おじさんバックパッカーの一人旅   

アジア最貧の国 バングラデシュ紀行 (3)

西北端の街から東北端の街へ、そしてHassan家訪問

2006年3月28日

       〜4月4日

 
   第19章 ジョエプールハットからディナジプールへ

 3月28日火曜日。今日はジョエプールハットから北部の中核都市ディナジブール(Dinajpur)へ向う。朝7時半、リキシャを拾ってバスターミナルへ行く。親切なリキシャ・ワラでディナジプール行きバスの車掌に確りと身柄を引き渡してくれた。8時、小型のボロバスはガラガラのまま発車したが、市内はのろのろ。例によって、車掌が一生懸命乗客を集めて廻る。ようやく満員になって、郊外に出た。窓外は、どこまでも青々とした田圃が広がる。ただし、灌漑はここでも地下水の汲み上げである。

 約1時間走り、賑やかな街の小さなバスターミナルへ到着した。乗客全員がぞろぞろバスを降りる。「?」と思ったら、車掌が「乗り換えだ」と、私の腕をつかんで、別のバスの車掌に身柄を引き渡してくれた。「ここはどこか」と聞くと、「ヒリ」との答え。インド国境の街である。どうりで、バス料金が16tkと安かったはずである。

 乗り換えたバスは少し大きめの中型バス。ただしボロであることには変わりがない。ガラガラのままバスはすぐに発車した。車掌がやって来て、ディナジプールまで料金200tkだと言う。一瞬頭に来て、「バカヤロー、ふざけるな」と日本語で怒鳴りつける。どう考えても、距離からして50tk程度のはずだ。すると、もう1人の車掌が、「100tk」と言い直した。再び「ナー(No)!」とベンガル語で拒絶した。今度は、「大きな荷物があるから料金は2倍必要だ」と、一応の理屈を述べる。確かに、ガラガラのこともあり、私のザックは隣の座席の上に置いてある。荷物料金を取るなどということがあり得るわけがないが、英語も通じないし、これ以上ベンガル語でやり取りする語学能力もない。100tk投げつける。インドネシアでも同様な事態を経験したが、バス料金という公共料金さえチョロマカスとは、国の品位が知れる。タイやラオス、マレーシアや中国では考えられないことである。いやな気分だ。

 しばらくすると、車内が混みあってきた。1人分の座席を占領している荷物をどかそうとしたら、後ろの席の男が、「貴方は2人分の料金を払ったのだから、どかす必要はない」と言うではないか。もっともである。どうやら後の席で、私と車掌のやり取りを聞いていて、憤りを感じていたようだ。バングラデシュも捨てたものではない。少々気持ちも和んだ。

 郊外に出て、鉄道線路と平行に走り出した。線路の左側はもうインドのはずである。「列車の窓から手を出せば、そこはインド」と言われるほど、この地点は国境線と接している。突然、兵士が道に立ち塞がり、バスを停めた。国境警備の検問のようだ。屋根に積まれた大きな荷物を調べ、乗客を一人づつチェックする。私は「ジャパニ」の一言ですんだ。何があったのか、1人の女を兵士がバスから引きずり下ろそうとして大騒ぎになった。女は、泣き叫んで座席にしがみつく。しばらくもみ合っていたが、見かねた乗客が兵士を説得し、騒ぎは収まった。その間に、ちょっと下車してタチション。バングラデシュのローカルバスはトイレ休憩がないので困る。

 幾つもの街を過ぎる。どこをどう走っているのかさっぱり分からない。11時30分、小さなバスターミナルに着いた。ここが終点ディナジプールだという。街の郊外のようだが、案内書にもディナジプールの地図がないので、位置関係がよくわからない。この街のホテルもよくわからないので、寄ってきたリキシャ・ワラにポルジャトン・ホテルを指示する。このホテルなら、当たり外れが少ない。ターミナルよりさらに1キロほど郊外に進むと、3階を増築中のこじんまりした2階建てのホテルがあった。エアコンは意味のないことを充分学習してきたので、エアコンなしの部屋を選ぶ。600tkと安い。
 

   第20章 ディナジプールの風景

 昼食後、街まで行ってみることにした。タカの手持ちが少なくなったので銀行で両替する必要もある。リキシャで街の中心とおぼしきところまで行き、しばらく歩き廻ってみたが、意外と小さな街だ。銀行も見つからなかった。歩いていると、あちこちから「アリババ、アリババ」との声が聞こえる。知らないと思って言っているのだろうが、その意味は先刻承知である。日本人、韓国人、中国人等の東アジア人に対する蔑称である。
 
  「昔、ディナジプールの銀行に強盗が入った。捕らえてみると
  犯人は韓国人であった。このことにより、韓国人に対しアリババ
  と言う蔑称が生じた。その後、この蔑称は外見上区別の付かない
  日本人や中国人にも用いられるようになった」
 
 以上のことを知っているだけに、「アリババ」とささやかれると非常に不愉快である。逆手を取って、いつものように「name?」と聞かれたときには、「アリババ」と答えてやった。相手は変な顔をしていたが。この蔑称を用いるのはディナジプールだけらしい。他の街では日本人はスーパースターである。親しくなったホテルの支配人に知らん顔で、「街でアリババ、アリババと言われるのだが、何のことか」と聞いてみた。彼は困惑した表情で、「非常に下品な言葉なので、気にする必要はない」とのみ答えた。

 街はたいして面白くもないので、早々にホテルに戻る。案内書に載っていた「ラズバリ」に行ってみることにする。リキシャで往復50tkの距離である。ラズバリとは「ラズ=領主 バリ=館」 即ち、英国植民地時代のこの地方の領主の館である。もちろん、ヒンズー教徒の領主は印パ戦争の際にインドに逃げ出し、今は無人である。案内書には「18世紀の建物でバングラデシュで最も美しいラズバリの一つ」とある。行ってみると、無残にも朽ち果てた廃虚で、極貧の数家族が住みついていた。

 ホテルの裏手に小さな集落が広がっており、集落の入り口付近には10数軒の小さな商店が並んでいる。夕方、これらの商店を覗きながらぶらりぶらりと歩く。あちらこちらから声が掛かる。それに誘われ、あっちで座り込み、こっちで一服する。1杯2tkのチャを飲み、差し出される菓子をつまむ。さらに、子供たちを従えて集落の中へと入っていく。夕方を迎えた集落の道は人々が行き交う。農作業から帰る人、買い物に行く人、昼間道端で草を食んでいた牛やヤギを家に連れ戻す人。集落の真ん中の三叉路に1本の大きな木が茂っている。その下に2人の老人が椅子に座り、行き交う人々に何くれと言葉をかけている。1人はムスリムの服装である。前を通りかかると、「こっちへ来い」と声を掛けてきた。子供に持ってこさせたもう一つの椅子に腰掛け、老人と雑談を始める。その周りに次第に人々が集まってきて、20人ほどの輪となった。

 聞けば、1人はこの村の村長、もう1人はこの村のイスラム寺院の祭司。村長は英語がしゃべれ、時々話しの内容を村人に通訳する。2人は、毎夕方この場所に座り、行き交う村人と言葉を交わすという。「このことがワシら二人の唯一にして最大の楽しみだよ。この村の女は皆ワシの女房みたいなものさ、男どもは息子だ、子供たちは皆孫だよ」。村長は大声で笑った。そして言葉を続けた。「I love this village, I love this division, I love Bangladesh. Amar Sonar Bangla」。"Amar Sonar Bangla" とは「我が黄金のベンガル」、ベンガルが生んだ偉大な詩人・タゴールの詩の有名な一節である。
 何ともすがすがしいひと時であった。

 
   第21章 カントノゴル寺院

 3月29日水曜日。今日はディナジプールの北約26キロにあるカントノゴル寺院を見学に行く。ただし、その前にひと仕事ある。手持ちのタカが底をついた。両替をすべく、昨日街まで行ったのだが銀行を見つけることが出来なかった。ホテルで尋ねると、両替商を教えてくれた。9時、リキシャで出発する。今日も朝からカンカン照りである。街の中心部から外れたビルの1室に目指す両替商はあった。レートも100US$=7070tkと極めてよかった。

 そのまま、街の東郊外にあるバスターミナルへ行く。雑然と多くのバスが停まっており、どのバスか分からない。車掌らしき男に尋ねると、何やら仲間と相談して道端に停まっていた1台のバスの運転手に身柄を引き渡された。バスはすぐに発車した。料金はわずか2tkだという。ずいぶん安いなぁと思っていたら、バスはすぐに大きなバスターミナルに到着した。運転手は私の腕をつかんだまま、別の小型バスに連れて行き、そのバスの運転手に身柄を引き渡した。知らなかったが、この街にはもう一つ、大きなバスターミナルがあったのだ。街の北郊外である。

 小型のボロバスはすぐに発車した。しかし、その運転の粗っぽさは凄まじかった。これほどの恐怖を味わったことはない。100キロ以上の猛スピードで、車体を振動させながら疾走する。警笛は鳴らしっぱなしで、人も車も全てをけ散らす。まさに気違い沙汰の運転である。運転席の計器は一つも動いていない。30分弱でカントノゴル寺院入り口バス停に着いた。車掌が「ここだ」と教えてくれた。

 バス停付近は小さな店が連なり、小規模な街並みを形成している。ここから寺院まで約1キロある。リキシャ・ワラが誘ってきたが、歩いて行くことにする。すぐに大きな川に突き当たった。デパ川である。流れに竹を編んだ橋が架かっており、2tkの通行料を取られた。渡り終わると小さな集落に入り、道が二分する。木陰にベンチがあったのでひと休みする。例によって子供たちに取り囲まれた。彼らに聞いて、左の道を進む。田圃の中の田舎道である。やがて前方の森の中に目指す寺院が見えてきた。門前には露店も出ている。

 回廊に囲まれた中庭に入る。真ん中に一辺15メートルの正方形をした三層の寺院が静かに建っていた。辺りに観光客の姿は見られず、数匹の犬がのんびりと昼寝をしている。回廊に座り込んで、バングラデシュで最も美しい言われる寺院をしばし眺める。この寺院は1752年に建立されたヒンズー教寺院である。ゆっくりと寺院を一周してみる。壁全面が詳細な彫刻を施したテラコッタ・パネルで埋め尽くされている。中に入ることは禁じられていた。

 再び歩いてバス停に戻る。バスを待つ間、5〜6人の若者に取り囲まれた。ここでもスーパースターである。恐怖のバスに再び乗り、ひとまずホテルに戻った。すぐにリキシャでチケットを購入するため鉄道駅に向う。明日列車で北部の都市・マイメンシン(Mymensingh)に向うつもりでいる。ディナジプールからマイメンシンを経由してダッカまでのインターシティ特急があるはずである。しかし、駅で聞いてみると、現在ディナジプールからダッカ方面に向う列車は全て運休中とのこと。理由は、途中フェリーで渡るジョムナ川の水位が低く、フェリーが運行できないためとの説明であった。さてどうするか。ホテルへ帰って考えよう。

 
   第22章 バスで再びボグラへ

 3月30日木曜日。今日はバスでボグラに向う。昨夜これからの予定を考えた。現在バングラデシュ北西の街・ディナジプールにいる。計画としては北部の街・マイメンシンを経て、北東の街・シレットに行く計画であった。しかし、マイメンシンに直接行くことが不可能となった。いずれにせよ、いったん、中央に位置するダッカに戻らざるを得ない。ディナジプールからダッカまでバスで8時間、一気に行くにはちょっとしんどい。今日はひとまず途中のボグラまで行こう。

 ホテルをチェックアウトする。2泊したので1,200tk。1,000tk札と500tk札を出すもお釣りをよこそうとしない。催促すると200tkよこす。「ふざけるな! 」と怒鳴ると、「バクシーシ」とぬかしやがる。バクシーシはこちらから与える「おめぐみ」だ。お釣りをチョロマカスのは詐欺である。国営のホテルでこのありさまである。「世界一の汚職体質」と言われるこの国の役人根性の一端を垣間見た。無理やり100tk取り上げる。何事もなかったら、少々チップをやるつもりでいたが。

 ホテルで、「ボグラ行きのバスは東ターミナルから出る」と聞いたので、行ってみると、「ここからではない。別のターミナルだ」とのこと。昨日行った北ターミナルでもないという。第3のターミナルがあるらしい。一人のリキシャ・ワラが「案内するから乗れ、5tkでいい」と言ってくれた。着いたところは、街の中央部に近い小さな広場で、3台ほどのバスが停まっているだけである。

 次のボグラ行きは9時20分発だとのこと。1時間待ちである。チャを飲みながら露店の親父と雑談し、時間を潰す。赤ん坊を抱いた女の物乞いが、バクシーシを求める。あいにく小銭がない。10tkでは多すぎる。すると女が5tk差し出すではないか。物乞いからお釣りをもらったのは初めてである。周りの人も笑っている。女も笑っている。ホテルのフロントよりよほど良心的だ。

 郊外に出ると、次々と乗客が乗ってきて、すぐに満員となった。バスは田園地帯をひたすら走る。どこまでも田植えを終えたばかりの稲田が続く。数ヶ月後には黄金色一色になるのだろう。これこそがダゴールの詠んだ「黄金のベンガル」である。乗客とは別に、幾つもの大きな荷物が屋根に積み込まれる。この国ではバスは荷物運搬の役割も担っている。大きな街に入った。乗客の大部分が入れ替わる。ただし、どこを走っているのか私にはさっぱり分からない。

 12時40分、バスはついに見覚えのあるボグラのバスターミナルへ滑り込んだ。前回はターミナル前のホテルに泊まり、騒音に悩まされた。今日はポルジャトン・ホテルに泊まるつもりでいる。ここなら大怪我はない。ただし、ターミナルからは7〜8キロあり、かなり遠い。リキシャで50tk程度だろう。既にバングラデシュに入国して2週間となる。この国の最もポピュラーな乗り物・リキシャの運賃相場は分かっている。ディナジプールでは事前の交渉なしに乗っていた。何人かのリキシャ・ワラが集まってきた。「ポルジャトン・ホテルまで20tkでどうか」と私。「50tkだ」とワラ。「じゃあ30tk」「OK、乗れ」。いやに安い。このワラ本当にポルジャトン・ホテルを知ってるのだろうか。1人の品のよい男が寄ってきて、きれいな英語で「何かお困りですか」と聞く。ワラと喧々諤々値段交渉していたのを何かもめ事でもと思ったのだろう。親切な人だ。

 炎天下のバイパスをリキシャは行く。方向は間違いなく目指すホテルだ。少々安心する。ワラは汗みどろでペタルを漕いでいる。30tkはいくら何でもかわいそうだ。少々チップをはずもうか。30分も行くと、真新しい立派なホテルがあった。案内書にも載っていないホテルである。ワラが「ここだろう」と言う。やっぱり、ポルジャトン・ホテルを知らないのだ。小一時間掛かってようやく目指すホテルに着いた。するとワラは「100tkくれ」と言い出す。馬鹿野郎、つけ上がるな。50tk渡すつもりでいたが、40tkを置いてさっさとホテルに入ってしまった。後ろで何か叫んでいたが。

 ポルジャトン・ホテルは虹色の外壁を持つ実に立派なホテルであった。部屋も広く、ベランダまである。これで1泊600tkとは安い。従業員は、最近首相の息子が泊まったと自慢していた。昼食後すぐに、フロントへ行って、明日のダッカへの行き方を相談する。ボグラとダッカの間には民営の冷房完備の豪華バスが運行しているはずである。ただし、このバスは事前に予約しておく必要がある。場合によってはこれからチケットを購入しに行かなければならない。フロントは実に親切であった。その場ですぐに電話予約をしてくれた上、従業員が切符を買いに行ってくれるとのこと。国営ホテルとは思えないサービスである。おまけに、このバスはホテルの前で乗車できるとのことである。わざわざボグラに1泊した甲斐があった。

 安心してホテル周辺を散歩する。大通りがきれいに飾り付けられている。絶え間なく国旗が立てられ、飾り門まで設置されている。警備の警官に聞いてみると、「明日大臣が来るので歓迎の準備だ」との答え。まぁ、何という国だ。日本では天皇が来られると言っても、これほどの飾り付けはしない。国の貧しさを何と心得ているのだろう。あきれ果てた。

 
   第23章 ダッカへのバスの旅

 3月31日金曜日。今日はバスでダッカに向う。SR社のバスチケットは昨夕方、従業員が部屋まで届けてくれた。9時40分、ホテル前よりバスに乗る。従業員がバスに乗るまで付き添ってくれた。豪華バスと言っても、日本で言えば普通の観光バス。4列リクライニングシートの冷房車で、日本の日野自動社製であった。さすが乗客はまともな服装の人ばかり、Tシャツ、サンダル履きなどというラフな服装は私1人である。2ヶ所ほど停車して乗客を拾い、郊外に出る。残念ながら窓のカーテンが全て閉められ、窓外の景色が見られない。ビデオの上映が始まったが、もちろんベンガル語。時折車内に携帯電話の着信音が響く。ミネラルウォーターが全員に配られた。乗り心地は快適であるが、ローカルバスのような面白味はない。

 約1時間走ると、ドライブインで20分ほど休憩。食堂や売店のあるバングラデシュらしからぬ立派なドライブインである。民営のバス会社が共同で運営しているようで、停まるのは民営の長距離バスだけである。さらに30分ほど走ると、素晴らしい道に出た。ジョムナ橋の取り付け道路に入ったようである。カーテンの隙間から窓外に目を凝らす。ついにジョムナ橋に差し掛った。向こう岸は霞んで確と見えない。何とも長大な橋である。この橋こそ、バングラデシュにとっては長い間待ち望んだまさに夢の大橋であった。

 地図を見るとよく分かるが、バングラデシュの国土は大河・ジョムナ川(ブラフマプトラ川)によって真っ二つに引き裂かれている。しかも、この川には唯一つの橋も架けられていなかった。このため、ダッカを中心とする中央部とボグラやラッシャイなどの西部との間の交通は、列車であれバスであれ、ジョムナ川をフェリーで渡らなければならなかった。このことは、社会的にも、政治的にも、そして特に経済的にはバングラデシュに深刻な弊害をもたらしていた。このため、長い間、この川への架橋が待ち望まれていた。

 1998年6月、ついに悲願が実現した。全長4,8キロ、幅18,5メートルのジョムナ多目的橋が完成したのである。アジア最長、世界でも11番目の長さを誇る橋である。総工費は9億6,200万ドル、世界銀行、アジア開発銀行、海外経済協力基金が2億ドルずつを融資した。言うなれば日本の経済援助である。施工は韓国のヒュンダイ(現代)が請け負った。

 街並みが次第に濃くなる。リキシャとベイビーの数が増す。それにともない、所々渋滞する。刻々とダッカに近づいている気配である。やがて濃い街並みに入った。ダッカであろう。14時少し前、SR社の営業所前でバスは停まった。ここが終点だという。バスを降りたものの、ハタと困った。ここはダッカのどの辺なのかさっぱり分からない。ダッカと言ってもかなり広い。今晩のねぐらもどこか確保しなければならない。降りた乗客は、潮の引くように皆それぞれどこかへ消えてしまった。石段に腰掛け、一服しながら思案していたら、例によって取り巻く人垣が出来た。彼らに聞いて、ここがミルプール地区であることが分かった。ダッカの北西の端である。泊まり場は、交通の便を考え、前回と同様、モティジール地区のホテル・パシフィックがよかろう。彼らに聞くとベイビーで50tk程度らしい。

 
   第24章 ダッカの風景 (その2)

 ホテルに落ち着くと、すぐにHassanさんに電話をした。クルナで別れた際、ダッカに戻ったら必ず電話をすると約束してあった。明日の朝、ホテルに向かえに来ると言うことになった。

 着いたときから外が非常に騒がしい。街中に、何やらアジ演説の声が響き渡っている。外に出てみて驚いた。街中が、お椀型の小さな帽子を頭に乗せ、だぶだぶの白服を着、黒いあご髭を生やした、典型的ムスリムスタイルの人々で埋め尽くされている。ナショナルスタジアム横の広場がメイン会場らしいが、そこは身動きできないほどの人波で近づけない。道路という道路も、広範囲に、そこから溢れ出た人々で埋め尽くされている。交通も完全にマヒしている。その数は数千ではなく数万だろう。道路の辻辻にはスピーカーが設置されていて、広場で行われている演説が街中に響き渡っている。スピーカーから流れる掛け声に合わせ、武骨な男どもが一斉に声を張り上げる。異常な雰囲気である。まさにダッカの中心部はイスラム過激派により完全に占領された趣である。その雰囲気からして、イスラム政党による政治集会らしい。全国動員を掛けられたとみえ、周辺の道路には乗ってきたバスやトラックが多く停まっている。銃を持った多くの警察官が遠巻きするように配置されているが、勢いに押されて小さくなっている。今日は金曜日。イスラムの国の休日である。

 こういう「政治集会は危険なので近づかないように」と外務省の海外安全情報にも記されているが、それほど危険な匂いもしないので、群衆の中を歩き廻る。フロントガラスに「AFC Cup カザフスタン選手団」と表示された1台のバスが、立ち往生している。興奮した群衆が取り囲み、車体を叩いたり、罵声を浴びせかける。それを警察官が必死に押しとどめている。どうやらカザフスタンのサッカーチームがナショナルスタジアムに行こうとして巻き込まれたらしい。窓から選手が不安そうに外を覗いている。

 人口密度が極度に高いということは、そこから生じる摩擦熱も高いのであろう。また、多大な犠牲を払って戦った独立戦争の余熱もまだ冷めきらないのだろう。この国の政治熱はいまだ熱い。デモとストライキはバングラデシュの日常風景といわれている。さらに、国家としてのアイデンティティをベンガル人という「民族の血」に求めるのか、イスラムという「宗教」に求めるのか、2度の独立戦争を経た今でも結論が出ずに、政治闘争を一層過熱させているように思える。

 話は飛ぶが、この国に来て以来、一つの気になる光景がある。真っ昼間から、あご髭を生やした大の男が二人、肩を寄せ合い、手をつないで歩いているのである。どう見てもホモである。その姿が異常に多いのである。しかも、悪びれる様子も、恥ずかしがる様子もない。こうして道を歩いていても、何組も見られる。一度誰かに聞いてみようと思ったが、とうとう聞けずじまいであった。

 ぶらりぶらりと歩いているうちにハイコート(最高・高等裁判所)まで来てしまった。広大な敷地にルネッサンス風の巨大な白亜の殿堂が建っている。英国植民地時代には英国行政官の宿舎であったとのことである。その前に大きな広場がある。何組もの若者や子供たちがクリケットに興じている。その脇はチシュティ聖者廟、ムスリム姿の男女で賑わっている。

 ホテルに帰ると、何と、エレベーターが故障中、9階の部屋まで歩いて登る破目になった。ここはバングラデシュ、我慢我慢である。

 
   第25章 ダッカの風景(その3)

 4月1日土曜日。今日はさえない1日となった。朝、Hassanさんが迎えに来る約束なのだが、待てども現れない。携帯電話も繋がらない。待ち合わせ時刻を特定しておけばよかったのだが。10時、見切りをつけて、街に出る。今日もカンカン照りである。バングラデシュに入国以来、ただの一滴の雨にも出会っていない。先ずは、ラールバーグ・フォートに行くべくリキシャをつかまえ、30tkで商談が成立した。リキシャは西へ西へと向っていく。方向としてはあっている。大通りを何本か横切り、狭いバザールの中を抜けーーー。

 40分ほど経って異変に気づく。いくら何でもおかしい。リキシャ・ワラに再度、「ラールバーグ・フォートだぞ」と念を押すも、「分かっている」とのジェスチャーでペタルを漕ぎ続ける。さらに10分ほど走るも、埒が明かない。リキシャを止めさせる。要するにこのワラはラールバーグ・フォートを知らないのである。いったいどこへ行くつもりでいたのか。何で30tkで合意したのか。ボグラでも同様な事態に遭遇した。まったくもって、この国のリキシャワラはーーー。もっとも彼らは、その日暮らしの極貧の人々なのだ。

 2人して道を聞き聞き戻るが、誰に聞いてもラールバーグ・フォートが分からない。バングラデシュの観光用ポスターやパンフレットには必ず載っているダッカの代表的観光スポットなのだがーーー。もっとも、観光客などめったに来ないこの国では、観光名所など地元の人は知らないのが当然なのかもしれない。真昼の太陽が頭上からガンガン照らす。ワラは「水を一杯飲ましてくれ」と、道端の水売り屋(こういう商売もある)に駆け込む。見ていても少々かわいそうだ。しかし、私とて頭に来ている。「お前が場所を知っているというから乗ったんだ。このアホたれ」と日本語で悪態をつく。

 尋ねまくった末に、ようやく、ワラが「分かった」と言って、ペタルを漕ぐ足に力を入れる。ところが、着いたところはアシャン・モンディール(ピンクパレス)、前回来たところである。あきれ果てて、「もういい」とリキシャを降りる。出発してから1時間半も経過している。60tkを渡すも大いに不満げである。物の本によると、バングラデシュの慣習としては、このような場合でもワラの働いた時間相当の運賃を払う必要があるらしい。従って、最低100tkは払わなければならないのだろうが、私の気持ちとしては約束の30tkも払いたくない。

 結局、ラールバーグ・フォートは諦め、別のリキシャで国立博物館に行く。今度はスムーズに到着した。5tkの入場料を払い中に入る。さすが首都の国立博物館、なかなか立派な施設である。2、3、4階が展示場になっているが、3階は女性用の衣服が展示されているようで、女性だけしか入れない。さすがイスラムの国である。順路に沿って廻ると、バングラデシュがたどってきた歴史がよく理解できる。仏教→ヒンズー教→イスラム教の変遷。発掘された仏像を眺めるとなぜかほっとする。展示の最後は1971年の独立戦争に関するものである。如何に過酷な戦いであったかが分かる。

 少々遠いが、ホテルまで歩いてみることにする。さすがに暑い。木陰でひと休みする。ダッカの街を歩いていて、意外に思うことは、実に緑が多いことである。到るところに、公園とまではいかないが、緑の広場がある。道路の極限の猥雑さと好対象をなしている。そのリキシャで埋め尽くされた道路を眺めながら一つのことに気がついた。これだけ無数のリキシャがありながら、その乗車率が意外に高いのである。その代わり、道を歩いている人が非常に少ない。要するに、バングラデシュの人々は、たとえ100メートルといえどもリキシャに乗るのである。リキシャに乗る人はたいていズボンをはいている。リキシャワラは巻きスカートである。リキシャを漕ぐ人と乗る人、明確な階級差があるようである。貧富の差と言ってもいいのだろう。ホテルに戻ると、Hassanさんからの伝言が入っていた。「明日の朝ホテルへ行く」と。

 ひと休みした後、ダッカ中央駅に向う。明後日、列車でシレットに行くつもりであり、チケットを購入しておく必要がある。地図を見ながら30分ほど歩いて駅に到着した。真新しい、斬新な形をした建物である。窓口が幾つもあるが全てベンガル語、どこへ行ったらよいのやら。聞いてみると4番窓口へ行けとのこと。とはいっても、窓口に記されている番号までベンガル文字、読めるわけがない。ようやくチケットを入手してホテルへ帰る。

 夕食を済ませ、付近を少々ぶらついてホテルに戻ると、何と、Hassanさんがロビーで待っているではないか。3月22日にクルナで別れて以来10日ぶりの再会である。「明日の予定は?」と聞くので、「ショナルガオへone day tripするつもりだ」と答えると、「ならば、明日の夜に自宅の夕食に招待したい」とありがたい申し出である。少々厚かましいが、受けることにした。バングラデシュの一般家庭を覗くのも興味あるし、家庭料理を食べられるのも魅力である。

 
第26章 ショナルガオへのOne Day Trip

 4月2日日曜日。今日はダッカの南東約25キロにある小さな街・ショナルガオ(Sonargaon)へ行く計画である。この街は現在はダッカ郊外の取るに足らない小村であるが、ダッカの街が築かれる以前、すなわち、12世紀〜16世紀にかけて、この地方最大の貿易都市であった。その栄光の痕跡が小さな街並みとして残っているはずである。

 8時過ぎ、ショナルガオ行きのバスの出るというグリスタン・バスターミナルへ行く。ホテルからリキシャでほんの数分ほどの距離である。ターミナルというより、単に道路端から多くの小型バスが発着しているだけの場所であった。道端の切符売り場で聞くと、目指すバスはすぐにわかった。相当なボロバスである。バスはガラガラの乗客のまますぐに発車した。ダッカ中心部を横断して郊外に出る。この道はダッカとチッタゴンを結ぶバングラデシュ第一の主要道路のため道の状況はよい。トラックを中心に多くの車が行き来している。わずか30分ほどでショナルガオに着いた。国道端にちょっとした街並みが出来ている。バスを降りるとリキシャ・ワラがワッと寄ってくる。

 先ずは博物館まで行きたいが、リキシャ・ワラと交渉するも100tkとか50tkとか法外な値段を言う。どう考えたったMax20tkだ。歩くことにする。2キロほどのはずだ。道を聞き聞き、田舎道を歩く。今日も朝からカンカン照りである。到着した博物館は濠に囲まれた広大な敷地に建つ洋館である。この建物は昔のラズバリ(領主の館)である。他のラズバリと同様、領主は逃げ出してしまったのだろう。現在は民俗博物館になっている。敷地内には伝統工芸品や芸術品を展示する博物館も新設されていた。

 さらに田舎道を歩く。この先1キロほどのところに、パナム・ナガールと呼ばれる古い街並みがあるはずである。小さな集落が現れ、そこを右に曲がったところが目指す場所であった。細い道の両側に、半ば崩れかかった古色蒼然たる建物が300メートルほど続いている。まさにタイムスリップしたような家並みである。これらの建物は19世紀末から20世紀初頭の建築で、裕福なヒンズー教徒の商人が住んでいた。しかし、彼らは印パ戦争の際にインドに逃げ出し、この家並みは廃虚となった。今は保存もされず荒れるに任されているが、どうやらホームレスの人々が住み着いているようである。

 ぶらりぶらりと、家並みの中を歩く、一人の少年が先ほどからつきまとっている。気を引こうと、何やかんやベンガル語で話し掛けてくるが、魂胆は見え透いている。お小遣いが欲しいのである。私は知らん顔をしている。しびれを切らして、ついに「タカ(お金)」と言った瞬間、「No ! 帰れ」と引導を渡す。道を博物館の方に戻り、川を渡って脇道に入る。案内書にあるゴアルディ・モスジットに行ってみようと思っている。今度は1人の青年がつきまとってきた。いかにも案内すると言う態度だか、魂胆はタカだろう。15分ほど進んでみたが、まだまだ遠そうなので諦めて帰ることにした。ついに青年が「バクシーシ」と本音を言いだした。「No.」と言って足早に去る。

 リキシャを拾って国道端のバス停まで戻り、停まっていたボロバスに乗る。このバスはグリスタン・バスターミナルまで行かず、途中でバスを乗り換える。早い時間にホテルに帰り着いた。

 手持ちのタカも少なくなっている。明日から地方へ行くので少々両替をしておいたほうがいいだろう。近くのバングラデシュ銀行に行く。入り口は警備が厳重である。外為セクションで両替を申し出ると、パスポートの提示を求められ、数枚の書類にサインをさせられる。さらに担当者は何やら書類を書庫から取りだして調べ、他のセクションに数回足を運び、ーーー。いらいらしながら待つこと30分。ようやくタカが渡されたが、現金のみ。伝票1枚添付されていない。これではチェックのしようもない。しかも100US$に対し6800tk。レートもよくないし、端数のないのもおかしい。銀行を信用したのだがーーー。

 
   第27章 Hassan家を訪問

 夕方6時にHassanさんから電話があった。「これからホテルに迎えに行く」と。しかし現れたのは7時50分であった。バスに乗せられて西に向う。着いたところは市内のダンモンディ地区。バスを降りて少なからず驚いた。大通りは明るくネオンが瞬き、洒落た専門店やレストラン、大型ショッピングセンターなどが並んでいる。バングラデシュとは思えぬ光景である。こんなところに、こんな街があったとはーーー。

 その大通りから小道を少し入ると、5階建ての集合住宅が270棟建ち並ぶ公務員住宅団地があり、その1棟の1階がHassan家であった。ちょうど数十年前の日本の公団住宅といった趣である。玄関を入ってすぐに6畳ほどの応接間兼居間がある。カラーテレビがあり、天井で扇風機が回っている。シャワールームのトイレはもちろん現地スタイルである。Hassan家は5人家族であった。夫婦と生まれて1年の女の子、それに既にリタイヤしたという父親と母親である。

 しばらくして、食卓に呼ばれた。テーブルの上には、ご飯と7品のおかずが並んでいた。鶏肉料理、牛肉料理、エビ料理、なすの煮物、タマネギとピーマンのサラダ、コロッケ。いずれも奥さんとおばぁちゃんの手料理である。今度はフォークとスプーンを用意してくれた。デザートはプリンと葡萄、遠慮なく腹いっぱい食べた。帰りには、妻と娘にとお土産までもらった。私は何もプレゼントを持っていないので心苦しい。ちょっと出会っただけの、見ず知らずの外国人に、ここまで親切にしてくれるとはーーー。大いに感激した。帰りはホテルまで送ってくれた。再会を約して別れる。

 外は雷鳴が轟、雨がぽつりぽつりと降りだしている。バングラデシュ入国以来初めて経験する雨である。明日早朝にチェックアウトするつもりなので、フロントで精算を済ます。早朝ゆえ、リキシャは捕まらないので最悪駅まで歩くつもりでいたが、フロントは「明日は雨の可能性が強いので、タクシーを予約したほうがよい」とアドバイスしてくれた。忠告に従う。

 
第28章 列車でシレットへ

 4月3日月曜日。今日は列車でバングラデシュ北東部のシレット(Sylhet)に向う。早朝5時半、ホテルを出る。外はまだ真っ暗である。幸い雨は降っていない。玄関先には小型のセダン型タクシーが待っていた。バングラデシュで初めて見るセダン型タクシーである。数分でダッカ中央駅に着いた。チケットは既に持っている。早朝にもかかわらず駅は賑わっている。水と朝食兼昼食のパンを買って列車の入線を待つ。外は雷鳴が轟、雨が降りだしている。やがて、6時40分発シレット行きインターシティ特急PARABAT号が入線してきた。案内された席は前回と同様、向かい合ったベンチシートのある個室であった。

 しばらくすると同室者が現れた。ムスリムスタイルの眼光鋭い40歳代の男とその妻と思える黒覆面の女2人、7〜8歳の子供1人。男はニコリともせず何となく気まずい。もちろん女は無言である。定刻に列車は発車した。すぐに男は何やら車掌と交渉を始めた。しばらくすると、車掌が私のところへやってきて、部屋を移れという。移った先は、ベンチシート一つの半分の大きさの部屋。私1人である。何となく釈然としないが、私もこのほうが気楽でよい。思うに、あの一家4人は1部屋を取ったつもりだったが、チケット販売の手違いで私が紛れ込んだのだろう。

 途中のアカウラ・ジャンクション駅までは、チッタゴンへ行く路線と同じである。従って一度通った路線である。見覚えのある田園風景が続く。外は相変わらず雷鳴が鳴り響き、所々激しい雨が降っている。ようやく雨期が始まるのであろう。メグナ川を鉄橋で渡り、約3時間でアカウラ・ジャンクション駅に到着した。窓の外に物売りと、そして金をねだる子供たちが殺到する。私の食べ残しのパンを目ざとく見つけた子供が欲しいという。長時間停車の後、列車は前後向きを変えてシレット目指して北上する。

 広大な田園風景がどこまでも続く。この辺りではちょうど稲刈りをしている。日本と違い穂の部分だけを摘み取っている。刈り取りの終わった田には、牛とヤギが放牧されている。アカウラ・ジャンクションから約2時間でスリモンゴルに達した。景色が大きく代わり、低いながらも山並みが現れた。バングラデシュで初めて見る山並みである。このスリモンゴルはお茶の名産地として知られている。英国は植民地支配の時代に、インドのアッサム地方に大規模なお茶のプランテーションを開いたが、隣接するバングラデシュの北東部にもお茶のプランテーションが開かれた。窓外に、一瞬茶畑の広がりが現れたが、スリランカで見たような大規模な茶畑は見られなかった。外は相変わらず雨が降ったりやんだりしている。終点シレットまで、あと1時間半ほどである。

 窓外は山並みが退き、再び田圃の広がりとなった。次のクラウラ・ジャンクションで、3人組が乗ってきた。ベンチシートに4人腰掛けるのはかなり窮屈である。おそらく、私が余分の1人なのだろう。

 ちょうど2時、列車は終点シレット駅に到着した。そのまま窓口へ行って明後日のクミッラまでの乗車券を購入する。外に出ると、ベイビーの運転手が客引きに集まってきた。駅は街から離れているので、いずれにせよベイビーを利用せざるを得ない。この街で一番立派なホテルはどこかと聞くと、ホテル・ポラショの名が上がった。よし、そこへ行こう。次は値段交渉である。150tkというので、100tkと言うと、喜んでOKする。後でホテルで聞いてみると、相場は80tkとのことであった。着いたホテルは立派な中級ホテル。1泊750tk+税15%、満足である。

 一息ついた後、この街唯一の見どころシャハ・ジャラル聖者廟へ行ってみる。また雨が降りだしている。門前町となった通りを進むと目指す聖者廟に達した。シャハ・ジャラルとは14世紀中頃、ジャングルであったこの地を切り開いたイスラムの指導者である。死後、聖者としてこの地に祀られている。ちょうどクルナ郊外のバゲルハットを開拓したカン・ジャハンと同じである。14世紀から15世紀にかけて、おそらく、戦乱に追われた幾つものイスラムの小集団がこの未開の地・ベンガル地方に新天地を求めたのだろう。聖者廟は多くの人々で賑わっていた。
 

   第29章 シレットのさえない一日

 4月4日火曜日。今日はシレットの北約43キロにあるジョインティアプールへone day tripするつもりでいた。行き方も昨夜フロントで教えてもらった。ジョインティアプールは19世紀半ばまで存続したカシア族の王国の都があった場所である。この王国は巨石文化と人身御供で有名であった。朝起きると、咽が痛く、洟が止まらない。身体もだるく、完全に風邪を引いたようである。出かけようという闘志も湧かない。それでも何とか自らを励まして、玄関まで出た。しかし、外はざぁざぁ降りの雨であった。闘志は急速に萎えた。部屋に戻って再びベッドに潜り込んでしまった。

 10時頃起きると、雨は止んでいた。街を散歩してみることにする。ぶらりぶらりと街の中心部に向う。この街も、他のバングラデシュの街と同様、リキシャとベイビーが道に溢れ喧騒の中にある。しばらく歩いて不思議なことを幾つか発見した。

  1、私に対して誰も声を掛けてこないのである。それどころか振り向きもしない。
   他の街ではスーパースター扱いであったのだが。

  2、街は雑踏の中にあるが、女の姿が皆無である。イスラム教国のこの国では、
   他の街でも女性の姿は少ないが、それでも2割り程度は女性である。

  3、この小さな田舎町に、ファーストフード店が3店、ファミリーレストランも
   あった。こんな西欧的な洒落た店はダッカ以外では見当たらなかったのだが。

  4、メイン道路からちょっとはずれると、豪邸が幾つもある。

 案内書によると、シレットの人々は昔から進取の気性に富み、海外へ積極的に出稼ぎに出た。現在でも英国には多くのシレット出身者が働いており、彼らからの送金は国の重要な収入源になっている。また、英国帰りの金持ちも多い。シレット発ドバイ経由ロンドン行きのビーマン航空さえ運行されているとのことである。おそらく、以上のシレットの特色が、私の見つけた疑問への答えなのだろう。

 この街はダッカと比べて明らかに涼しい。今日も朝から長袖を着ている。部屋に届けられた新聞の気象欄に昨日の気温が載っていた。
   ダッカ  最高気温33.9℃  最低気温28.8℃
   シレット 最高気温27.5℃  最低気温16.4℃
 
 涼しいはずである。
 

                  バングラデシュ紀行(4)に続く       

 

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