おじさんバックパッカーの一人旅   

タイ民族揺籃の地 西双版納を目指す陸路の旅 (2)

夜汽車に揺られ、メコンの激流を遡り、ラオの悪路に耐え、

過酷な旅は続く 

2005年1月22日

 〜1月26日


 
   
  第14章  新たな出発

 ヤンゴン空港を飛び立ったPhuket Airの小型機はガラガラの乗客を乗せて一路バンコクを目指す。雲が多く下界はよく見えない。私はぼんやりと飛びゆく雲を眺めていた。心ならずも空路バンコクへ戻ることになってしまった。旅は出直しである。ミャンマーの旅は本来目指した旅ではなかったような気がする。何の苦労もない旅であった。しかも、陸路でタイに出国するという冒険も放棄した。バンコクで2〜3日ぼんやり過ごそうかーーー。私の心は何となく萎えていた。

 「中国・西双版納を目指す陸路の旅」。ふと、出発前に呪文のごとく唱えたこの言葉が頭に浮かんだ。そうだ! この言葉に励まされて日本を出発したのだ。それなのに、まだそのスタートラインにすら立っていないではないか。本当の旅がこれから始まるのだ。考えてみれば、そのスタートラインは、むしろバンコクの方がふさわしい。新たな闘志が湧いてきた。「よーし、行くぞ!」 私は心の中で雄叫びをあげた。

 正午過ぎ、バンコク国際空港に到着した。1週間ぶりのバンコクである。機外に出ると猛烈な熱波が押し寄せる。これぞバンコク本来の暑さだ。こうでなければいけない、先週はおかしかった。まずやらねばならないことは、帰国便のRe-comfirmである。ビーマン・バングラディッシュ航空の空港事務所に赴く。今度は事務所は開いていた。が、「ここでは出来ません。市内の営業所に行くか電話をして下さい」との答え。と言ったって、今日は1月22日の土曜日、明日は日曜日で営業所はクローズ。明後日にはもうタイにはいない。いったいどうしたらいいんだ。まさかラオや中国から国際電話をするわけにもいかないしーーー。まったく困った航空会社である。まぁチケットの値段が値段だから文句も言えないが。

 今日の行動は飛行機の中で決断した。夜行列車でチェンマイ(Chiang Mai)に向うつもりである。新たな闘志が、私にそう決めさせた。すぐに、空港と連絡しているドン・ムアン(Don Muang)駅から列車で、バンコク中央駅であるファランポーン(Hualamphong)駅に向う。夜行列車のチケットを得なければならない。

 ファランポーン駅の当日券売り場には、外国人専用の窓口まである。この国は、外国人に対して暖かい。幸い、18時発、チェンマイ行き特急の二等寝台券を得ることが出来た。料金は781バーツ、約2100円である。現在14時、まだ4時間ほどの余裕がある。荷物を荷物預かり所に預け、まずは駅前の屋台で腹ごしらい。続いて、インターネットカフェーから家にE-Mail。ミャンマーはインターネット禁止であった。最後に、旅行社に行き、景洪(Jing Hong)→チェンマイの片道航空券を購入する。中国・西双版納からの帰路便である。中国では安チケットが入手できるかどうか分からない。タイで事前に買っておくに越したことはない。帰路の航空券を買ってしまったからには、石にかじりついても景洪まで行き着かなければならない。「賽は振られた」との思いである。新たな闘志が湧いてきた。
 

 第15章  夜行列車の旅

 定刻18時、10数両編成のチェンマイ行き特急列車は、ディーゼル機関車に引かれて静かにファランポーン駅を出発した。この列車は1、2等の座席車と寝台車のみを連結している。私の乗る2等寝台車は1番前の車両、約7割の乗車率である。昼間は4人掛けのボックス席と同じ構造になっていて、1ボックスを2人で使用する。即ち2人分の座席を占有できる。夜は、2段ベットとなる。私のボックスは私l人であった。乗客の6割はバックパッカーである。今までに何回か、タイの列車は利用しているが、寝台車は初めてである。それだけにどんな勝手なのか興味がある。

 出発してすぐに検札があり、しばらく経つと、係員が何やらメニューのようなものを持って乗客1人1人を廻りだした。「キンカオ(食事)か?」と聞くと、そうだという。列車の中ほどに食堂車らしき車両が連結されていたのを確認していたが、食堂車に行かずとも出前をしてくれるらしい。メニューにはかなりの品数が書かれいるが、値段もまたそれなりである。私は、乗車前に、夕食用としてパンと水を購入しておいた。他のバックパーカー達も皆、自前で用意していたようで誰も注文をしない。私の斜め向かいのボックスに50絡みのオバチャンが座っている。このオバチャンが何やら大量に注文した。やがて、座席の前にテーブルが組み立てられ、注文した料理が続々と運ばれてきた。すると何と、車掌がやって来て、いっしょに食べ始めたではないか。食べ終わると「ごちそうさまでした」と悠然と去っていった。こちらはただ唖然と見ているだけである。

 このオバチャン、乗ったときから携帯電話をし続けている。イヤホーンを耳に、口の前にはマイクを固定して本格的である。食事も電話をしながらである。こちらはだんだん耳障りになってくる。タイには車内での携帯電話を規制する動きはない。バスやBTSの中でも皆、平気で電話をしている。日本人が神経質なのだろうか。

 私にとってタイの列車で困ることは、煙草が吸えないことである。デッキも含め、全車両が禁煙である。長距離列車となると我慢しきれない。デッキでなら何とかごまかせるかと、行ってみたら、何と! 先ほどの車掌が煙草を吸っているではないか。皮肉を込めて、「スープリダイマイ(煙草を吸ってもいいか)」と聞くと、にやりと笑って「ダイ(OK)」と言いながら、禁煙標示を手で隠した。なんという車掌だ!

 タイの鉄道に対する最大の不満は、窓からの展望が十分に得られないことである。窓ガラスにすべて金網が埋め込まれていて、視界を著しく阻害している。おそらく、窓ガラスの補強と、外から中を覗かせないためなのだろうが、列車の旅の最大の楽しみを奪ってしまっている。ただし、今日は夜行列車、景色を楽しむ間もなく日が暮れた。

 8時を過ぎると、ベッドメーキングが始まった。二人の係員が手際よく組み立てていく。ベッドは快適である。糊のよく利いた敷布と毛布、枕カバーも清潔である。何よりも広々としていて足も充分伸ばせるのがよい。通路側のカーテンを閉めて、寝る体制をつくるが、かのオバチャンの携帯電話がまだ続いている。もう3時間もぶっ通しである。声は潜めているが、周りが静かになるに従い、いっそう耳に付く。10時過ぎ、トイレに行こうとデッキに出ると、何とここで、数人の白人の若者が車座になって酒盛りを始めていた。若者は元気だ。明日からの行動を考えているうちに、いつしか眠ってしまった。
 

  第16章  チェンマイからチェンライへ

 目が覚め、明るくなった外に目を凝らしたら、通過駅に「Lam Phun」との標示が見えた。チェンマイまであと30分ほどの距離だ。8時過ぎ、列車は終点チェンマイ駅に滑り込んだ。時刻表では6時50分着となっているから約1時間少々の遅れである。何はともあれここまでやって来た。バンコクから最終目的地・西双版納の景洪まで直線距離で約900キロある。バンコクとチェンマイの距離は約600キロ、一晩で行程の2/3を稼いだことになる。まずは順調な旅の始まりである。残りは300キロ、とはいっても、ここから先が本番である。

 ザックを背負い、駅舎の外に出る。途端に、トゥクトゥク(3輪自動車の荷台に座席を取り付けた乗り物)とソンテウ(ピックアップトラックの荷台に座席を取り付けた乗り物)の運チャンが客引きにやってくる。私はチェンマイに留まるつもりはない。この街は1年2ヶ月前に訪れ、すべて見学ずみである。その上、私はこの街をあまり好まない。世間では「北の薔薇」と呼び、称賛の声が高いがーーー。ソンテウを拾ってバスターミナルへ直行する。このまま、さらに北東約150キロに位置するチェンライ(Chiang Rai)へ向うつもりである。大きなターミナルは窓口が沢山あって最初まごつくが、英語標示がちゃんとなされている。手にしたチケットには「Bus Code:X102, Platform:31, Seat:6A, 8:45」と必要事項は英語で完璧に記されている。さすがタイである。日本はいまだ新幹線の切符にも、英語表示がされていない。

 31番プラットホームに行くと、X102とフロントガラスに大きく標示された冷房完備の大型バスが停まっている。荷物を車体下に放り込んで、6Aのシートに座れば万事終了である。料金は139バーツ、約375円である。バスは低い山並みを幾つか越えて一路チェンライへ向う。途中メー・カージャン(Mae Khajang)のドライブインで15分のトイレ休憩。昼過ぎに、見覚えのあるチェンライのバスターミナルへ滑り込んだ。1年ぶりのチェンライである。とたんにトゥクトゥクの運チャンが何人か寄ってくる。「どこへ行くんだ?」「それを今考えているんだーーー」。適当にあしらっているうち、いなくなった。

 さてこれからどうしよう。ここからバスでラオとの国境の町・チェンコーン(Chiang Khong)まで2時間半。その気になれば今日中にラオに入国出来るがーーー。それではちょっと味気なすぎるか。チェンライは好きな街だ、のんびり一泊するのも悪くない。考えがまとまった。1年前にお世話になったゲストハウスに行く。「ホーン・ミー・マイ(部屋はありますか)」「ミー・ミー(ある、ある)」。笑顔で迎えてくれた。

 部屋に荷物を放り込むと、すぐに外に飛びだした。この街の勝手は先刻承知である。チェンライに来たからには、行ってみたいところがある。チョムトンの丘だ。市場の中を突っ切って、15分も歩くと、ワット・プラケオに着いた。エメラルド仏の故郷である。1年前、エメラルド仏の旅路を辿り、バンコクからビエンチャン、ルアンプラバンと巡って、この寺に旅の終点を求めた。思いでの寺である。本尊と新エメラルド仏に再会の挨拶をして、寺の裏手に廻る。ここから先は道の記憶があいまいである。いくつもの丘が連なり、その間を小道が複雑にくねっている。微かな記憶を頼りに丘に続く小道を辿る。過たず、チョムトンの丘に辿り着いた。懐かしい場所だ。ただぼんやりとベンチに座り続ける。

 この丘こそ、ランナー王国建国の英雄・メンラーイ王の館のあったと伝えられる場所である。ランナー王国とは13世紀末から、チェンライ、チェンマイを都として栄えた王国である。この国もタイ族の国であった。国を建てたのはタイ・ユアン族である。しかし、この国は19世紀末、現在のタイ王国、すなわちシャム族の国に併合されてしまった。独自の文化と、独自の文字まで持っていたこの国は、現在では残された街並みと独自形式の多くの寺院に、過去の栄光の残り香を漂わせているだけである。
 

  第17章  国境の街・チェンコーン

 今日は国境を越えてラオに入国する。朝8時過ぎ、国境の町・チェンコーンに向うためバスターミナルへ行く。窓口でチェンコーン行きチケットを求めると、「ここでは販売しない。バスで直接求めよ。プラットホームは○△番」と英語できちんと答えてくれる。切符売り場のおねぇちゃんまで、英語をしゃべってくれるとは驚きである。○△番プラットホームに行くと、小型のオンボロバスが停まっていた。どうやらコンピューター管理の切符売り場の管轄外のバスのようだ。乗車口前いたおばちゃん車掌に行き先を確認して42バーツ払う。発車は8時45分だという。さすがにここでは英語は通じない。

 しばらくすると、中年の白人女性がやってきて、車掌にいろいろ英語で聞くのだが、まったく通じずオロオロしている。見かねて通訳をかってでる。英語ータイ語の通訳はさすがに初めてである。ただし、行き先、料金、発車時間の確認程度のことだが。フランスから来たという。発車間際に今度は中年の白人男性がやってきて車掌とまたもやトンチンカンな会話。横柄な男で、何で英語が通じないのだとばかり、車掌を怒鳴りつけだした。不愉快なので、今度は知らん顔。見かねて、先ほどの女性が間に入った。

 15分遅れでバスは発車した。田舎のバスなので、合図さえあればどこでも停まる。おじちゃん、おばちゃんを乗せたり降ろしたリ。おかげで、タイの田舎の風景を心置きなく眺められる。いくつかの低い峠を越え、平地に出ると、行く手に高い山並みが見えてきた。ラオの山々だろう。チェンライから3時間半掛かってようやくチェンコーンに着いた。やれやれである。すぐに道端の公衆電話で、バンコクのビーマン・バングラディッシュ航空に電話する。いまだに帰国便のRe-comfirmができていない。このことだけが気掛かりである。ところが、繋がった電話は「しばらくお待ち下さい」と言ったまま、誰も出ない。その間にコインはなくなった。どうなっているんだい。もはや打つ手なしである。

 トゥクトゥクに乗り、「border」と一言。"BORDER" 何と響きがよい言葉だろう。この言葉を聞くと心が高揚する。メコン川沿いの道を数分走ると、国境に着いた。イミグレーションの大きな建物の背後に、大河・メコンが滔々と流れている。その向こうにはラオの小さな街並みが見える。この場所は1年ぶりである。前回はラオからメコンを越えてこの場所に上陸した。今日は逆にラオを目指す。あたりは閑散とし、国境を越える人の姿はない。

 タイを去る前にひと呼吸おこう。メコンを見下ろす高台の食堂に入る。客は誰もいない。一人流れゆくメコンを見つめ続ける。チベットに源を発し、ベトナムに流れゆく大河。古来、この川の辺であまたの国が興り、そして滅んだ。遥かなる昔、タイ族はこの川に沿って雲南の地から新天地を求めて南下した。長い困難な旅路であったはずである。民族の命運をこの川に託したのだろう。そして現在、タイ族はこの川の両岸に、タイ王国とラオ人民共和国という二つの独立国家を持つに至った。彼らにとって、メコンはまさに母なる川である。私はこれから、この川を遡り、彼らの揺籃の地に向おうとしている。
 

  第18章  国境の川・メコンを越えて

 石段を川岸に下る。イミグレーション前のベンチに、バスでいっしょであったフランスの女性が、1人ぽつねんと座っている。「ラオに行くのですか」と声を掛けると、「いえ、しばらくこの街に留まります」との答え。出国窓口に向う。旅行者の姿はない。手続は簡単に終了した。川辺に降り、一人小さな渡し舟に乗る。船はエンジンの音を響かせて川面を渡っていく。ラオの大地がぐんぐん近づく。「今、国境を越えている」。そう思うと軽い興奮を覚える。このぞくぞくする気持ちこそ、旅のだいご味なのだ。それにしても、なんて平和な国境なのだろう。兵士どころか警察官の姿さえ見られない。数分の後、船はラオの岸辺に着いた。ここはもうラオ、ファイ・サーイ(Huai Xay)の街である。すぐに傍らの小さなイミグレーションに行き、Arrival Visa申請と入国手続きを行う。手続きは簡単であり、係員も親切であった。

 イミグレーション前に地元の旅行社が机と椅子を並べ、旅行相談と船やバスのチケット手配を行っている。このファイ・サーイの街から先に進むルートは三つである。旅行者の90%は、船でメコンを下り、ルアンプラバンを目指す。残りの10%がバスで内陸の街・ルアン・ナムター(Luang Namtha)に向う。そして、ほんのわずかな旅行者が、船でメコンを遡り、ミャンマーとの国境の集落・シェーンコック(Xiengkok)を目指すのである。私の希望はシェーンコック、極めて少数派のはずである。その旨を告げると、半ば予想した答えが返ってきた。「定期船はありません。船をチャーターすると、1艘・5,000バーツ(約15,000円)です。6人乗りなので、他に同乗者がいれば頭割りです。ただし現在のところ、シェーンコックに向うのはあなただけです。どうしますか」。ウーンと、うなって考え込んでしまった。

 もうしばらく待って、誰も同乗者がいなければ、バスでルアン・ナムターへ向うより仕方がないか。ぽつりぽつりとタイからの入国者がやって来るのだが、小1時間待っても、シェーンコック行き希望者は現れない。あきらめかけた時、大きなザックを背負った1人の女性が現れた。そして、シェーンコックに行きたいという。どうやら日本人のようだ。Are you a Japanese ? と問い掛けたら、「なに人に見えますか。もっとも、これだけ色が黒いとねぇーーー」と、日本語の答えが返ってきた。これがTさんとの出会いである。

 旅行社から私と同じ話を聞かされ、今度はTさんが、ウーンとうなっている。ただし、彼女は2,500バーツを悩めばよい。私は5,000バーツを悩んでいた。二人してさらに同乗者を待つ。最後は、やって来る白人の若者たちを「いっしょにシェーンコックへ行きませんか」と積極的に誘ったのだが、無駄であった。ついに2人して決断した。「もし、この後も同乗者が現れなければ、2人で5,000バーツ払う」と。連れだって、ゲストハウスに行く。「別々に2部屋だ」と言ったのだが、受付の女の子は我々をペアと思い込んで、ツィンルームに案内する。Tさんは大慌て、私はニヤニヤである。
 

  第19章  Tさんのこと

 このフェイサーイの街の状況は先刻承知している。わずか200メートルほどの薄い街並みがあるだけで、行くところといったら高台にあるワット・マニラートだけである。夕方、Tさんを誘ってワット・マニラートに向う。メコン川の背後、タイの大地に沈む夕日がきれいに見えるはずだ。Tさんからの報告によると、結局、シェーンコック行きは我々二人だけだとのこと。先刻確認に行ってきたようだ。「ついでに、出発時間を10時に変更しておきました」とにっこり笑う。実は、出発時間を決めるにあたり、私は8〜9時を主張したのだが、頑強に11時を主張するTさんに譲った経緯がある。後で知るのだが、Tさんは朝はまったくダメらしい。

 長い石段を境内に登る。まずは御本尊に再会の御挨拶をする。境内にはすでに10人ほどのバックパーカーたちが集まっており、あちこちに座り込んで若い僧を相手に話し込んでいる。ラオの僧はいたって気さくである。積極的に外国人に話しかける。Tさんが僧に勧められておみくじに挑戦する。仏像の前で、細い棒の詰まった箱を振り、飛びだした棒に書かれた番号の籤を受け取るのだが、書かれている文字はラオ語でチンプンカンプン。僧に英語に翻訳してもらっている。陽が次第に傾き、メコンの流れを赤く染めながらタイの大地に沈んでいった。

 連れだって夕食に向う。今晩はこの街で一番立派なレストランで御馳走すると約束してある。川辺の簡易食堂に入り、まずはビア・ラオで乾杯である。語り始めた彼女の話しに少なからず驚いた。富山県に住み、33歳の独身。昨年の9月にアルバイトで貯めた30万円をもって日本を旅立った。トルコ、エジプト、レバノン、シリアと廻ってシンガポールから陸路でここまでやって来たという。さすがに、「イラクには入らなかった」と笑顔で答えた。これからラオを南北に縦断してカンボジア、ベトナムを回る予定と。「日本に帰るのは4月頃かな」といとも簡単に言っている。私の1ヶ月の旅など足下にも及ばない。もっとも、彼女に言わせれば、中国まで陸路で行こうという私の旅もすごいとのこと。「両親は心配しませんか」と聞くと、「もう、諦めている」と笑って答える。結局、彼女とは丸3日間旅をともにすることになった。
 

  第20章  メコンの船旅

 早朝の街を1人ぶらつく。霧が街をつつんでいる。その中をバックパーカーたちが三々五々と出発していく。昨夜この街に泊まった日本人は、どうやらTさんと2人だけのようである。あとは皆、白人の若者である。無性にカオ・トム(タイのお粥)が食べたくなった。1軒の食堂(とは言っても、この街にまともな食堂などないが)に入り、「カオ・トムはありますか」と尋ねると、「まだ開店前でこれから家族で食事をするところ。まぁいいから一緒に食べていきなさい」と招き入れられた。家族といっしょに食卓を囲む。おばさんがカオ・トムを作ってくれた。ここはまさにラオの国であることを実感する。

 旅行社から知らせが来て、「船の都合で出発時間を9時に変更する」という。寝ていたTさんをたたき起こして大慌てで支度をする。9時に旅行社の手配したソンテウが迎えに来た。ソンテウは霧につつまれたメコン川沿いの道をどこまでも北上する。船着き場までは遠いようだ。途中、大きな荷物を抱えた家族が乗り込んできた。30歳代の夫婦と7〜8歳の女の子である。どうやら我々と同じ船に乗る様子である。Tさんが不満を漏らす。「おかしいですよねぇ。私たち2人で船をチャーターして、既に5,000バーツ払ってあるのに」。「いや、この国では持てる者が持たざる者の面倒を見るのは当然なんだ」。知ったかぶりをして私が答える。

 30キロも走って大きな集落に着く。地図にNamngiouと記されている集落だろう。その岸辺が船着き場であった。特段に施設があるわけでないが、数隻の小舟が係留されている。しばらく待つうちに、出発準備は完了。スピードボートと呼ばれる小型船は、豪快な爆音を轟かせてメコンの流れに乗りだした。シェーンコックまでの5〜6時間の船旅である。船は、横2列、縦3段の計6人分の狭い乗客スペースと船尾と船首にわずかな荷物スペースを持ち、最後尾でエンジンに直結した梶棒を船頭が握っている。出資者である我々に敬意を表してか、Tさんと私にはそれぞれ2人分の席があてがわれた。これなら足が伸ばせて非常に楽だ。これでTさんの不満もいくらか薄らいだ様子である。その代わり女の子は一番前の荷物スペースである。出発前、各々に救命胴衣とヘルメットが配られた。しかし、胴衣はボロホロ、ヘルメットはあごひもが切れている。

 広々とした川面を、船は猛烈な爆音を響かせながら、時速80キロものスピードで川上へと向う。この辺りは川幅が数百メートルあり、両岸には山が迫っている。右岸(左側)はタイ、左岸(右側)はラオ、我々はその真ん中を走っている。セーターにジャケットを着込んでいるのだが、切リ裂く強風を受けて寒い。40〜50分も走ると、右岸が開け、街並みが現れる。チェンセーン(Chiang Saen)の街だ。ランナー王国の故郷である。1259年、メンラーイがこの街の族長の地位を父から受け継ぐことにより、ランナー王国の建国は始まった。しかし、このタイ・ユアン族の国は今から100年前にタイ・シャム族の国に併合されてしまった。やがて船はタイ、ラオ、ミャンマーの三国国境に達した。ゴールデントライアングル( 黄金の三角地帯)と呼ば地域の中心点である。タイ、ミャンマーの国境となるルアク川の小さな流れが左から合流する。これから先は、右岸はミャンマー領である。

 黄金の三角地帯とはタイ、ミャンマー、ラオ、それに中国の雲南省の4ヶ国の国境地帯である。1990年代までは魔境と呼ばれていた。全世界のケシの80%を生産し、アヘンの大生産地帯であった。国家権力は及ばす、麻薬王・クンサー率いる数万の軍勢が実効支配していた。今回の私の旅は、まさにこの魔境を巡る旅でもある。10年前にはとても考えられなかった旅である。今ではケシの栽培の世界的中心は、アフガニスタンに移っている。

 ゴールデントライアングルを過ぎると、それまで見かけていた大小の船の姿がまったく消えた。両岸は山が迫り、集落もまったく見られなくなる。ただ緑のジャングルがどこまでも続いている。川幅も急速に狭まり、メコンはその険悪な牙をむき始める。岩礁が至る所に現れだし、水が奔流となってその間を流れ落ちる。船頭は巧みな舵さばきで、まるでスラロームのごとく船を操る。この危険な岩礁地帯を貨物船が下ってくる。船首に「中国・西双版納」と大書きされている。雲南省景洪、即ち私の旅の終着駅となる町から下ってきた船だ。すれ違いざまに、大波が我々の小舟を激しく揺する。

 中国は今、このメコンの水運に大きな期待を寄せている。メコンは、中国と東南アジア諸国を隔てる累々たる山並みに、ぽっかりあいた通路なのである。もしこの通路が開かれるなら、中国最深部の雲南は、発展著しいアセアン諸国への最前線に転じることが出来る。中国は岩礁を取り除き、浅瀬を浚渫し、通路確保に力を入れている。それにともない、この川に日増しに中国船の影が濃くなっている。遠い昔、タイ族が民族の命運を賭けて下ったこの通路を、今、中国が追おうとしている。

 約2時間走り、左岸に小さな集落が現れると、船は速度を落として接岸した。ムアン・マンと言う小集落である。対岸のミャンマーにも小集落があり、山腹に乱立する小パゴダが見える。ここで30分間の休憩だという。川べりの掘っ立て小屋が雑貨屋兼食堂になっていた。ただし、カオ・ソーイと呼ばれるラオ風のうどんぐらいしかない。5人でうどんをすする。価格は1杯20バーツ、ここでもまだ流通通貨はバーツである。ラオに入国以来、いまだラオの通貨キープにはお目にかかっていない。もちろん両替もしていない。5人分100バーツを私が払ったら、女の子が、買ってもらったスナックの幾つかを私の手のひらに載せてくれた。お礼のつもりなのだろう。「アーユー・タオライ(歳は幾つ)」と聞くと、「ベット(8歳)」との答えが返ってきた。

 ここから何と! 新たに1人の僧侶が乗り込んできたのである。このため、我々二人の座席特権は剥奪され、膝を抱える窮屈な姿勢を余儀なくされてしまった。しかも何と! 僧侶は船頭に金を払っているではないか。いったん納まったTさんの怒りがぶり返した。とはいっても、まったく言葉が通じないのだから、船頭に文句も言えないし、ましてや喧嘩も出来ない。せめてもと、家族に「あなた達はいくら払ったの」と英語で聞きただしているが、これも通じない。お手上げである。おそらく船頭がアルバイトをしたのだろうがーーー。我々に出来る抵抗は、船頭にチップを払わないことぐらいだろう。

 しばらく進むと、メコンは様相を大きく変えた。川幅は1キロ以上に広がり、まるで湖のようになった。岩礁は姿を消し、あちこちに中洲が現れる。ただし今度は浅瀬が多い。船頭は巧みにルートを選んで船を進める。さらに進むと、再び岩礁地帯となる。1隻、つづいてまた1隻と、先程と同じ中国貨物船とすれ違う。突然、船は接岸して僧侶が船を降りた。岸からは見えないが、奥に集落があるのだろう。再び船はエンジン音高らかに上流に進む。
 

  第21章  シェーンコックの集落にて  その1

 やがて右手高台に小さな集落が見えてきて、船は小さな浜辺に接岸した。時刻は2時半である。ここがシェーンコックだという。砂の急斜面を遮二無二上部の集落を目指して登り、息を整えながらあたりを観察する。そして2人で顔を見合わせた。2人とも同じ思いである。あまりにも貧相な集落なのである。藁屋根と板壁の掘っ立て小屋が点々とある。「地球の歩き方」にも載っている集落なので、もう少しまともと思っていたがーーーー。左手奥の川に面した高台にコテージ風の小屋が見える。「地球の歩き方」に載っているシェンコック・リゾートだろう。遠くから見たかぎり、ここも掘っ立て小屋だが、料金は高い。「少し歩いてみましょう。適当なゲストハウスも見つけなければならないしーーー」。集落内の小道を奥に進む。犬が、鶏が、そして黒豚の親子が、道をわが物顔に歩いている。軒先にいた人にゲストハウスを尋ねてみたのだが、言葉がまったく通じない。少し進むと、ゲストハウスを示す小さな英文の看板を見つけた。喜んで行ってみたのだがーーーー。案内された部屋は、はっきり言って「お化け屋敷」。壁はコンクリートブロック剥きだしで、その隙間は蜘蛛の巣が埋めている。窓もない。一応ベッドに蚊帳はついているがーーー。「どうする」と2人で顔を見合わせる。「やっぱり1番高いゲストハウスに行きましょう」と彼女。

 メコン川岸の切り立った崖上の広々とした敷地に、10戸程の高床式の小屋が並んでいる。オーナーは英語がしゃべれた。窓のない狭い小屋だが、一応、水シャワーとラオ式トイレが付いている。蚊帳付きのベッドもマァーマァー清潔そうだ。1泊50,000キープ。約5ドルである。ここがこの集落で最上の泊まり場なのだから、もはや選択の余地はない。部屋にはローソクが立てられていた。聞けば、この集落には電気は通じていないとのこと。ただし、この宿は自家発で日暮れから9時までは電灯が点くとの説明。こんな宿もまた旅の思い出となるだろう。
 

  第22章  アカ族の村と子供たち

 部屋に荷物を置き、集落を探検しようと外へ飛びだす。オーナーが「集落には見るべきものは何もない。それよりもここから15分も奥へ歩くと、アカ族の村があるから行ってみたら」とアドバイスをくれた。Tさんを誘って、教えられた道を奥に進む。午後の直射日光が照りつけ暑い。私もスタミナには自信があるが、Tさんも相当なものだ。やがて深い渓谷に掛かる橋があり、その先の山の斜面に粗末な小屋の建ち並ぶ集落が現れた。斜面を横切る広い道の上下に20戸ばかりの高床式の小屋が並ぶ。草葺きの屋根と竹を編んだ壁の粗末な家である。荷物を背負った女性と出会う。「サバイディ(こんにちは)」とラオ語で挨拶すると、「サバイディ」と答えが返ってきた。その答えに、敵意がないことを読み取り、安心する。彼らにとって、単なる興味本位で、断りもなく自分たちの縄張りに侵入してきた我々は、決して好ましい存在ではないだろうとの思いがある。追い返されたって文句は言えない。

 一瞬ためらったが、思い切って、集落の中へずけずけと入っていった。すれ違った何人かの人に、「サバイディ」と挨拶すると、皆、同じ答えが返ってくる。その態度には、歓迎とはいかないまでも、敵意はない。女性は、アカ族の象徴である華やかな飾り付けのある兜のような帽子をかぶり、きれいに刺繍を施した黒い民族服を着ている。しかも、皆、胸元があらわで、オッパイ丸出しである。ちょっと目のやり場に困る。と、考えるほうがおかしいのかもしれないがーーー。Tさんが、「写真を撮りたい」と言う。「男の私にはちょっと頼みにくいよ。女性同士ならOKしてくれるかもしれないけど」と私。Tさんが何人かの女性に頼んだのだが、いずれも困惑した表情で断られた。集落内は、犬と鶏と黒豚が歩き回っている。そのうちに、子供が大勢集まってきた。彼らにとっては、逆に我々が興味の対象である。まったく恥ずかしがることなく我々にまとわりついてくる。「写真を撮るぞ」とカメラを構えると、我も我もと、カメラの前に並ぶ。その様子を大人たちは笑顔で見守っている。どうやら、私たちを受け入れてくれたようである。案内書には「個人で少数民族の村に行っても、決して歓迎されない。行くならば、先方と話のついている旅行社主催のトレッキングに参加すべき」と記されている。この集落には、まだトレッカーなぞ入り込んでいないのだろう。

 現在、タイ北部、ラオ北部、中国雲南省などでは、少数民族を観光資源と位置づけ、これらの集落を巡るトレッキングが盛んである。少数民族側も、貧しさに絶えかねてだろう、金と引き換えにこの企画を受け入れている。しかし、私はどうしてもこのような風潮に賛成出来ない。民族を観光対象(悪く言えば見せ物)にするなどということは、される方から考えれば、民族の尊厳を冒されることだ。私はいまだかつて。このようなトレッキングに参加したことはない。

 アカ(Akha)族は、中国雲南省、ミャンマー北部、タイ北部、ラオ北部の600〜1000メートルの山岳地帯に住む割合人口の多い民族である。中国ではハニ族、タイではイコー族とも呼ばれる。ラオに6万6千人、中国に125万人、タイに6万5千人、ミャンマーに32万人余りが住む。言語はチベット・ビルマ語族に属し、文字は持たない。紀元前後まではチベット周辺に居住していたらしいが、その後中国・雲南に移住してきたと言われる。19世紀に入り、一部が山沿いにラオ、ミャンマーに移り住んだ。タイへの移住は20世紀に入ってからである。焼き畑農業を主な生業とする。女性のかぶる豪華な兜のような帽子が特徴的で、この帽子は寝るときも取らないという。古来、タイ族、ビルマ族等多くの民族が雲南の地を旅立ち、南に安住の地を求めたが、いわばその中にあって、最後に雲南を出発した民族といえよう。

 集落の境界となっている深い渓谷に向って、一本の細道が下っている。行ってみようと歩き出すと、10人ほどの子供たちがいっしょについてきた。まだ歩けない幼児までを、ミカン箱のソリに乗せて、皆で引っ張って行く。子守は子供たちの役割なのだろう。子供たちは皆、上半身には衣服をまとっているのだが、5歳ぐらい以下の子は、男の子も女の子も下半身はすっぽんぽんである。おそらく、大小便の処理の問題なのだろう。髪形が男女とも同じなので、顔だけでは男女の区別がつかない。下半身を見て、「君は男の子かぁ、君は女の子なんだぁ」と言う具合である。渓谷の岸は、集落の洗濯場兼水浴び場、兼、子供たちの遊び場となっていた。オッパイ丸出しの女性が洗濯をしている。子供たちは真っ裸になって、次々と川に飛び込んでいく。一人置き去りにされた、ミカン箱の幼児が泣きだした。

 子供たちの中に、7〜8歳の2人の女の子がいた。実にかわいい。1人は、生意気にも?、すでにアカ族独特の兜のような帽子をかぶっている。この2人は、終始にこにこして、私たちの側を離れない。4人で岩に腰掛け、しばらく子供たちの水遊びを見ていたのだが、ついに、我慢出来なくなったとみえて、2人はやおら真っ裸になると、仲間の遊ぶ川の中に飛び込んでいった。しばらくして、私たちが引き上げようとすると、子供たちは遊びを止めて、また付いてくる。幼児を乗せたミカン箱を皆で引きながら。集落の境となる渓谷に掛かる橋の手前までくると、皆、手を振りながら集落へと戻っていった。ところが、2人の女の子は、なおも私たちの手を握り離れない。そして、橋を渡り終わると、一生懸命手を振りながら、集落へと駆け戻っていった。

 シェーンコックの集落に戻る道々、私はTさんに話しかけた。「長い旅の中で、きっと今日の1日は、もっとも思いで深い1日になるだろうなぁ」。「私もそう思う」、Tさんも感慨深そうに同意した。
 

  第23章  シェーンコックの集落にて  その2

 シェーンコックの集落に戻ったが、まだ陽が高い。連れだって集落の中を歩き回ってみることにする。1本の道が集落を取り囲むように輪になって走り、その東端からムアン・シン(Muang Sing)に向う道が東に続いている。本当に小さな、そして貧しい集落だ。「ところで、今晩の夕食をとる食堂はあるのかなぁ」。2人して心配をし始める。集落最奥の丘の上に小さな仏塔があった。崩れかけた石段を登ると、石囲いの中に仏塔がぽつんと建っていた。座り込んでひと休みしていると、男が現れ、境内の掃除を始めた。私たちを見て、一瞬変な顔をしたが何も言わなかった。邪魔だろうと、場所を変えながら、はたと気がついた。私たちは土足まままこの聖なる場所に上がり込んでいたのだ。気がつかなかったと言えども、仏教徒にとってのタブーを犯したことになる。以後気をつけよう。

 夕食を食べられるところはないものかと、集落の中を歩く。電気がないとなると、日暮れ前に、すべてを済ませておく必要がありそうだ。1軒の家の中をのぞくと、土間にテーブルと椅子が並んでいる。入り口では、鍋が火に掛けられ湯気をあげ、また串に刺した肉が焼かれている。何の標示もないが、食堂のようだ。「キンカオ・ダイマイ(食事は出来ますか)」と聞いてみると、「ダイ(Yes)」との答え。ひと安心である。とはいっても、何が食えるのか。やおら、おばさんが手を引っ張って入り口の鍋のところへ連れていく。豚肉の串焼き、豚肉の煮物、それに豚の脳みそだという代物の三つが並んでいる。「このなかからおかずを選べ」とのことのようだ。やがて選んだおかず、生野菜、大盛りのカオニャオ(糯米のご飯)がテーブルに並んだ。これで何とか夕食にありつけた。調子に載って、「ビールはないか」というと、「ない」との答え。電気がなく、冷蔵庫がないのだからもっともである。料金は2人で60バーツであった。ここもまだ、バーツの世界である。

 宿に帰ると、何と! 隣の小屋に日本人の若者が来ていた。ムアン・シンから来たという。この小さな集落に、日本人だけ3人集まったとは愉快である。今晩、我々3人だけがこの集落の外国人である。やがて、夕日が、メコンの流れを真っ赤に染めて、ミャンマー側の山の端に隠れていった。その中を1隻の中国船が、エンジンの音を響かせながら川を下っていく。日暮れとともに寒さが襲ってきた。ロウソクに灯をともし、小屋の中に入る。やがて、軽いエンジンの音とともに電気が灯った。自家発が始まったのだ。しかし、もう、寝る以外なにもすることはない。静かなラオの村の夜は更けていく。
 

  第24章  ラオ最北の街・ムアン・シンへのトラックバスの旅

 いよいよ今日はメコン川を離れて北ラオスの内陸に向う。ここから先、メコンを遡る船便はない。陸路を行かざるを得ない。オーナーに確認すると、隣の町・ムアン・シンに行くバス(?)は朝の1本だけ、発車時間は8時〜9時、停留所は特にないとのことである。要するに、人が集まり次第適当に出発するとのことらしい。8時近くなっても、隣の小屋は静まり返り、Tさんは姿を現さない。大声で呼ぶと、寝ぼけまなこで起きてきた。大した神経の持ち主だ。もう1人の日本人と分かれ、思いで多きゲストハウスを出発する。彼はもう2日程ここに留まるという。バス停が特にないとのことなので、ムアン・シンに通じる集落の出口でバスを待つことにした。しばらくすると、若い2人の女性がやって来て、同じくバスを待ちだした。ここで待っていればよいことが分かり安心する。

 セーターにジャケットを着込んでいるが、まだ陽が当たらず寒い。昨夜も今朝も、寒くてとても水シャワーを浴びる気にはならなかった。従って、昨日から着替えもしていない。Tさんに聞くと、同じだという。「今日は二人とも少々臭うかもしれないなぁ」と冗談を言い合う。道端に座り込んでいると、いろいろなことが見られる。黒豚の親子と数匹のヒヨコを連れた親鶏がえさを探しながら歩き回り、その間を犬がじゃれあいながら走り回っている。4匹の牛が、1列縦隊になって道の真ん中を悠然と歩いてくる。人は付き添っていない。豚、鶏、犬は慌てて道を開ける。裸足のアカ族のおばちゃんが3人、野菜の詰まった篭を背負って集落の中心に向っていく。道端では、コンロに火をおこし、豚肉の串焼きが始まった。子供が小額のお札をもって、それを2本、3本と買いに来る。学校へ向う子供たちが、寒そうに道を急ぐ。時折、トラックが猛烈な土煙を上げて通り過ぎる。

 9時近くになって、ムアン・シン行きの「トラックバス」がやってきた。ピックアップトラックの荷台に座席を取り付けた乗り物である。しかし、「集落の中を一周りして客を集めてくる」と言って、我々のザックだけ積み込んで行ってしまった。Tさんは「その間に、どこかで朝食を食べてくる」と言って、1人で集落に戻っていった。しばらくしてバスは戻ってきたのだが、Tさんは戻ってこない。運転手は「それじゃぁ、もう1周してくるよ」。どちらものんきなものだ。Tさんを探しに行くと、1軒の庭先に座り込んでおばさんと談笑中。一体、何語で話しをしているんだ。英語が通じるわけがないし、彼女はタイ語もラオ語も話せない。10時、ようやく体制が整ってバスはムアン・シンに向け出発した。

 荷台の両側に設置されたベンチシートには10人ほど座れるが、今日の乗客は8人ほどである。ムアン・シンまで、案内書では2時間半の行程となっているが、もちろんあてにはならない。道路は当然舗装などされていない。ものすごいガタガタ道である。はね上げられたり、座席に激しく打ち付けられたり。時には天井に頭を打ち付ける。さらに、砂塵が凄まじい。自車の巻き上げる砂塵は、後方に飛び散り、通行人を直撃するだけだが、すれ違う車の砂塵は、猛烈に我々に襲いかかる。一瞬何も見えなくなる。見る見るうちに、頭から足まで、茶色に染まってしまった。さらに、寒風が吹き込み寒い。しかし、なぜか楽しい。これがラオスの旅なのだ。

 乗客が降りたり、乗ったり。ものすごい荷物を持って、アカ族のおばちゃんが乗ってきた。小学校ぐらいの女の子が我慢出来なくなったと見えて、車の停まった際に降りて、道端にしゃがみ込んだのだが、それに気づかず車は発車してしまった。慌てて乗客が運転席を叩いて急停車させる。皆で大笑いである。荷台の中はいつも和やかである。外の景色もまたおおらかである。平地にでると田植えを終えたばかりの田んぼが青々と広がり、山間に入ると、高床式家屋のアカ族の村がいくつも現れる。オッパイ丸出しのおばちゃんが、悠然と我々を見送っている。平屋建てのヤオ族の村もある。子供たちが手を振っている。内戦時代の古い軍帽をかぶった爺さんも乗ってくる。「この帽子をかぶって、アメリカ軍をやっつけたのだぞ」との誇りが感じられる。乗っていて違和感はまったくない。同乗の人たちも我々を気にする様子はない。1時間半ほど走り、Muang Luangの街で少休止。割合大きな街だ。

 広々とした平野に入った。青々とした田んぼの広がりが、どこか日本の田園風景を思い起こさせる。突然、道が舗装道路に変わった。おやっと思った瞬間、街並みが現れた。ムアン・シンに着いたのだ。シェーンコックから来たせいか、何やら大都会にやって来たような錯覚を覚える。バスはすぐに市場前の広場に停まった。時刻は12時半であった。料金は20,000キープだという。やっとキープの世界に入ったようだ。ただし、私は、いまだキープを持っていない。1US$が約1万キープなので、2US$でいいかと聞くと、市場の中でキープに両替してきてくれという。US$よりキープがよいとは面白い。Tさんに立て替えてもらった。連れだって、ムアンシン・ゲストハウスに入る。建物はかなり古いが、ホットシャワーが24時間使えるというのでここに決めた。1泊30,000キープ(約3ドル)である。ともかく、ここまでやって来た。西双版納までもう一息である。
 

                  (3に続く)

 

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