合わせ、そのまま手掴みで口に運ぶ。私も思いきって挑戦するが、なかなかうまくいかない。皆がにやにやしながら見ている。
 
 食事が終わると、「さぁ、帰ろうか」と言うような話し。ちょっと待てや、肝心のモスジット群をまだ見学していないではないか。では、ということで、バゲルハット・モスジット群の最大の見どころ・シャイト・ゴンブズ・モスジットへ行く。正確に言うと、「バゲルハットの歴史的モスク都市」として世界遺産に登録されているのは、このモスジットだけらしい。知人の一家4人は、門前に並ぶ露店を覗くほうがよいとのことで、Hassan一家とともに境内に入る。幅48m、奥行き32.5m、高さ9mの煉瓦造りの大きなモスジットで、四隅に高さ12mのミナレットを持つ。この建物の最大の特徴は屋根を覆う81個ものドームである。

 確かに不思議な形をしたモスジットであるが、同じ世界遺産でも、カンボジアのアンコールワットやインドネシアのボロブドール遺跡のように、あっと息をのむ迫力はない。このため、このモスジットは、世界遺産の名に魅かれてここを訪れた日本人旅行者にいたって評判が悪い。ダッカの安宿にある情報ノートには、「何でこんなつまらないものが世界遺産なんだ」との書き込みが多数あるとのことである。

 思うに、このモスジットの世界遺産としての価値は、建造物そのものにあるのではなく、600年もの昔、小さな集団が人跡未踏の熱帯のジャングルを切り開き、小なりと言えども、今に残る文化遺産を建造したこと、そのことにあるのだろう。強大な国家権力の下に建設されたアンコールワットやボロブドール遺跡と同じ基準で比較してはならないのである。他のモスジットも見学したいのだが、「見る価値はないよ」の一言で退けられ、クルナのホテルに戻る。「もう一度、夕方7時に迎えに来る」との言葉を残して2家族は引き上げていった。

 私はすぐにリキシャで駅に向う。明日、列車でラッシャイ(Rajshahi)へ移動する予定なので、チケットを購入しておく必要がある。リキシャはわずか5tkであった。あまりの安さに驚く。駅は、暗く、古びた建物で、多くのホームレスが住みついていて怪しげな雰囲気であった。明日早朝6時30分発のラッシャイ行きインターシティ特急の1等指定席チケットを265tkで無事入手する。ただし、チケットはベンガル語の手書きで、内容を理解できない。後でHassanさんにチェックしてもらおう。

 ホテルに戻ると、前の広場で子供たちがクリケットをしている。この国で一番人気のあるスポーツである。どこの広場でもクリケットに興ずる人々の姿が見られるし、テレビをつけると必ずクリケットが中継されている。見物していたら、あっという間に子供たちに囲まれた。例によって、「Country?」「Name?」の質問攻めである。

 夕方7時の約束だが、Hassan及びその知人の家族が現れたのは7時50分であった。悪びれた様子もないところを見ると、この程度はバングラデシュでは誤差範囲なのだろう。これから街にウィンドショッピングに行くので付きあえという。街の中心部に向う。さすが、ダッカ、チッタゴンに次ぐバングラデシュ第3の都市、思いのほか賑やかである。大きなスーパーマーケットや専門店の並んだアーケード街もある。ありとあらゆる商品が並んでいる。電化製品では「MIYAKO」なるブランドのメードイン・ジャパンの製品が目に付く。聞いたことのないブランド名だが。食料品売り場も豚肉とアルコール類以外は何でもある。特に、米はいろいろな種類が売られている。値段は1キロ19tk〜35tk、何と安いことか。

 突然停電となった。辺り一面真っ暗である。途端に張りつめた空気が辺りを支配する。Hassanさんは緊張した面持ちで、皆を一ヶ所に集め、懐電をとりだし警戒体制をとった。バングラデシュでは、夜出歩くときには懐電が必需品なのだろう。まもなく、自家発が稼働し、薄暗い電灯がともった。

 
   第14章 ラッシャイへの列車の旅

 3月23日木曜日、今日は列車でインドとの国境の街・ラッシャイに向う。ラッシャイ(Rajshahi)については、案内書も含め、多くの日本語表示が「ラジシャヒ」となっているが、現地の発音は完全に「ラッシャイ」である。5時30分、リキシャで駅に向う。外はまだ真っ暗である。到着した駅は、薄暗い電灯は灯っているが、待合室もホームもホームレスの人々が横たわり、異常な雰囲気である。

 しばらく待つうちに、ラッシャイ行きインターシティ特急が入線した。このクルナ駅が始発である。ただし、私の座席は皆目わからない。持っているチケットの記載も、列車の表示も、数字を含めて全てベンガル語なのだから。駅員に聞くと、席まで案内してくれた。1等車両は個室であった。右側が通路となっており、それに沿って6室ほどの個室が並んでいる。個室の中は、夜はベッドとなるベンチシートが向きあいに配置されている。冷房はなく、天井で扇風機が回っている。しばらくすると若い男が、向かいの席に座った。

 6時30分、ディーゼル機関車に引かれた10数両の列車は、ようやく夜の明けたクルナ駅を発車した。天気はどんよりとした曇り空で、薄く霧が掛かっている。このクルナとラッシャイの間は広軌である。私は窓の外を見続ける。同室者はヘッドホーンステレオに聞き入り、会話はない。しばらくは線路に沿ってスラムが続く。この1等車両には専用の雑用係が配されていて、頼めば、飲み物や食事を運んでくれるようだ。発車してすぐに検札があった。

 列車は田園風景の中を走り続ける。車窓を眺めながら幾つかのことに気がついた。一つ目は、全ての土地が利用し尽くされていることである。どこを眺めても、全て耕地か集落である。森林とか野原の類いはまったくない。強いて言えば、河川敷ぐらいである。その河川敷すら、放牧された牛やヤギによって全ての草が食い尽くされ、まるで芝生を敷き詰めたようになっている。過剰人口がもたらした現象なのだろうが、留めなく人口の増え続ける地球の未来を見るようで、ぞっとする光景である。

 二つ目は、レンガ工場以外の工場がまったく見当たらないことである。バングラデシュには岩というものがなく、また森林も非常に少ない。レンガが利用できる唯一の建築材料である。家々も全て煉瓦造りである。

 三つ目は、田畑に灌漑設備がまったく整っていないことである。どこの国でも、稲田の脇には必ず灌漑用水路があるものである。その水路がないのである。水はどうしているかというと、皆、地下水をポンプで汲み上げている。この方式とて、近年、日本を中心とする外国の援助により普及した方式である。ただし、地下水に含まれていたヒ素が大量に汲み出されるという思わぬ事態が生じ、現在大問題となっている。

 四つ目は、「水の国」であるにもかかわらず、水のコントロールがいたって未熟なことである。車窓から外を眺めて目に付くのは小さな池の多さである。集落の周りには、到るところに池が掘られている。この池の存在意義は理解できる。雨期には水はけの貯水池となり、掘った土は道路や集落の高盛りに使われる。乾期には生活用水として池の水が使われる。今はちょうど乾期の終わりのため、池の水は少なく、多くは、緑色に濁った水がわずかに底の方にたまっているだけである。この見るからに濁った池で、洗濯し、食器を洗い、水浴している。明らかに、利用できる水がここきりないのである。

 列車が北上するに従い、気候が次第に乾燥化して行くのが見て取れる。田圃が減り、畑がどんどん増えてくる。畑では、ジュート、トウモロコシ、麦が栽培されている。クシュティア方面との分岐駅・ポラドホを過ぎる。もうすぐボッダ川(ガンジス川)本流を渡るはずだ。車窓に目を凝らす。ついに、ハーディング橋に達した。眼下にポッダ川(ガンジス川)が流れる。さすが世界有数の大河、川幅は約2キロもある。しかし、乾期のためだろうか、水量は思いのほか少ない。このハーディング橋は1912年、英国により架橋された。近年まで、ポッダ川にかかる唯一の橋であった。

 2メートルもあるベンチシートに1人なので、ザックを枕に寝そべりながら窓外を眺め続ける。同室の若者も寝そべっている。やがて、ソイヨドプール方面との分岐駅・アブドゥルプールを過ぎる。終点ラッシャイはもうすぐと思ったが、ここからが意外に長かった。

 14時、クルナから7時間半も掛かってようやくラッシャイに到着した。ホームに降りると、真昼の太陽が強烈な熱線を頭上から降り注ぐ。このラッシャイはバングラデシュで最も暑いところとして知られている。駅のホームは道路に直結しており、誰も駅の改札口など通らない。その道路には多くのリキシャが押し寄せ、激しく客を奪いあっている。

 どこかホテルを見つけなければならないが、案内書記載の地図を見ると、街は駅から少し離れている。集まってきた何人かのリキシャ・ワラに、「どこかいいホテルはないか」と相談を持ちかけてみたのだが、まったく言葉が通じない。仕方なく、案内書に載っていたホテル・ナイスを指示する。ところが街の中心部まで来るとリキシャはうろうろ。場所が分からないのである。ちょうどホテル・ムクタの看板が見えたので、そこへ行ってみる。しかし、1,600tkのスウィートルームしか空いてないとのことで、諦める。再びリキシャをつかまえ、ホテル・ナイスを目指す。しばらく走ると、何と、このリキシャもうろうろ。いったい、この街のリキシャはどうなっているんだ。たいして大きな街でもないのに。リキシャを捨て、商店で尋ねると、親切にも案内してくれた。しかし、このホテルは何となく感じが悪いので諦めた。

 さて困った。三度リキシャをつかまえ、最後の切り札としてポルジャトン・ホテルを指示する。ポルジャトン・ホテルとは政府観光局が運営するホテルで、国内主要都市にある。言うなれば日本の国民宿舎みたいなもので、低料金で泊まれる官営のホテルである。ただ、官営ということは、この国のお役所の現状に鑑み、どうせろくなサービスはなかろうと、今まで敬遠してきた。

 ラッシャイのポルジャトン・ホテルは街の中心部から2キロほど離れた郊外にあった。行ってみると、リゾートホテルのような大きな立派な施設である。ただし、「今日は2,000tkのスウィートルームしか空いていない。明日は1,200tkのツインルームが空く」との答え。ここにいたっては仕方がない。旅装を解く。案内されたスウィートルームは2部屋もあり、広すぎて落ち着かない。ところが、荷物を部屋まで運んだボーイにチップ20tkを渡したところ、「こんな小額はNoだ。最低50tkをよこせ」と開き直る。こんなこと初めてである。さすが官営のホテルである。

 すぐにホテルから500メートルほどのポッダ川に行ってみる。この川はインドではガンジス川と呼ばれ、ヒンズー教徒にとっては聖なる川である。ヒマラヤ西部に源を発し、インド北部を西から東に横断し、バングラデシュにおいて東から流れてくるジョムナ川(ブラフマプトラ川)と合流してベンガル湾に注いでいる。全長2,840キロ、世界有数の大河である。このラッシャイにおいては、この川がインドとバングラデシュの国境となっている。従って、向こう岸はもうインドである。

 勇んで、堤防に駆け上がってみたのだが、目の前に広がる光景に少なからずがっかりした。水流は見えず、幾つかの水溜まりの先には牛とヤギが草を食む広大な草原が広がっているだけである。どうやら、水流は遥か彼方のインド側を流れているようである。地図を見ると、この辺りは川の中央に大きな島があり、水流はインド側とバングラデシュ側に分かれている。乾期で水量の少ない現在、バングラデシュ側の流れは干上がってしまっているようである。それでも、数キロ先の遥か彼方には、木々の連なりがみえる。初めて目にするインドである。土手の一角に腰を下ろし、「はるけきも来たかな」と、感慨を持ってインドを見つめ続ける。

 堤防の上は、市民の散歩コースとなっていて、飲み物やアイスクリームなどを売る露店も出ている。私もポッダ川を眺めながら少し歩いてみる。堤防のすぐ下には、スラムとまではいかないが、粗末な家々が並んでいる。サンタル族の集落である。サンタル族は主としてインド西部に500万人ほど暮す少数民族である。牛やヤギの牧畜を主たる生業としているようで、小枝に団子状に刺した牛の糞を、あちこちで日干しにしている。燃料として利用するようで、後日マーケットでも販売されているのを見た。

 ホテルに戻るが、日暮れとともに停電である。すぐに自家発が稼働するが、電圧が低く、せっかくのエアコンは稼働しない。また、シャワーからはお湯が出ない。フロントに言うと、温水スイッチを入れてから20分待てとのこと。ここはバングラデシュ、いらいらしてはいけない。
 

   第15章 プティアへのOne Day Trip

 3月24日金曜日、今日はプティアへone day tripする。プティア(Putia)はラッシャイの東約30キロに位置する小さな村である。この村に、19世紀に建てられた幾つものヒンズー教寺院や領主の館が残されていて、バングラデシュの観光資源の一つとなっている。

 ラッシャイのバスターミナルは鉄道駅の前にある。従って、ホテルからだと約4キロ、ちょっと遠い。8時過ぎ、リキシャでバスターミナルへ向う。ターミナルは相当ごちゃごちゃしているので、プティアへ行くバスを探すのはひと苦労と思っていたが、親切なリキシャ・ワラで、バスを探し当てるまで面倒を見てくれた。小型の超オンボロバスである。

 バスはガラガラのまますぐにターミナルを発車したのだが、駅前で止まってしまい、車掌が周囲を走り回って客集めを始める。その間、運転手は警笛を鳴らし続ける。どのバスも同様であるため、周囲は凄まじい騒音である。バスは満員になってようやく走り出した。バングラデシュでバスに乗るのは初めてなので、興味深く観察する。車掌は2人乗車している。1人は入り口に陣取り客の乗降を監視、もう1人は車内での切符切りである。面白いのは、車掌が車体をバンバン叩くことである。1回叩くと停車、2回叩くと発車の合図らしい。停留所ごとに客集めに熱心であり、客さえいればどこでも停まる。料金は15tkと言うので、20tk渡すと、後で5tk返すとのジェスチャー。しかしお釣りはついに返ってこなかった。

 バスは次第に混みだし、ついに超満員になってしまった。しかし、乗客は従順で、しかも、女性や年寄りには確り席を譲る。プティアは途中下車となるので、うまく降りられるか心配であったが、隣のじいさんが、「自分も降りるから、心配するな」とベンガル語で言ってくれる。バスの走行はまさに気違い沙汰である。警笛を鳴らし続けながら、前を行くすべての車を追い抜き、対向車が来ようが平気で反対車線に飛びだす。凄まじいばかりの運転である。小さな街並みを幾つも過ぎる。案内書には30分と書いてあったが、小一時間掛かって、ようやくプティアのバス停に到着した。

 バス停付近はちょっとした街並みになっていて、多くのリキシャが客待ちをしている。ただし、ここのリキシャは、「バン・ガリ」と呼ばれるもタイプで、後の座席が荷台である。バン・ガリに乗って、バス道路から1キロほど奥に入ったプティアの集落に向う。今日もいい天気で、暑くなりそうである。程なく、大きな池の向こうに、写真で見た通りのシヴァ寺院の美しい姿が見えてきた。

 プティアは、周囲を大きな池で囲まれた700メートル四方ほどの小さな集落である。おそらく、これらの池は集落防衛の環濠の役割を果たしていたのだろう。バングラデシュは現在イスラム教徒が88%を占めるイスラムの国である。しかし、英領インドの時代には、イスラム教徒とヒンズー教徒が混在していた。特に、支配階層の多くはヒンズー教徒であった。このプティアの領主も当然ヒンズー教徒で、領内に多くの美しいヒンズー教会を建設した。しかし、宗教戦争であったインド・パキスタン戦争の際に、バングラデシュの多くのヒンズー教徒はインドへと亡命していた。現在、このプティアの地にも主を失った館と信者のいないヒンズー教会が残された。

 先ずはシヴァ寺院を訪れる。中央に主塔が、その左右に2本の副塔が聳え、壁は白い漆喰である。実に美しい。特に、池に映るその姿は絶景である。しかし、入り口には鍵が掛けられ、いまや寺院としての役割を果たしていないことが分かる。その隣にはドームの屋根とアーチ型の窓を持つ2階建てのロッド寺院がある。一目、イスラム建築の影響が読み取れる。

 小さなマーケットを抜けると、ドルモンチョの前に出る。3階建ての白亜の寺院で、大きなアーチ型の窓が特徴的である。現在はマーケットとして使われているとのこと。その前は大きな広場となっていて、その先に2階建ての堂々とした建物が見える。ラズバリと呼ばれる領主の館である。しかし行ってみると、荒れるに任せた廃虚となっている。その横に、渋い茶色の外壁で、3つの尖り屋根を持つ寺院がある。(民衆用の)ゴヴンダ寺院である。この寺院だけは、中に祭壇が祀られ、未だ信仰が維持されている気配である。実に味わいのある茶色の外壁はテラコッタ・パネルである。即ち、粘土に釉薬 をかけずに焼いた素焼きの陶板で、バングラデシュ建築の特徴である。このパネルには、繊細な彫刻が施されている。余談だが、「ベンガラ」という言葉がある。赤茶色の絵の具を現すオランダ語だが、元々の語源は「ベンガル」である。ベンガル地方の特色であるこの赤茶色のテラコッタに由来する。

 集落南端の池の辺でひと休みしていると、子供たちが集まってきた。いずれも裸足の農村の子供たちである。例によって、「チョビ、チョビ」と写真をねだる。子供たちを引き連れ、集落の西側に回ると、今度は青年達が集まってきた。その中のカレッジの学生だという二人が、案内役を買って出た。少し英語を話せる。集落の南西に(領主用の)ゴヴィンダ寺院とゴパーラ寺院が並んで建っている。両方とも外壁は彫刻の施されたテラコッタ・パネルで覆われている。ゴヴンダ寺院はベンガル様式と言われる尖り屋根、ゴパーラ寺院は三つの屋根を連続させた独特のスタイルである。どちらも実に美しい。残念ながら両寺院とも、門に鍵が掛けられ中に入ることは出来なかった。

 以上でプティアの寺院群の見学は終了である。池の辺の木陰に座り込み、池に映る寺院の姿にしばし見とれる。今日、このプティアの地を見学しているのは私一人のようである。ここには、土産物屋など一軒もない、実に素朴なバングラデシュの小集落である。

 バン・ガリをつかまえてバス通りに戻る。さて、帰りのバスをどうやってつかまえるのだ。ちょうど警察官がいたので彼に聞いてみると、ここで待てとのジェスチャー。しばらくすると、小型のオンボロバスが超満員の乗客を乗せてやってきた。乗ろうとすると、警察官がダメだという。不思議に思いながらしばらく待つと、今度は大型の立派な長距離バスがガラガラで通りかかった。長距離バスはこの小さな停留所には停まらない。ところが、警察官はバスの前に立ち塞がってバスを停め、私を中に押し込んだ。警察官の指示ならバスはいやでも停まる。どうやら、外国人の私に精いっぱいの好意を示してくれたようだ。感謝する。ラッシャイの街に帰り着く。

 ホテルに帰る前に、ラッシャイの街を少し歩き廻ってみよう。手持ちのタカ(tk)も心細くなったので銀行で両替する必要もある。リキシャで街の中心部へ出る。ところが何と、銀行は全てクローズ。今日は金曜日、イスラムの国では休日であることを忘れていた。案内書にあるシャハ・モクドゥム・マジャルを見学し、バザールをぶらついた後、ホテルに戻る。夜は相変わらず停電の繰り返しであった。

 
   第16章 ボグラへのバスの旅

 3月25日土曜日。今日はバスで西部の中核都市・ボグラ(Bogra)へ向う。この旅で初めての、バスによる本格的移動である。7時30分、リキシャでバスターミナルに向う。ラッシャイのバスターミナルは幾つかのブロックに区切られているので、リキシャ・ワラにボグラ行きのバスだと、念を押す。ターミナルへ着くと数人の男が私を奪い合うようにして、バスに案内してくれた。単なる親切かと思ったが、後で10tk要求された。案内を業としているのだろう。長距離用の大型バスだが、冷房車ではない。運転席すぐ後の一番展望のよい席を占める。

 10分ほど待つと、バスはほぼ満席となって出発した。プティアまでは昨日と同じ道である。停留所ごとに乗客が増え、程なくバスは超満員となった。窓外はどこまでも田園風景が続く。田植えを終えたばかりの稲が青々と育っている。幾つもの大小の街を過ぎるが、どこを走っているのかは皆目分からない。乗客は頻繁に入れ替わるが相変わらず満員のままである。道は全て舗装されている。乗用車はほとんど見かけないが、トラックとバスの通行は多い。

 困ったことが生じた。トイレに行きたいのだが、ローカルバスのためか、出発してから3時間経ってもトイレ休憩がない。ちょっとした街並みで停車したので、車掌にトイレに行ってきていいかと聞くと、しばらく待てとのジェスチャー。郊外に出たところでバスを停めてくれた。乗客全員注視の中で、悠然とタチション。いい気持ちであった。

 やがてバスは片側2車線の立派な道に出た。乗客の多くがここで降りる。車掌が「ボグラの街へ行くならここで降りろ」という。どうやらこの道はボグラの街を半円状に取り囲んでいるバイパスと思える。街の中心部へ行くならここで降りるのが近いのだろう。ただし、私は街の郊外にあるバスターミナルまで行くつもりである。何しろ英語はまったく通じないので意志疎通が大変である。バスはしばらくバイパスを走り、出発してから3時間半、ボグラのバスターミナルに到着した。やれやれである。車掌が、「Highway Century Motelはあそこ、Safeway Motelはあそこ」と近くの2軒のホテルを指さして教えてくれる。親切な車掌だ。

 明日、明後日ともバスを利用するので、宿はバスターミナルの近くにとるつもりでいた。ターミナルに隣接するHighway Century Motelへ行く。フロントの親父は実に調子がいいのだが、部屋はあまり清潔とは言えず、エアコンはあるものの水シャワーである。「失敗したかなぁ」と思ったが、ここはバングラデシュ、我慢我慢である。他に宿泊客のいる気配もない。

 昼食をすませた後、ここから2キロほどの街まで行ってみることにする。街の中心は7差路のロータリーとなっていて、シャット・マタと呼ばれている。リキシャで到着した中心部は、いたるところ道路が掘り返され、土ぼこりがものすごい。泥んこ道にはリキシャの群れがひしめき、とても歩き廻ってみようなどという気は起こらない。近くの、案内書に載っているノワブ・チョウドリ・ミュージアムへ行ってみる。英国植民地時代のこの付近の領主の館である。庭は遊園地となっていて、館は当時の生活を示す博物館となっていた。リキシャでホテルに戻る。

 夕方、宿の周りを散歩する。道端にはバスタヘミナルの乗降客相手の小さな店が連なっている。これらの店からひっきりなしに声がかかる。店先に座り込んでは、雑談である。まるでスーパースターのようである。夜は相変わらず停電の繰り返し、エアコンはほとんど役に立たない。おまけに、隣接するバスターミナルから警笛が絶えることなく響き、何ともうるさい。ベッドに蚊帳がなく、従業員が部屋の中に殺虫剤を撒いたが、効き目があったとも思えない。蚊取り線香をつけて寝る。

 
第17章 モハスタン仏教都市遺跡へ

 3月26日日曜日。今日はモハスタン(Mahasthan)仏教都市遺跡へone day tripする。この遺跡はボグラの北約18キロのカラトア川西岸の台地上に位置する。8キロ四方ほどの範囲に、城壁に囲まれた都市遺跡や、多くの仏教寺院跡が点在する。遺跡の多くは8世紀中頃から12世紀前半に栄えたパーラ朝時代のものであるが、この古代都市の歴史はグプタ朝(320〜520)、さらにはマウリア朝(B.C.317〜B.C.180)にまで遡る。マウリア朝の時代、このモハスタンを含むベンガル北部はプンドラヴァルダナ・ブクティと呼ばれ大いに繁栄したと伝えられている。また、グブタ朝の時代、モハスタンはプンドラナガラと呼ばれたこの地方の首都であった。7世紀、インドを旅し、「大唐西域記」を著わした玄奘(三蔵法師)もこの地を訪れている。弟子慧立の著わした「大慈恩寺三蔵法師伝」の中に記載されているプールナヴァルダナ国の都が、このモハスタンであると考えられている。

 この東ベンガルの地は、インド亜大陸において仏教文化が栄えた最後の地である。紀元前5世紀に北インドに興った仏教は、マウリア朝の仏教王・アショーカ(B.C.273〜B.C,232)の時代に最盛期を迎える。この時代に、ここ東ベンガルの地にも仏教がもたらされた。しかし、その後、インド亜大陸の大部分は、ヒンズー教勢力の制するところとなり、仏教は、この東ベンガルの地とスリランカに残るのみとなった。その東ベンガルも、13世紀初頭に到り、イスラム勢力の制するところとなり、長く栄えた仏教文化は、その痕跡をむなしく地下に残すのみとなった。モハスタンの遺跡は、未だ一部が発掘されただけで、その全貌を知るに到っていない。

 朝、ホテルの食堂に行くも、トーストとオムレツに40分も掛かるとの返事。さすがに切れて、朝食抜きで出発する。ホテル前のターミナルから7時45分発の小型のボロバスに乗る。料金10tk取られたが、帰りは7tk、どうもバングラデシュのバス料金はいまひとつ信用できない。しかし、こちらとしては言われた料金を払うしかないのだがーーー。案内書には40分とあったが、バスはわずか10分ほどでモハスタンに到着した。

 バス停付近は、小さいながらも街並みがある。1杯3tkのチャを朝食代わり飲んで出発する。ベンガル語でもお茶(紅茶)はチャである。今日も朝からカンカン照り、暑くなりそうである。この広大な遺跡群をどう廻るかが問題である。一般的にはリキシャをチャーターするようで、バスを降りてから、リキシャ・ワラにしつこくつきまとわれた。私は出来るだけ歩くことにしている。

 坂道を上って、城壁内に入る。南北1,5キロ、東西1キロの城壁都市の南東の端である。ちょうど広場で発掘作業が行われていた。数人の現地人に混じって1人の白人の青年がスコップを振るっている。その側にノートを抱えた同じく若い白人の女性がいた。発掘の様子を興味深く眺めていたら、白人の青年が「自分はフランス人、彼女はイタリア人。共に、ここでモハスタンの研究をしている。興味がある様子なので遺跡について説明しましょう」と親切に申し出てくれた。女性が流暢な英語で付近の遺跡を熱心に説明してくれた。レンガを敷き詰めた道路の跡や、住宅の跡が発掘されていた。しかし、残念ながら、説明は専門用語が多くて、十分には理解しえなかった。礼を言って、北に向う。

 城壁の北の端に博物館があるはずである。先ずはそこまで行ってみよう。いい具合に城壁の上が歩ける。城壁は高さは約4,5メートルのレンガ造りである。右側は急坂となって、下を流れるカラトア川に落ち込んでいる。左側、即ち城壁の内部は、田圃の広がる田園風景である。その中に、所々こんもりした小さな高まりが見える。いずれも、まだ発掘されていない遺跡のようである。近くにレンガが剥き出しになった小山が見えた。上で子供たちが遊んでいる。田の畦道を伝わって行ってみる。下に何か大きな建物が埋っているようだ。例によっと、子供たちが「チョビ、チョビ」とねだる。通りかかった、天秤棒に金物を満載した行商人のオッサンまでが「俺も撮ってくれ」とポーズをとる。

 再び城壁の上を歩く。やがて目指す博物館に到着した。門前の茶店でひと休みする。博物館は外国人入場料20tkの表示。100tk札出すと50tkきりお釣りをよこさない。文句を言うと、「料金は改正された」とぬかす。確かに領収書には50tkと記載されているがーーー。どうも納得できない。このことに関し、在バングラデシュ日本大使館のサイトに、2005年10月20日付けで、堀口大使の書かれた次の一文を見つけた。
 
  「最後にモハスタンの博物館を見ました。案内書によれば、規模は小さいが国内の中では内容が
   充実しているとありましたが、展示物も説明もかなり見劣りがし、照明も暗く、コインなど輪
   郭しか分別できない程でした。さらに、つい最近、入館料がバングラデシュ人は2タカのまま
   ですが、外国人はなんと2タカから100タカに引き上げられ、博物館の前のゴビンダ・ヒンドゥー
   寺院跡地の見学にはさらに20タカの拝観料が必要となりました。

   バングラデシュの観光振興のためには、先ず観光地の宣伝、遺跡など観光資源の保護、博物館
   の展示品の解説の充実、絵葉書などの出版、照明の改善、トイレの整備、遺跡までのアクセス
   道路の改善などにより、観光地を魅力あるものにすることが必要かと思われます。これらの改
   善に必要な資金は観光開発の総合的な計画を先ず作り、それに基づいて援助国ないし国際機関
   に要請すべきものと思われます。

   これら総合的な計画のないまま、真先に外国人向け入館料をバングラデシュ人の50倍にするこ
   とでは、より多くの外国人観光客を呼び、バングラデシュの実態を知ってもらうことによって
   バングラデシュのイメージ改善を図るとの観光振興の目的を達成することは難しく、むしろ逆
   効果になりかねません。近いうちに政府関係当局による見直しと指導をお願いしたいと考えて
   います」
 
 大使の申し入れで、いったん20tkに引き下げられ、再び50tkに引き上げられたのだろうか。

 博物館の敷地内には「モハスタン発掘フランスチーム宿舎」との看板を掲げたプレハブがあった。先ほどの若者たちの基地だろう。欧州の若者がアジアのこんな片田舎で、この国の過去の栄光に光を当てようとスコップを振るっている。気前よく金を与えるだけが援助ではない。

 博物館の前にゴビンダ・ヒンドゥー寺院遺跡がある。癪なことに、周りに柵で囲い20tkの入場料を徴収している。せっかくなので入ってみる。レンガの積み重ねがあるだけで、どうということもない。さて、ここから先はどうするか。名のある遺跡としては、バシュ・ヴィハラ遺跡とラクシンダル・メドゥ寺院遺跡であるが、二つともかなり距離があるので歩いては行けない。リキシャをチャーターする必要があるが、交渉がややっこしい。バスを降りた際には、一周300tkなどと高いことを言っていた。レンガの山に腰掛けて思案していたら、管理人らしい若者がやってきたので彼に相談してみる。「知ってるリキシャ・ワラを紹介する。一周150tkでOK」との回答を得てひと安心する。

 バン・ガリに乗って出発する。英語はしゃべれないが人のよさそうなワラである。周りは唯一面の田園風景。実に気持ちがよい。ただし、道は畦道に毛の生えたようなガタガタの田舎道。おまけに所々レンガを砕いた砂利道となっている。ペタルを漕ぐワラは腰を浮かしっぱなし、時には降りて、押して歩く。この炎天下ちょっと気の毒な感じである。田圃には稲が青々と育ち、道端では牛とヤギがのんびりと草を食んでいる。小さな集落を幾つも過ぎる。ワラは集落の人と親しく声を交わしている。皆顔見知りのようだ。子供たちが、私を珍しがって、追いかけて来る。大人たちは道端から、「どこから来た」と声を掛ける。リキシャ・ワラも何やら得意げだ。数人の若者がオートバイで一緒に走りだした。日本人というスーパースターが突然村にやって来たのだ。

 道端に小さな遺跡があった。僧院跡のようだ。ワラがバン・ガリを停めて何やらベンガル語で説明してくれるが、もとより分かるわけがない。集落の周りには、例によって池が多い。女が牛を洗っている。その横では別の女が食器を洗っている。さらにその隣では洗濯をしている。池の水はどろどろの緑色である。あちこちに小さな丘のような高まりが見える。皆、未発掘の遺跡なのだろう。小一時間も走ると、舗装道路に出た。前方に低い丘が見えてきた。大きな遺跡のようだ。近づくと、そこが目指したバシュ・ヴィハラ遺跡であった。

 バシュ・ヴィハラ遺跡は大きな僧院遺跡で、モハスタンを代表する遺跡の一つである。緩やかな丘の頂付近に3つの建物跡が広がっている。周りは牛が草を食んでいる草原で、人家もない。もちろん観光地に付き物の土産物屋など皆無である。レンガを積み上げた遺跡を巡る。燦々と降り注ぐ真昼の太陽がまぶしい。リキシャ・ワラは私から離れず、一生懸命説明してくれる。全てベンガル語なのだが、こうして二人だけで話していると何となく理解できるようになる。言葉というものは不思議だ。レンガで縁取りされた3畳ほどの小部屋が無数に並んでいる。一つ一つが僧房の跡である。数百人の仏僧が、強力な王権の庇護の下に、ここで日夜修業に励んでいたのだろう。しかし、今やこの地に仏法を引き継ぐ者はなく、イスラムの地と化している。栄枯盛衰、世の無情さえ感じる。丘の上から周囲を見渡せば、平和な農村風景がどこまでも広がっている。1本の立木の下で、日差しを避けながら、昔日の栄光に思いをはせる。

 再びバン・ガリに乗って南に向う。今度は細いながらも舗装道路が続く。相変わらず田園風景の中である。幾つもの集落を通過する。尻は痛くなってきたが、心は何となくうきうきしてきた。日本から遠く離れた言葉も通ぜぬ異国の田舎道を、こうして唯一人、バン・ガリに揺られている。それなのに、不安感どころか違和感さえもない。何か不思議だ。道端に小さな雑貨屋があった。「ひと休みしていこうよ」。リキシャ・ワラに日本語で一声掛ける。2人して生ぬるいコーラで咽を潤しながら、とりとめもなく雑談する。いったい何語で話をしているのやら。

 行く手に、穴だらけの小高い丘が見えてきた。ラクシンダル・メドゥ寺院、別名バショルゴールだ。この遺跡は、その度肝を抜くような形から、モハスタン遺跡群の中で最も人気のある遺跡である。高さ約13メートルの人工の丘に172個の窪みが刻まれている。往時はこの窪み一つ一つに小寺院や小仏塔が存在したと考えられている。バシュ・ヴィハラ遺跡と違い、遺跡前には数軒の売店もあり、また数組の観光客の姿も見られる。遺跡の上に登ってみる。唯一面に田圃が広がり、その中に点々と集落が見られる。ここでも、リキシャ・ワラは一時も私の側を離れず、一生懸命説明してくれる。

 これで、モハスタン遺跡群の見学は終わりである。その全貌は未だ未発掘であるが、この東ベンガルの地に花開いた壮大な仏教文化の一端に触れることが出来た。しかも、バングラデシュの田舎を心ゆくまで満喫することも出来た。リキシャ・ワラにも恵まれた。再びバン・ガリに揺られてバス停に戻る。
 

第18章 インド亜大陸最大規模の仏教遺跡・パハルプール

 3月27日月曜日。今日はボグラからバスでジョエプールハット(Joypurhat)に向う。目指すは、この街郊外にあるインド亜大陸最大規模と言われ、世界遺産にも登録されているパハルプール(Pahaypur)仏教遺跡である。ただし、ちょっぴり憂うつでもある。ジョエプールハットは小さな街で、まともなホテルはないらしい。7時45分発の昨日とまったく同じボロバスに乗る。昨日はモハスタンで途中下車したが、今日は終点のジョエプールハットまでである。バスは途中超満員になりながら、田園地帯をひた走り、1時間半後にジョエルプールハットのバスターミナルへ到着した。

 バスを降りると、数人のリキシャ・ワラに取り囲まれた。「どこかいいホテルはないか」と、尋ねると、「ホテル・プロビ」の名前が挙がった。このホテルは案内書にも記載されているが、エアコンもホットシャワーもない安ホテルである。もう少し、ましなホテルはないかと、尋ねてみたのだがーーー。

 親分らしいワラに、「お前が行け。ホテル・プロビだぞ。分かるな」と指名された若いワラのリキシャに乗ってホテルに向う。ところが、ホテル・プロビは鉄道線路の手前のはずなのに、線路を越えてしまった。「おかしいなぁ」と思っていたら案の定、オロオロし出し、警官に何やら聞いている。ホテル・プロビを知らないらしい。こんな小さな街なのに、これは驚きである。着いたところは、古びた雑居ビルで、その3階以上がホテルになっていて、Hotel Shouravの看板が掛かっている。しかし、ワラは、「ここがホテル・プロビだ」と頑として言い張る。せっかくなので、ともかくフロントに行ってみる。聞くと、やはりここはホテル・プロビとは別のホテルだ。ただし、エアコンの部屋もあり、こちらの方が格が上だとの話し。不幸中の幸い、このホテルに泊まることにする。「一番いい部屋を希望」と言ったところ、エアコンのある広々とした部屋に案内された。これでも料金は500tk、何とも安い。

 時刻はまだ10時過ぎ、すぐにパハルプール遺跡に行くことにする。行き方をフロントで聞くと、「ホテルから500mほど先のテンプー乗り場から、パハルプール行きの乗合いテンプーに乗れ」とのこと。テンプーとは小型トラックの荷台に座席を取り付けた乗り物である。しかし、乗り場に行くと、ちょうど小型のバスが停まっており、「バスの方が早くて安い」とのテンプーの運転手の勧めに従う。

 パハルプールまでは12キロほどの距離である。バスは田圃の中のものすごいガタガタ道を進む。すれ違うのがやっとの狭い道である。30〜40分も進むと、行く手に写真で見た通りのパハルプール遺跡が見えてきた。田圃の中にそそり立つ小山である。すぐにバスは小さな集落で停まった。車掌に確認すると、ここがパハルプールだという。慌てて降りる。バスはさらに奥まで行くようである。

 バン・ガリのワラが声を掛けてきたが、遺跡まで歩くことにする。1キロほどだろう。炎天下の田舎道をテクテク歩く。制服を着た学校帰りの小学生2人が、「写真を撮って」とねだる。片言の英語をしゃべる。手には英語の教科書を持っている。見せてもらうと、中学1年生程度の内容である。すぐに目の前にパハルプール遺跡が現れた。ハット息をのむほど、実に広大な遺跡である。しかし、周りは金網で囲まれ、入り口はぐるっと半周した先のようである。と、先ほどの小学生の一人が再び現れた。家に帰って着替えてきたようである。「案内する」と言って、金網の破れ目から遺跡内に入っていく。いつもここから出入りして遺跡を遊び場としている様子である。一瞬躊躇したが、私も続く。面白い子で、ひっきりなしに教科書英語で話し掛けてくる。おまけに、私の英語の発音まで、違うと言って直す。

 パハルプール遺跡は19世紀初頭に英国人によって発見されるまで、単なる丘と思われていた。ところが、発掘してみると、壮大な仏教寺院遺跡が現れたのである。1985年には世界遺産として認定され、今では、バングラデシュ最大の見所である。この遺跡は、昨日見学したモハスタン遺跡と同じくパーラ朝(8世紀〜12世紀)時代の代表的仏教遺跡で、かつ、インド亜大陸最大の仏教遺跡である。中央に十字形の基壇が設けられ、330メートル四方の、壁に囲まれた広大な境内には、177の僧房や多くの仏塔が配置されていた。僧房には1,000人もの僧を収容することが出来、世界各地から集まった僧が日夜仏法を学んでいた。また、この伽藍配置は東南アジアの各地の寺院配置に強く影響を及ぼしたと言われる。まさにこの地は仏教世界の中心地であったのだ。

 外壁に沿って続く僧房跡を突っ切り、芝生の広場を抜けて、中央基壇に向う。観光客の姿はなく、ここを遊び場とする数人の悪ガキどもが、基壇の山頂に登っている。レンガを積み上げた基壇はまるで山のようである。四方には祭壇があるが、往時に安置されていたと思われる仏像の姿はない。基部には詳細な彫刻を施したテラコッタ・パネルが見られる。積み上げられたレンガに腰掛け、今はイスラムの海の中に飲み込まれてしまった、仏教王国の昔日の栄華を忍ぶ。燦々と降り注ぐ真昼の太陽がまぶしい。

 博物館はちょうど昼休みで入ることが出来なかった。バン・ガリに乗ってバス停に戻る。バスを待つ間、多くの村人に囲まれ、ここでもスーパースター扱いである。

 早い時間にホテルに戻る。ところがせっかくのエアコンが効かない。出てくる風が冷風とならないのである。フロントに文句を言うと、電圧が低いためとの説明。自家発時なら分かるが、停電中でもなさそうである。納得できない。しかし、他の部屋のエアコンも試してもらったが、同様であった。通常通電時でも、電圧が不安定で、エアコンが効かなくなるらしい。せっかくエアコン付きの部屋も宝の持ち腐れである。外を散歩していると、一人の青年が寄ってきて、しきりに何か訴えるがごとく話し掛けてくる。しかし、ベンガル語だ。英語はまったく話せないようだ。ベンガル語はわからないと何度いっても諦めない。ほとほと困り果てた。彼はいったい何を語ろうとしていたのだろう。

 夕食が少々困った。ホテルに食堂はないし、この小さな街にはレストランと呼べるようなところもない。思い切って、飯屋と呼ぶような大衆食堂に入る。しかし、言葉も通ぜず、何をどう頼んでよいのか分からない。飯を食べる仕草をしたら、おかずの並んでいる場所に連れていかれた。この中から選べということらしい。適当に選んだのだが、ものすごく辛い。仕方なく、出されたコップの水を飲んでしまった。お陰で翌日は下痢であった。この国は、「衛生」と言う概念は完全にゼロである。
 
                  バングラデシュ紀行(3)に続く       

 

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